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犯罪被害者等施策講演会(第8回)

日時:日時:平成27年3月13日(金)14時~15時
会場:中央合同庁舎第8号館623会議室

講師 島田 妙子氏(一般財団法人児童虐待防止機構 理事長 ・ 株式会社イージェット 代表取締役)
テーマ 「被虐待の淵を生き抜いて~今、私たちにできること~」

講演会の様子

 皆さん、こんにちは。お世話になります。ただいま御紹介いただきました島田妙子と申します。
 今日はこのような場をいただきまして、感謝の気持ちでいっぱいです。また、私には虐待防止だけでなくいじめ防止や事が起こってからする対処のほうではなく、何とか起こらないようにするにはどうしたらいいかということで、この4年間活動させていただいております。

 4年前までは、実は虐待をされていたということは一切封印しておりました。中学2年生のときまで虐待生活というのでしょうか、暴力の生活が続いていたのですけれども、お陰さまで中学2年生のときに、たった1人の27歳の女性の教師が私を救ってくれました。その後は、高校は行けませんでしたし、いろいろな苦労はありましたけれども、家族を持ち、現在もう二十歳になる長女を筆頭に子育てもさせてきていただいておりました。

 私自身は、もう終わってしまった過去のことは明るい封印をしてきました。つらかった、悲しかったというよりは、「もう終わったのだ、よっしゃ、終わったのだ。」という気持ちがあって封印してきましたが、ちょうど5年、6年前ぐらいでしょうか、大阪のほうではすごく虐待という事件を皆さんが知る機会となった2児置き去り事件という事件がありました。この事件あたりから私自身は、自分は過去に虐待を受けた、今普通に幸せに暮らしているという中で、封印している私はそれまでちょこちょこ事件等のニュースがあっても、封印イコールシャットアウトというのですか、「知らない、知らない、そんなニュースを流されても何もしてあげられない。」という気持ちがありました。

 ですので、流れるニュースを見ても本当に聞きたくないという思いがあったのですけれども、この大きな事件があったころに、ちょうどたまたま私は3人兄弟、年子の3兄弟の末っ子なのですけれども、お兄ちゃん、お兄ちゃん、私と。すぐ上の兄がちょうど40歳の若さで急性骨髄性白血病という血液のがんで亡くなってしまいました。兄も封印していました。私に、「ええか、もう終わった過去のこと、ぐちぐち言ったらあかんで。」と、「もう今日を楽しく生きることを考えような。」と言っていた兄が、2歳と4歳を残して亡くなっていく直前に、私に、「こんな豊かになったこの時代にまだ何でこんなことが起きてんねん、何でこんな大人が子供を殺すというような事件が起きてんねん。」という、やはり生きるか死ぬかというはざまのときにすごく私に熱いメッセージをくれたのです。

 それでも私は、そんなの言われても何もできないという思いがあったのですけれども、実際この兄が亡くなったときに、大切な人は死なないとか勝手に思っていたのですけれども、亡くなった兄の亡きがら見たときに思わず、私、今日を生きている、動ける、しゃべれる、何かわからないけれども、何でもできるというようなすごいパワーがみなぎってきました。

 この活動を始めようと思ったときに、やはり見渡しますと、もう事が起こってからする対処対応にこの日本中が追われているということに気づきました。毎年11月までの虐待防止オレンジリボン運動啓発月間とされています。この月は私もたくさん講演に参りますけれども、どこへ行っても虐待防止月間と言いながら、対応対処のお知らせなのです。虐待かなと思ったら通報を、ぜひ通告を、子供の命を守りましょうという通告でしたので、私自身は、ちょっとおかしくないかと。これは対処対応のお願いなのです。子供が虐待されているかな、命の危険にさらされていたら、これは絶対助けないといけない問題なのですけれども、これが虐待の防止ではないと思ったときに考えました。

 私自身は封印していましたから、まず自分の過去に向き合うという作業に入りました。今日は見本しか持ってこられていないのですけれども、ちょうど3年半前ぐらいに書きました私の自叙伝なのです。これは笑いたっぷりで暗くないように書いたのですけれども、封印を解いて書いていく作業の中では、やはりかなりつらかったです。思い出す作業はすごいつらかったのですけれども、不思議なことに、子供のときの妙子、私の気持ちと、もう30年以上たった大人の私が合体して結構冷静な判断、分析などをしながら書けたのです。そして、でき上がった本をばっと見ていくと、不思議なものですけれども、フラッシュバックとかトラウマとかは、それまで軽くはあったのですけれども、この本を書いた後ですっきりしたのです。私、封印ではなく、心のどこか奥底にぐっとねじ込んで置いていただけだったのかなと思ったのですけれども、結構すっきりしました。

 私も4年間で3人の子を子育てする中で感じたこと、そして、子供のときの私の気持ちをどんどん分析した結果、私は虐待する大人を逮捕される前に、子供を殺してしまう前に、心を助けたいということで書かせていただきました。今日は新聞記事のほうがお手元のほうにお配りいただいていると思います。産経新聞の1面に載せていただいた、夕刊ではありますけれども、1面と8面のダブル面なのです。この記事が出たときに、かなりの一般の方からは、何を考えているのだという反響がありました。虐待する大人を助けるのではない、虐待される子供を助けるのだろうというふうに言われたのですけれども、いやいや違うと。虐待されている子供を助けるときには、もう虐待が行われている。だから、虐待されている子がいたら親のほうを、何とか責めるのではなく、逮捕されるまで待つのではなく、通報するまで待たずに、何とか地域でしかできない優しさや愛で入っていっておせっかいしてほしいということをお願いしています。

 私自身、小学校1年生から中学校2年生まで、まるまる6年間虐待生活があったのですけれども、もともとは優しい父でした。父が離婚して再婚するのですけれども、再婚相手の方も最初は優しかったのです。すごく優しかったのです。それが最初は再婚相手の継母さんからたたかれたのですけれども、このたたかれたときも、子供のときは絶対嫌ですよ、「何すんねん。」と思っていたのですけれども、もう大人になってから分析した、そして、殴り続けた、虐待し続けたこの継母さんが、私が大人になってからぽろっと言った言葉があるのですけれども、「あのとき、あなたたちをバチッと殴ってしまったたった一発、このたった一発のときが一番怖かった」と。やはりいっぱいいっぱいだったのですね。

 私たち、3人、年子です。年子で、この継母さんは若かったのです。当時、22歳で、お父さんに気に入られたい、私たち3人にもやはり気に入られたいと思って一生懸命やっていたのですけれども、誰だって我が子でもいらいらして、私もそんなつもりではない暴言とか、そんなつもりではない、思いっきりの暴力はありませんけれども、自分がいらいらしているときに子供にかなりきつい対応をしたことが私自身もあるのですけれども、継母さんは、やはりいっぱいいっぱい張り詰めていた。叩くつもりではなかったたった一発の後というのが、結局やってしまったときの心は、情けない、みっともない、何でこんなことをしてしまったのだろうと自分も一旦責めるのですけれども、このときに私とたまたま目が合ったのですけれども、やはりしつけではない。何で叩くねんと思っていますから、そういう顔をしていたのかもしれないのですけれども、目が合ったときに一言継母さんが言った言葉が、「何、その目、何かさっきの文句あんの」という言葉だったのです。

 この言葉も、本当はそんなことを言うつもりではなく、さっきはごめんと言うつもりだったらしいのです。でも、この私と目が合ったときに、大人の変なプライドかわからないのですけれども、謝るつもりが、何、その目と思ったと。そのときに、この子らは私のさっきやったことを鬼だと思っていると、先に自分の心の中に落とし込んだらしいのです。これが結局虐待の分岐点だったのではないかと、すごく思います。

 結局その後というのは、先ほど理不尽で殴ってしまったことをどうにかしたいのですけれども、その次に兄たちに向かって、ちょっと兄が何か悪いことだったのか覚えていないのですけれども、何かちょっとあったときにまたバチンとたたいたのです。このときに言った言葉が「今日からしつけとしてたたいていくから」という、何だか先ほどの私への暴力を正当化するような気持ちがあったのではないかなとすごく思っています。

 だから、「今はわからへんと思うけれども、大人になったらわかるから」と、「これはしつけやで、これはしつけやで」と言いながら殴られました。私たち子供は複雑なのですけれども、何でやねんと、そんなおかしいと思いながらも、しつけやで、しつけやでと言われ続けると、よその家もこんななのかなとか、ちょっとおかしくなっていくのです。結局そのままいくのですけれども、私の父、そのときどうしていたかというと、最初のころというのは、気づいていたか、気づいていないかわからないのですけれども、ある程度少ししたら、家庭の中の雰囲気は絶対わかるのです。私たちも心から笑えない、継母さんの顔ばかり、顔色ばかり見ている。そして、お父ちゃん気づいてよというアピールはしているのですけれども、気づかない。

 継母さんのとにかく顔が変わってきます。やったらいけないことをやり続けると人相が変わっていくのですけれども、それに父は少しずつ何かおかしいと気づくのです。気づくのですけれども、やはりこれはしつけやからと一言言われてしまうと、父も30過ぎでした。30過ぎと22、23の若い夫婦がしつけで、どれがしつけだとわからないまましつけしていっている中で、そうなのかなと思ったり、父もちょっとおかしくなっていくのです。

 あとは、やはり子供たち、自分の子を見てもらっているという罪悪感はかなりあったと言いました。だから、子育てに関しては口を出せないというような感じではなかったかなと思います。この父が後に虐待していくのですけれども、これも大人になった私がずっと分析したことですけれども、子供のときは全く気づかなかったのですけれども、父は私たちを継母さんの虐待から守るために殴りました。

 というのは、継母さんの場合、そんなぼこぼこではなくて精神的な虐待が多かったのです。軽いので言うと、御飯を食べたらいけないとか、ベランダに放り出されるとか、一晩中寝ずに父と継母さんの枕元に立っておくとか、そういう精神的な虐待で、一番ひどかったのは、アイロンであぶられるのです。絶対につけられないのです。つけたらすごいですからね。水ぶくれができるのですけれども、それをふだん人間は出ている部分は結構強いのです。我慢力って。だから、たばこの火なども押し当てられましたけれども、ふだん出ている部分は強いのですけれども、この真っ裸にされてアイロンであぶられると血管がくっとなる、すごいストレスなのですけれども、そういうのをするのです。もう継母さんもだんだんおかしくなってきていたのですけれども、こういう鬼の姿を結局夫、うちのお父ちゃんにも見られている、私たちにも見られているとなるとどんどん鬼になっていくのです。怖いぐらい。

 父はしつけだと継母さんに言われ続けましたけれども、アイロンであぶるなどということは絶対に違うと思っているのですけれども、もう押さえつけられない、止められないというような状態でしたから、結局継母さんが何か私たちに、「はい、あんたたち並び」とか言い出すと、一番最初は父が私たちを殴ったのです。「あんたが怒ってくれたらいいねん」と毎日のように今度は父を責めていましたから、それでも父は殴らなかったのですけれども、お酒も入っていましたけれども、ピークに達したときに、継母さんが何かやりかけたときに、私たちを殴ったのです。短く殴るだけ殴って、早よ部屋に帰れと帰したのです。

 このときは父から殴られたショックというのは相当なものだったのですけれども、父も次の日、私は目を合わすことはできなかったのですけれども、お兄ちゃんと目が合ったときに、「何やその目、何か昨日のことを文句言いたいんか。」という、また上塗りのことがあったのです。ここから結局父は仕事から帰ってくると、寝るまでの間に誰かを殴る。3人いたから多分今生きていると思うのですけれども、3人いたから殴られない子がいる日はあります。3人とも殴られることもありますけれども、誰かだけ殴られて、誰かは殴られないという日もありながら、父は結局私たちの部屋に来て、やたら大きな音を立てて殴るのです。結局、殴りながら椅子をひっくり返すみたいなものなのですけれども、継母さんにわざと聞こえるようにばっとやっておいて出ていくのです。父もほらやった、どうだみたいな感じだと思います。継母さんも、一番最初、父が殴ったときは、結局共犯者ができたような感じなのです。それでええねん、あんたと。本当こんな感じだったのです。もう自分だけがやってはいけないことをやり続けているということに多分耐えられなかったと思うのですけれども、そういう感じで結局始まったという感じでした。

 それからもうずっと続いていくのですけれども、やはりここまでやったらいけないとかということは考えながらやっていましたけれども、高学年になってくると、結局お酒もひどい。不思議なのですけれども、心がすさんでいくと生活がすさんでいくのです。ちゃんと仕事も行っていた父がお酒におぼれる。パチンコに行く、2人でパチンコに行って大負けして帰ってきたり、大負けすると私たちは殴られ、御飯を抜かれるというような感じなのですけれども、何度も私たち実は家出もしたのです。何度も逃げるのですけれども、小学生の言うことなどはしょせん通じないのです。

 私も兄たちも最終の、「暴力されています。」という一言は言えなかったのです。継母さんだけにやられていたらとっくに言っていたかもしれないのですけれども、先ほど御挨拶でも一部入れてくださいましたけれども、私、生きていたからこそなのですけれども、暴力はとてつもなくつらいです。暴言もつらいのですけれども、何が一番嫌だったかというと、振り返ると、本当にお父ちゃんの移りゆく変化なのです。顔なのですけれども、人相の変化なのです。何であんなに優しかったやんというお父ちゃんが、一発殴った日の顔、そして殴り続けていくたびに顔が、1人の人の顔がこんなに変わっていいのだろうかというぐらい変わっていくのです。それを幼い私たちはずっと見続けているわけです。その中で、先生に言ってやるという日も何回もあったのですけれども、さっきの話と一緒なのです。違う違う、絶対お父ちゃん戻ってくる、絶対病気になっているだけやし、絶対優しかったお父ちゃんに戻ってくれるだろうという願いと期待も入っていますけれども、願いと期待を込めている間は、子供は言わないのではないかなと思います。もう本当に命からがらであっても、親を売るような、やはりお父ちゃんが逮捕されてほしいわけではないというのと、プラス、違う、絶対戻ってくる。これは来月かもしれない、それは来年かもしれないけれども、絶対戻ってくるねんという思いがすごくありました。

 あと高学年になっていくと、結局、もう早く大人になる、早く大人になるのを待っていくだけなのです。私は大きくは2回殺されかかって、小学校4年生に上がる前に風呂水に一気につけられて、それまで風呂水で上げたり下げたりとか、風呂から出されて殴られるというようなこともあったのですけれども、その日はかなりお酒を飲んで、継母さんとのののしり合いのあげく、ぱっとお風呂に来て、私、湯船に入っていたのですけれども、一気につけられた。もうこのときというのは、もうどうしたらいい、息だけでもたまらんと頑張るのですけれども、やはり無駄な力が入っている中、もう死ぬと子供ながらに思うのです。多分10秒とか20秒の世界なのですけれども、このときにもう絶対死ぬ、もう後はこの口を緩めるだけしかないと思っていく中で、ふっと、もうこれで私が死んだら、全部終わるのではないかと思ったのです。

 やはり自分が殴られているのも嫌なのですけれども、お兄ちゃんたちが殴られている姿はどちらも見るのです。お父ちゃんの恐ろしい殴っている顔と、お兄ちゃんのおびえて泣いて泣き叫んでる顔と。自分がやられているときは、自分はわからないです。必死だから。でも、みんな3人が3人とも誰かが殴られている姿は嫌なのです。でも、かばうと後々時間が長引くので、みんな子供たち同士で、誰が殴られてもかばわないでおこうと、これが早く終わる秘訣だからと言いながらやっていたのですけれども、最後、風呂水につけられたときは、もうあかん、これで絶対死ぬと思った瞬間、もう全部終わる。今日で全部終わると思いました。

 わかりやすく言うと、お父ちゃんだってもう虐待、こういう汚い生活が全部終わるのではないかと思って、私はお湯を飲んでばんと沈んだのです。すぐ上のお兄ちゃんが慌てて上げてくれて、どう息を取り戻したか、私も息を取り戻すときのほうがあれで、息が止まりかけたのを覚えているのですけれども、何とか息を取り戻して、まだ湯船の中でいたのですけれども、そのときうちのお父ちゃんがね、お湯をかぶってびっちゃんこになってうなだれていたのですけれども、しばらくたって、多分私の確認でしょうね。生きとったかとかわからないのですけれども、そのときの顔が怖いぐらい無表情なのです。ほっとしたとか、そんな顔ではなく無表情で私を見たのです。私もすごい背筋が凍りついたのですけれども、このときにそのまま、ちょうど洗い場の脱衣所のときに継母さんが慌てて来て、さすがに止めていたらしいのです。そこまでやったらあかんみたいな感じで言っていたらしいのですけれども、父が継母さんのほうを無表情のまま振り返って、一言、継母さんに「もうこれで気済んだやろ。」と言ったのです。

 この言葉を聞いた瞬間にもうかちんと腹が立って、今までどんなにされても、優しいお父ちゃんに戻ってくれるだろうとか、だから先生には絶対言わないとか、一応私たち親を守ってきたつもりだったのですけれども、私たちも多分限界に来ていたのだろうか「もうこれで気済んだやろ。」と言った言葉に対してむっちゃ腹が立ってしまって、「何だそれ。」と、「もうこれで気済んだやろ。」って、いやいや、誰にびびって毎日子供を殴っているねんという感情がばっとあふれてきて、その日の晩はお兄ちゃんたちと本当に、すぐ上の兄が、お父ちゃんはもう死んだと思おうと、おると思ったらあかんと言ったのです。そして、一番上の兄が、俺は親を尊敬できんでもいいと、でも軽蔑はしたくないと、小学校6年生の子が言ったのです。あとはとにかく低学年ではないので少し期待、やはり義務教育が終わったら働けるということが、私たち3人にとってはもう希望なのです。一緒に働いて、1人ずつ働いたらアパートを借りられるという思いがあって、あとはもうそこへ目指す、この2人を要らんことをしない、怒りの感情をこの2人にぶつけないというか、もともと悪化させずに何とか穏便に穏便に行こうという気持ちでいたのが本当に高学年と中学校入ったぐらいかななどと思っています。

 この2人もこのころは人づき合いを一切せず、自分たちは殴る音、私たちの泣き叫ぶ声とか、もう近所ではすごい有名でしたし、思春期の私たち、兄もそうですけれども、密集した団地だったのですけれども、素っ裸で冬に放り出されるとか、幼稚園ぐらいだったらいいのですけれどもね。もう同級生の子が通るとか、屈辱的なことがあったのですけれども、2人も自暴自棄というか、どんどん悪化していっていた時期ではありました。

 このときに、今、いろんな少年たちの犯罪も1年、2年増えてきて、私も心を痛めているのですけれども、中一のときに、父と継母さんが車で出かけたら、パチンコに行くのですけれども、駐車場から車に乗って出ていくとき、それを窓から見ながら、私、毎日、妄想で2人を殺すのです。「ええか、今日帰りに交通事故に遭えよ、今日死ぬんやで。」と念ずるのです。これは、あなたたちは今死んだ方が幸せやと、どんどん鬼になっていく前に今死んどいたほうが絶対にいいと念ずるのです。兄たちもそうだったのですけれども、一番上の兄はもう本当に私が中一のときに中三なのですけれども、屈辱的な、素っ裸で放り出されたり、ひもで縛られて玄関側の廊下に出されて、本当に同級生の女の子が通ったりしたということで、もうつらかったのですけれども、その日、うちの一番上のお兄ちゃんがお父さんと継母さんの寝室の前で、金属バッドを持って立っていたのです。これは私とすぐ上のお兄ちゃんがあかんと止めましたけれども、やはり3人いたから、もう3人寄っていたからよかったのですけれども、それぐらい親を殺すか、自分が死ぬかというぐらいの時期が来ていました。だから、今、犯罪はいっぱいあるのですけれども、もう本当に結構そういうことはあるのでないかなと思っています。

 このとき、本当に3人いたすぐ上の兄が実は一番お兄ちゃんらしかったのですけれども、お兄ちゃんが、「何で俺らが犯罪者にならなければあかんねんと、何で俺らが自殺で、何で俺らが死ななければあかんねんと、あほか。」と言われたのです。一番上の兄もそうですけれども、はっきり言って、義務教育と言ったって、今学校に行かないと、どこか消えてバイトしたってわからないのとちゃうかと結構思ったのですけれども、問題事になると、今、とりあえず私たちが消えたら問題事になるからもうちょっと我慢しようという思いを持っていきました。それが、私が中一のときだったのですけれども、本当に殺さなくてよかったと今は思っていますけれども、そういうこともあるということですね。

 私が中二になって生活が一変するのです。もう諦めていました。とりあえず中三で卒業したら私は和歌山県に行って温泉の仲居になるという夢があったのです。これしかないと。寮があるでしょう、年齢不問でしょう、よっしゃ、これやと思って行こうと思っていたのですけれども、何気ないクエスチョン、4月に産休明けで転任して来られた27歳の女性の先生が、あっという間に親を呼び出して助けてくれたのです。もう転任されてきて2日目、3日目ぐらいから、私たちもあざだらけでしたし、今、私、身長はおかげさまで170cmあるのですけれども、これは虐待生活が終わった後、一気に20cm伸びたのです。栄養をとり入れてね。でも、そのころ身長百三十何cmの、体重が23、24kgであざだらけですからね。
 兄たちも、こんなのは先生、誰が見たってわかるのですけれども、それまでの先生が別にほったらかしにされているわけではないのですけれども、「どないしたんやそれ、どうや、大丈夫か。」と言われても、「いや、大丈夫です。」と言い続けてきたのです。兄弟喧嘩ですと言い続けてきたのですけれども、この先生、あだ名がマッハ先生というのですけれども、マッハ文朱さんが昔いたのです。この人にそっくりで、マッハ先生という先生が私に、「あんた、家、大丈夫か。」と。ドスのきき方が、魂こもっていたのかどうか、えっと思ったのですけれども、「大丈夫です。」と言うのが精いっぱいでした。でも、次の日また、「あんた、まだいけるか?」と言うのです。先生、そのまだって何と、誘導尋問なのですけれども、今までの先生と違うという気持ちがあって、ちょっといいなと思ったのです。でも、私は基本的に父が「もうこれで気済んだやろ。」と吐いたあの日から、大人は1人も信用しない、絶対おかしい。子供にはいじめをしてはいけない、言うことを聞きなさいと言って、大人が何でこんなだと思っていましたから、絶対大人の言うことなど聞かないと思う気持ちを持っていたのですけれども、マッハ先生が私の父と継母さんを学校にいきなり呼び出したのです。「あんたたちもおいで。」と。大兄ちゃん、上の一番お兄ちゃんは卒業していたのですけれども、私とすぐ上の兄、もう嫌で、先生、今からいらんことせんといてと思ったのですけれども、先生が大丈夫やということで。

 マッハ先生と私、お兄ちゃんとお兄ちゃんの担任の先生と4人で校長室だったか会議室か忘れましたけれども、行って開けたら2人が座っていて、そうしたら、チクったやろという顔で、下から睨んでいたのですけれども、私もすごい怖いと思ったのですけれども、マッハ先生が私の腰をしっかりと持ってくれて、教頭先生はストレートに言えませんので、この子たちのあざがちょっとほかの教員も気にしておりましてみたいな、オブラートに包んで言っていたのですけれども、2人は言いわけは達人ですから言っていたのです。そんなやりとり、言いわけをずっと聞いていたマッハ先生、私の腰を持っていたのですけれども、私の持っていた腰の手がぶるぶる震え出したのです。私もそちらのほうが怖くて、マッハ先生、どうしたんだと思ったのですけれども、その瞬間、マッハ先生が私の腰を放して2人のところにぱっと行ったのです。もう本当にドラマみたいなのですけれども、教頭先生のほうが、4月に来たばかりの27歳がぱっと来たもので焦っていたのですけれども、そこまで行った途端、ストレートでした。いやいや、「家で虐待しているでしょう。」と怒鳴ったのです。2人はえっとなっていましたけれども、「言い訳は絶対許さない。」と、「誰が見たってわかります。」と、「でしょう。」と言ったのです。「他人を殴ったら傷害罪で捕まるのですよ。」と。「親子であってもやったらあかんものはあかんのです。」と、ばんと言ってくださったのです。

 このときに、「いいですか。」と、「もし今度暴力の形跡が1回でもあったら、私は警察に即刻通告しますから。」と言ったのです。そして、「そのときは、この子らは帰さへんから。」と27歳の先生は言ってくださった。その後はまた教頭先生がフォローしていましたけれども、ですから、私たちはその日、連れ帰らされるはずだったのです。でも、このマッハ先生のストレートなばんという一言が引き金になったのか、それまでは中三を卒業したら和歌山に行くと、そこまで頑張ると思っていた私が、もう今日帰りたくなくなったのです。もう帰れへん、きょうは絶対帰りたくないという思いが溢れてしまって、すぐ上のお兄ちゃんと目を合わせたら、お兄ちゃんだってそういう顔なのです。こんなにストレートに言ってくれた先生はいなかったですしね。

 先生の、「今度あったらこの子らは帰さない。」と言った言葉にぴっと来たのです。帰りたくない、絶対今日は帰りたくない。この2人を吊るし上げられたということだけで、絶対私らが帰ったら何かされる、絶対殺される、誰かと思っていたので、絶対帰りたくないと思っていたときに、多分私はもう救いの目をしてマッハ先生を見たのです。さっきまで強気だったマッハ先生が歯を食いしばって鼻水垂らして泣いていたのです。マッハ先生、どうしたのだろうと思った途端、私と目が合った瞬間に、教頭先生に、「教頭先生」と。教頭先生も何だ、次は君はという感じだったのですけれども、「教頭先生、あのね。」と、「私、やはりこの子らはあかん、今日帰さん。」と言ってくれたのです。マッハ先生いわく、「私が言ったときはひるんだけれども、帰りの身支度が始まろうとしていたときの2人の顔は、あんたら2人睨んでいた。」と、「あんたたち2人を本当に睨んんで、帰ったら覚えておけよぐらいの顔をしておった。」と、言っていました。だから、お陰さまで長かった長かった虐待、約2,000日なのですけれども、このマッハ先生の一言で、私たちはその日に助けていただきました。

 もうその後、病院に行って、児童相談所に行って、私は5月になっていましたけれども、学年的に言うと2学年、中二、中三と、一応、普通の中学生を2年間体験させてもらったことが何よりも最高にすばらしかったです。家では泣いたらあかん、笑ったらあかん、意見を言ったらだめ、感情を出したらだめという、人間、本来出していいはずの喜怒哀楽、この4つを禁止されていました。笑っても殴られる。泣くのは大丈夫なのです。泣きを押し殺す力は私たちものすごい身につけています。泣き声は相手をいらつかせる行為やとわかっていますから泣かないのですけれども、養護施設に入って、このマッハ先生とは1カ月ちょいのつき合いでお別れになってしまった、本当に残念だったのですけれども、泣いていいんだ、笑っていいのだという、本当に普通の感情、普通のスクールソックス、ゴムが伸びていないとか、お弁当が普通ので、私たち、弁当のおかずも、今、給食とかありますけれども、ないので、時効なのですけれども、朝、ローソンにお兄ちゃんが行って、ローソンは朝5時ぐらいに食べ物が積んであったのです。あそこからちくわとか盗んでお弁当に入れていたときがあったのです。おかずがないから。そんな感じでしのいでいたのですけれども、普通にお弁当を持っていったり、普通に湯船に入られるとか、こういうことが本当に感謝でした。

 その後、私の父は、私が養護施設に入って1年半後に養護施設に電話してきました。「悪かった」と。私も普通のお父ちゃんの声とか殴られて聞いていなかったので、ちょっと冷たかったのかもしれないのですけれども、「許してもらおうとか、そんなので電話したのではないんやと。悪かった」という電話をしてきた1週間後にみずから命を絶つのです。私的には、もったいない、腹が立って本当に親子のやり直しをやってから死ななければいけないと思ったりしましたけれども、長い間やったらいけないことをやり続けたお父ちゃん、私が助かった日、実はお父ちゃんも助かったのです。あの日で虐待生活が終わったのです。

 このマッハ先生と2年半前に、実は27年ぶりの再会を果たします。私がこの活動をして、ちょうどドキュメンタリーに取り上げられているときに先生と再会しました。私もずっと不義理して、本当は生きている、元気でおるということを伝えておかなければいけなかったのですけれども、なかなか10代、20代、子育てしたり忙しくて不義理していたのですけれども、お会いさせてもらったときに、先生ももう何千人も教え子がいる、私とはたった1カ月ちょいの付き合いの関係だったのですけれども、私のこともはっきり覚えてくださっていて、生きているのですかと、とりあえず生きていてくれてよかったということと、再会したときにすごく怒られまして、やはり生きているか、死んでいるか、どちらか報告しないかと言われたのですけれども、死んでいたら言えないとか言いながらだったのですけれども、このときにマッハ先生が、「私な。」と、「めっちゃ怖かったと。あのとき、27歳の勢いだけの私が、あなたたち親子を独断で引き裂いてしまったのではないかと27年間ずっとずっと思っていたのだ」と言われた瞬間に私大号泣で、もう先生ごめんなさいです。先生、ごめんなさいと謝りました。

 先生に、「先生、あの日、私、助けてくれたでしょうと。私を助けてくれたあの日というのは、先生はうちのお父ちゃんも継母さんも長い長い虐待生活から救ってくれたんや」と、これが、お父ちゃんがもっと初期で、小さい芽の間だったら死ななかったかもしれないのです。もう本人的には加速していった、心のメーターをぶんぶん振り切っていると同時に顔の人相も変わっていった。これがもっと初期の段階だったら、きっと私、やり直せていたのではないかなと思っています。

 大人は理不尽なことをやった後、子供に謝ることがなかなかできないのです。このことが加速していくのですけれども、なるべく早い間に私は虐待されている、この子は虐待されているのではないかと思ったら、通報ではなく、お父さん、お母さんにどんどん仲よく、優しい気持ちを出していってあげてほしいということを全国で言っています。

 やはり虐待する親などは死刑やと一般の方は皆さん怒るのです。それはもう普通の感情なのですけれども、傍観者だって同じ犯罪者だと私は思っているのです。事件があった後、必ず何かおかしいと思っていたのですというインタビューがあるのです。だから、私的には、私の子供のときに感じていた心、暴力はもちろん私は逃げたかったですけれども、でも、はっきりと私は、「違う違う、誰かうちのお父ちゃんの心を助けたって。」と、「誰かどうにかしてあのお父ちゃんの心。」と思っていたのです。だから、もしもこれができるのは地域。行政の仕事でもないのです。行政の仕事は、事が起こってから、することにはもちろん対処してほしいのですけれども、今やはり日本全国いじめもそうですけれども、事が起こったことに人も時間もお金も莫大なものが使われています。これをもっともっと防止に使えたら私はありがたいなとすごく思っています。

 やはり目指すところは子供たちに、鬼になっていくお父さん、お母さんの姿を見せ続けるぐらいなら、早く通報してもらって、児童相談所、子供の傷も浅い間に、一旦心の休憩で養護施設に預けてもらうのはオーケーだと思っています。さんざんなとことんまで行った、何年も何年も暴力暴言を受け続けている子供たちが養護施設に行くと、今の思春期、養護施設もたくさんありますけれども、かなり大変です。荒れていきます。親はどうかというと、結構何のフォローもないのです。命を落としたら逮捕ですけれども、命まで落とさなかったらどうかというと、やはり野放しなのです。やってしまった後のフォロー、心は犯罪者のままなのです。だから、子供にまともに顔を合わせに行けないし、そのまますさんだ生活を送っているパターンが多いのです。だから、私、今、実は虐待さんいらっしゃいということを今3年やっています。本当は行政がこういうネーミングでなくていいのですけれどもね。ドキュメンタリーで、私は虐待さんいらっしゃいでやっていきますと、もう通報してくださいではなく、みずからカモン、おいでとやりましたら、60人、70人ぐらい出てきてくれました。これは学校の先生が多かったです。看護師さんも多かったですし、明らかに虐待しているように見える人は少なかったです。

 これは不思議なところなのですけれども、みんな一緒でした。そんなつもりではない一発が謝れなかったことで加速していくということが多かったのですけれども、私はいつも合言葉で、昨日までのことは、もうどうでもいいと。だから、今日からというような感じで、加害、やってしまった人へのやり直しができる言葉がけをしていくことも大事なのかなと思っています。

 特に、本当に事が起こらないようにすることに何とか地域、行政ですけれども、力をもう少し貸していただけたらありがたいなと思っています。今、一般で動いていらっしゃる方も、貧困ですか、シングルマザーに御飯を届けたりとか、もう起こってしまったことであっぷあっぷでやっているのですけれども、それはそれとして離婚が起こらないように、虐待が起こらないようにというようなことに、これは教育の問題だと思いますけれども、積極的に私は中学校も回っています。義務教育の間に絶対に大事なことをすることも虐待防止、殺人防止、犯罪防止につながることでないかなと私的には思って今やらせていただいています。

 ですので、今日は何が言いたいかといいますと、視点ですね。視点を本当の虐待防止を目指すという根絶を目指すというあたりで、自分たちの町から、加害者も被害者も出さないということ。そして、被害者だけではなく、加害者をつくらないということ。飲酒運転とかもそうですけれども、全部ですけれども、加害者をつくらないためにもっともっと時間を割いて教育できる仕組みができたらうれしいなと思っています。

 今、特にいじめの研修もいっぱい回っています。学校の先生研修も多いのですけれども、いじめなどは特にそうですね。子供たちの中から加害者も被害者も出さないでほしいというお願いをしています。いじめられている子がいたら、いじめられている子ではなく、いじめている側をとことん優しく、とことん愛して、とことん抱っこして、中学生だろうと、ハグしてと、やっている側の芽が小さい間に、先生方にお願いしています。これは結構威力が出てきました。もう怒って加害者を締め上げるのではない。こちらは命を落としたら終わりなのです。いじめかなと思ったら、加害者を温めるということに今力を使っていますので、また、こういう啓発などもしていただけたらありがたいと思っています。

 ちゃんとお話できたのかどうかわからないのですけれども、今日本当に私的にはこういう貴重な機会をいただけたこと、そして、たくさんの方に聞いていただけたこと、この時間もきっと虐待を受けている子はたくさんいると思うのですけれども、何とか自らほろっと、この役場、この窓口に相談に行こうと思ってもらえるような、温かい虐待防止根絶になるといいなと思っております。

 私、今日、前に出てしまっていましたけれども、申し訳ございません。長時間ありがとうございました。(拍手)

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