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犯罪被害者等施策
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犯罪被害者等施策講演会(第2回)



日時:平成20年1月31日(木)13:00~14:15
場所:新大阪丸ビル新館4階402号室


少年犯罪で息子を奪われた母の想い

 武 るり子 氏

講師:武 るり子 氏
(少年犯罪被害当事者の会 代表)

○講演要旨
(講演資料 「WiLL」[PDF:469KB] 「被害者等による少年審判の傍聴等に関する意見書」[PDF:280KB] 「新聞記事」[PDF:383KB]

こんにちは。今、紹介していただきました、武るり子と言います。今日は最初に、私たちの会でつくっている映像が少しあるので、DVDの方を先に見ていただきたいと思います。お願いします。

(DVD上映)

 ありがとうございました。

講演会 全体1

 今、見ていただいた映像は、私たちの会が行っています1年に1回の集り「WiLL」の時に使っているものです。「WiLL」には、意思や気持ちや遺言という意味があります。どうしても1年に1回しかこういう集会ができないんです。と言いますのは、私たちの会の人たちは全国にバラバラなんです。北海道の人もいれば、沖縄の石垣の人もいます。1年に1回ぐらいしか集まれないんです。だから、1年に1回集まって「WiLL」を行っています。

 私がなぜこの「WiLL」を行いたいと思ったかというと、社会で大きく扱われた事件は思い出すことがあるんです。あの事件から1年経ちました。あの事件から2年経ちましたと、社会で思い出すことがあると思います。でも私たちの会の人たちの事件というのは地域で起こる死亡事件であっても、普通の事件と扱われる事件が多いんです。そういう事件はどうかというと、次の事件が起きるとすっかり前の事件は忘れられてしまいます。私は思いました。そんな忘れられた子どもたちを1年で1回でいいから主役にして、1日をその子たちのために過ごしたいと思ったんです。

 よく言われることがあります。死んだ子の話をいつまでもしてはいけないよとか。勝手に自分たち遺族が思うことがあるんです。死んだ子の話をいつまでもしていたら、何か変に思われるのではないかと勝手に思ったりするんです。だから、1年に1回は思い切りその子たちのために過ごしたいと思ったんです。それが「WiLL」なんです。

 その日は、勿論、遺族は集まります。でも遺族だけではなく、関係する人たちも含め、いろんな人たちが集まってほしいなと思ってやってきました。今年も10月にやる予定なんですが、10回を迎えます。最初のころは、このように国の公の機関の方も来てくださる方は本当に少なかったです。でも、今では内閣府の方、法務省の方、警察の方、いろんな方々が来てくださるようになりました。やはり少年犯罪に関係している人たちには来ていただきたいんです。現状を見ていただきたいんです。そんな思いでやっています。

 そして「WiLL」をやりたいと思っても、今から約10年前はそのようなことをやるような社会ではありませんでした。私は探したんです。被害者の人が集まって話をする場所がないかと探しました。ありませんでした。そして、被害者の人が相談できる窓口はないかと一生懸命探しました。ありませんでした。警察の方に尋ねました。こう言われました。「自分たちがもし知っていたとしても教える義務はないんだ」と。そうおっしゃったんです。そういう社会でした。だけれども、自分たちで何かやりたいと思ったんです。

 外国では遺族の人が集まって話をする場所がよくあるんです。それをテレビを見たんです。そうしたら、その頃、うちの家には学生たちが、いろんな子たちが話を聞きに来ていたんです。その子たちと一生懸命話をしている中で、「外国ではこんなことがあるんだけれども日本にはないんだ。日本でもやってみたい」と言ったら、学生に言われました。「武さんたちがやりたいと思うこと、自分たちができることは手伝いますよ」と。その一言に後押しをされて怖さ知らずで、手探りで始めたのが「WiLL」でした。今年で10回続けているんです。今も手づくりなんです。学生と一緒につくっています。失敗もあります。本当に映像が悪かったりもしますが、思いのこもった集会だと思っています。

 よかったら、是非皆さん一度足を運んでいただきたいと思います。大体10月の第1土曜のお昼からやっています。今日、コピーをとっていただいたんですが、去年の「WiLL」の一枚ものを持ってきています。(資料「WiLL」参照[PDF:469KB])このような感じでやっています。よかったら来てください。

 私は、紹介にありましたように、現在、少年犯罪被害当事者の会の代表をしています。会をつくって10年になります。いろんなところに出かけていくようになりました。先ほど紹介にもありましたように、国会にも行きましたし、内閣府、法務省、いろんなところで難しい会議に出席することも出てきました。そんなときに聞かれることがあります。武さんは活動家ですかと聞かれます。活動していたんですかと聞かれることがあります。私は活動家でも活動していたわけでもありません。専業主婦なんです。専業主婦といっても、本当に人前に出るのはとても苦手な、人の後ろに隠れるような、そんな私でした。3人子どもがいて、PTAの役員が回ってきて、絶対引き受けたくないといつも逃げていた私でした。でも仕方なく給食委員長というのを引き受けまして、実行委員長だったんです。そのときに30人のお母さんの前で給食の試食会のときにあいさつをするのがとても大変で、二度と人の前には出ないと思ったような性格の私でした。でも、そんな私が、今はどこにでも行って話をするようになりました。

 なぜ私がこのように変わったかというと、11年前、息子の事件がありました。そのときの社会というと、犯罪被害者のことを全く考えてはいませんでした。特にうちの場合、加害者が少年だったんです。少年犯罪の被害者のことを全く考えてはいませんでした。法律も制度も整ってはいなかったんです。被害者が声を上げていると、私と主人は最初から声を上げていたんですが、何か加害者を死刑にしろと言っているのではないかとか、ただ加害者のことを言っているのではないかとイメージを持たれました。話を聞く前から話を聞いてもらえなかったんです。

 でも、私と主人はあきらめなかったんです。特別なことを言っていたのではないんです。その当時は加害者の名前すら教えてはもらえなかったので、なぜ親なのに加害者の名前を教えてくれないんですかとか、事件の内容をなぜ教えてくれないんですかとか、あるべきものがないので声を上げていたんです。でも、その声を拾ってくれるところはどこも、耳さえ傾けてはくれませんでした。マスコミにも自分から流しましたが、相手にはしてくれませんでした。「興味はあります」と言われました。「でも、少年法が関わっているから難しい」と言われました。ですから、どこにも相手にされなかったんです。でもあきらめずに話をし続けてきました。

 私は、こうやって話をするために出かけるたびに思うことがあります。11年前にこんなふうに社会が少年犯罪の被害者のことを考えていてくれていたなら、私たち家族はもっと違ったなと思います。

 もう一つ思うことがあります。あきらめなくてよかったなと思いました。どこにも相手にされず、本当にひどい扱いでした。でもあきらめなかったんです。この11年間でいろんなことが変わりました。私たちに関して言えば、少年法も何回か改正になりました。犯罪被害者等基本法もでき、基本計画案もできました。本当にいろんなことが変わったんです。ですから、あきらめずに言い続けてきてよかったなと思います。

 いつも私はそんなふうに複雑な思いを抱えながら足を運んでいるんです。だから、来る電車の中から、もう胸がいっぱいなんですね。私にとって、こうやって話ができる時間があるということは11年前から考えると本当に考えもしないことなんです。ですから、とても大切な時間です。大切にしたいと思います。

 でも、私の話は、聞いている皆さんにとってはとてもしんどい話かと思います。重たい話です。でも、一生懸命話をしますので、どうぞ最後まで話を聞いてください。

 犯罪被害に遭えば、それなりの生活をしていたのではないかと昔よく言われました。それまでも犯罪に関わっていたのではないかと見られたり、言われたりしたこともありました。でも、私たちの会は30家族の遺族が関わっているんですが、みんな平和に普通に生活をしている人が事件に遭っていることもあるんです。うちもそうでした。私は警察に関わると言えば、自転車が取られたときぐらいでした。裁判所も行ったことがないし、弁護士の先生と話をしたこともありませんでした。そんな我が家に突然事件は降りかかったんです。

 ですから、今日の話はどんな家族が事件に遭って、事件に遭った後どんなふうに変わっていくか、そして、どんなことが助けだったか、公の機関はどんな扱いでどんな思いだったか、具体的に話をしていきたいと思います。

息子との16年間から少し話をしていきます。私は1955年、主人は1948年、鹿児島で生まれています。その後、別々に大阪に引っ越しをしてきていまして、大阪の西淀川区というところで知り合い、1976年、私が21歳、主人が28歳のときに結婚しました。現在、私は53歳、主人は59歳になります。現在も西淀川区に住んでいます。結婚して1年余りで妊娠しましたが、10か月間お腹の中で育った子どもは死産でした。私はそのときのショックでなかなか次の子どもを産む気になりませんでした。でも、ようやく産む決心をして生まれてきたのが、事件に遭った長男孝和でした。待ちに待ってできた子どもでした。心の底から幸せだなと実感できた誕生でした。

 その後、私たちは1984年に長女が生まれ、1987年に次男が生まれ、3人の子どもに恵まれました。主人と私は独立したばかりの内装業の仕事が大変で、生活も大変なときがありましたが、子どもたちの成長だけを楽しみに頑張ってきたんです。

 そして、長男が1歳ちょっと前に血友病ということがわかりました。そのときもショックと不安とでいっぱいになったんですが、いつもにこにこ活発に動き回る息子に励まされることばかりだったように思います。血友病というのは軽症だったこともあり、普通の子と同じように育てることができたんです。でも、今、問題になっています血液製剤というのを数回使っているんです。なるべく使わないようにしてきましたが、でも数回使っていたので、エイズの問題が出たときから、年に1回血液検査を受けるんですが、その中に項目が加わるようになったんです。そのときもとても心配でした。でも、結果、陰性と聞くと、その度にほっとしたものでした。そんなふうにすごく大事に育てた息子だったんです。

 でも、私はこのほっとしたことが、事件に遭った後、自分を責める材料となりました。あんなことで毎回自分だけがほっとして喜んだことが、それだから事件が起きたのではないかと自分を責める材料となったんです。

 息子の事件ですが、高校1年だった息子の文化祭の日でした。いつも朝寝坊の息子が自分で起きて慌ただしく着替えをして、「行ってくる」と2階の部屋をのぞき込んで出かけていったのでした。

 それまで子どもたちの行事には必ず参加していた私たちでしたから、主人は文化祭に行こうと思って準備をしていました。でも、私は高校生になると、親が来るのを恥ずかしがる年ごろだったのと思ったので、「少し距離を置いてみようよ」と文化祭を見に行かなかったんです。このことも後で自分を責める材料となりました。

 私たちは下2人の子どもと4人で買い物へ行き、主人は息子のためにMDのコンポを買いました。家に帰ってコンポの線をつないでいたら、3時半ごろのことでした。主人というのは驚かせて喜ばせるのがとても好きで、わくわく喜びながら線をつないでいたそのときのことです。いつも仲良くしている高校の友達から電話があったんです。「自転車でこけて鼻血を出している」そして、「言っていることがおかしいので、迎えに来てほしい」と言うので、私たちは慌てて家を出ました。少しぐらいのことでは電話してこないと思ったのと、息子は、先ほども言いましたように、軽症ではあったけれども血が固まりにくい血友病という病気を持っていたこともありました。

 車で10分ぐらいで現場近くの友人宅に迎えに行くと、息子はぼーっとしてふらふらしていましたが、自分で歩き、手を貸そうとしても「大丈夫や」と自分で車に乗るほどでした。でも、「頭が痛い、気分が悪い」と言うので、とても不安で、いつものかかりつけの病院にとにかく急ぎました。病院に着くと、息子は車を自分で降りて、私が、「名前は、生年月日は」と聞くとちゃんと答えたんです。

 ところが、診察室に入ってからは状態が悪くなり、CTスキャンを撮るころにはもう話ができない状態でした。診察室に入ったとき、「今日、約束があるから行くで」と言うので、私が「何を言っているの」といつもの調子で交わしたのが最後の言葉になってしまいました。それは、初めてできたガールフレンドとの約束のことでした。

 運んだときだけはしっかり血液製剤を打ってもらいました。血液製剤さえ打てば、普通の子と同じ状態になるからです。でもその後、やはり状態が悪くなり手術をしました。手術が終わった後、お医者さんは「成功しました」と告げたものの、息子の様子は変わり果てていました。頭には包帯、たくさんの管や機械を付けられ、人工呼吸器も付けられていました。心臓だけが動いていて、触ってもぴくりとも反応をしなくなっていたんです。ほとんど脳死に近い状態でした。私は息子が仲のよかった中学時代の友達やそのお母さんたちに、すぐに電話を入れました。息子の容態が悪いので祈ってほしいとお願いしたんです。みんなで祈れば、きっとそれがエネルギーとなって届くと信じていたんです。その後、みんな病院に駆け付けてくれました。

 振替休日だった高校の担任の先生にも連絡をとりました。先生は飛んできてくれました。そして、その先生が当日一緒にいた高校の友達に連絡を入れてくれたのです。私は、高校に入ってまだ数か月しか経っていなかったので、友達の連絡先を知らなかったんです。

 事件の2日後、初めて息子の容態を聞いて余りの悪さにびっくりした高校の友達が、十数人で病院へ来ました。すると、その友達は、「すみませんでした。自転車でこけたというのはうそでした。本当は他校の生徒に殴られたんです」と、すまなそうに言うのです。

 私は主人と一緒に事情を聞きました。なぜうそをついたのかと子どもたちに聞くと、仕返しが怖かったからと小さな声で答えました。泣いている子もいました。早く本当のことを言ってくれていれば何かが変わっていたかもしれないと、悔しくて、怒りがこみ上げました。でも子どもたちを責めることはしませんでした。相手がプロレスラーみたいに大きくて年上だと思ったし、とにかくとても怖かったということでした。事件とわかり、わけがわからない状態の中で何もできない私は、息子の命が助かることだけを祈るしかありませんでした。

 主人はそんな中、私に負担をかけないように警察との対応をすべてしてくれていました。事件とわかり、まず主人は学校の先生と警察に被害届を出しに行くことになりました。夕方5時を過ぎていたので、学校の先生が、「『今日出すのも明日出すのも同じだ』と警察が言っていた」と言うので、そのとき、息子はほとんど脳死に近い状態だったので、命が関わっている事件なのにすぐに動いてくれないのかと怒りがこみ上げました。でも、その怒りを警察にぶつけることはしませんでした。ぐっと我慢をしたんです。被害者側は弱い立場にあります。ちゃんと調べてもらわないといけないと思ったし、悪い心証を与えてはいけないとも思ったからです。

 入院して12日後の11月15日、昼ごろから息子は危篤状態になりました。主人はたまらなくなり、「早く捕まえてほしい」と警察に電話を入れました。加害少年を捕まえるのはまだ2、3日先と聞いていましたが、その夕方になって少年の身柄が拘束されたことを警察から知らされました。事件とわかったときから新聞社に連絡したかった主人は、私にすぐにファックスを流すよう言いました。加害者が捕まるまで捜査の邪魔になるから、しないように警察に止められていたんです。私は言われるまま次のような内容を書きました。

 「11月3日午後3時半、此花工業高校に通っている1年、武孝和という生徒が因縁をつけられ、謝っているにもかかわらず、本人はけんかを避けようとして逃げても、追いかけてきて殴るけるの暴行をふるわれ、意識不明の重体で現在危篤状態です。今後、このようなことがないようにマスコミ各社の御協力をお願いします。なお、相手は警察に逮捕されたようです。国立大阪病院に入院しているので、現在、私たちは家を空けています」といった内容を、住所と名前と電話番号と書いて新聞社にファックスで流しました。

 主人が事件とわかってすぐに新聞社にファックスを流したかった理由の1つにこんなことがあります。高校生の息子ですから、お医者さんや看護師さんたちが見たとき、けんかでもしたんだろうと思われたくなかったんです。「ばかなことをしてと思って息子に関わるのと、かわいそうなことをされてと思いながら関わるのでは、汗のふき方、体のふき方、接し方が違うのではないか、もっと親身になってくれるのではないかと思った」と言っていました。

 そのとき、主人が私に言ったことでもう一つはっきり覚えていることがあります。混乱状態の中で、主人は私に、「おれたちは見せ物パンダになってもいいな」と言ったんです。「もうプライバシーも何もないぞ」と私に言いました。私は「わかった」と返事をしました。大切な息子のことだったから、これから先何でもできると思ったんです。主人は私に、「外に向けて話をするんだったら、都合のいいことだけ言っても伝わらない。すべてをさらけ出さないと伝わらない、その覚悟があるか」と言ったんです。私は、「はい」と答えました。

 この11年間、私と主人はすべてをさらけ出して話をしてきました。これからも変わりません。確かに被害者の人権、プライバシーを守らないといけないと思います。たくさんの遺族の人、被害者の人はそう声を上げています。でも、それもなくてもいいと、そんな思いで必死で上げている遺族もいるということを知ってもらいたくて、この話をしました。だからといって、みんながしないといけないという話では決してありません。

武 るり子 氏

 私は最初に言いましたように、いろんな会議に呼んでいただくようになりました。被害者の問題で、被害者の名前を匿名にするべきだというようなことが議論になった会議に出席したんです。多くの被害者の人は言います。特に私たちの場合、少年犯罪です。加害者の場合、名前はAやBなんです。それに比べて、被害者の名前はどんどん出てしまうわけです。それはやはりおかしいと声を上げている人もたくさんいます。それはあると思います。

 でも、ある議員の方がこうおっしゃったんです。「絶対被害者の名前を出すべきではない。それをまず徹底しなければならない」と、すごくおっしゃったんです。私はそれを聞いていて、すごい小心者なんですが、そのときはすっと手が挙がるんですね。やはり一くくりにされたくなかったわけです。私たちの場合、最初から顔も名前も出していました。息子の写真が欲しいと言えば、提供もしていたと思います。だから、そんな遺族もいるんだということをお話ししたんです。そして、私は「たとえ名前が出たとしても、守られるような社会でなければいけない」と言ったんです。

 といいますのは、犯罪に遭って、死亡事件などだと、やはり地方紙だけでもニュースに載るわけです。少なくとも周りに住んでいる人たちはわかるんです。あそこの家は犯罪に遭ったとわかるわけです。いろんな噂が飛び交うのは仕方がないことなんです。だから、私は言ったんです。名前は出たとしても正確にしっかりと報道してもらえて、そして守られるような法律、制度にしてほしいとお願いしたんです。もちろん、犯罪によっては、性被害や、また犯罪が及ぶなど危険があるという場合には配慮をしないといけないと思います。でもほかの場合であれば、名前が出たとしても守られる社会にならなければいけないと思うんです。

 もう一つ言いました。その事件に遭った当時、お兄ちゃんの下に2人、子どもがいたんです。中学1年の娘と小学校3年の息子がいました。私はその兄弟となると、やはりいろんなことを言われると思います。私はそれをしっかり聞いたわけではないんですが、どうしても言われるんです。「あそこの家のお兄ちゃんは事件に遭って殺された」などいろんなことを言う人があると思うんです。でも、私はそういうことを言われたとしても、犯罪に遭ったということがわかるわけです。ですから、名前が出たとしても守られるような支援、守られるような法律、制度になってほしいと思ったわけです。私は下の2人の子どもたちには、これからも堂々と前を見て歩んでほしいからなんです。私はそんなふうになってほしいなと思います。

 また、話に戻ります。犯人が捕まったその夜、それを待っていたかのように午後11時43分、息子は意識を取り戻さないまま息を引き取りました。死因は左後頭部の内出血でした。どうにかして息子の命を引き戻そうと大声で叫び続けましたが届きませんでした。私がすがりつき、なでていると、「触らないでください」と看護師さんに言われました。なぜと聞くと、司法解剖をするのでとのことでした。まだぬくもりが残っている。そのぬくもりを感じていたいと思っても、してはいけなかったんです。私の涙は止まりませんでした。私はそのとき触れないんだったら、司法解剖から帰ってきたら、絶対お棺から出してあげてお布団に寝かしてあげようと思って待っていました。でも、帰ってきた息子を「絶対出してはいけません」と言われて、顔だけのお別れしかできなかったんです。それもとても悲しい思いでした。

 私はその後、いろんな遺族の人と話をするようになりました。神戸の児童殺傷事件の1人の遺族のお母さんとも話をするようになったんです。この話をしました。そのお母さんはおっしゃいました。「自分たちは、帰ってきた子どもをちゃんとお布団に寝かしてあげてお別れができたよ」と言ったんです。何でこんなに扱いが違うんだろうと思いました。私たちの会のほとんどの家族が私と似通ったような扱いを受けています。

 亡くなった直後、病院に警察の人が来たときの様子をお話しします。混乱状態にある主人に警察の人がこう言ったそうです。「日本は法治国家であり、個人の恨みを晴らすとか、敵討ちをすることは許されない。そして、少年法という法律がある。加害者にも人権があり、立ち直る可能性があるんだ」と。この言葉の中に殺された息子のことは全く入ってはいませんでした。これがたった今、大切な息子を亡くし、気も狂わんばかりの親に言う言葉でしょうか。命も人権も将来も、今さっきまであったのに、腹が立ってつらくてもここでも強く言い返すことはしませんでした。そんな思いを、また自分の胸の奥底へ押し込むしかなかったんです。

 私は現在、いろんな警察署、そして警察学校に出かけていくようになりました。いろんな警察官の方と話をして、みんな一生懸命お仕事をされていると思ったんです。一生懸命されている、でも誤解されていることがあるなと思ったわけです。それは何かと言うと、説明が足りなかったり、何か一言が足りなかったりするために、誤解をされているわけです。

 私は、一生懸命な警察官の方と話をするにつれ、自分のことを少し振り返ってみました。確かに間違ったことは1つも言ってはいないんです。主人というのがとても思いの熱い人で、思いの深い人なんです。今にも敵討ちに行きそうな主人なんです。だから、ひょっとしたら心配されて言った言葉かもしれないんです。でも、直後にこういうふうに言われたことがとてもきつかったんです。そこで一言、息子のことに何かが触れられていたなら、そんなことは思わなかったと思います。

 私は今でも覚えています。司法解剖に来られた警察官の方の姿をしっかり覚えているんです。恐怖でした。とても怖かったんです。司法解剖しなければいけないとわかっていました。でも、ダダッと警察官の方が来られて、「司法解剖をします」と言われたんです。しなければいけないのはわかっているんですけれども、無理やり連れていって何か物すごいことをやられるような印象をすごく受けたわけです。だから、思いました。そのときに1時間、2時間もの説明は要らないんです。ほんの数分の何らかの説明があったなら、その恐怖はなかったと思うんです。だから、本当に一言や少しの説明は大事です。

 一つ、このようなことがあります。私はいろんな遺族の人から電話をもらうんです。集団暴行にあった子どもさんを亡くしたお母さんから電話をもらったことがありました。まだ亡くなって3か月目のころでした。お互いに泣きながら話を聞き合うんです。その中で、一つびっくりしたことがあったんです。「自分たちは、武さんたちよりまだ幸せだね」と言ったんです。私は、子どもさんを亡くして3か月目のお母さんが「幸せ」という言葉を使ったことにびっくりしたんです。私は一生使わないでおこうと思った言葉だったからです。何でですか、どうしてと一生懸命聞いたんです。そうしたらこんな話をされました。

 集団暴行に遭っているものですから、息子さんの様子というのはとてもひどい状態で見つかったそうです。顔もパンパンにはれて、本当にわからないような状態だったそうです。その子どもさんを前にして、担当の警察官の方がたった一言こう言ったそうです。「お母さん、悔しいですね」一言言って涙を流されたそうです。その一言にお母さんは救われたとおっしゃったんです。

 私はとてもそれがわかるんです。私は自分のことを振り返ってみて、自分が何かひどい扱いを受けたから悲しかったのではないんです。死んでしまった子どもをとても簡単に扱っていると思ったんです。ただ処理をされている、そういうことをすごく感じたときに、子どもがかわいそうでならなくて悔しくて腹が立ったわけです。だから、一瞬でも「幸せ」という言葉を使えたお母さんが、そんな思いになったというのは、その瞬間だけでも、警察官の方が自分の子どもを思ってくれていたと思えたからだと思うんです。だから、ふと出た一言にはとても救われることがあります。そして、ほんの少しの説明が私は大事だと思います。

 また、話を戻ります。少年法というものをあまり知らない私たちは、その当時、いつかは事実を教えてもらえると思って待ちました。しかし、待っても警察官の説明はありませんでしたし、家庭裁判所からも一切説明がありませんでした。その当時は加害者の名前すら教えてはくれなかったんです。だから、私は主人と一緒に声を上げざるを得なかったんです。

 その後、少年法が一部改正になっていますので、現在は情報が少しずつ入っています。声を上げ続けてよかったなと思っています。でも、私はいろんな被害者の人、遺族の人から連絡をもらうんですが、やはり大人の犯罪から比べればまだまだなんです。加害者が大人であれ、少年であれ、精神障害であれ、私は被害者があるべき権利が違ってはいけないと思うんです。ある一定の平等さは大事だと思うんです。あるべき権利はどの被害者にも与えてほしいと思います。

 それには、やはり私たちの場合は大きく少年法というものが関わるんです。だから、少年法の改正をずっと言い続けています。少年法の改正だけを言っていると、厳罰化だけを望んでいる被害者代表みたいに書かれてしまうんです。もちろん、自分の気持ちの中にもあります。厳罰化と、ものすごい思いを持っています。でも、意見を言うときにはちゃんと考えて言っているんです。せめて人を殺した加害者並みの権利が欲しいということで、やはりあるべき権利、情報をくださいとか、意見が言えるようになってほしいとか、そして今回の場合、被害者も少年審判の中に入れるようになるという法案が、今度国会に上がるはずなんですが、そういうことがあるべきものなんです。だから、そういうことをやはり言い続けていこうと思っています。

 そういうことを言っているんだけれども、ただ厳罰化をすごく言っている代表みたいに言われるものですから、中身も見てほしいなと思います。厳罰化でいいのか、保護処分でいいのかと言うと、出口の話なんです。私はいろんな新聞の方から電話をもらうんですが、「出口の話をしているのではないです」といつも言うんです。「少年犯罪であっても、まず捜査をしっかりしてください。そして、事実認定をしっかりしてください。せめて死亡事件は刑事裁判にして事実認定をしてほしいんだ」ということを、一生懸命言っているんです。そして、「それに合った責任、刑罰が必要だ」ということを言っているんです。そのときに本当に保護処分がよければ、また家庭裁判所に返せるわけですね。だから、入り口からの話をしているんですが、どうしても大きく取り上げるのが出口の話なんです。それがとても残念です。これからも一生懸命言い続けたいと思います。

 今日、意見書なども入っています。(資料「被害者等による少年審判の傍聴等に関する意見書」参照[PDF:280KB])それも一生懸命苦労しながらまとめています。よかったら、また、ゆっくり読んでいただきたいと思います。

 そして、その当時、警察、家庭裁判所・・・本当に警察も一切教えなかったし、「警察は家庭裁判所が教えます」と言ったんです。私は急いで家庭裁判所に電話をしましたら、やっぱり「教えられない」ということでした。現在は教えるようになっているんですが、それも大人の犯罪と比べれば、やはり制限がすごくあるんです。これも言い続けたいと思います。

 もう一つ、社会で大きな事件と扱われる少年犯罪と私たちのように地域で起こる少年犯罪が死亡事件であっても扱いが違うというのを感じていたんです。すべてではないんですが、とても扱いが違ったんです。

 そう言いますのは、うちの事件の後、約半年後に神戸の児童殺傷事件が起きました。うちの場合、加害者が16歳でした。16歳だと刑事裁判にしてくれると思っていました。でも、それはしてくれなかったので少年審判だったんです。私からもいろいろお願いしました。「期日はいつか教えてほしい。内容を少しでいいから教えてほしい」と言いましたが、たった一言、「それは教えられない」ということでした。

 でも、半年後に起きた神戸の場合、加害者が14歳でした。その当時、刑事裁判にできないので少年審判なんです。同じ少年審判です。あれほど教えられないと言われた審判の結果が、社会にすべて公になったんです。もちろん、社会にあったということは遺族もわかるわけです。私はそれを見たときに、なぜこんなに扱いが違うんだろうと思ったんです。確かに社会に対しての影響力、特殊性、話題性はあると思います。でも、何でこんなに扱いが違うんだろうと思ったんです。だから、ずっと声を上げ続けました。事件が大きい小さい、それもやはりある一定の平等は大事だと思うんです。死んでしまった命というのは、どの命も同じです。どの命も尊いからです。これからも言い続けようと思います。

 そうなると、その当時、自分たちで動いて、自分たちで事件を調べるしかありませんでした。でも、私たちは調査権があるわけではありません。とても苦労しました。幸い、息子の周りに友達がいたんです。見ている子たちがいたものですから、うちの場合は事件の流れがある程度わかったんです。でも見ている子たちがいなかったら、本当に被害者の人たちはとても苦労します。

 自分たちで調べてわかったんですが、事件の内容は触れると長くなるものですから省略します。先ほど簡単に言ったような内容なんです。自分たちで調べて一方的な暴行というのがわかりました。因縁をつけられて、息子が謝っているにもかかわらず理不尽に殴られて倒れて意識をなくしたということがわかりました。自分たちで調べたことは一方的だけれども、やはり国の公の機関の警察、家庭裁判所から説明がない限りとても不安でした。警察はちゃんと調べてくれているんだろうかと思ったんです。ひょっとしてけんかで片づけているのではないかという不安を抱えました。何も教えないものですから、とても不安なんです。

 その後、犯罪被害者等給付金というのを請求したり、民事裁判を起こしてから、ちゃんと調べてくれていたんだとわかったんですが、それまではとても不安なんです。そして、家庭裁判所はこう言いました。その当時、「ここは一つひとつ事実関係をどうのこうのするところではない」と言われたんです。「加害少年がこれから先、どうやって生きていったらいいか考えるところだ」と言われました。そうでしたら、家庭裁判所は事実関係を一つひとつしないのであれば、加害者の言い分だけを鵜呑みにしているのではないかという不安を抱えたんです。だから警察や家庭裁判所、国の公の機関から説明がない限り、とても不安なんです。遺族の人、被害者の人が事実を知りたいということはそういうことなんです。とても不安で仕方がないんです。

 私は、見ている友達がいたので何度も確認しました。何の落ち度もないというのを聞いたんです。でも、警察、家庭裁判所から説明がない限り、ひょっとしてどこかに息子の落ち度があったのではないかと余分な不安まで抱えてしまったんです。説明やちゃんとした情報をもらえていたなら、余分な不安、余分な不信感を持たずにすむわけです。だから、私たちにとって情報、事実を知るのはとても大事なことなんです。それがたとえ被害者にとって不利なことであろうが、悪いことであろうが、知らなければいけないんです。その大切さも言っていきたいと思います。

 そして、私たちが調べるにはやはり限りがあったので、結局、民事裁判を起こすしかありませんでした。民事裁判の時効は、皆さん御存じのように3年なんです。3年間は我慢したんです。なぜかと言うと、事実を知るためにお金を出さなければ、費用をかけなければ、殺された子どもの親なのに何も教えないというのはおかしいと思ったんです。では、お金のない人はどうするんだろうと思ったわけです。だから、それをずっと声を上げていました。でも3年という時効が過ぎてしまうとできなくなってしまうので、事実を知るため、責任をはっきりさせるため、そして国が罰を与えないのだったら刑罰の意味も含めてと、民事裁判を起こしたんです。それが、私たちにとって残された唯一の方法だったからです。

 2年5か月、民事裁判はかかりました。とても大変でした。原告になるわけです。そうしたら、被害者自身が調書を読み込んだりいろんなことを自分たちで調べたりして一つ一つを立証していかなければならないのです。とても大変です。もちろん、弁護士の先生にお願いしますので弁護士の先生も協力はしてくださいますが、民事裁判でそこまで細かくやってくださるというのはまだまだ少ないんです。私たちの場合、大阪弁護士会の桂先生に弁護をお願いしました。桂先生のおかげで途中から弁護団を組んでくださって、最後には10人の先生方にお世話になりました。とてもありがたく心強かったです。そのおかげもあって私たちは自分たちが望んでいたような民事裁判ができたのです。現在でも被害者支援をして下さる弁護士の先生が少なくまだまだ被害者は苦労しています。私は民事裁判を行っているときに何遍も思いました。刑事裁判をやってくれていたなら、私たちこんなことをしなくもすんだのではないかと思ったんです。刑事裁判をしっかりしてくれていたなら「私たちは民事裁判を起こしていないね」と、主人といつも話をしています。

 それほどなかったから、民事裁判でいろんなものをはっきりとしていかなければいけなかったんです。2年5か月、とても苦労でした。そして、反省のない加害者の姿を見るのもとてもしんどいことでした。私は、それなりの態度で来るだろうと、「日ごろは楽しそうにしているのは構わない。仕方がない。でも、裁判所の中ではそれなりの態度で来るだろう」と思ったら、そんな態度は1回も見ることはありませんでした。軽い感じで来るんです。自分の頼んでいる弁護士さんと軽い感じで来ていました。何か人ごとのようにしているんです。

 そして、時には彼女らしき子を連れてきて、その彼女が居眠りをずっと傍聴席でしているんです。終わったら、ルンルンな感じで2人で帰っていくんです。その姿を見るたびに、とても悔しい思いでした。なぜこんな相手に殺されなければならなかったのかと思うと、息子がかわいそうでならなかったんです。必死な思いで闘いました。

 そして、加害者がこんなことを言うんです。周りにうちの子の友達がいたものですから、一方的な暴行というのは認めるんです。「武君は手を出していないね」と弁護士の先生が聞くと、「はい」と答えるんです。でも、その後に必ず言っていました。「あくまでもけんかだ」という主張は最後まで変わりませんでした。私はこのときに思いました。ちゃんと刑事裁判をしてくれていて、いろんな事実認定を一つひとつしてくれていたなら、ここまでは言わないのではないのか。「倒れた息子を介抱した、心臓マッサージを自分がした」と言うんです。でも、周りにいる子はだれも見ていないんです。K-1に行けるのではないかとデモンストレーションして、たばこを捨て投げつけていっているんです。なのに、それが心臓マッサージに変わっているわけです。私は、ここまでうそは言わないのではないかと、そのときも思ってしまいました。

 そして、2年5か月かかって、平成14年3月19日に判決をもらいました。加害少年1人とその両親に責任が認められ、約8,000万の判決をもらいました。朝刊(資料「新聞記事」参照[PDF:383KB])にもありましたように、月々振り込まれるんですが、そのお金と寄附を基に孝和基金というものをつくっています。また記事を読んでいただけたらありがたいです。

 少年犯罪の人はやはり民事裁判に頼ることが多いんです。だから、その費用の一部に使ってもらいたいと思って、基金をつくったんです。やはりお金がないと起こせないんです。いろんな費用がかかってしまいます。

 そして、もう一つは約8,000万と出たとしても、払われない現状があるんです。うちの場合は基金にしているということもあって公にしているので、一時金が60万、本人、父親、母親、3人で月々7万ずつ、今のところは基金に入金されています。でも、ほとんどの家族が支払われないんです。私はそういう現状も伝えたくて、やはり国の制度として基本計画案にもありますように、ちゃんと賠償金は保証する、そして、国が代わって、それを加害者側から回収するようになるまでこの孝和基金を頑張っていきたいと思います。

 少し飛ばしまして、家族の話をしたいと思います。私たち家族は事件をきっかけにすべてが変わりました。被害者の遺族と言うと、ひたすら加害者だけを憎んで生きているのではないかという想像をされます。もちろん、憎いです。私は一生憎みます。一生許さないと思います。なぜなら、息子の命は戻らないからです。その思いは持っています。

 でも、その前に自分を責めてしまうんです。うちの場合は子どもを失っているものですから、私は母親として自分を責め、主人は父親として自分を責めているんです。主人がいつもこんなことを言っていました。「けんかになりそうだったらまず謝れ、それでだめだったら逃げろ」と言っていました。「それでだめだったらどうするの」と聞く息子に、「2、3発殴られても死にはせぬ」と教えてきたんです。息子はそう教えてきたことを守って死んでいきました。昔はちゃんとルールがあったということでした。そう教えていた自分を主人は責めていました。

講演会 全体2

 そして、主人というのはものすごい思いがある人なんです。今でも敵討ちをしたいんです。もちろん敵討ちをしてはいけないのはわかっています。でも、敵討ちさえしてやれない情けない父親だということで、現在も自分を責めています。

 私は自分から産まれているから絶対救えると信じました。でも、その願いは届きませんでした。自分の力のなさ、親として何もできない、その苦しさで自分の育て方あるいは自分が教えてきたことは、間違っていたのではと思うようになったんです。夜中、1人泣きながら遺書を書いたこともありました。いろんなことが悲しみに変わったんです。

 うちの場合、なるべく夕食を5人で摂っていたんです。そのときに4人となるだけで苦しいんです。もう一人、お兄ちゃんがいないということだけで、心がものすごい思いになって苦しくなるわけです。そのときに何気なく下の子が「おいしいね」と言っても、それもまた苦しくなるんです。お兄ちゃんと何もかもが重なって、主人が苦しさの余り、食台を引っくり返したことも何回かあります。電化製品も何個か壊しました。壁や戸にもたくさん傷ができました。主人との口論も絶えませんでした。私は2人の子供のこともしてやらなければとわかっていても、2人の子どもの前で毎日泣いてばかりでした。

 あまりに泣いてばかりいる私に、当時中学1年だった娘が言いました。「お母ちゃんだけやない。私だってつらい。本当は学校だって行きたくない。」私はそれを言われたときに、実に情けない母親だと思いました。自分だけが現実の怖さに逃げることばかり考えていたんです。小学校3年の息子も中学1年の娘もとても苦しんでいたのでした。本当に子どもたちの方がしっかりしていたんです。

 その当時、ご飯をつくったり、いろいろなことをしてくれていたんですが、そんなに長くは続きませんでした。1年経たないころから、やはり家の中で怒りを出すようになったんです。子供たちも苦しんでいたのです。その当時、思いました。お母ちゃんは自分のことだけで精一杯なのに、何でこんなときに反抗期みたいなものを出すんだろうと、とても苦しかったんです。ものすごく大変でした。でも、あの当時、少しでも自分の気持ちを家の中で出せたことはよかったなと今は思っています。

 娘は24歳になりました。下の子はやっとこの前、成人式を迎えて二十歳になりました。元気にしています。下の子は10年ぐらいしたころから、やっと自然な形でお兄ちゃんの話ができるようになったんです。あのときお兄ちゃんはこうだったねとか、これ好きだったなとか、自然な形で出るようになりました。

 私は、会のことを時々愚痴るんです。やはり代表をしていると、いろんな大変なこともあって悩みも多いです。そんなときに、「もうお母ちゃんやめようかな」と愚痴をこぼすと下の子に言われます。「お母ちゃん、今更、何言っているの。始めたからには最後まで頑張り」と、お尻をたたかれるようになりました。

 こんなこともよく言います。親はお兄ちゃんのことですべてをさらけ出して、話をしてきました。これからも変わりません。でも思春期を迎える子どもたちにとったら、そんな親はとても大変だったようです。「あの当時、実はいろんな人が来て、自分は人間嫌いになっていたんだ」と下の子に言われるんです。「ごめんな」と、今ごろいろんな話ができるようになって本当によかったなと思っています。

 娘は24歳になっているんですが、11年経った今もお兄ちゃんのことも触れられないんです。当時、中学1年になって思春期だったということもあると思います。親を思う思いも強かったし、自分自身が抱える問題も多かったんだと思うんです。まだお兄ちゃんのことに触れられないんです。でも、私の会のことはしっかり遠くから見ているんです。あのときテレビに出ていた、新聞に出ていた、本もしっかり読んでいたりしたんです。よき理解者です。でも、まだまだ体も壊しますし、気持ちが不安定になったりすることもあります。まだまだ年数がかかると思います。当時、やはり子どもたちのことを思いやれなかった、余裕がなかったということが、それをつくっているんだと思います。いろんなことを闘いながら、4人で元気に頑張っています。

 なぜ私たち4人がこんなふうに日常生活が送れるようになったかというと、地域の人たちがとてもよかったんです。私たちを助けてくれたのは地域に住んでいる人たちでした。町内会、婦人会、PTAのお父さん、お母さん。お兄ちゃんはボーイスカウトに入っていたんです。下の子もボーイスカウトに入っていたんですが、ボーイスカウトの仲間、父兄、いろんな人たちに助けてもらいました。お通夜の準備とか、その後のご飯まで、いろんなことを助けてもらったんです。

 買い物1つ大変なんです。例えば、今まで魚を買うときは5匹でした。それが4匹になる。それだけで手が出ないんです。お兄ちゃんがいないと頭をよぎるだけで何もできないわけです。その時に、一緒に行ってくれる人がいるとつられて買えるわけです。普通の簡単な日常生活が人の力を借りないとできなくなっていました。ご飯をつくることもそうです。毎日、うちの家はだれかが来て「ご飯を食べた?」と聞きます。

 それで、「食べていない」、「あかんやろ」と、一緒にご飯をつくって食べたり、鍋でおかずを持ってきてくれたり、そんな簡単なことが人の力を借りないとできなくなっていました。本当にずっとお世話になったんです。ありがたかったと思っています。

 いろんな人がいたんです。話を聞いてくれる人、一緒に怒ってくれる人、今で言えば、被害者支援を本当に地域の人たちにしてもらったんです。警察に行くときには、一緒に行ってくれる人もいました。何か書類を書かないといけないというと、3家族ぐらい集まって一緒に悩んでくれました。そんなふうに支えてくれたんです。

 こんなこともありました。やはり遺族になると、何でも悪く思うんです。そうすると、周りがみんな悪いと思うんです。いつも来ている人は、普通にやりとりしているんですが、一歩そこに出ると、やはりパァーと散っていく人が多かったです。3人子どもがいると、顔見知りの人が多いのでそういう人がパァーと散っていくわけです。みんなひどい人だと思いました。いつも来ている人に愚痴を言ったんです。「ひどい人や。みんなひどい人やで。犯罪に遭ったからみんな関わりたくないんだ」と、すごい勢いで言ったんです。その人に言われました。「あんた、外を歩いているときにどんな顔して歩いているかわかるか。すごい顔して歩いている。そんな人に何て声をかけたらいいんや、心配している人もたくさんおるよ」と、「悪い人ばかりではないよ」と言われたんです。

 私は、そのことを言われなければ、今もきっと気がついていないと思います。確かに自分のことだけで精一杯なものですから悪く思うわけです。その事がずっと頭にあり少しずつ思い返して見たんです。いろいろな事に腹が立っていました。勿論、加害者に一番腹が立ち、国に腹が立ちました。法律制度に腹が立ち、そして目に映るものも腹が立ったんです。家の前に道があって、左に曲がると、いつものところに、いつものお店があって、いつものおじさんが座っているんです。いつもと変わらない光景に腹が立つんです。平和に見えるんです。うちの家は、もうお兄ちゃんは戻らないし、ものすごい状態なのに、何で一歩外に出ると平和なんだと思うと腹が立つんです。

 家の前に神社があって、木が枯れてもまた芽が出るんです。腹が立ちました。芽は出るんだ、ものすごく腹が立つんです。だからすごい顔をして歩いていたんだと思います。でも言われなければわかりませんでした。

 その人は、私が被害者の遺族になったから特別な扱いをするわけではなく、多分気を使ったと思います。「どうしていいかわからなかった」と、後で聞いたら言っていました。

 これからも地域で住んでいくのに、おかしいことをちゃんとおかしいと教えてくれて、その地域で住んでいきやすいように教えてくれたんだなと、気がついたときには、本当に涙が出ました。今でも、それを思うたびに涙が出ます。その人たちがいたおかげで今があるんだなと、私は思います。

 確かに被害者の支援はすごく難しくいろんな問題があります。被害者支援にはマニュアルがすごくあるんです。私はそのマニュアルを見ていると、こうしてはいけない、こう言ってはいけないというマニュアルがあったりして、それを見ていると、私でも難しく被害者支援はできないと思うんです。

 もちろん、マニュアルは大事です。でも、私はそうではないような気がするんです。よく聞かれます。「どんなことを求めますか。どんなことに気をつけたらいいですか」と聞かれることがあります。私は言います。「それは、人として言ってはいけないことは言ってはいけないし、してはいけないことはしてはいけない」私は、まずはその程度でいいよと言うんです。

 もちろん、それは軽い問題だと言っているわけではありません。ただ、一番私が怖いのは、被害者問題というのをあまり難しくしてほしくないということなんです。難しいとだれも近寄らないわけです。もう自分はいいと、だれかがするだろうとなってしまうものですから。でもだれでもできることがあるんです。特に今日は皆さん、関係者の方々、いろんなところで被害者に関わっておられる思います。もちろん大変だと思います。でも、人としてやはり、してはいけないこと、言ってはいけないこと、気持ちがあれば、被害者には私は伝わると思います。そんなふうに思います。

 もう一つあります。例えば、自分がもしこんな被害に遭ったらどうだろう、と被害者の人を前にしたときに思ってほしいんです。自分の大切な人がこういう目に遭ったらどうだろう、その時だけでいいんです。一瞬想像してほしいんです。それを私はしてほしいと思っています。

 時間ですが、権利のことを少し言いたいと思います。

 私は被害者の権利がなかったことでとても大変な思いをしました。被害者等基本法ができたときにも喜びました。犯罪被害者の尊厳をもった処遇をとか、「尊厳」という言葉がとてもうれしかったんです。

 でも、私は思いました。権利とか、そういう言葉というのはわがままと紙一重なんです。ですから、私はその権利が確立されると、とても怖いものだなと思っています。もちろん、これからも権利を確立するために言い続けます。でも、その権利を振りかざしてはいけないと思います。できることは精一杯自分でやります。被害者自身が自分でできることがまず必要なんです。それを助けてほしいわけです。でも、私たちが手に届かない法律や制度はしっかりつくってください。

 そして、できないことは、どうぞ助けてくださいということを言っています。私は、これから被害者の権利が確立されても、それを絶対振りかざしてはいけないと思っています。それはなぜかというと、私はこれからも被害者である前に一人の人間として人間らしく、そして3人のお母さんとして人間らしく前を見て堂々と生きていきたいからです。これからもできることを少しずつですが、頑張っていきたいと思います。

 今日は、本も持ってきているんです。昨日、実は、私の11年間が本になりました。昨日できたばかりなんです。『被害者だって笑うんです』。私はよく目標は何ですかと聞かれたときに、最近はこう言います。「被害者が地域で普通に生きていけるようになってほしい」ということを言っているんです。これは被害者も笑うようになってほしいという意味があるんですが、『被害者だって笑うんです』という本が出ました。これは産経新聞出版から出ています。1,500円するんです。よかったら読んでいただきたい本です。まずは、こういう本を読んで知っていただきたいと思います。それと会の手記集もずっと持ち歩いています。

 13家族の手記が出ています。私は「WiLL」もそうですが、この本も、言葉をつくらず、飾らず、そのままの言葉で書いています。よかったら読んでいただきたいです。『話を聞いてください』。これは1,470円です。

 『少年法を問い直す』という660円の本なんですが、これは私たちの会を支えてくれた、黒沼克史さんというフリーのライターの方の本です。「WiLL」で2年ほど紹介しているんですが、2年少し前になくなったんです。49歳でした。被害者支援を言われていないころ、私たちに関わってくださって、一生懸命に私たちの話に耳を傾けて下さいました。でもその当時は被害者に関わっているだけで何をしているんだ、加害者はどうなるんだと批判されたりしていました。でも、やはりおかしいことをおかしいと言う必要はあると共感してくださりやはりあるべき権利を訴えていくことは大切な事だと、陰で私たちの会を支えてくださった方です。苦労だけして亡くなったんです。私は命を縮めたんではないかと思っているぐらい、私の会の支えになってくださいました。

 その黒沼さんが『少年法を問い直す』という本を残してくださったんです。この本は、もう本屋さんに置いていないんです。うちの家には、まとめて作ってもらったのでたくさんあります。よかったら併せて読んでいただきたいと思います。

 今日は、本当に貴重な時間をいただいたと思っています。皆さんは、専門家です。私は専門家ではありません。ただ、事件に遭ったということだけで、話をする機会をいただけたことに、心から感謝します。

 これからも自分でできることは一生懸命して頑張っていきたいと思います。主人のことを少し言いたいと思います。時々心配されるんです。今ご主人はどうされていますかと。大丈夫です。今は暴れたりすることはなくなりました。陰の仕事を全部やってくれています。ホームページの事「WiLL」のときの資料づくり等は全部主人がしてくれています。いろいろな事を二人三脚で頑張っています。よかったら先ほども言いましたように、「WiLL」ものぞきに来てください。

 長い時間、本当にありがとうございました。


 被害者の人というのは、悪いことをしていないから、まず何でも自分が動かなくても守ってくれると思っているんです。ですから、自分からパンフレットを探したり、いろんな制度や法律ができても、自分から知ろうと最初から思う人はいないと思うんです。何でも守られる、しなくてもやってもらえると思うわけです。ですから、いろんな制度や法律ができたとしたら、それを教えてあげることが大事だと思うんです。時期を逃してできないことというのはたくさんあるんです。そういう悔しい思いをしている人がたくさん被害者の人でいるんです。ですから、1回だけでなく、いろんな場所で繰り返し、繰り返し教えることが大事だと思います。

 例えば、警察に不信感を持っていたら、警察には聞きません。そして、裁判所に不信感を持っていたら、裁判所には聞かないわけです。そうなると、民間団体になりますし、そして、これから市町村になると思うんです。いろんなところで繰り返し、こんな制度がある、こんな窓口があるということを、やはり度々教えていただきたいんです。そうしないと、みんなに届かないと思います。声を上げられる人は本当に少ないです。泣いている被害者の方がたくさんいます。ですから、よろしくお願いします。



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