沖縄大会:基調講演

「少年犯罪で息子を奪われた母の想い」

武 るり子(少年犯罪被害当事者の会代表)

 本日は、「犯罪被害者週間 沖縄大会」開催に当たってお祝い申し上げます、おめでとうございます。このような大きな大会に私を呼んでくださったことを心から感謝しています。今日は、一生懸命、話をしますのでどうぞよろしくお願いいたします。

 今日は、私が話をする前に、私たちの会でつくっていますDVDの映像を先に少しだけ見てもらいたいと思います。お願いします。

<DVD上映>

 ありがとうございました。今、見てもらいました映像ですけれども、私たちの会が1年に1回だけ集まりをしています。今の映像はそのときの最初に流していますプロローグです。

 なぜ、私がこのWiLLという集会をしたいなと思ったかといいますと、社会で大きく扱われた事件であれば、事件から1年たちました、2年たちましたと思い出すことがあると思うのですね。私たちの会の人の事件は、みな、死亡事件です。内容は本当にひどい内容です。でも、ほとんどが地域で起きる普通の事件として扱われます。そういう事件というのは地方であればどんな扱いかというと、新聞に1回載るか載らないかです。新しい事件が起こると、古い事件としてすっかり忘れられてしまうのです。

 私は思ったのです。そんな忘れられた子供たちを年1回でいいから主役にしたいと思ったのです。その子たちのために過ごしたいと思って、つくったのがこのWiLLという集会です。

 本当に何かを伝えたいとか、いろいろな想いを詰めてWiLLを毎年やっています。私の息子は今から22年前になります。少年犯罪で命を奪われました。私は22年前、日本中を探しました。私のような遺族が集まるところがないか、話をするところがないか、探したのです。でもなかったです。だったら、私は同じ想いの人を探そうと思って、一生懸命、探したんです。1年かかりました。そして、ようやく知り合ったのが4家族だったのです。最初知り合ったのは沖縄の石垣島の2軒の人です。今日、会場に来ています。それと、岡山の人が1軒、うちが大阪です。4軒の人が知り合ったのです。それで、「じゃあ、一回、話をしよう」と集まったのです。会をつくろうなんて発想はなかったです。とにかく同じ想いの人と話がしたい、自分で見つけて集まろうと思ったんです。

 そして、大阪で集まりました。一生懸命、話をしました。そうしたら気が付いたことがあったのです。親の想いも似ていました。だけれども、扱いが似ているんだ、というのに気が付いたのです。みんながばらばらに住んでいるので、自分だけがひどい扱いを受けていると思っていたのですが、共通することがどうも多いね、ということに気が付いたのです。それが少年法のことでした。

 当時は、少年法は改正になっていなかったので、加害者の名前を私たちは教えてもらえなかったのです。事件の内容も一切教えてはくれなかったです。意見も言えない、被害者の事は、何も考えられていなかったのです。法律のことを私たちは詳しく知らないので、その少年法がすごい壁になっているというのを4家族が集まって、そこで確認したわけです。

 私たちは専門家ではない。法律の勉強をしたわけではない。だけれども、自分たちの経験を話せるね、ということになって、必要に迫られて会をつくったのです。それが少年犯罪被害当事者の会です。そして、私が連絡をとっていたので、自然とうちが事務局になって、私が代表になりました。事務局といっても、家の中でやっています。会の電話と家の電話を分けているだけの事務局です。今も同じです。

 会を作りましたが、何をしていいか分かりませんでした。見本がなかったからです。そんなときに、私たちが知り合ったのが大学生の学生さんだったのです。いろいろなところに会の電話番号を載せてもらったんです。オープンにしました。それから、ホームページを立ち上げました。今は珍しくないですが、当時はとても珍しくて、それだけでニュースになったのです。そのニュースを見たり何か記事を見たり、どこかで目にした大学生さんから私のところに電話が入るようになりました。最初の子は、グループの代表の子でした。電話が掛かってきて、一生懸命、私の話を聞いてくれました。最後にその子が「武さん、武さんの話をもっと詳しく聞きたいです。行ってもいいですか」と言ったのです。私が遺族だからすごく気をつかっているのが分かりました。「武さん、話を聞きたいけれども、もしかしたら失礼なことを言うかもしれない。傷つけることがあるかもしれない。でも、話を聞きたいです」と言ったのです。もう一つ言われました。「興味半分と思ったら、武さんが大変な思いをする。でも、行きたいです」と言ったんです。私と主人は最初からこう言ったんです。「興味半分でもかまわないよ。入口はなんでもかまわないから、話を聞きに来て」と来てもらったのです。

 私たち二人はこう思ったのです。“興味”という言葉だけをとるとすごく悪く聞こえます。でも、興味も関心も何も感じないほうが悲しいと思ったので、なんでも入口はよかったのです。最初の子はグループでうちに来ました。10人くらいでやってきたんですね。一生懸命、話を聞いてくれたんです。時には涙を流してくれました。そして、その一生懸命さにつられて、私たち夫婦は何時間も話をしたのです。帰る前に、私はこんなことを言いました、「外国には遺族が集まる場所がたくさんあるのに、日本にはまだない。何かをしたいな」と。そうしたら、その中の一人の子がこう言ったのです、「武さん、武さんたちがしたいと思うこと、自分たちはできることは手伝います」と。そのたった一言に後押しをされて、怖さも知らず、手探りで始めたのがこのWiLLという集会なんです。

 1回目から学生さんたちとつくっています。今年で20回目を迎えました。20年続けてきたんですね。続けられてきたのは、その手伝ってくれる若い人たちがいるからできているのです。毎年3、40人、今年は50人くらいの学生が来て手伝ってくれました。何カ月も前からの準備から、そして当日の進行、片付けまで、全てを学生さんがやってくれているのです。一度、見に来てもらいたいです。沖縄は遠いです。だけれども、大体10月の体育の日を挟んで、連休の日曜にしますので、観光を兼ねて来ていただきたいなと思います。

 これからもそうやって、できることを手伝ってくれる若い人がいる限り、続けていけるかなと。できる限り、続けたいなと今思っています。その中には、大学生はもちろん、中学生のときから関わっている子もいれば、高校生から関わっている子、いろいろな子たちがいます。その後、社会人になっても今でも続けて来てくれている子たちもいます。社会人になってもやっぱりWiLLに来たときは学生スタッフなんですね。そんな学生さんたちのおかげで、ここまで続けてこられています。よかったら、旅行を兼ねて見に来てもらいたいです。

 もちろん、私たちの話も聞いてもらいたいです。専門家の人にも来てもらってディスカッションをしますので、それも聞いてもらいたいです。だけれども、私は、黒子に徹して私たちの殺された子供たちのために一生懸命動いている、この学生さんたちの姿を見に来てもらいたいのです。

 私はいつも思います。“被害者支援”という言葉が最近では言われるようになりました。いろいろなところで聞くようになりました。「ああ、難しいな」と考えると思うのです。確かに法律が関わったり、制度が関わったり、難しいことがあります。でも、私は誰にでもできることがあると思うのです。この学生さんの姿が原点だと思うのですね。できることをできる人がしてくれているのです。それもできる限り、長く関わってくれているのです。被害者支援とはこういうことではないかなと私はいつも思っています。この子たちと一緒に何年続けられるか分かりませんが、頑張っていきたいなと思っています。

 私は現在も少年犯罪被害当事者の会の代表をしています。今ではこうやっていろいろなところに出掛けていって話をするようになりました。時には、法務省、警察庁、国会の中の法務委員会、いろいろなところに出掛けて行くようになりました。どうしてもそういう公の場所に行くと、行く前からいろいろなところに名前が書かれるのです。会の名前が書かれて、代表、武るり子と書かれます。それだけですごいイメージを持たれてしまいます。今でも「武さんって活動家ですか」「今までも活動していたんですか」と聞かれますが、私は活動家でも活動していたわけでもないです。専業主婦なんですね。専業主婦といっても、実はこうやって人前に出るのはとっても苦手です。怖いです。すごい引っ込み思案なんです。子供の頃から発表は苦手だったし、大人になっても変わりませんでした。

 そんな私が、苦手なことなのに、なぜこの22年間ずっと続けてきたかというと、まず22年前の社会は、私たちのような犯罪被害者のことを全く考えてはいなかったです。法律、制度が守ってくれると思いました。それが何一つなかったのです。あるべきものがなさすぎて、声をあげざるを得なかったです。それから、もう一つ、やはり大切な息子のことだったから、苦手なことでも多分続けてこられたのだなと、それも思っています。

 私と主人は、事件と分かったときに声を上げたんです。主人が事件と分かった直後に、私にすぐこう言いました。「もうこんなことがあってはいけない」と。とにかく殺される理由なく、ある日突然事件に遭って殺されているわけです。「こんなことがあってはいけない。言っていこう」と言ったのです。そして、「俺たちは、もう人権もプライバシーもないぞ。全部をさらけ出そう。それでないと想いは伝わらないから、その覚悟はあるか。見せ物パンダになろう」と言ったのです。私もそういう想いがあったので、そのときに覚悟を決めて「はい」と答えて、この22年間、全てをさらけ出して、話をし続けてきました。多分これからも変わらないです。

 そうやって、すごい決心をして、さらけ出そうと思って声を上げましたが、当時はその声はどこも拾ってはくれなかったです。門前払いだったのです。マスコミにも、自分で「こういう事件がありました」と流しましたが、相手にはしてもらえなかったのです。あとで分かったことは、うちの事件は特殊性、話題性がある事件ではなかったし、社会的に大きな影響力があるような事件ではなかった、ということも大きな理由だったようです。もう一つは、こんなことを言われました。当時は「少年犯罪の被害者のことを取り上げるのは難しい」と、はっきり言われたのです。

 どこにも相手にされなかったのです。でも、私と主人は諦めませんでした。ずっと言い続けたんです。そこで決めていたことはありました。「ルールは守ろう」と決めたんです。とにかく加害者のようになってはいけないということを二人で言い合い、ルールは守って、例えば東京に行ったとしても、そこのルールを守って、ちゃんと手を挙げて指してもらったときだけ話をするということを続けてきたのです。

 初めは、ここだったら言えると思って行っても、話ができなくて帰ったことも何回もあります。でも、二人でルールを守って頑張ろう、ずっと言い続けようと頑張ってきて、今、考えると良かったと思います。なぜなら、この22年間で社会が変わったからです。私たちのような犯罪被害者の人たちの声を聞きたい、そういう場所が増えました。それから、法律ができました。犯罪被害者等基本法--私は本当に良かったと思います。それから制度が変わったり、私たちに関わる少年法、当時は、二人で頑張っていたのですが、色々な人に言われました。「武さん、無駄だよ。法律、特に少年法は動かないよ。いくら頑張っても無駄だよ」と言われたんですが、ルールを守りながら、最初は二人で頑張って、会ができてから会の人、応援してくれる人たちと頑張ったら4回変わったのですね。今、5回目に向かっています。

 ああ、あれだけ悔しい思い、歯がゆい思いをしたけれども、ルールを守りながら頑張り続けて、諦めずに良かったと、今思っています。

 でも、もう一つ思うことがあります。当時、こんなふうに社会がもっと被害者のことに理解があったり、法律、制度が私たちを守ってくれたなら、私たち家族はもっと違ったんじゃないかというのは思っています。もう地獄のような日々だと毎日思っていたので、あれほど地獄を感じなくて済んだんじゃないかと思うので、とても悔しい思いは抱えています。だから、私はこうやって話をできるということがとてもありがたいです。とても感謝の思いです。

 これから家族の話をするのですが、私の話は聞いている皆さんにとっては、とても重たいです。しんどい話です。でも、一生懸命、家族の話を少ししたいと思います。よろしくお願いします。

 その前にもう一つ、私は事件に遭ってびっくりしたことがあったんです。「偏見があるんだ」と分かったのです。まず、いろいろなことを言われるのです。どんなことかというと、「ああ、それなりの生活をしていたから事件にあったんや」「どうせ、被害者も同じような、そんな悪いことをしていたんやろう」と言われるのです。偏見がすごくあるんです。特に、私たちの場合は、加害者が少年です。先ほど紹介しましたように、子供たちが被害に遭っていることが多いのです。少年同士となると、簡単です。「ああ、喧嘩や」と言われるのです。今でこそ気を付けてくれますが、新聞に載るのは「喧嘩」でした。22年前、そのあともそうでしたが、ほとんどの人が「喧嘩」って報道されたままなんです。それがどれほどつらいことかというと、先ほど紹介した子供たちに、なんの落ち度もないのです。殺される理由なんかないんです。それだけでも理不尽です、なのに、その上、報道が「喧嘩」となると、殺された子供がかわいそうでならないのです。名誉まで傷つけられているって思うので、かわいそうでならないんです。だけれども、そういうことは一切考えられていなかったです。

 私は聞いたことがありました。「これは喧嘩ではないんですよ。なぜ、喧嘩という表現をするんですか」と言うと、当時、簡単に言われました。「一方的でもリンチでも集団暴行でも、喧嘩であっても、全部引っくるめて“喧嘩”という表現を使うんです」と。何も考えられていなかったのです。そして、いろいろな人が声を上げ続けて、報道の人たちも少しずつ変わってはきていると思います。でも、今でも少年同士の事件になると、やっぱり仲間同士だったとか、被害者もどうのこうのとか言われることが多いんです。これからも報道は、間違わないでほしいということも言いたいし、もし間違ったなら、そのあとの報道をきちんとしていただきたいということを言い続けていきたいなと思います。

 これからは情報社会です。今でも情報社会なんですが、もっともっと情報社会になると思うのです。だから、私はいつも思います。新聞、テレビを見たとき、それを鵜呑みにするのではなくて、これは正しいものなのかどうなのか、しっかり考える力、見る力をみんなが持ってもらいたいのです。噂も同じです。これはいじめ問題につながると思うのですが、例えば、噂が流れてきます。怖いことは、間違っていても強い声に流されるんです。自分が標的にならないように、自分がいじめに遭わないように、間違っていても強い声にのっかってしまうのです。そうなると、弱い者が標的になって、いじめに遭うということになるわけです。だから、噂が流れてきても、情報が流れてきても、一人ひとりが見る目を持つことが大事だと思います。考える力を子供のときからつけてほしいなと思います。これは教育の問題だと思うので、またディスカッションのときにも話をしたいなと思っています。

 今から、うちの家族を例に挙げながら、話をしたいと思います。被害者がたくさんいます。そして、被害者の家族がたくさんいると思います。もちろん共通するところもありますが、やはり違うところもあるので、一つの例として聞いてもらえたらありがたいです。

 私の息子は、今から22年前の16歳のときに同じ16歳の見知らぬ少年たちに因縁をつけられ、何度も謝っているにもかかわらず、追い掛けられ、一方的な暴行で殺されました。

 私は自分の息子がまさかこんなことで親より先に死んでしまうなど、思ってもみませんでした。それまで多くなっている少年犯罪のニュースを見ていても「かわいそうやな」とか、「大変そうやな」とか、人ごととしてしか考えていなかったのです。そんな我が家に、突然、事件が降りかかりました。

 私は1955年、主人は1948年、同じ鹿児島で生まれました。そのあと別々に引っ越しをしていて、大阪の西淀川区というところで知り合い、1976年、私が21歳、主人が28歳のときに結婚しました。現在、私は63歳になりました。結婚して1年あまりで妊娠しましたが、10カ月間、お腹の中で育った子供は死産でした。私はそのときのショックでなかなか次の子供を産む気になれませんでした。でも、ようやく産む決心をして、生まれてきたのが事件に遭った長男、孝和でした。1980年10月のことでした。待ちに待ってできた子供でした。心の底から幸せやなって、本当に実感できた誕生でした。主人もうれしさのあまり、雨の中を泣きながら田舎のおばあちゃんに連絡したと聞いています。そのあと、私たちは1984年に長女が生まれ、1987年に次男が生まれ、3人の子供に恵まれました。

 長女が生まれた頃、独立したばかりの内装業の仕事で生活はとっても苦しくて、食べたいものも食べられないこともありましたが、3人の子供たちの成長を楽しみに頑張りました。その頃は二間のお風呂のない長屋に住んでいました。狭い部屋なので、家具は最小限にしていました。子供のベッドも手づくりで、飯台や棚、ほとんど主人がつくったものでした。その中で一つ、部屋に似合わない立派なものがありました。それはビデオのセットでした。ビデオカメラもありました。長男が1歳のとき買ったものでした。今から37、8年前のことです。今は珍しくないですが、その頃、まだまだ持っている人は少なかったです。主人が息子の思い出を残したいという強い思いで買ったものでした。

 買ったことにもう一つ、理由がありました。息子が生後11カ月の頃、血友病と分かったからでした。普段でも子煩悩な主人でしたから、より思いが強かったのだと思います。息子は病気を一つ持っていたのですね。血友病という病気は血が固まりにくい病気です。でも、軽症だったので、普通の子と同じようには育てられたのです。でも、やっぱり病気を一つ持っているということがあったので、自分で体を守らないといけないとか、命の話とか、そういう話は息子と他の人よりもよくしていたのです。だから、息子は自分の命の大切さも人の命の大切さもよく分かっている子供だったのです。そんな息子の命を突然、一方的に暴行で奪われたのです。

 相手は息子と同じ16歳で、全く面識のない見ず知らずの少年たちでした。その日は高校1年生だった息子の高校の文化祭でした。いつも朝寝坊の息子が自分で起きて、慌ただしく着替えをして、朝御飯も食べずに「行ってくる」と、2階の部屋を覗き込んで楽しそうに出掛けていったのでした。それまで子供たちの行事には必ず参加していた私たちでしたから、主人は文化祭に行こうと思って準備をしていました。でも、私は、親が来るのを恥ずかしがる年頃だったのと、高校生になりほっとしていたので、「少し距離を置いてみようよ」と文化祭を見に行かなかったのです。このことは自分を責める材料となりました。

 私たちの会の人は、ほとんどが子供を失っているのですが、自分より先に子供を死なせてしまった親というのは、たとえ事件であっても、たとえ加害者がいたとしても、まず自分を責めるのです。ほとんどの人がそうです。我が家もそうでした。私は、もういろいろなことを遡っては、小さいことを思い出しても、あのときこんなことを言ったからじゃないかとか、こんなことをしたからじゃないかとか、全部、自分が悪かったと思ったのです。当時は、私が産んだからじゃないかって、そこまで遡って自分を責め続けました。とにかく、自分たちを責めることから私たちは始まってしまうのです。

 私はその当時、夜中、泣きながら遺書を書いたこともあったんです。主人は、やはり自分を責めていたのがあとで分かりました。最初の頃は自分のことだけで精いっぱいなので分かりませんでしたが、だんだん分かっていきました。主人は、思いの強い、深い人です。とにかく敵討ちをしたいのです。もちろん敵討ちをしてはいけないと分かっています。でも敵討ちさえしてやれない情けない父親だということで、ずっと責め続けていました。そんなふうに、親は子供を、特に私たちの場合、事件ですが、こうやって失った場合、まず自分を責め続けて、ずっと生き続けることは、本当につらいことです。だから、私たちのような思いは絶対させてはいけないです。それにはやはり犯罪が起きない地域づくり、社会づくりが大事です。

 それから、もう一つは、芽が摘めるときに摘んでもらいたいのです。少年犯罪というのは、自分の住んでいる地域で起こすことが多いです。そして、小さなことから始めることが多いのです。突然、死亡事件を起こしている子は、私たちの会に限って言えばほとんどいないです。私たちの事件の加害者、ほとんどが前があります。万引きをしていたり、いじめをしていたり、それから怪我を負わせていたり、いろいろなことの延長上に死亡事件を起こしているのです。だから、前の段階でちゃんと芽を摘んでいてくれさえいれば、私たちの事件は起きなかったんじゃないかと思うことがあって、とても悔しい思いをするのです。

 うちの息子の加害者も、あとで分かったのですが、6人グループでした。日頃から悪いことをしていたんです。バイクを盗んで乗り回していたり、小さい子からお金を巻き上げていたり、そして中学校のときには他の中学校に喧嘩を売りに行って、喧嘩になったりしているんです。いろいろなことを起こしているんですが、分かったことは一回も警察に捕まっていなかったんです。

 私は、地域の人に情報集めをして聞いたんです。「警察の人は知らないんですか」と聞くと「知っていますよ」と言ったんだけれども、捕まってはいなかったのです。私は警察の人に聞きました、「なぜ、前の段階で捕まえてくださらなかったんですか」と言うと、「大目に見たんだ」と言われたんです。分かります、少年犯罪は大目に見ていいこともあると思います。若いから、ちょっとした気持ちでやったとか、それは理解できます。だけれども、大目に見るからには指導が大事だと思うのです。指導をしていたかは分からないです。

 それから、何回も何回も悪いことを繰り返していたら、やっぱりちゃんと警察が捕まえて、調査、捜査をして、誰にどれだけの責任があるんだよ、ということを事実認定して教えるべきだと思うのです。それが処分だったり、それが刑罰だったりすると思うのです。そういうことがされてはいませんでした。だから、悔しかったです。私はやはり少年犯罪というのは芽が摘めるときに摘んでもらいたいと思います。

 それには地域の連携、学校との連携、そして警察、行政、いろいろなところが連携して、信頼関係を結びながら、情報集めをしながら、芽を摘んでいただきたいのです。例えば、地域に何か悪いことをしている子がいたら「こういう子を見ました」と言って、これはどこが関わるのがいいのか、どんな芽の摘み方がいいのか、話し合っていただきたいのです。そんなふうに、やはり小さい芽のときに摘んで、凶悪犯罪を生まないようにしてもらいたいです。もう戻らない子供たちの命、そして、自分を責め続けて、ずっと生きなければいけない親、とても悲しく苦しいことです。

 しっかりとした連携をお願いしたいと思います。

 また、話を戻します。

 その日、私たちは下2人の子供と4人で買い物へ行き、主人は息子のためにMDのコンポを買いました。家に帰って、そのコンポの線を楽しそうに主人がつないでいた3時半ごろのことでした。いつも仲良くしている高校の友達から電話があったんです。「自転車でこけて、鼻血を出している。言っていることがおかしいので迎えに来てほしい」と言うのです。私たちは慌てて家を出ました。少しくらいのことでは電話してこないと思ったのと、息子は先ほども言いましたように病気を一つ持っていたこともありました。車で10分くらいで現場近くの友人宅に迎えに行くと、息子はボーッとして、ふらふらしていましたが、自分で歩き、手を貸そうとしても「大丈夫や」と自分で車に乗るほどでした。でも、頭が痛い、気分が悪いというので、とにかくかかりつけの病院へ急ぎました。そして、病院に着くと、息子は車も自分で降りて、私が「名前は? 生年月日は?」と聞くと、ちゃんと答えたんです。ところが、診察室に入ってからは状態が悪くなり、CTスキャンを撮る頃には、もう話等できない状態でした。

 診察室に入ったとき、「今日、約束あるから行くで」と言うので、私が「なに言っているの」といつもの調子で交わしたのが最後の言葉になってしまいました。それは初めてできたガールフレンドとの約束のことでした。いったん落ち着いたのですが、その後、状態が悪くなって手術をしました。手術が終わったあと、お医者さんは「成功しました」と告げたものの、息子の様子は変わり果てていました。頭には包帯、たくさんの管や機械を付けられ、人工呼吸器も付けられていました。心臓だけが動いていて、触ってもピクリとも反応しなくなっていたのです。ほとんど脳死に近い状態でした。

 私は息子が仲のよかった中学時代の友達やそのお母さんたちに、すぐ電話を入れました。息子の容体が悪いので祈ってほしいとみんなにお願いしたんです。みんなで祈れば、それがエネルギーとなって息子に届くと信じていたのです。そのあと、みんな、病院へ来てくれました。そして、振替休日だった担任の先生にも連絡を入れました。その先生が当日一緒にいた高校の友達に連絡を入れてくれたのです。

 事件の2日後、初めて、息子の容体にびっくりした高校の友達が10数人で病院に来ました。すると、その友達は「すみませんでした。自転車でこけたというのは嘘でした。本当は他校の生徒に殴られたんです」とすまなそうに言うのです。私は主人と一緒に事情を聞きました。「なぜ、嘘ついたん?」と聞くと「仕返しが怖かったから」と小さな声で答えました。泣いている子もいました。でも、早く本当のことを言ってくれていれば、何かが変わっていたかもしれないと悔しくて、怒りが込み上げました。でも、子供たちを責めることはしませんでした。とにかく相手がプロレスラーみたいに大きくて、年上だと思ったし、本当に怖かったということでした。

 事件と分かり、わけが分からない状態の中で何もできない私は、息子の命が助かることだけを祈るしかなかったです。主人は、そんな中、私に負担を掛けないように警察との対応を全てしてくれていました。

 まず、主人は学校の先生と被害届を出しに行くことになりました。そのとき、夕方、5時を過ぎていたので、学校の先生が「今日出すのも明日出すのも同じだと警察が言っていた」と言うのです。そのとき、息子はほとんど脳死に近い状態だったので、命が関わっている事件なのにすぐに動いてくれないのかと、怒りが込み上げました。でも、その怒りを警察にぶつけることはしませんでした。被害者側は弱い立場にあります。ちゃんと調べてもらわないといけないと思ったし、悪い心証を与えてはいけないと思ったのです。

 警察となると、やはり敷居が高かったです。それまで私は関わると言えば、自転車を盗まれたときくらいでした。だから、とても聞きにくかったし、当時は特に少年法が壁になっていたので、何回も何回も事件の内容を教えてほしいと言ったなら悪い心証だけ与えてしまう、もっとひどい扱いを受けるのではないかと、何でも遠慮したんです。だから、今は良かったです。いろいろな人が声を上げて、警察の中にも被害者のための窓口ができました。

 今振り返ると、そういう窓口が当時あったなら、私たちはもっと心強かったと思うのです。あれだけの疎外感も味わわなかったのではないかなと思っています。だから、本当に窓口ができて良かったと思います。今は、例えば大阪であれば大阪府、大阪市、そして民間支援団体、警察の中にも、もちろん被害者のための窓口があります。いろいろなところにできて良かったなと思うのですが、私は心配性なので、とても心配なことがあります。その窓口の担当の方がちゃんと対応してくださるだろうかと心配をするんです。やはり「当たった人が悪かったね」ということがあるからです。だから、窓口の人だけはちゃんと意識を持って対応してほしいなと思います。

 せめて、まずしっかり話を聞いてもらいたいのです。私たち遺族は、突然、事件に遭うわけです。混乱状態になるわけです。窓口に行くときに、ちゃんと箇条書きに書いていろいろなことをメモしながら行く人は少ないと思うのです。だから、話がこっちに行ったり、あっちに行ったり、同じことを繰り返したりすると思うのですが、まずしっかり最後まで聞いていただきたいんです。そして、聞いたあと、一緒に整理をしていただきたいんです。それだけできっと被害者の人、遺族の人は心強いと思うからです。まずは、しっかり最後まで話を聞く--話を切らないことが大事です。もし、被害者から話を聞いて、「ああ、この事はできないことだな」と思ったとしても、最後までしっかり話を聞いて、それから整理をして頂きたいのです。「このことは出来ます。でもこれについては出来ないです。」というように。そして、出来ないことは、「こういう窓口がありますよ」と教えて、ちゃんとバトンタッチをしていただきたいのです。バトンタッチというか、そういう連携が大事だと思うのです。そんな窓口になってほしいなと思います。

 たまに、今でも「ああ、当たった人が悪かったね。違う窓口で今度相談しましょう」ということがあるので、そういうことがない窓口になってほしいなと願っています。

 私たち家族は、当時、少年法の壁がすごく厚くて、加害者の名前も事件の内容も教えてもらえませんでした。当事者なのに、親なのに、何も教えてもらえない。それだけで社会から追放されたような、すごい思いを抱えたんです。国に絶望しました。法律は何も被害者のことを守ってくれない、制度もない、相談窓口もない。そういうことで、国に対して絶望を味わったのです。だから、その感情、いろいろな思いが、うちの場合は家の中で出ました。

 主人は、当時、朝昼晩お酒を飲むようになり、飲んでは大きな声も出していました。私との口論も絶えなかったです。私は、泣き叫ぶような毎日でした。お互い自分を責め、絶望、疎外感はあるし、すごくたまらない思いがありました。でも、そんな状態でも夫婦で出掛けては行くんです。必死に調べて、ここに行って、話をしよう、この窓口だったら聞いてもらえるかもと、そういうことは二人でしました。でも家の中は、ひどい状態でした。

 下に子供がいたのでしっかりしなければいけないと分かっていました。中学生、小学生の子が妹弟にいましたので、御飯もつくらないといけない、学校の行事も行かないといけないなど、いろいろなことがありました。ちゃんとしないといけないと分かっていましたが、力は出なかったです。

 まずできなかったことは、御飯がつくれませんでした。私は息子が御飯を食べられないから、一生、私はおいしいものは食べてはいけないと思ったんです。だから、御飯を食べるということに、何か罪悪感があったんです。すごく力を入れて生きていました。そして、そういう私を見る子供たちは大変だったと思うんです。でも、しないといけないから、何らかはしていたと思うんですが、ちゃんとはできなかったのです。そんなときに助けてくれたのが地域の人でした。私は、地域の人に「助けてほしい」と言ったんです。うちの家は、もう壊れると思ったんです。だから、私は、地域にも自分をさらけ出しました。今までは地域でさらけ出すことなんかしていないです。家の中の悪いことは絶対外に漏れてほしくなかったし、悪いことはあまり言いたくなかったですが、もう隠し切れないほど、うちの家はひどかったので、もういいと思って、「うちの家、大変や。助けて」と言ったんです。だから、入ってきてくれる人がたくさんいたんです。御飯をつくってくれたり、鍋でおかずをもってきてくれたり、その人たちが来たおかげで、私たちは一緒に御飯を食べられたのです。

 人が来て、うちの家に上がって御飯をつくると、あかん、私もしないとあかんと思えたんです。つられてできたんです。その人たちと一緒だと、罪悪感もちょっと横に置いて食べられたんです。そんなふうに、我が家は日常生活がまずできませんでした。買い物もできなかったです。例えば、買い物に行って、魚を買うと、今まで5匹で、それが4匹になるんです。頭にその4匹というのがよぎるだけで、「お兄ちゃんがいない」と思うと、手が出ないんです。そこに一緒に行ってくれる人がいると、つられて買えたりしました。行けないときには買ってきてくれたりしたんです。

 そんなふうに、まず日常生活--皆さんが普通に行っている、朝起きて、朝御飯をつくって食べて学校に行って、会社に行って、毎日の日常生活がありますけれども、それが全くできなくなってしまいました。犯罪被害で突然、大切な人を失うということは、そういうことなんです。生きる力をなくすのです。日常生活を送る力をなくしてしまうんです。だから、直後からの支援が大事なのです。

 地域の人たちに専門家はいませんでした。誰も法律のことは分かりませんでした。経験した人もいなかったです。でも、その人たちに助けてもらったんです。だから、私はいつも思うのです。遺族同士で分かりあえることもたくさんあります。だけれども、違うこともたくさんあるのです。だから、「遺族同士でないと被害者同士は慰め合えない」ということをよく聞きますが、そうではないと思っています。もちろん、遺族同士で分かりあえることもあるけれども、分かりあえない部分もあるんです。反対に言えば、私のように近所に住んでいる人には、分からない部分ももちろんあります、でも、分かりあえる部分もたくさんあったのです。

 私たちは犯罪被害者支援がまだない中、そうやって近くにいる地域の人たちがいたことで助けられたのです。だから、専門家でなくても、何かできることはあります。私は中学生や高校生に話をするのですが、いつも言うことがあります。困っている人がいたら「大丈夫ですか」と言える人になってくださいと言います。私たちのように大きな事件でなくてもいいんです。困っている人がいるときに、子供のときから「大丈夫?」と言える人になってほしい。そして、もし自分が困っていたら、「助けてほしい」「困っています」と言える人にもなってもらいたいのです。我慢をしなくていいよ、困ったときには言っていいよ、ということも必ず言うようにしています。

 それから、何かをしてもらったときに、必ず感謝をしようということも言っています。「ありがとう」、それは大事だよということを言っています。私は、この22年間活動してきて、本当にいろいろな人に助けてもらって今があると思います。あれだけ地獄のような日々を送った家族ですが、何とか穏やかに過ごしています。それには、たくさんの人の理解が必要でした。そして、たくさんの人の力が必要だったんです。その人たちのおかげで、私は何とか、今日もここにいることができると思っています。

 今までを振り返って大事なことを3つくらい挙げるとすると、絶対正しいと思うことは諦めないこと、そして一生懸命頑張ること、そのときにはルールを守ることが大事でした。そして、もう一つはちゃんと感謝をすること、それを忘れてはいけないなと今思っています。

 そんな思いを忘れないように、これからも頑張っていきたいなと思っています。今日は、私の話は、しんどい話、重たい話だったと思います。こうやってたくさんの方たちが聞いてくださったこと、心から感謝をします。今日も私は、こわごわ来ました。違う場所に来るのは怖いし、聞いてもらえるかな、話できるかなって、恐る恐る来ましたが、皆さんがこうやって聞いてくださったあとは、私は、勇気をいただきます。あ、聞いてもらえた、もう一回、次も、頑張れるかもしれないと勇気をいただきます。

 本当に今日は貴重な時間、ありがとうございました。

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