佐賀大会:基調講演

「子どもの安全を守る ~悲劇を繰り返さないために~」

本郷 紀宏(平成13 年大阪教育大学附属池田小学校児童殺傷事件被害者御遺族)

 皆さんこんにちは。本郷紀宏と申します。今52 歳です。皆様におかれましては、平素より被害者支援活動に御尽力いただき、厚く御礼申し上げます。

 佐賀県を訪れるのは2回目となります。思い出もたくさんある、大切な場所の一つです。今日は、この「犯罪被害者週間 佐賀大会」の場でお話しさせていただく機会を頂き、うれしく思います。

 被害者支援には、被害者の方々への様々な向き合い方、寄り添い方があるかと思います。私にとって何より支援となるのは、私たちが経験したような悲劇を、二度と起こさせない安全な社会づくりにつなげていただくことです。

 これより約1時間、子供の安全、学校・地域の安全をテーマにお話をさせていただきます。

 私の家族は16 年前、未曽有の犯罪事件、附属池田小児童殺傷事件に遭いました。

 池田小事件の概要を簡単に説明します。2001 年(平成13 年)6月8日、2時間目の授業が終わりに近づいた、午前10 時過ぎに起きた5分間ほどの出来事です。

 閑静な住宅街の中にある、大阪教育大学附属池田小学校に、包丁を持った男が侵入。男は持っていた包丁を振り回しながら、校舎1階にある教室に侵入し、幼い2年生、1年生の児童を次々と切り付けました。結果、8名の児童の尊い命が奪われ、13 名の児童と2名の教員が重軽傷を負うという悲劇が起きました。

 逮捕された男は、殺人等の罪で起訴されましたが、裁判では遺族の感情を逆なでするような暴言を繰り返すに終始し、最後まで反省や謝罪の言葉はありませんでした。そしてその後、死刑判決が確定し、2004 年9月に刑が執行されました。

 犯罪史上類を見ないこの痛ましい事件は、社会全体に衝撃を与えるとともに、学校の安全神話を一挙に崩壊させました。

 そのような事件の中、私の家族は当時7歳で小学2年生だった最愛の娘、優希を永遠に失いました。自らの生きる意味も希望も見失いましたが、周りの方々の温かい支援にも恵まれ、今も悲しみと苦しみを抱えたままではありますが、社会生活を取り戻すことができるようになりました。

 私は安全に関する専門家ではありません。一市民であり、一保護者、普通の親に過ぎません。しかし、悲しい経験から学んだこと、感じたことをお伝えし、悲劇を繰り返さないために、危険な事件から子供たちを守るために、今何をしなければならないのかを、皆さんと一緒に考える時間を持ちたいと思います。

 娘のことを少し話させていただきます。平成6年3月1日、娘は幸せになるために生まれました。本当なら今23 歳です。娘の名前は、優しく、未来に希望を持ち、明るく健やかに生きていけることを願い、優しいの"優"と、希望の"希"で、優希と名付けました。

 優希は困っている人を見ると、誰に言われなくてもさっと助けに飛び出していったり、家族の誕生日には一生懸命誕生日ケーキを作ってくれたり、眠った私に、起こさないようにそっとタオルケットを掛けてくれたり、とても心優しい娘に成長していました。いつも明るく笑顔いっぱいで、休日には一緒によく近くの公園に遊びに行き、ボール遊びやバドミントン、一輪車に夢中になってはしゃいでいました。得意なことはピアノと新体操。

 学校が大好きで、附属池田小に実習に来ていた、教育実習生のお兄さんお姉さんに憧れ、小学校では教生の先生と呼んでいたのですけれども、その実習生とのお別れ会では、何日も前から送る歌と踊りを練習し、当日は別れの寂しさに号泣していました。そのときの感動を受け、将来は先生になることを夢見ていました。そんな娘でした。

 私は、「我が子はいつでもどんなことが起きても守ってやる。何か起きたときは、必ずそばについていてあげられる」そう信じていました。「私と娘はつながっていて、何かが起こる前には必ず気付き、決して娘を傷つけさせはしない」そんな根拠のない自信さえ持っていました。娘の安全に、何の疑い、不安もない、危機意識のない、安心しきった日々を過ごしていました。娘が永遠に私の前からいなくなってしまうことなど、絶対にあり得ないことでした。

 テレビで幼い子供が山の中で迷子になり、数日後に無事救助されたといった報道に接したときに、娘に言って聞かせたことがあります。「何があっても、絶対に諦めてはいけないよ。何かあったときは、必ずそばにいてあげる。諦めさえしなければ、必ずパパが助けてあげるから大丈夫。だから何があっても絶対に諦めないこと」。あの言葉は何だったのか、私は自分の無力さに怒りを覚えるとともに、娘を救ってやれなかった罪の意識を持ち続けています。それは、これからも変わることはありません。

 今から16 年前、2001 年(平成13 年)6月8日金曜日。本当にいつもと変わらない朝でした。優希は毎日楽しみにしているテレビの占いで、自分のうお座の運勢が一番だったと大喜びしながら、元気いっぱいに「行ってきます」と声を響かせ、学校へ飛び出していきました。

 私はいつものように家の窓を開け、「気を付けて。給食、残さず食べてね」と声を掛け、優希がマンションのエレベータに乗り込み、エレベータ内から繰り返す、何度も繰り返す、「バイバイ」という声が聞こえなくなるまで見送り続けました。そして私も、仕事へと家を出ました。ずっとずっと、いつまでも続いていくものと思い込んでいた当たり前の幸せが、数時間後に突然消えうせてしまうことなど、全く頭に思い浮かぶことはありませんでした。

 午前10 時10 分過ぎに事件が起こりました。娘の優希は、授業が少し早く終わり、少し早い休み時間になった教室で、他の4人のお友達と折り紙などをして遊んでいました。そこへ、犯人の元死刑囚が教室に侵入し、惨劇が始まりました。

 何度も振り下ろされた凶器による傷は、娘の小さな体を貫通していました。警察からは当初、「お嬢さんは即死でした」という報告を受けていました。そのときは、「苦しまなかったのが、せめてもの救いかもしれない」と、無理やり自分自身を納得させていたのですが、現場検証の後で知らされた現実は耐え難く、辛く苦しいものでした。

 優希は、教室でお友達が次々と襲われる中で、黒板の隅に追い詰められ、致命傷を負いながら懸命に廊下に逃れ、校舎の出口に向かって必死に逃げる途中で力尽き、倒れた、ということでした。妻の歩幅で68 歩。距離にして39 メートル。教室から廊下には、よろめき、蛇行しながら壁やロッカーにぶつかり、途中倒れて起き上がり、最後まで諦めなかった娘の血の跡が続いていました。警察の担当医の方が、「信じられない。あれだけの傷を負いながら、どうしてここまでたどり着けたのか」と驚かれた距離を、優希は必死の思いで歩き続けていました。

 警察への通報を急いだとされる教員は、血だまりに倒れ、苦しみの声を上げていた娘に気付き、自分のクラスの子ではないと分かったそうですが、救助することなく、娘のすぐ横を走り抜け、わずか数メートル先の事務所に駆け込み、ドアを閉めました。中には職員が数名いましたが、娘がひん死の状態で倒れていることを誰にも伝えなかったため、優希はその場に一人放置状態となり、犯人が確保された後、ようやく駆け付けた他の先生に手を握っていただきながら、息を引き取ることとなりました。

 安全であるはずの学校で殺人者に襲われ、抵抗することもできず、何度も凶器を振り下ろされたときの恐怖、絶望、痛み。生きよう生きようと助けを求め、懸命に頑張りながら意識が薄れていく中で、娘の脳裏にどんな思いが思い浮かんだのか。助けに来る私の姿をどんなに思い浮かべただろうか。「パパ、ママ、助けて」何度心の中で叫んだだろうか。優希に何という思いをさせてしまったのか。

 私は、事件の前兆に気付いてやれませんでした。娘のクラスメイトの保護者からの電話で、娘の通う附属池田小学校に包丁を持った男が乱入して生徒を襲っているということを携帯電話で聞き、半信半疑ながら、仕事で比較的学校の近くを車で走っていた私は、事件発生から早い段階で学校へ駆け付けることができました。

 現場は騒然とし、上空には数機の報道ヘリコプターが爆音を轟かせ飛び回り、グラウンドに逃げてくる子供たちの姿や表情から、大変なことが起こっていることはすぐに分かりました。

 妻は既に学校に到着しており、「優希の姿が見付からない!」と半狂乱の中、事件を知り駆け付けたほかの保護者に支えられ、グラウンドの隅にへたり込んでいました。私は、「大丈夫。優希を必ず捜してくるから」と妻を残し、その場を離れました。

 現場は目を背けたくなるような様相でした。所々にできた大きな血だまり。体が真っ白になり、人工呼吸や心臓マッサージを受けている子供。飛び交う怒号。サイレンの音。負傷者を運んだであろう、血のべっとりと付いた長机。散乱する、血に染まったガーゼやタオル。恐怖で人形のように凍り付いた眼で、膝を抱え込んでいる子供たち。

 「優希は。本郷優希は!」目についた先生方、救急隊員、警察官、子供たちに、優希を見なかったか尋ね回りました。ただただ、無事でいてほしいと祈りながら、娘の姿を捜しました。

 その後、校庭に避難し集まっていたクラスメイトの一人から、優希が被害に遭った、刺されたことを知らされ、がく然としました。「違う。何かの間違いであってくれ!」すぐに優希のもとへと気が焦りましたが、現場の混乱のため、娘の居場所は誰も把握していませんでした。「自分で捜し出すしかない。早くそばにいてやらなければ!」そう思い、搬送されたであろう病院に向かい、学校を飛び出しました。優希を学校に残したまま。

 病院への搬送は、助かる見込みのある子供たちが優先であり、既に息絶えていた優希は「助からなかった子」として、誰にもついてもらうことなく、学校内に止められた、動き出すことのない救急車の中で横たえられていました。

 そのようなことを知る由もない私は、携帯電話で両親、友人、地元の青年会議所メンバーにも協力を頼みながら、近くの病院に車を飛ばしたのですが、娘は収容されていないとのことで、私はすぐに別の救命救急病院に車を走らせました。

 その途中、母から私の携帯電話に連絡が入りました。母は近くの池田市立池田病院に向かい、負傷者が搬送されてくるたびに、「本郷はいませんか」と確認していたところ、偶然のぞき込んだ救急隊員のメモに、片仮名で小さく「ホンゴウ」とあったのを見つけたのです。娘が市立病院に運ばれたことを知り、私は車のライトを点灯し、邪魔になる車にはクラクションを鳴らし、よけてもらい、急いで病院へと向かいました。

 病院に着き、対応してくれた看護師さんは、「とにかく待ってほしい」と繰り返すばかりでした。そのとき優希は、私たちに会わせる前に傷ついた体をきれいにしてあげようという病院の皆さんの心遣いで、あの惨事の犠牲になったとは思えないほどにきれいにしていただきました。その処置に時間が掛かったため、優希になかなか会うことができませんでした。妻と母に会い、ひっそりと静まり返る個室に案内され、優希が深い傷を負っていることを感じ取りました。息のつまるような中、無言のまま病院側の説明を待ち続けました。

 その後、一人の医師が部屋に入ってきて、私だけ別室に呼ばれ、優希の死を告げられました。そのとき私の口から発せられた、人間の壊れる音が、耳から離れません。

 ようやく優希に会えたときには、正午を回っていました。私は現場の学校で娘の姿を求め、優希の乗せられた救急車の後ろを何度も通り過ぎていたのに、すぐ近くにいる娘を感じてやれませんでした。その場で優希をすぐに抱きしめてやれなかった。自分の愚かさを知るとともに、はっきりと分かったことがあります。「どんなに我が子を愛していようが、どんなにいつも心に掛けていようが、それだけでは決して子供の命、安全は守れない」ということを。

 こんな現実、受け入れることはできない。なぜこのような事件が起こってしまったのか。なぜあそこまでの惨劇を許してしまったのか。問題点はなかったのか。犯人だけが原因だったのか。子供たちを守ってやることは、本当にできなかったのか。たった一人の犯罪者のために、たった一本の凶器のために、優希を含め8人の幼い尊い命が奪われ、15 人もの負傷者が出たことは、防ぎようのない、単なる運が悪かったということで片付けられてしまうことなのか。

 優希を失い、意識も気持ちも、人間性もボロボロに破壊されてしまいましたが、でもそこで崩れてしまうわけにはいきませんでした。そのときの優希の身に起きた全てを知っておいてやらないと、亡くなった優希に語り掛けてやれない、優希の気持ちに寄り添ってやれないと思い、警察署、消防署、病院、学校、子供たちが助けを求めて駆け込んだ学校前のスーパーなどへ足を運び、話を聞かせていただいたり、現場にいた子供たちの話を、その保護者の方から教えていただいたりしながら、できる限りの情報を集め、事件の状況、事件の真相を探し求めました。

 そうすると、いろいろなことが明らかになってきました。事件当時、学校は校門が開放されていました。当然のごとく、警備員の配置、監視カメラの設置など、何もなされていませんでした。学校に入ってくる侵入者、犯人を確認していませんでした。先生が犯人とすれ違っても、声掛けはありませんでした。犯人は殺意に満ち、興奮状態にあり、出刃包丁と文化包丁の入った緑色のビニール袋を手にしていました。

 避難誘導が不適切でした。犯人が教室に侵入し、次々と子供たちが被害に遭うのを目の当たりにした先生は、犯人と小さな子供たちを残し、教室を飛び出しました。先生のいなくなった教室で、抵抗できない幼い子供たちは、次々と被害に遭うこととなりました。また、その先生が警察への通報へ掛かり切りになり、子供たちが被害に遭っていることをほかの教職員に知らせなかったため、致命傷を負った子供たちは、20 分から30 分間放置状態となりました。

 警察、救急への連絡が遅れました。救急への第一報は、小学校の先生からでも警察からでもなく、重傷を負った子供が助けを求めて駆け込んだ、学校前のスーパーの店員からの通報でした。また、学校現場から救急への連絡は十分に詳細が伝わっておらず、早く到着した救急車はたった1台。負傷した子供を治療できる医師は、1人しか乗っていませんでした。

 指示系統がなく、情報が混乱していました。情報伝達がなく、負傷した子供の確認すらできていませんでした。救護が遅れました。救命活動の遅れが、多くの犠牲者を生んでしまいました。過去にも同様の事件があり、行政から学校の安全管理の通達がありましたが、職員会議で紹介したのみで通知への対応もなく、校長が代わっても引継ぎもなく、学校の危機管理意識、安全管理意識が欠如していました。国、行政の管理監督者は、通知を周知したにとどまり、実施状況を点検していませんでした。学校安全の法律もなく、責任所在が曖昧で、真実、問題点が追求・究明されず、真の再発防止策が成立しにくい状況にありました。

 あの事件には予兆があり、既に警告は発せられていました。事件に先立つこと1年半、京都市伏見区の小学校で、運動場にいた2年生の児童が、侵入者の刃物によって殺傷されるという痛ましい事件が起きていました。この事件を受けて、国から全国の教育委員会、都道府県知事、附属学校を置く国立大学長に向けて、児童の安全確保、学校の安全管理を再点検し、必要な措置・方策を講じるよう通知がなされていました。しかし学校は、この事件や事件を受けての通達を、児童に迫りくる危機があることを告げる緊急警報として読み取ることなく、外部からの侵入者に対する備えがなされていませんでした。

 犯人の元死刑囚が公判で言った言葉が忘れられません。「門が閉まっていたら、乗り越えてまで入ろうとは思わなかった」。校門を閉めておく、たったそれだけのことさえなされていれば、子供たちの命が奪われずに済んだかと思うと悔しくてなりません。

 不審者を校内に入れない。敷地内に入れない。これは安全地帯である学校安全の基本です。校門を開放するなら、子供たちを守る施策を考えるべきですし、「開かれた学校を目指すのだから校門は開けておくのだ」というのは、それは違うのではないかと思います。開かれた学校とは、校門が開かれた学校のことを指すのではありません。安全への取り組み方は様々かもしれませんが、子供たちを守るために、それぞれの地域、学校に合ったハードとソフトの両面から真剣に考えることが急務だと思います。

 事件後、二度と惨劇を繰り返さないために、附属池田小では17 項目にわたる改善点が検討されました。参考までに列挙しますと、「1.侵入可能箇所の日常点検。通用門等の管理。2.職員室からの視認性。3.来校者証、ID カード等の着用。4.来校者への声掛け。5.学校独自のマニュアル。授業中のものと、授業時間外のもの。6.侵入時の教職員の役割分担。被害の全容把握。混乱時での児童の把握。7.警察、消防署等との連携。救護と通報。児童搬送時の情報確認。8.第一報の方法決定。緊急通報訓練。9.校内巡視。10.避難訓練。教職員のみのものと、児童を含めたもの。危険告知と避難指示。被害者を想定したもの。11.止血法、救命救急法の研修。12.護身術の研修。13.心のケアの研修。14.緊急連絡網。15.教員養成教育カリキュラム。16.PTSD の理解。17.地域等との連携体制」です。

 必死に探し求め、たどり着いた事件の真相は、学校の安全管理の不十分さ、危機意識の希薄さを明らかにするとともに、どうしようもない残酷な、人間の弱さを表しだしました。ふだん先生方は子供たちを大切に思い、不測の事態が起きたときには、自分が盾となり、命を懸けても子供たちを守ってやろうと、子供たちを守ってあげようと考えてくださっていたことでしょう。しかし、実際に事件が発生し、極限状態に陥ったときに取った行動は、備わってきたはずの思いとはかけ離れたものとなりました。

 犯人は、1人でも多くの児童を奪おうと凶行を起こしました。目の前で、子供たちが刃物によって次々と犠牲になっていけば、先生方がたとえマニュアルを熟読し、意識していても、冷静に対処することは余りにも難しいことでしょう。もちろん、子供たちだけではなく、先生方への被害も防がなければなりません。分かってはいるのですけれども、私にとって、愛する我が子の命が失われていく様子は、誰にもぶつけようのない、やりきれない、終わりのない苦しみとなり続けています。

 事件の大混乱の中、情報が集約されず、的確な行動がとれなかったのは学校だけではありません。警察も、救急も、行政も、保護者も同じです。「子供たちを守りたい」という気持ちだけでは守り切れない。事件の突き付けた真実です。犯人に犯行を起こせる状況、条件を与えてしまうと、被害を防ぎきれません。犯罪の機会を与えないための予防策が必要です。不幸にして被害に遭ってしまっても、最小限に抑えることができるよう、日頃の意識の持ち方、備えが大切になってくるのは、必然だと思います。

 事件後、附属池田小は校舎を改築。死角を作らず、目が行き届くように透明ガラスを増やしました。監視カメラは10 台。現在12 台。非常ボタン、校舎内に314 か所。屋外に18 か所。フェンスの高さも、従来の倍近い約3メートルにして、侵入感知センサーを設置。附属の中高と共用する正門に詰所を設け、警備員を常駐させて、正門で来客をチェックし、敷地内を見回り、不審者の侵入や異常に目を光らせています。

 事件が起きる前に、繰り返し起こっていた学校事件に対して危機意識を持ち、現状を把握し、対策を採り、安全管理を徹底していれば、事件は防げたのではないか。被害の拡大は防げたのではないか。その思いが今なお残ります。

 附属池田小事件後も、世間では学校が狙われる事件が繰り返し起こり続けています。附属池田小事件の教訓が生かされていないことは残念です。事件の一部を紹介します。2003 年12 月に起こった京都府宇治市の小学校児童傷害事件では、包丁を持った男が1年生の教室を襲い、男児2人が切り付けられ負傷しました。門が開放されたままで、防犯カメラを設置していてもチェックする者もおらず、感知センサーも「音がうるさい」と切っていました。「自分の学校が襲われるとは夢にも思わなかった」。繰り返される言葉に憤りを感じます。

 2004 年5月には、京都市の中学校で不審者侵入事件が起こりました。酔った男が2階の廊下を歩いているところを、授業中の教諭が見つけ中庭まで誘導し、通報で駆け付けた警察によって逮捕されたのですが、そのときの教頭先生のコメントです。「男の誘導や通報など、教員が分担して対応に当たった。危機管理としてはうまくいったのではないか」とありました。果たしてそうでしょうか。この事件では、幸いにも被害者が出ませんでしたが、この男が明確な殺意を持って教室内に乱入していたとすれば。不審者を何のチェックもなく校内に侵入させ、確認していなかった段階で、子供たちの命の保証はありません。

 2005 年2月、大阪府寝屋川市の小学校で、刃物を持って学校敷地内に侵入した男に対応した男性教諭が、刺されて死亡するという痛ましい事件が起こりました。この事件を受けて、文部科学省は同年3月、校門を原則施錠とする学校の安全対策をより強化した指針を、全国の教育委員会に通知しています。

 2006 年11 月、鹿児島市の保育園に、カッターナイフを持った男が侵入しました。幸い、園児や保育士にけがはありませんでした。

 2008 年7月、愛知県の中学校で、クラブ活動の練習を監督していた男性教諭が、構内に侵入してきた男に刺され重傷を負いました。

 2009 年2月、東大阪市の中学校で、正門付近から学校に入ろうとした少年と、その場に居合わせた男性教諭2人がもみ合いになり、1人の男性教諭が少年の取り出した包丁で切られ、軽傷を負いました。東大阪市市内の全小学校では、校門をオートロック化するなど警備を強化していましたが、中学校ではこうした措置は取られていませんでした。

 2011 年6月、愛知県一宮市の小学校の敷地内に、包丁を持った男が侵入しているのを教諭が見つけ、警察に通報し、逮捕されました。当時校門は、登校してくる児童のために開けていて、20 分後には児童が登校してくるところでした。犯人に気付くのが遅ければ、悲惨な結果を招いていたかもしれません。

 2013 年1月、福島県南相馬市の高校の3階の教室に男が侵入し、生徒6人が鈍器で殴られ、うち2人が病院に搬送されました。

 2014 年5月、石川県金沢市で、運動会中の小学校に刃物を持った男が侵入して、児童を襲いました。幸いにも保護者らに取り押さえられ、駆け付けた警察に現行犯逮捕されました。

 2014 年6月、東京都練馬区の小学校の正門前で、下校中の1年生の男児3人が、男に刃物で切り付けられけがをしました。その場に居合わせた学童誘導員の男性が、誘導旗を手に犯人に立ち向かい、被害拡大を防ぎました。

 今年の3月、大分県宇佐市の保育園に男が侵入。サバイバルナイフを振り回し、子供1人と女性2人がけがを負いました。

 今もって繰り返される学校災害事件。大きな事件が起きるたびに、国、行政から通達が出されるものの、依然として改善されない現状を悲しく思います。

 子供たちの安全を考えるに当たって、完璧なマニュアルは存在しません。それぞれの地域性や予算の問題など様々な問題があり、そこには難しさがあります。だからこそ、子供の安全を守る、強い決意と、知恵と、努力と、役割が求められます。学校現場には、最低限各学校に合った独自の危機管理マニュアルを作り、危機管理の徹底を図っていただきたいと思います。行政には、それぞれの学校、地域において、どこに危険が潜んでいるのかを検証し、危険が感じられるようであれば予算を組み、ノウハウを伴う指導をするとともに、速やかに具体的な対策を取っていただきたい。

 かけがえのない子供たちの安全な環境づくりは、何よりも優先していただきたいと思います。学校、地域の安全は、地域の皆さんの協力が必要です。住民意識の温度差、結びつきの濃淡で地域の性格は大きく違ってくるのは確かです。地域住民一人一人が、子供たちの安全、学校、地域の安全に意識を持つことが大切だと思います。設備や施設だけでは、子供たちの命は守れない。近隣との連帯感を高め、地域の目で見守っていくことも大切です。また、地域安全ボランティアの方々との親交も大切です。

 大きな事件が起きた直後は、幼い子供を持つ保護者、学校関係者、地域の皆さん、行政の皆さん、警察の皆さん、誰もが「子供が襲われるかもしれない」という危機意識を共有します。ところが残念なことに、時がたつにつれて、そういった意識も希薄になってしまうように感じます。事件を風化させることなく、悲しい出来事から学んだ教訓を生かしていかなければなりません。どんなに強く願っても、自分の命を差し出しても、失われた命は戻りません。

 理不尽、不条理な形で、幼い命を奪われる子供たち。傷つき、悲しみと怒りのために人間性を破壊され、暗闇に落ちていく親たち。そんな姿はもう見たくありません。そのような思いは、私たちだけでたくさんです。危機意識のアンテナをさび付かせることなく、子供たちの安全に真剣に取り組み、それぞれの地域や学校に合った独自の施策を考え、具体的な行動に移していくことが、必ずや安全な地域づくりにつながります。

 皆さんとともに、大人の責任として高い危機管理意識のもと、二度と惨劇を繰り返すことのない、未来ある子供たちが安心して生きていける、安全で明るい社会づくりに向け、歩んでいけることを心から願います。

 さて、安全対策に至らない点はたくさんありましたが、何をおいても、あの事件の元凶は、かけがえのない大切な命を奪い去った犯人の犯罪です。犯人は、自分勝手な欲望を満たすために、何の罪もない、抵抗もできない子供たちに刃物を向け、未来を奪い去りました。犯人が死刑になったからといって、何の償いにもなりません。奪われた大切な命は戻らない。

 犯人のしたことは、たとえ事件後に犯人が心を入れ替え、後悔し、反省し、謝ったとしても許されることではありません。奪われた大切な子供たちの命は、犯人が人の心を取り戻すための踏み台ではないのです。そして、愛する者を失ってしまった家族や友人、関係者に深く刻まれた傷は、永遠に癒えることはありません。苦しみや悲しみは、永久に続くのです。

 犯した罪の重さから、犯人自身も社会から生きていくことを許されず、大切な命を失うこととなりました。余りにも嘆かわしく、愚かです。あのような犯罪者をこの世に生み出してはいけない。犯人の元死刑囚は、モンスターではなく、実在した人間です。決して、決して許しはしませんが、生み出された背景は社会全体の問題です。幼い頃の犯人に、親が、また学校、地域が、愛情を持って心育てをしていれば、事件を防げたのかもしれません。

 子供は「あなたは大切な存在」と、1人でも感じさせてくれる誰かがいれば変わる。そんな社会が、子供を守ることにもつながります。

 残念ながら、この世の中には間違いなくひどい大人がいます。許されない親もいます。幼い頃からずっと、ずっと傷つけられてきた、命の尊さなど感じない、誰にも伝えられず、そんな思いを抱えながら生きている子供もいるでしょう。他人はもちろん、自分自身も大切にできない子供もいるでしょう。私たちは、そんな子供たちに気付いてやらなければなりません。子供たちの言動に向き合い、気持ちに耳を傾けなければなりません。子供たちを見守る中で、それぞれの立場から、命の大切さを次の世代に伝えられる立派な人間に成長するよう、導いていただきたいと思います。

 少し、附属池田小の近況に触れさせていただきます。ここ数年、安全な教育環境づくりが進む附属池田小学校に、事件当時小学生として在籍していた学生さんたちが、大学生、また社会人となり、それぞれの思いを乗り越えて、子供たちに命の大切さ、重さを伝えられる先生になりたいと、教育実習生として訪れています。事件と同じことが起きたら、気持ちが負けてしまうのではないか。との学生さんの思いに、事件当時から在籍されている先生は、「守るべきものができたら、必ず乗り越えられる」と話されているそうです。

 それぞれ、深い心の傷を負いながらも、一生懸命未来へと歩んでいる、優希の先輩、同期の友達、後輩、そして先生方の志を、心から応援したいと思います。未来に向け、命を守る心、命を大切にする心が、受け継がれていくことを願います。

 今、附属池田小学校敷地内の旧正門前近くには、事件後全国から寄せられた義援金を基に、8名の児童の名前が刻まれた「祈りと誓いの塔」が建立されています。毎年6月8日には、「祈りと誓いの集い」が開催され、犠牲になった児童の冥福を祈り、安全な学校づくりを誓い、優希たちの願いとともに、塔の8つの鐘が鳴らされています。

 一つ、エピソードをお伝えします。優希は4歳からピアノを習い始め、自宅近くのピアノ教室に通い、発表会を楽しみにしていました。候補曲6曲から、弾むようなマーチの「剣士の入場」という曲を、「これがいい」と自分で選び、新しい楽譜を胸に、スキップで帰ってきました。事件に遭う3日前のことです。

 優希が大好きだった1年生のときの担任の先生は、4月から他の小学校に転勤していたのですが、発表会のことを聞き、優希の代わりに弾かせてほしいと言ってきてくださいました。発表会で、先生は優希の順番だった4番目に登場。プログラムにない特別演奏で、「剣士の入場、本郷優希ちゃんです」とのアナウンスを受け、ピアノを弾きました。終了と同時に、約150 人の客席から拍手が沸き、全員で黙とうをささげてくれました。

 先生は演奏後、「甘えん坊の一方で愛嬌のあった優希ちゃんがまだそばにいるようで、1人で弾いている気がしなかった」と、思いを語られていました。私には、一緒に演奏している優希と、演奏後先生をうれしそうに見上げ、笑顔で寄り添っている優希の姿がはっきりと見えていました。先生の暖かいお気持ちに、感謝の思いで胸が熱くなりました。

 最後に、優希が小学1年生の終わりに、将来の夢について残している一文を紹介して、私の話を終わりとさせていただきます。

 「大きくなったら、教生の先生になりたい。なぜかというと、思い出がたくさんできるし、楽しいから。 1年南組31 番 本郷優希」

 以上で私の話を終わらせていただきます。皆様の、これからのますますの御活躍を祈っています。御清聴ありがとうございました。

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