中央イベント:パネルディスカッション

「家族を失うということ」

コーディネーター:
堀河 昌子(認定特定非営利活動法人大阪被害者支援アドボカシーセンター代表理事、認定特定非営利活動法人全国被害者支援ネットワーク支援活動検討委員会委員長)

パネリスト:
佐藤 咲子(公益社団法人被害者支援都民センター 自助グループメンバー)[講演録]
渡邉 佳子(公益社団法人ふくしま被害者支援センター 支援員、少年犯罪被害当事者の会 会員)[講演録]
北口 忠(殺人被害者遺族の会「宙の会」幹事)[講演録]

堀河: ただいまご紹介をいただきました堀河でございます。本日の進行役を務めさせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします。はじめに、私の方からこのパネルディスカッションの趣意についてご説明をさせていただきます。

12月1日は、平成16年に制定された犯罪被害者等基本法によって、初めて犯罪被害者の権利が認められた記念すべき日です。翌平成17年に閣議決定された犯罪被害者等基本計画の中で、11月25日から12月1日までの1週間が「犯罪被害者週間」と位置付けられました。それによって、国民の一人ひとりが被害者の現状を正しく理解し、被害者の皆様が1日も早く平穏な日常生活を取り戻されるよう、被害者支援の輪につながることを目的としています。

今日御登壇いただきます皆様は、理不尽な犯罪によって愛する家族を失われた皆様です。御遺族にとって事件を振り返り、御自身の体験をお話しいただくことは、何年経っても大変な苦痛や困難を伴います。そのお話を聞かせていただく私たちが、二次被害を与えることなく、支え、寄り添うには何ができるかを一緒に考えていきたいと思います。御登壇いただきました佐藤咲子さん、渡邉佳子さん、北口忠さんには、心から敬意を表し、感謝申し上げます。

それでは、御着席順に自己紹介と御自身の体験をお話しいただきたいと思います。佐藤さんよろしくお願いいたします。

佐藤: 佐藤と申します。本日はよろしくお願いいたします。

最初の写真は、2011年3月11日の東日本大震災の時の津波の写真です。私は、もともと岩手県の出身です。これは、テレビでもよく流れた映像ですからご覧になった方もいるかと思いますが、岩手県宮古市での写真です。本日は、犯罪被害の話をいたしますが、震災で、両親・家族を失った震災孤児の姿が、五十年前の自分の姿の写し鏡となって映り、心を痛めております。被災地の方々は、強い絆で美しい故郷(ふるさと)を必ず立て直すと信じ、応援申し上げております。両親を、家族を、失うということには、犯罪被害であれ、天災であれ、病気であれ、変わりがないこと。今日、お話しさせていただくことが、何か参考になれば、うれしく思います。

では、私が未成年、15歳で遭遇した事件の概要をお話しいたします。昭和39年12月18日、岩手県川井村で事件は起きました。今年の12月で50年目になります。「エッ?50年前の遠い過去の事件ですか」と言わないでください。私は、犯罪被害者という、目に見えぬ重荷と悲しみを負い、心に傷を負って一生を生きるのだと思います。

家族構成は、両親と二つ違いの兄と私の四人家族でした。両親の父母は、既に四人とも他界して、おりませんでした。両親と兄以外は、肉親と呼べる者のいない状況でした。

この新聞記事は、犯人が犯行を自白した、という時の記事です。当時29歳だった加害者は、強盗目的で、計画的にテレビのケーブル線と電話線を切断し、寝静まったところに強盗に入ったようです。私も兄も、当時は通っている高校が家から遠かったことから下宿生活で、家には両親しかおりませんでした。ですので、事件の起きた状況については後から聞いたことになりますが、当時52歳の母は、物音に気づき、立ち上がって障子戸の前まで行ったところで胸を散弾銃で撃たれ、倒れていたそうです。また、当時54歳だった父は右耳が不自由だったことから、布団から上半身起きた状態で喉のほぼ中央を撃たれ、二人とも命を絶たれました。

私への連絡は、まず、高校の先生に入ったようです。私が、家に帰るようにと伝えられたときは、もう18日の午後になっていました。急ぎ戻った自宅の前の「立ち入り禁止」のロープを目にして、「事件だ」と直感し、私はその場に気を失って倒れてしまっていました。後からお医者さんを呼んで、注射をしてもらったと聞きましたが、そのことは全く記憶にありません。想像もつかぬ事件に遭遇し、感情も、思考能力も、理性も完全に麻痺し、自分すら失ってしまうのだと思います。

どれだけの時間が過ぎたか分かりませんが、「父さん!母さん!」と大きな声で叫びながら、兄が飛び込んできました。兄もその場で、両親が一度に殺害されたことを知ったのです。兄はその後、一言も話してくれませんでした。話せませんでした。

その後私は、着の身、着のまま、親戚の家で布団に横たわり、不安が頭いっぱいに広がり、でも、両親が「死んだ」ということは信じられませんでした。架空の物語の中に迷い込んでいる自分を見ているような、不思議な現象でした。声も出すことができず、「なぜ?なぜ?こんなことが起きたんだろう。嘘、嘘だよね。」と、同じことを何度も繰り返して思っていました。そして、「このまま、明日なんか来ないで、何でも良いから、この世の終わりが来て、すべて消えてしまったほうが良い。」と思いました。そして、一睡もできぬ夜を過ごしました。兄は、そばにずーっといて、強く手を握り締めてくれました。その手の強さを覚えています。

また、今でも、司法解剖を終えた両親の遺体と対面した状況が脳裡から離れません。「父さん、母さん」とすがって何度も呼び掛けましたが、答えてくれませんでした。ただ、その時両親の目と鼻から一筋「スー」と流れるのを見ました。物理的に当り前の現象かも知れませんが、両親の無念の涙と、兄と私への声無き最後のお別れの言葉として受け止めました。

犯人の自己欲望という不法暴力により、何一つ抵抗出来ず、限りある命を全うすることなく、又命を奪われた理由も分らぬまま、この世を去った両親の無念をどう表わしたら良いのでしょう。“血の出る叫び”が私の胸に突き刺さって参ります。「父さん、母さんの分まで長生きするからね」とその場で約束したのが、昨日のように思われます。15歳の私には精一杯のことでした。

私は高校在学時、苦しい時、悲しい時、両親を恋しく思う時、あの夜、一睡もせず握り続けてくれた兄の手の強さと温もりを励みに頑張れました。兄自身、運命を受け入れ、自分自身を喜ばすことなく、17歳の時より親代わりとして私を守ってくれました。兄の心の重責を思うと、兄の精神の強さを心より尊敬しています。

この写真は、お葬式の時の写真です。このとき、兄は学生服です。私は、祝いの席に着る、裾模様のある留袖を着せられています。この留袖を着せられた時の状況の言葉ですが、耳に今でも残っています。誰なのか分かりませんでしたが、「どうせ子どもなんだから良いのよ」という声とともに、この祝いの席に着る裾模様のある着物を着せられました。私は、頭が真っ白になり、声も出せず、大人の言いなりでした。守りの盾の両親を失うということは、こういうことなのかと、悲しさと悔しさを味わった瞬間でした。

葬儀は、あの時代、土葬でした。両親の棺が二つ並んでお墓に運ばれるシーンも、今でも私の脳裏から離れることはありません。凍った土を一握り一握り棺の上に掛け、お別れした時、両親の「死」を受け止めました。その時の私の心は、この世に不用な存在、生きる価値の無い者と投げ捨てられた気持ちになっていたので,笑うことができなくなりました。

その後、高校生活に戻りましたが、下宿屋で夜眠れず、学校で授業中眠っている。そして、一番辛かったのは、学校中の生徒の目が私を好奇な目で見ているように思えて、学校から逃げ出したい気持ちでいっぱいでした。高校生活が記憶からスポッと消えて思い出すことも出来ません。

未成年の兄と私に、本来両親がいなければ養育義務者になるであろう祖父母がいないことから、村の有力者の考えで、四親等の、当時29歳の従兄弟夫婦が私たちの未成年後見者に決まりました。この時代、犯罪被害遺族への支援も心のケアもなく、未成年の兄と私は置去りでした。

私の両親は、普通に、真面目な生活をしていた人です。父は、お寺から袈裟も許され、近所の法事の手伝いなどもしていた人でした。それが、殺人の被害に遭ったというだけで、「因果応報」というような言葉を掛けられたことがあります。この「殺人」、「因果応報」という言葉が頭から離れず、他人の前で両親のことも話せませんでした。他人の前どころか、兄とも、事件後、つい最近まで、両親のことを話したことがありません。話しても、何の解決も出てきませんし、お互い、泣くだけだろうと知っていたからだと思います。

私は、周りに迷惑をかけちゃいけない、普通にしていないといけないと必死でした。私は、自分が、心の傷を負っている、支援が必要だ、なんて気付いていませんでした。違和感を覚えるようになったのは、何か社会のお手伝いができたら良いと思って、統合失調症の方の支援員になるために勉強したところ、私の両親が殺害されたのは昭和39年でしたが、昭和30年代には、身体障害、精神障害、知的障害等、様々な障害を抱える弱者のための法律が成立していたことを知ったからです。

また、実際に支援活動を始めてからも、そのような支援の枠組みに該当するような方であれば、面倒をみてくれる両親がいるような方でも様々な支援があることを目の当たりにしましたが、殺人事件という特殊なケースで両親を失い、未成年で誰にも頼れなかった兄と私を守ってくれる法律はありませんでした。「なぜ?なぜなんだろう」という疑問に押し潰されそうでした。

では、私自身、その押し潰されそうな心の回復を始めることができた体験をお話しさせていただきます。

2005年に、私は、犯罪被害者の支援活動もやってみようと思って、被害者支援都民センターに行きました。ところが、センターの面接で、私の今までのことをお話したところ、他の被害者の支援どころではなく、私自身が、何も回復していないのではないか、「長年封印した心の悲しみを話すことで、佐藤さんの傷は癒されるんですよ」、と教えていただきました。

それで、月一回の自助グループに参加しました。泣けるという状態になったのは、最近のことです。私の心は本当に壊れていたんだ、SOSを発していたんだと、ようやく自分で気付いてあげられるようになりました。そして、今は、同じ心の傷を持った自助グループの仲間に励まされることで、回復しつつあるのだろうと思います。

画面で見ていただきたいのですが、お葉書です。被害者支援都民センターに通い始めた最初の12月18日、両親の命日に、「心の中の千の風を大切に。御両親の冥福をお祈り申し 上げます」。都民センターの支援員様と職員様から心温まるお言葉が届きました。また、次の写真は、365羽の折り鶴。これは、2009年に岩手の被害者支援センターで講演をさせていただいた際、センターの方に作っていただいたものです。「フクさん」とある母の分がピンクで、「正次郎さん」とある父の方は、水色です。「あなたのことを1年間、忘れたことはありません」と。私にではなく、両親に宛てたメッセージの折り鶴です。

被害に遭ったわけではないのに、このように被害者と同じ目線で心の傷を共有して、見守り、寄り添ってくださる全国の支援員の皆様がいるという安心感に、絶対溶けないと思っていた心の奥の冷たい塊が溶けていくのを感じております。支援センターの存在は、被害に遭った私には、本当に、死んでいた心が蘇った最大の癒しの場であります。

こうやって、自助グループや支援員の方に支えていただく一方で、元々私は、都民センターへは私が犯罪被害者の支援をするつもりで行きましたので、外部に向けての講演という場に御声掛けいただき、自分の体験を話すようにもなりました。ただ、2006年の時にはまだ、全国被害者支援ネットワーク主催のパネリストとして体験を話すということを、兄に話せませんでした。田舎で長年、因果応報の考え方に苦しんでいましたし、嬉しい、楽しいことを話すわけではないので、どうしても兄に話せませんでした。

ところが、2008年、宮城県支援センター主催の講演の時の様子を、毎日新聞社様が『遺族の心、理解して』と写真入りで掲載したことから、この記事を目にして、兄が私の講演活動を知り、「ああ、咲子が元気になった」と喜んでいてくれたそうです。信じられないかもしれませんが、それまで、兄と私は両親の「死」について話し合ったことがありませんでした。でも、毎日新聞社の記事が、兄と私に話す機会を与えてくださいました。

兄は、両親の葬式が終わって四十九日が過ぎたころだったのか、夕方、家の前で母に会ったと言っていました。「母さん」と呼び掛けた瞬間、家の中から大きな火の玉が勢いよく空高く昇って行ったそうです。そして母の姿も消えていたそうです。「あ~あ、やっぱり母さんは死んだんだ。」、「いつまでも泣いてる俺に、死んだことを受け止め、妹の咲子をしっかり守って生きろと教えてくれた」と思ったそうです。

44年目で知った当時の兄の心情でした。お互い泣くしかありませんでしたが、嬉しかったです。兄と向き合って、両親の「死」について話せたからです。話したといっても、これだけで、やはり多くは語らぬ兄でした。でも、その後、私がこうやって講演をしたり、中学校などで「命を大切にしてください」とお話をしたりする機会をいただいていることについて、喜んでくれている、と兄嫁から聞いています。それもうれしく思っています。

兄もそうですが、犯罪被害者は、自ら「自分は犯罪被害者です」と名乗り出ません。未だに、自責の念に苦しみ、支援も受けられず、放置されている犯罪被害者がいるという実情を、ここにお集まりいただいた方々には知っていただきたいと思って、お話しいたしました。

15歳で両親を失った私は、親孝行も何一つできませんでした。「因果応報」などではない。何の罪もなく被害に遭ったんだと、このように話す機会をいただき、名誉回復という、両親への親孝行をさせていただき、うれしく思っております。特に、2011年、全国犯罪被害者支援フォーラムでは、初めて皇室の方に御出席いただいたという喜ばしいときに、パネリストとして参加させていただきました。秋篠宮殿下、紀子様御臨席の名誉ある席で、最高の親孝行ができました。亡き両親も喜んでくれたと思います。これもひとえに皆々様の御支援と御力と、心より感謝申し上げます。

私が、今、願っていることは、昨今、犯罪が多様化し、低年齢化しているので、学校教育の中で、中学、高校、大学の授業に、犯罪被害者の声を語り継ぐことを導入して、心のモラル、家族の在り方、自他の命の尊さを学ぶことを強化していただきたいということです。

また、長年この国では、被疑者は人権保障として弁護士に守られ、社会に適応するために資格を身に付け、再犯を防ぐとのことで、社会復帰のためには各地方に保護観察官や保護司が配属され、仕事の受入先も見つけてもらえます。でも、被害者や、残された者のその後の人生など、誰一人、関心を持ちません。このように不公平で理不尽な税金の使い方が、犯罪被害者等基本法が確立するまで行われていたのが我が国の実情です。

もちろん、誰も犯罪被害に遭わないことが一番です。でも、私も「まさか」犯罪被害に遭うとは思っていなかった。「まさか」と思っていることが現実に起きた時、私にとっての被害者支援都民センターのように、安心して支援が受けられる組織があることが、本当に重要であるということ、「まさか」の時に、御地元でどのような支援が受けられることになっているのか、本日お越しいただいた皆様には、考えてみていただけたらと思います。

本日は、本当にどうも有難うございました。

堀河: 佐藤さん、ありがとうございました。犯罪被害者という目に見えぬ重荷と悲しみを負い、心に傷を負って一生を生きているのだと思います、と佐藤さんは話されました。50年の時を経た今も常に御両親の無念さを心に刻み、今を生きていらっしゃる佐藤さんのお気持ちをお話しいただきました。ありがとうございました。

では渡邉さん、よろしくお願いいたします。

渡邉: 私どもは、1996年8月27日、当時16歳で高校2年生の長女、朗子を一時交際していた当時17歳の高校2年生男子により殺害されました。

朗子は96年初め、友人を介して少年と知り合い交際を始めましたが、6月初旬に別れました。しかし、少年は度々交際を迫っていました。朗子は、夏休みにハワイのホームス テイ研修に参加することで、少年とも距離を置き、帰国後考えの違いをはっきりさせるつもりでいたようですが、その間、少年の考えはどんどん違う方向へ向ってしまいました。少年は交際を断られたことを逆恨みし、「朗子さえいなくなれば」と友人の少女Bとともに、ゲーム感覚で朗子を殺害する準備をするための凶器、誘い出す方法、実行場所、犯行態様、証拠隠滅の方法などを殺人計画メモとして作成していました。

帰国した朗子と少年は8月26日、殺害される前日に、結論を出すため電話で話をしました。いよいよ話がこじれ、少年は犯行に及ぼうと朗子を呼び出しましたが、その日は時刻が遅かったため朗子は行きませんでした。数時間は命を長らえることができました。しかし、気になっていた朗子は少年の自宅マンションが通学途中にあるため、27日の朝、早めに家を出て、少年の自宅に寄ってしまいました。

そこでも話がこじれたため、少年は計画時に用意しておいた金鎚で朗子の後頭部を頭蓋骨を陥没させるほど強打し、その上、両手で頸部を締め、さらにビニールひもを頸部に巻き付け、さらに絞め、とどめを刺し、殺害しました。少年は朗子の遺体にいたずらをし、形跡を隠すため隠蔽工作をし、遺体を母親の乗用車のトランクに入れたものの、一人では処理しきれず、午後になり母親に犯行を打ち明けました。

母親は、一度は自首を勧めたものの、少年の「捕まりたくない」という言葉に、自分が車を運転して、少年と一緒に朗子の遺棄現場を探し回り、市内ではありますが、人里離れた山林に埋めました。母親は少年がスコップで埋めるところを只見ていたと言います。遺棄後、二人はコンビニエンスストアに寄り、飲み物などを購入する余裕があったそうです。

少年は逆送され、犯行は一時の激情に駆られた短絡的・自己中心的なものであるが、殺人メモもあり、冷淡で執拗かつ残忍で、殺害後隠蔽工作をしており、自己中心的で、生命や遺体に対する尊厳を省みない思慮に欠けた反社会的人格態度があったとし、懲役5年以上9年以下の判決を受けました。

少年は7年で出所したらしいのですが、その後は分かりません。母親も犯行に加担したため、2年の執行猶予付きの罪に問われました。当時、少年法においては、殺人でさえ上限が10年という狭い範囲の不定期刑しか認められていませんでした。当時、母親と共謀して遺体を遺棄した事件として、全国に大きく報道されました。

加害者家族は団結し、被害者家族は崩壊するなどということを聞いたことがあります。まさしく、私たち家族は後者の家族そのものでした。

私は、事件の10年前、88年に事情があり離婚しておりました。事件が起きるまで母子家庭ではありましたが、朗子は美術好きの私に似たのか、お洒落やファッションに大変興味を持っており、将来その関係の仕事に就きたいと話しており、私は楽しみにしておりました。

子どもたちの成長や夢は、まさしく私の働く意欲そのものでした。経済的にも余裕があるわけではありませんでしたが、ハワイのホームステイ研修に参加させたのも、朗子は英語が得意でしたし、できれば若いうちに多くの見聞を広げてもらいたい、人種を超えた多くの人と触れ合って欲しい、将来の役に立てて欲しい、という私なりの思いがありました。

私が仕事で忙しいこともあり、朗子はよく妹たちの面倒を見てくれました。私が忙しい時は私に代わり、料理もしてくれましたし、美味しいものを食べるのも大好きでした。たまたま撮っていた、中華料理を友達と作る朗子のなんとも自慢顔のビデオの映像があります。動く朗子の笑顔に会える悲しい映像になってしまいました。

朗子が亡くなってしまえば、離婚して寂しい思いをさせてしまったことが原因ではなかったか。仕事に追われ、ゆっくり子どもたちと話す時間も少なかったことが原因ではなかったか。悪いのは加害者に違いなくても、どうして母親として朗子を守れなかったのか。後悔や反省で自分を責めることが多くなりました。

事件が起きた当時、長女、朗子が高校2年生、二女が中学3年の受験生、三女が中学1年生でした。二女は受験も控えておりましたし、二人とも精神的に不安定になりやすい思春期でしたし、母と娘の関係も直ぐにすれ違ってしまう、理解し合えるにはもう少し時間が必要という、難しく大切な時期でもありました。どうして、人を殺すに値しない理由で、簡単に他人の命を奪い、他人の未来を奪うのでしょうか。今更ながらに、時間を戻して欲しいと思います。

父親のいない私たち家族は、事件直後から、全ての対応を私一人で対処しなければならず、遺棄現場での朗子の確認、警察署に戻ってからの再確認、事情聴取、司法解剖への付添い、葬儀、裁判など。犯人は誰なのか。どうしてこんなことになってしまったのか。理由も状況も理解できないまま、しなくてはならないことが怒涛のように押し寄せて来ました。

事件の対応と自分を責めること、残された二人の姉妹や年老いた両親に気丈に振る舞ってみせること。食欲など湧くはずもないのに、亡くなっている朗子と子どもたちに食べさせる料理を朝から馬鹿みたいに作ってみたり、私もそんな状態ですから、二人の妹達の気持ちを考える思考回路が無くなっていました。当時の自分のことは勿論、あの子たちはどうしていたのだろう。いつから学校へ行ったのだろう。どんな気持ちでいたのだろう。そんな大切な記憶も私には曖昧です。

ただ事件後、私は親の務めを果たそうと肩肘を張って、残された娘たちにも「私たち家族は絶対負けてはいけない」、私たちが「やっぱりあの家族は」と言われてしまうことは朗子の名誉を傷付けることに通じる、と気を張り続けていました。事件後の対応をこなしていくこと自体、もしかしたら、娘たちから見れば、自分の子どもが殺されているのに冷たい母親と映ったかも知れません。「私たちは悲しい」、「私は悔しい」、「職場や学校に行くことなんて無理だ」、と一緒に泣き叫ぶことができれば、どんなに楽だったかと今になって思います。

特に、朗子と仲の良かった末娘は、学校に居場所を見つけることができず、学校を飛び出してしまうことを繰り返し、無断で友人の家に泊まったり、髪の毛を染めてみたり、私に対して反抗を繰り返しました。また、私の父は大変厳格でしたので、そのおじいちゃんとも何度もぶつかり合いました。おじいちゃんは、「そんな生活を繰り返すなら、お前を殺して俺も死ぬ」と娘の首を絞めたこともありました。

二女もそんな家庭に居るのは苦痛で、離婚した父親の方へ行くと言って家を出たこともあり、毎日、毎日、滅茶苦茶な状況でした。街の中を「なぜこんなことになってしまったのか」、自問自答しながら、朝まであてもなく娘を探す日が何日もありました。

事件から1年3ヶ月かかった裁判。それまでもメディアの注目もあり、カメラに追い回され、裁判所の正門から裁判傍聴にいつも入ることができないほどの状況で、一人ではとても裁判に出向くことがつらく不安な私に、妹が商売を休んでまで、一度も欠かさず付き添ってくれていました。

判決の日、それまでの裁判には一度も来たことのなかった二人の妹が、学校があったにもかかわらず、私に内緒で駆け付けてくれました。傍聴席の確保もままならず法廷に入ることはできませんでしたが、ずっと廊下で待っていてくれました。事件後、ぶつかり合いが多くなっていたものの、心の中では傷ついたお互いを誰よりも心配していたのだということを感じました。

事件後10年が過ぎ、三女が結婚する時、一通の手紙をくれました。

「振り返れば、私が生まれて23年間、いろんなことがありました。おじいちゃん、おばあちゃんの協力もあったけれど、ママはずっと一人で私たちを育ててくれました。きっと、それはとても大変なことだったと思います。ずっと仲良し家族でいたけれど、私が中学1年のとき、長女の朗ちゃんが亡くなり、家族の突然の死をみんな受け入れることができず、それぞれの悲しみが時には対立したまま、何度も衝突したし、傷つけるような言葉を言ってしまったこともありました。あの頃の私は、なんで私だけ、なんで私の家族だけ、と自分のことしか考えられなかったし、今まで一緒に生活していたお姉ちゃんに二度と会うことができないという現実を理解することの苦しみに、周りが見えなくなっていたのだと思います。でも、その苦しみは家族みんな同じだったのに、ママがどれだけつらかったか、ママがどれだけ苦しんでいたか、気づいてあげられなくて、ごめんなさい。私がママを支えなければならなかったのに、何一つ与えることができなかったこと、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。今までいろいろあったけど、前を向いて幸せに向って歩いて行こうと思います。明るい家庭が作れるよう、今まで経験したことを無駄にせず、進んで行こうと思います。」

手紙は有り難く、うれしいものでした。10年の苦しい葛藤の末に、彼女は幸運にも、折れそうな心を理解し、受け止めてくれる人と巡り会うことができました。残された娘たちが結婚できるかということは、私にとって大きな心配でしたから、彼女たちが長い時間、苦しみながらもきちんと自分の手で大切なものをつかむことができたことに、本当に感謝しています。彼女たちが精神的にも成長し、周りの人の気持ちも考えられるようになるためには、こんなにも長い年月と苦しみが必要でした。

そして、もう朗子が亡くなってから、朗子の生きた時間を私たちは過ごしてしまいました。未だに、命日が近くなれば、眠れぬ日が続きます。楽しいことや喜びが少しずつ多くなってきても、朗子が居ればと考えることがますます多くなろうとも、少なくなることはありません。

事件当時悲しみのどん底にいた私たちに、心無い言葉を浴びせる人がいたり、興味本意の報道がなされたり、さらに傷つくことがこんなに多のだということを知りました。今思いますと、被害に遭った上、なぜそんなことまで我慢しなくてはいけないのかと疑問です。そんな我慢は必要のない社会にしていかなければなりません。

事件の翌日の司法解剖、冷房がギンギンに入った小さな待合室で一人きりで待つ、気の遠くなるような長い時間。時折、休憩に出てくる警官はきっと場慣れしているであろうことは分かりましたが、「意外に娘さんは痩せているんですね。」とか、男女の事件でしたので「娘さんは妊娠していませんでしたよ。」とか、これが当の被害者に掛ける言葉なのかと思いました。余計なことを言わず、淡々と仕事をこなしてくれた方がどんなに救われたでしょうか。

後に、二次被害という言葉を知りました。被害者や遺族は通常の状態ではないのですから、敏感になっているということは間違いありませんが、特に被害者に携わる機関にいる方々に配慮の欠如はあってはなりません。幸せにも、私たち家族は親しい周りの人に恵まれていました。幸せな家族を見ることも、同じ年頃の子を見ることも、辛い私たち家族を長い時間をけて見放すことなく待っていてくれました。決して時間を急がず、いつもどおり寄り添ってくれました。

事件が起きて、最初に担当になった郡山署の刑事さんは、事件当時から現在に至るまで家族ぐるみで私たち家族を気に掛けてくださり、私たち家族の良き相談者です。朗子が遺棄された山の持ち主の方は、朗子の一文字をいれて「朗らかなる娘に捧ぐ」という慰霊碑を建ててくださり、私たちが山に登り易いように、いつも山道の枝を払って待っていてくれます。朗子の友達、二人の妹の友達、時々訪れ、私を普通のおばさんにしてくれます。友人や職場の同僚も私たち家族をうまく外の世界へ誘い出してくれました。

被害に遭ってしまえば、苦しみ、悲しみ、悔しさ、色々な負の心、負の生活が必ず押寄せます。それでも、生きて行かなければなりません。自分が味わった悲しみを周りに与えないためにも、生きて行かなければなりません。被害者がじっと我慢し、時間だけを薬として生きて行かなければならないことは不幸です。せめて、被害者同士の間に決して不公平感が生まれることのないように、平等に支援が受けられるよう、お金を持たない被害者や被害者遺族も、周りに手を差し延べてくれる人のない被害者や遺族も、国民として平等に守られる制度が必要です。

私どもの事件は少年犯罪でした。被害者や被害者遺族は、加害者と同年代である場合が少なくありません。被害者に年齢の近い兄弟姉妹がいることが多いです。成人に満たないその兄弟姉妹がどのような大きなショックを受け傷つくか、配慮されるべきです。親も事件の対応に追われ、兄弟姉妹に寄り添う時間を割かれてしまう現実があります。無料のカウンセリングや、相当期間自宅で授業を受けることができたり、教師を派遣していただけたり、被害者兄弟姉妹向けた支援制度は丁寧にあるべきと思います。

もうひとつ、私たち少年犯罪被害者遺族に必要なのは、加害少年の矯正教育の進捗を知ることです。例えば、私の場合、少年が仮釈放の時期が近づいた時、保護観察所から「遺族として少年に言いたいことがあれば来てください」と言われ、「遺族として話をする機会もこれが最後です」と言われました。

私は出向き、「少年の今の状況を教えてください」と聞きましたが、「一切個人情報なので教えることはできない。釈放を決めるのは遺族ではない。」と言われました。何のために意見を求められたのか、訳の分からない状況になりました。それを知らなければ、仮釈放に異議も理解も示せません。国家が少年を許しても、決して許すことができないであろう遺族の「せめてもの気持ち」を逆なですることではないでしょうか。

加害少年が事件に向き合い、自分をコントロールすることができるようになったか。被害者や遺族への謝罪の気持ちが持てているか。再犯の危険が無になっているか。社会生活が営めるか。せめて、それらがなされての社会復帰であることを遺族に知らせることに何の問題があるのでしょうか。そのような対応は、逆に本当に矯正教育がなされているのか疑いを持つことにつながります。仮釈放するのは、単に時間の経過だけではないはずです。そういう状態は、被害者遺族の「せめてもの気持ち」まで奪うことにつながります。

被害者、被害者遺族の知る権利がきちんと守られることを望みます。被害者遺族は元遺族にはなれないのです。永遠に遺族です。

私の場合、どこかで加害少年は生き、朗子は亡くなっているという現実、二度と会うことも話すことも叶わない現実。共通の立ち位置に立てるのは、朗子のいる元の生活に戻してもらう以外不可能ですが、もしそんな思いを抱く遺族に対しても、本当に悔み、謝罪をしたい少年がいるかもしれません。しかし、思いは伝わらず、その機会を奪うことにもつながります。矯正教育のあり方は被害者遺族と切り離すことができない大切な問題ではないかと思います。

最後に、(平成)22年に地方紙に掲載された18歳の学生さんの意見を紹介します。

~被害者にも非日本の考え疑問~
最近、私自身が盗難にあってからというもの、日本の犯罪に対する考えに疑問を抱かざる得ない。その考えというのは、「被害者にも非がある」というものである。盗難に遭えば、「管理が悪い」と罵られ、道で強盗に遭えば、「何でそんな所を歩いていたのか」と非難される。大金を盗まれた老人には、「年寄りが何でそんな大金を持っているんだ」と冷酷な言葉が浴びせられる。「いじめられる方にも悪い所がある」などは、もはや論外である。確かに被害者にも落ち度は存在するのだろう。しかし、「悪いことをしてはいけない」というのが最大の道徳ではないのだろうか。なぜ、世間というものは被害に遭って悲しんでいる者に対して、さらに追い打ちをかけようとするのだろうか。こんな考えが一般化しているうちは、犯罪だって減らないし、正に、「正直者がばかを見る。」そんな世の中になってしまうのではないだろうかと危惧している。

今、この意見が自分の戒めと支えになっています。

堀河: ありがとうございました。「犯罪被害によって加害者は団結し、家族を失うことにより被害者家族は崩壊する」という言葉の中にあるように、渡邉さんからは、一家の大黒柱として、事件への対応、また家族への対応、現実の生活の厳しさの中での日々の生活を語っていただきました。

皆様も画面で朗子さんの数々のスナップ写真を見られたと思います。将来の夢や希望が膨らみ、家族と共にそれらを実現する楽しみがどんなにか広がっていたでしょう。16歳ですべての時計が止まり、この先がありません。優しく明るい朗子さんの思い出がこれ以上増えない悲しみを、心から感じます。ありがとうございました。

では、北口さん、お願いいたします。

北口: 今日は皆様、お忙しい中、ありがとうございます。私は、広島から来ました北口忠といいます。事件・事故は、いつ、どこで起こるか分かりません。私もそうですが、本当に「まさか我が家が」そういう思いの中で、事件が起こってしまう。事件が起こった後、残った被害者家族は、どういう具合に生きて、頑張っていけば良いのか、本当にどれが正しいのか、どういう生き方をすれば良いのか、それが分からないという現実の面があり、私も今まで事件から約9年経ちますが、なるべく普通の生活に戻すようにしているつもりではあります。

そんな中、事件・事故については、様々な背景や様々な事件がございますので、今日は私一個人の考え方というか思いを少し話させていただき、今後被害に遭った方を救える立場の方が、この中にいらっしゃるのであれば、今後の活動に対して参考になることが1つでもあれば、助かるかなという思いでおります。

被害者になった時、立場的には、表面的には強く見せるというか、普段どおりの仕草、顔、そういう感じではおりますが、内面では本当に心が折れそう、そういう時がございます。ですので、そういうことがあった時には、手助けしていただきたい。そういう思いが大きいです。

今日は大きく分けて3つ。我が家の事件の概要と直後の状況。それから、今まで受けた支援についてお話します。我が家の場合、未解決事件なので、マスコミの方の御協力も大きな力となっておりますので、マスコミの方の支援についてお話しするのと、最後に事件解決の御協力のお願いについてお話をさせていただこうかと思っております。

まず事件の概要ですが、事件は平成16年10月5日。今から約9年と2カ月前。自宅で起こった事件です。

広島の廿日市と言っても、皆様方はピンとこないと思います。場所ですが宮島と言えば、皆様、ああ、あの辺かということは御存知かと思います。宮島から距離にして約5~6km。信号に引っ掛からなければ、車で約10分程度で我が家に着く、そんな距離の場所です。昔からの家々と、最近開発が進み新しく建った家々が結構あり、段々人が多くなってきました。どちらかと言うと、昔は田舎、今は少し都会とまでは言いませんが、町になってきた、そういう場所でございます。

事件が起こったのが、午後3時頃。本来であれば、娘は当時高校2年生でしたので、学校で授業を受けている時間です。ただ、その日からちょうど試験が始まり、午前中で終わって午後に家に帰ってきた。その時に起こった事件であり、もしも、当日が試験の始まりではなく、授業があったなら、この事件は起こらなかったのか。いや、それとも、事前に犯人はいろいろなことをどこかで確かめ、どううちの娘の行動を知ったのか。うちの事件の場合は未解決なので、真相が分かりません。

真相が分からないから、捜査も難航しています。当然、捜査が難航しているから、警察の方からも、「お父さん、お母さん、何でも良いですから、気になることを、当時これはと思うようなことを話していただけませんか」と何度も聞かれました。ですが、やはり、人の命を殺めるような事件を起こすような恨みを持たれるということはない娘でしたし、そういう行動というか、娘自身も学校とアルバイトと塾に行ってましたので、そこだけを自転車で行ったり、塾は私の家内が送り迎えをしておりましたので、犯人とどこで接点があり、どういう経緯があって、この事件が起こったのか、本当にそれが謎になっております。

ただ、謎を謎で片づけてはいけないのですが、丸9年、家族の前で事件の話をすることはないのですが、私と家内になった時は、「なんでかね」、「どこでかね」と、本当に答えの見つからないお互いの質問が出てきます。それをここ9年繰り返している、それが現実です。

事件が起こったのは平日の3時でしたので、私も会社勤めをしておりました。突然私の携帯電話が鳴り、我が家の事件のことを知らされて家に帰りますが事件の内容を知らない私は、当時JRで通勤しており家内もパートで勤めていましたから「我が家で何か事件が起きたみたいだから、とにかく早く帰ってきなさいよ」と、それだけしか私も伝えることはできませんでした。

私も、娘が亡くなるような事件が起こっていたとは、その時には全然分からず家まで帰るような状況でした。駅の方には私の妹が近くに住んでおりましたので、「悪いけど、ちょっと迎えに来てくれないか」と電話したら、「お兄ちゃん、良いよ」ということで迎えに来てもらいました。

本当に偶然なのか、妹の知り合いに娘の搬送された病院の知人がおり、私が妹の車に乗った途端、妹の携帯電話が急に鳴りました。何か話をした後、「ちょっと電話代わって」ということで私に代わり、病院の方が「北口さんですか」と言うので、「はい」と言いました。

「今、娘さんが私の方の病院に搬送されましたので、今、家に帰っても、入れるような状態ではありませんので、こちらの方にすみませんが、身元確認に来ていただけますか」とだけ言われ、電話を切られました。

その言葉を聞いて、病院から電話であれば、今から緊急の手術とか、お嬢さんの具合はどうですという言葉が普通なのではないかと思っていたのですが、言われた言葉が「身元確認」でした。その言葉で、もしかしたらという思いに変わり、本当に、駅から病院まで、妹がどう運転し、どこの道を通ったか、そういうのはその時点で頭の中から本当に吹っ飛んでしまいました。

病院に着いて、初めて娘と対面するわけですが、その眠るような姿を見た時のことは、今でも何とも言えないし、忘れることはできません。この思いは、本当はうまく伝えないといけないのですが、中々上手く伝えられないという思いが、本当に大きいです。

我が家も事件で娘と別れたわけですから、娘はまた別の大学病院に司法解剖に連れていくということで、その時に会って、次にまた娘と会えたのは翌日の夜、警察の方でした。ですから、それまでは娘を中々見たくても見られないという感じではありました。

事件として起こったわけですが、中々事件としては、まだ自分自身も夢の世界で、これは本当に我が家なのかという思いの方が大きかったです。お通夜、葬儀をどういうふうに行ったかというのは、記憶に残ってないというか、やはり人間、嫌なことはとにかく忘れたい、そちらの方が大きいのではないかと思いますし、本当に9年経つとやはり忘れてしまうのかな、という思いにはなってしまいます。

事件直後は、やはり私たち家族は近所の方にも会いづらい。会って何を話していいのか分からないという思いが大きかったので、中々外出しにくいから家の中に閉じ込もる、そんな感じではありました。

家族も、下に妹、弟がいて、当時小学生ですが、学校も中々行くこともできず、少しの期間休ませることもしました。当然、母親はその間でも、家の炊事、洗濯、掃除はやらなくてはいけません。ただ、それをやるのもやりたくない思いで、本当に淡々とこなしていたのではないかなと思います。

例えば、食事の準備をするのにも、我が家の近くにスーパーがあるのですが、そこにも買い物に行けず、知った人と会うことのない離れたスーパーで買い物を済ます。家では笑う気分にはなれないのに、子どもたちにはなるべく笑顔で接する。

それに産んだのは家内ですから、私より娘と接する時間が長かったですし、愛情的に父親と差があるかと言えば、差がないと思いながらも、母親の愛情の方が父親に比べ、何千倍、何万倍も大きいのではないかという思いがあります。本当に母親、家内は、大変な思いをしたのではないかと思います。

それでも、現在、前と変わらず生活できるのは、支援していただいた方の力がものすごく大きいと感じております。

事件に遭った早い時期の支援ですが、私の場合、当時、警察の被害者支援室の方とカウンセラーの方、それと廿日市署の方の3人に主に助けていただきました。初めて会ったのは事件の遭った5日、当日の夜、支援室の室長さんでした。その時に、「被害に遭ったら」というようなことを書かれた冊子と名刺の入った紙袋を渡されて言われたのが、「北口さん、今この袋の中に何が入って、何が書いてある、私が誰なのか、と今ここで話をしても、多分北口さんに全然聞いてもらえないでしょう。それよりは、この袋をとにかく失くさないように。そして、困った時には、この袋を見ていただきたい」と。そのことだけを言われて別れたことは記憶に残っておりますし、本当に良い対応をしていただいたと感謝しております。

最初の支援ですが、大きく報道関係の方に取り上げられた事件ですので、御通夜と葬儀では、マスコミ関係の方から「取材をさせてください」というお願いをされたり、「北口さんの思いはどうなんですか」と言われました。これに対して、私が「とにかく静かに別れがしたい」ということを伝えたら、「マスコミへのお願い文の作成はこのように書いた方が良いですよ」とか、「葬儀を行った会場の外には自粛依頼の看板を設置します」という具合に助けていただきました。ですから、当時相談することに対してすぐに動いていただいたのは、感謝しております。

それから1年くらいまでは、カウンセラーの方といろいろ相談をし、私が警察まで相談に行ったり、また電話をしたり、大変助けていただいたと記憶しております。相談内容としては、自分のこと、当時一時期、不安で眠れない時期がありましたし、家族とどういうふうに接すれば良いのかなど、本当に何でも相談しました。また、家内や母の健康状態や、不安そうな顔を見た時にどうすれば良いのか、そういう小さなことでもすぐ相談に乗っていただきました。そういう意味ではものすごく感謝しております。ですから、支援に対して、悩み事、相談事に乗っていただいた思いはものすごく大きなものが残っております。

今、事件から約9年、早期の事件解決を願ってはいるのですが、これはいつ解決できるのかという部分になると分からない部分もあるので、要望としては、今はショックというか、そういう困った顔を見せない子どもたちが、本当にこれから困った時にどう接すれば良いのか。事件が解決した時には、被害者としてどんなことがあるのか。そういうことを相談したときに、分かりやすく説明していただければ良いかなと思っております。

それと、マスコミからの支援ですが、未解決事件の場合、報道関係の方の力がものすごく大きなウェイトを占めているのが現状です。特に我が家の事件の場合、報奨金制度で、今皆様の手元にもチラシがあると思いますが、このチラシですが年2回場所を変えて配布しています。配布をしたときに、報道関係の方のご協力でテレビで放送されたり、新聞記事に書いていただきますと、集まってくる情報が急に多くなると捜査員の方から聞いておりますので、事件が解決するまでは、報道関係の方に協力をお願いしたいという思いがすごく大きいです。

ただ、私もこの事件が起こるまでは、本当に皆様方と同じ普通のお父さんというか、普通の暮らしをしていました。朝起きて会社に行き、夜になれば会社から帰る。そういう生活をしていた人間が、急に報道関係の方から取材を依頼され、取材を受ける。これについて、最初は接し方が全く分からず、向こうの質問に対して言われっぱなしで、どういう目的の、どういう報道をされるのかを理解できずに、取材を受ける機会が多かったです。

今は、取材を受ける時には、目的として、未解決なので早期事件解決のために情報提供をしていただきたい。情報提供していただくためには、どんなところを訴えて行けば良いのかというふうに、少し深いところまで突っ込んだ話をして、記事やテレビ等で放送していただいております。

ただ、本当に困った点というか、難しい点は、当然テレビにしても、新聞にしても、取材時間は1時間から1時間半と、ものすごく長い時間をかけて取材をしていただくのですが、例えば、テレビの特番であれば30分くらい放送していただけるのですが、そうでないときは7分から10分くらいにまとめられます。しかし、その中で、事件解決を願う私のものすごく良い面というか、真面目な面ばかりが強調されます。私はそんな真面目ばかりの人間ではありませんし、バカなことも言いますし、赤信号で止まらず危ないなと思いながらも走るような、そんな普通のお父さんなので、あまり良い面ばかり強調されるのも、つらい面もあることはありますし、本当に良いように見られるのもどうかなと思います。

我が家の事件は未解決事件なので、どうしても特番の場合は、テレビで「何月何日に特番を放送します」という予告編のようなものが時々流れる時があります。家族でも事件の話をしていない中、家族で笑いながらというか、話しながらテレビを見ていたのが、急に我が家の事件の特番を放送するということが流れた時には、本当に家族での場の雰囲気というか、次に家内や妹、弟に何を話せば良いのだろうという具合になります。未解決事件が風化したら困るのですが、風化しないように放送していただくのも、中々難しい。残された家族が頑張ろうと思いながらも、そういうものを見るとつらい思いになってしまう。それが本当に現実ではあります。

最後になりますが、東京と広島でかなり離れていて、我が家の事件は、まずこういう事件があったのかという思いの方が多いのではないかと思います。そうは言いながら、未解決事件ですので今日帰られたら、知人の方と会われたとき、2人の方で結構ですので、広島なので中々「情報」となると難しいかもしれませんが、「廿日市の未解決事件、何か知っていますか」と聞いていただきたいです。そして、その話を聞いていただいた2人の方はすみませんが、「2人の方で結構なので話してください」と。そのお願いを、次から次へと2人の方で結構なので、話していただきたいと願います。

もし、「そう言えばこういう噂話を聞いた」という方がおられたら、その方に対して言って欲しいのが、「噂話だから警察に言う必要はないよ」と否定するようなことを言われるのではなく、「それは間違っても良いから、とにかく警察へ言ったら」という後押しをしていただきたい。そういう思いが大きいです。

一番良いのは、直接警察に言っていただければよろしいのですが、「中々警察へ直接…」という思いを持たれる方は、私はブログの中で情報提供を求めるメールアドレスを挙げております。「北口忠」と検索すればすぐ出てくると思いますので、そちらの方にメールで情報をいただければと思っております。

最後になりますが、早期の事件解決を願っておりますので、どうぞ皆様、これからも解決するまで、よろしくお願いいたします。今日はどうもありがとうございました。

堀河: 北口さん、ありがとうございました。北口さんの場合は、本当に早期に相談する相手の方がいらして、相談することができたということが、その場、その場で、いろんな問題が起きた時も、少し解決の糸口が付いていくということをお話しいただきました。しかし、問題解決のためには、まだまだ課題とすべき問題がたくさん横たわっている。これからもまだまだ続いていくのではないかということを、お父さんの目を通してお話しいただきました。ありがとうございました。

今、3人の方にお話を聞かせていただきました。皆様は犯罪被害に遭うことによって、今まで安心、安全だと思っていた生活が一転してしまったという状況を御理解いただけたと思います。その被害だけではなく、その後に精神的、身体的、経済的、社会的にも様々な問題を抱えられ、その上、被害者の現状が正しく理解されていないことで、関係機関や、周囲の人たちからの二次被害にも苦しい思いをされている現状もあります。

また他方、周囲の方からの温かい配慮や支えについても御言及いただきました。お話をいただいた中での問題を整理し、次のセッションでさらにお話を伺っていきたいと思います。では、ここで15分の休憩をいただきまして、15分後にまた再開をしたいと思います。よろしくお願いいたします。

堀河: 愛する家族を失うことにより、残された家族はその後どのように過ごされて行ったのか。何がその支えになったか。また、どのような支援が必要であったかについて、お話いただきたいと思います。

佐藤さんは、昭和39年に御両親を殺人事件で失われました。そのとき佐藤さんは15歳で、2つ上のお兄さんと2人残され、その後の苦難の状況は想像を絶するものがありました。昭和39年といいますと、被害者に対し、国からは何らの支援もなされていない時代でした。厳しい時代背景の中で、佐藤さんを守り支えたお兄さんの精神力の強さはどこから来たのでしょうか。自分が妹を支えていかなければならない責任感はもちろんでしょうが、当時17歳のお兄さんを支える人は周囲にいらしたのでしょうか。その辺りのお話を佐藤さんから伺います。よろしくお願いします。

佐藤: 兄が周囲の方から支援を受けられたかという点ですが、私自身、未成年で自分自身に精一杯だったので、兄の状況までは良く分かっていなかったことを御承知おきいただきたいと思います。

その上でお話しできることは、まず事件当時、兄は高校3年生でしたので、学校の先生から支援があったのではないかと考えられるわけですが、事件が起きたのが12月のことでしたので、冬休み前ということで、兄はそのまま、その学期については学校には出られませんでした。兄の高校は水沢市、現在の奥州市にありましたので、あの当時携帯電話のような連絡手段もなく、あまりにも遠い地でもありましたので、学校関係の方からは、特に支えは無かったのではないでしょうか。

3学期が始まった時は、卒業目前の状態でしたので、村の有力者も今後のことを考え、学校は卒業すべきだろうと判断しました。これを受け、兄は学校に戻りましたが、その時の学校の状況は、私には分かりません。

卒業後、兄は両親の商売を継ぐ予定でしたので、親戚の中で、兄が卒業をするまでの家の留守番役や卒業後の生活の世話を誰がするのかということが決められました。このような事件はもちろん誰にとっても初めてのことでしたので、当時は血縁者が見守るしかできない状況だったと思います。

兄には父方から、私には母方から平等に後見人が立てられたのですが、兄は卒業後実家に戻りました。そして、母方の4親等の従兄弟、当時29歳でしたが、この従兄弟夫婦と同居し、当初出稼ぎに出て行っていなかったのですが、出稼ぎを辞めて戻ってきた従兄弟夫婦と兄は、父の家業を続けることになりました。このように事件後、親戚一同、兄を、そして私を真剣に支えようとしてくださったと今でも思っています。

私は高校で離れていましたが、私から見える範囲では、兄は従兄弟の夫とともに大型トラックを購入して事業を発展させていたので、うれしく思っていました。しかし今考えてみますと、兄には、父方の親戚と母方の親戚の間で自分の心の苦しみや、悲しみを伝えることをできる相手もいなくて、胸に思いを秘める日々だったと思っております。

そんな中で、唯一兄の心を癒し、慰め、励ましとなってくださった方がいたそうです。その方は火事で家を失ってしまった一家のお母さんです。この一家は、地域の方々の応援で水車小屋を改造しそこに住むことになっていたのですが、兄にとってはそこに行って話し合うことが心の安らぎだったそうです。その方はいつも「ああ、皆様のおかげです。こうやって生活できます」と、地域の方々に感謝の言葉を伝えているような方でした。そしてまた、自分が最も貧しくて最も低い者であると考えるような、心優しい方でした。

兄にとっては何のしがらみもなく、また、特に見返りを求められるような関係でもない場所だったので、心が落ち着いたのでしょう。兄の中では、その方を亡き母とも重ね合わせていたのかもしれません。仕事が終わって、仕事と言っても山仕事ですが、夜になるとそこのお母さんの所に遊びに行って、お茶っこを飲んだり、また、時には涙して、時には励ましを受けたと聞いております。

そのお母さんからどのような支えがあったのか。支えと言って良いのか分かりませんが、私が高校から卒業するという時、兄から、「お前をあの山に引き留めるのは、後悔するかもしれないけれど、戻ってこい。何か習い事でもしていろ」と言われました。そのことを考えると、その当時の兄にとっては、私が近くにいるということは重要だったのではないかと思います。

それで私も故郷に戻っていたのですが、兄は私に運転免許も取らせてくれました。また、大阪万博にも行かせてくれました。本当に、今考えてみますと、兄は、私には何一つ不自由させないようにと、むしろ有り難いほど恵みを与えてくれました。両親を殺害で失ったにもかかわらず、兄が見守る中で、私は幸せだったのであろうと思っています。きっと兄は、両親亡き後、自分が妹の親代わりとして、親がいたらしてあげただろうと思うことを精一杯私に向けてくれたんだと思います。

私の成人式の時も、従兄弟と相談して祝ってくれました。その当時の最新の着付けで仕上がった私の姿を見て、兄は涙を浮かべて喜んでくれました。私はこの頃、親が殺害されたという悲しみを背負っていましたが、兄の見守り、従兄弟の見守りの下、成人できたのだから、今後もそのままうまくいくと思っておりました。

私は兄の置かれている状況について、何も見えなかったのです。しかし、兄の結婚問題が出てきた時、いろいろな話がこじれ、思ってもみない展開になり、結果的に、兄は実家を出ることになってしまいました。兄はその後も、故郷に戻れていないのです。

兄の居所が分かって訪ねて行ったとき、何もない状態でした。兄は着の身着のまま出て行ったので、何もない状態でした。私も本当に、泣く泣く、近くのお店で、バスタオルなど日常使えるものを買って、置いてきました。この時も、兄は愚痴1つこぼしていませんでした。またしても、これも運命と受け止め、今もすべてを胸にしまい込んでいます。そしてその時、新しくできた家族のために生きていました。

私は、兄のことを思うと、本来私が兄の一番の理解者、支援者でならなければならなかったはずなのに、何一つ兄の手伝いもできなかった。励ましもできなかった。そんな自分を恥ずかしく、また、自分を責めています。

兄への支援ということで、私の知ること、思い付くようなことは、以上のようなことしかありません。血族に頼るしかなかったその中で、何を支援と言うべきなのかよく分かりません。支援があったような、無かったような、そのような状態でした。

堀河: ありがとうございました。今の話を聞いて、お兄さんの傍らに少し理解をしてくださる方が少しはいらしたということが、本当に、お兄さんのそれからの生活に大きく励ましになったことと思います。本当に支えなければならない妹、佐藤さんがいらしたその存在が、お兄さんにとって一番大きな支えになったのではないかと思いました。ありがとうございました。

では、渡邉さんにお伺いいたします。渡邉さんは3人いらっしゃるお嬢さんのうち、御長女を少年犯罪によって失われました。御長女は、少年とのトラブル解決のため少年の下を訪れたことがあだとなり、命を奪われました。とても優しい心遣いのあるお嬢さんだっただけに、家族としてはどんなにか無念で悲しい思いであったかと思います。

お母様は一家の大黒柱として家族を支え、また、事件後の厳しい現実に向かい合う生活の中で、残された二人のお嬢さんたちの状況はいかがだったのでしょうか。先ほどのお話の中では、二人の妹さんたちも生活に乱れが出るほど、事件を深く重く受け止めておられたことをお聞きしました。現在ではスクールカウンセラー制度もありますが、事件当時はどうだったのでしょうか。渡邉さんからお話を伺います。よろしくお願いします。

渡邉: 事件は平成18年8月ですから、初めに堀河さんの方からお話がありましたように、16年に犯罪被害者等基本法が制定され、17年に犯罪被害者等基本計画が決定されたとは言っても、18年に被害者遺族になった私たちは、現実にそれらがどのように影響するのか、まだまだ感じることのできない時期だったように思います。

スクールカウンセラーのお話が出ましたが、平成7年から心の専門家として全国に配置され、実践的研究がなされ始めたと聞いております。そして、私どもの事件のあった平成18年には、全国で約1万校に配置、派遣されるに至ったと聞いておりますが、当時の私は、このような状況に陥ったときに子ども達のケアに当たってくれる専門家がいるという存在認識はありませんでした。

子ども達の通う中学校には、おそらく配置されていなかったように思いますし、学校や警察、家裁、そのような機関からも、そのようなお話は一切ありませんでしたので、当然、緊急派遣もありませんでした。私達は残念ながら、「当時子ども達のこういう対応に当たってくれたこういう人達がおりました」とは言えませんが、そういう方がいれば、どれほどの心の拠り所になったかと思います。

前にも申しましたように、母子家庭でもありますし、すべての事件の対応を、何も分からないまま一人でしなければなりませんでした。事件当時の自分は、朝から晩まで、ほとんどの時間がそのことに費やされていたと記憶しています。葬儀はもちろん、警察、司法解剖、事情聴取、家裁、裁判、報道関係の対応、これ以上の苦しみや悲しみがない中、目まぐるしい対応を迫られました。

そんな中、何を優先しなければならないのかも分からない状況で、言われるまましなければなりません。自分で本当に大切なものは何なのか、考える余裕もありません。ですから、二人の妹たちはすべて祖父母にお願いするしかありませんでした。おそらく寂しく、不安であったに違いありません。当時の私は、朗子のことを思えば、家族みんなが我慢して、何事にも耐えることしかないと思い込んでいました。

時を経て、冷静に考えれば、被害に遭った者達がこんな思いをするのか、なんと理不尽なことかと思いますが、そんなことを考える余裕は事件当時ありませんでした。そんな中、長いこと休学することもなく、二人は学校に復帰したように思います。成人の自分でさえ、会社に復帰するときは重い気持ちになりました。それでも仕事をしなければならない現実があり、人に会うことがつらく、誰もいない時間を見計らって会社に行き、仕事をこなした時もありました。

当然、子ども達にとっては、まだまだこんな過酷な現実に対応できる力があるわけはなかったのに、気を張り詰めるだけ張り詰め、子ども達の気持ちに寄り添おうとしていなかった自分を、今は反省しています。

よく事情を分からない周囲の人は、憶測の目で被害者遺族を見がちです。当然、学校に居場所を見つけられず、特に、中学校1年の末娘は学校を飛び出すことが多くなりました。次女は、中学校3年生で高校受験を控え不安定ではありましたが、高校に行けば、大学に行けば、環境が変われば、犯罪被害者遺族と周りから見られることから少しでも逃れられる、という思いがあったと思います。末娘は、中学の3年間をそういう目で見られる中で過ごす過酷さに押しつぶされていたんだろうと思います。

自分たちは加害者ではない。しかし、被害者であっても、他人の目は本当に怖いものでした。心ない報道や噂もあり、姉妹を亡くしたという悲しみ以外にものしかかる現実は、子ども達にたくさんあったと思います。残された親子までもが毎日戦いのような日々を過ごし、ぶつかり合いながら過ごす日は、優に10年以上も続きましたが、スクールカウンセラー制度や、公的な支援があれば、出口がもう少し早く見つかっていたように思います。

堀河: ありがとうございました。現在、学校現場ではスクールカウンセラー制度が導入されております。犯罪被害に遭って兄弟を亡くし、残された兄弟姉妹たちが学校生活を送らなければならない。その時に、それにかかわるカウンセラーは、本当に被害者の現状を正しく理解し、その苦しい思いを中々言葉として発せられない子どもたちがいるということを今お聞きし思いました。それにかかわるスクールカウンセラーが、被害者支援に関する理解や知見をより深めて欲しいということが課題だと思います。また、これは教育現場におけるカウンセラーだけではなく、学校の先生方にもそのことをお願いしたいと思います。ありがとうございました。

では、北口さんにお伺いいたします。北口さんは、未だに加害者が捕まっていない未解決事件の被害者で、お嬢様がなぜ命を奪われなくてはならなかったのか、事実を知ることさえできません。時だけが過ぎ去っていく虚しさが続いていることと存じます。事件後の御家族、北口さんの御家庭でも、特に突然にお姉さんの存在がなくなった妹さん、弟さんの状況はいかがだったのでしょうか。喪失感、悲しみからの軽減は、何が支えになったのでしょうか。北口さんからお話をいただきたいと思います。

北口: 今言われましたように、我が家の事件は丸9年と2カ月経ちますが、未だに解決していません。思いとすれば、一日でも、一時間でも早く解決して欲しい。また、絶対解決するんだという思いは、強く持ってはおります。

一番の願いというか不安な面は、事件が解決した時に、加害者からこの事件の真相を本当に話していただけるのか。変な言い方ですが、加害者の人間は、弁護士がつけば自分の刑を軽くするために嘘を言うのではないかとすごく不安ですし、その不安が大きいことは事実です。娘が亡くなった現実は受け止めたくないという思いは大きいのですが、本当の真実は何なのかということを知りたいという思いも大きいです。

今言われましたように、別れたのは私の長女です。そして、下に妹と弟がおりまして、当時、妹が小学校6年、弟の方は小学校3年です。二人ともショック症状というか、不安そうな顔もしておりませんので、ある意味安心はしています。

当時小学校3年だった弟の方は小さかったので、確かに姉ちゃんと別れたけど、この別れ方が急であって、どの程度心に傷がついているのか分からない部分はあるのですが、高校3年生になり、当時どうだったかとか、今はどうなのという具合に聞けるかというと、家族でも聞けないというのが現実です。とにかく、口には出さないけど、元気でいて欲しい。その思いは親としては大きいです。

妹の方ですが、当時小学校6年で、犯行のあった当日、風邪でちょっと体調を崩して休んでいて、犯行現場で事件直後の犯人の顔を見ています。見たことのない顔を見たし、咄嗟にその場所を離れたから、妹は傷も受けず、今も元気で暮らしていますが、もし恐怖でその場に立ちすくんでしまえば、妹の方もどうなっていたのか。それは本当に、今考えても怖いことです。たまたま犯人と遭遇したのが妹と私の母で、犯人は母の方を襲い、母も入院するようになったというのがありました。

当時、妹弟は二人とも小学校に通っていたのですが、やはり一番気になったのは、ずっと学校を休ませるわけにはいかない。ではいつから学校に登校させれば良いのか。この辺が親としても不安ですし、どこに相談すれば良いのかというのが分かりませんでした。

私はそのことを警察のカウンセラーの方に相談しました。相談したら、すぐ学校とスクールカウンセラーの方に連絡を取られたみたいで、その後私の方に連絡が入りました。当時のスクールカウンセラーは小学校にはおりませんでした。当時小学校6年、それも10月で、あと半年すれば中学校に進学するという時期でしたので、「進学する中学校にはカウンセラーの方はいらっしゃるんですか」と尋ねたら、「すみません、北口さん。進学される中学校にはカウンセラーの方はいないんですよ。同じ廿日市市内にはなるけど、別の中学であれば、カウンセラーの方はいらっしゃいますよ」というふうには教えていただきました。

そこで、進学した時にカウンセラーの方が別の学校では中々相談しにくいし、中学校を卒業して高校に進学した時にどのカウンセラーの方に相談するのかということを考えると、一番最初に相談した警察のカウンセラーの方であればずっと相談に乗っていただけるのではないかと思い、私は警察のカウンセラーの方にお願いしました。そして、カウンセラーの方がその後小学校の校長先生や担任の先生とお会いになって、登校日を決めていただいきました。その後、「校長先生と連絡取っていただけますか」ということで、私と家内が小学校へ行き、「いついつから登校していただいて大丈夫ですよ」ということで、子ども二人を登校させるようになりました。

その時は私もいっぱいいっぱいで、人任せで悪いことをしたなと思いつつ、親身になって相談に乗っていただき、本当に良い対応をしていただいたなと感謝しております。登校するようになって、本当に学校で嫌なことがあれば、妹も弟も「学校に行きたくない」と言うのが普通なのではないかなと思うのですが、そういうことも言わず、毎日登校しましたので、本当に感謝するばかりです。本当に、校長先生、担任の先生、カウンセラーの方の連携が素晴らしかったんだなと、今感じております。

人任せにした本当の理由と言いますか、言い訳になりますが、私が先ほど少し話したように、当時、私の母が犯人に刺され、一時期心臓も止まるような体にかなり大きな傷を負い、病院の集中治療室に2週間くらい入っていました。時間があれば母の見舞いに行き、病院から帰れば、家に警察の方が来るか、私が署の方に出向いて話をする。ほとんど毎日そのような感じでした。家内にしても、家の炊事、洗濯等の家事や、やはり警察からの質問。それに追われ、子ども達にはその時にもう少し親としてやれるべきことがあったのではないかなと思いつつ、本当にアップアップでできない。それが現実でした。

私なり家内がその後のいろいろな発表会や学校行事で最初に学校に行く時、どういう接し方をされるのかなという不安を持ちながら、学校へ行きました。それに対して、先生方は以前と変わらず接してくださった。この辺は私の憶測ではありますが、カウンセラーの方が配慮してくださり、「もしお父さん、お母さんと接するときには、このような接し方が良いのではないのか」という話をされたから、普段どおりというか、私たちに負担を掛けないような接し方をしていただいたのだろうと思っています。

その他にも、特に妹にとってどんなことが軽減になったかと言えば、自分の好きなことを行うことと、目標を持って何かをやっていったから良かったかなと思っております。特に妹の場合は、絵というかイラストを描くのが好きで、本当によく描いていました。私の見た目から言えば、あまり勉強が好きな方ではなく、イラストを描きたいという思いばかりでした。反面、姉の方は公立高校に行くような頭を持っていて、公立高校も試験ではなく推薦入試で入るような、どちらかと言うと出来の良い子でしたので、妹からしてみたら、勉強はお姉ちゃん、私は私の好きなことをするというタイプでした。私はそれでも良いのかなと思っていたのですが、姉と別れ、急に妹が「私もしっかり勉強してみる」と言ったので、何か目標を持ったことも良かったのかなと思っております。

また、軽減になったのかどうか分からないのですが、事件後いつ聞かれたかは覚えていないのですが、妹が私に向かって「お父さん、私これからどうなるの?」と聞くわけです。それに対して私が、「別にお姉ちゃんと別れたからといって、今までどおりで良いし、好きなことをすれば良いよ」と答えたら、顔がホッとしたというか、気持ちが楽になったのではないかなと思っております。こういう答え方にしても、事前に私はカウンセラーの方に、もしこういう質問をされたら親としてどういう具合に答えれば良いのかと聞いていたので、うまく答えられたのかなと思っております。

妹が「どうなるの」と不安になった気持ちというのは、事件を起こした犯人の目撃者であるために、毎日のように警察から質問を受けて、チラシの中にある似顔絵を作ることにも協力して、私や家内が一時期「どんな犯人だった、身長は、どんな人に似ているか」というように、本当はこれはしてはいけないのですが、私たち夫婦が捜査員になってしまいました。別になるつもりはないのですが、やはり聞きたいとなって聞いてしまう。例えば、三人で弟を残して街に出た時に似たような若い男性を見れば、「あんな感じ?」「こんな感じ?」とどうしても聞いてしまう。それがものすごく負担に感じて、そういう言葉を聞いたのではないかなと思っております。

さすがに今、丸9年経って、本当はまだ当時の犯人の顔の記憶を忘れることはないと思いますが、今は親として聞きたいけど、聞けない、そういう思いが大きいです。妹には、これからショック症状も出ず、元気に楽しく暮らして欲しい。それは親としての願いであります。

堀河: ありがとうございました。今、北口さんのお話の中で、奇しくも、他人に任せてしまったことを後悔するような・・・・お言葉がありました。今まで被害者は、自分が受けた被害を1人でじっと我慢し、家族だけで支え合って、何とか頑張って解消しようという思いが強い時代がありました。今は決してそうではなく、北口さんが、助けて下さる方が近くにいたことで相談、或いはカウンセラーの方に相談、また警察への相談ということで、社会の資源を上手に使って、その時の問題解決につなげていかれました。

お嬢さんがこれからまたどういう問題に直面して、そのトラウマがぶり返してくるかもしれませんから、どうぞゆっくりと見守ってあげて欲しいな、安心を与えて欲しいなと思いました。

犯罪被害に遭うということで、お三方それぞれの時期に、大きな冷たい目、無理解な言動で苦しめられたこともありましたが、中には支えてくださった方もあったということをお伺いしました。

三人の方は事件の時期、経過等が異なっておられますが、おそらく、被害後の時間の経過によって、必要な資源、必要な支え方というのが変化していったのではないかと思います。今振り返ってみて、どのような支援や支えがあったことが印象に残っているのか、もう少し詳しくお話を伺いたいと思います。

また、今日この会場にいらしている方々にとって、もし身近な方が犯罪被害に遭われた時に、周囲の人間としてどのように寄り添ったら良いのか、何か参考になるようなことでもあれば、お話しいただけたらと思います。

佐藤さんからお願いします。

佐藤: 印象に残っている支援ということで、今はお亡くなりになってしまいましたが、私の小学校の恩師の先生のことをお話しさせていただきます。

先ほどもお話したように、高校卒業した後、私は兄に言われて故郷に戻りましたが、特に何もしていなかったのです。本来社会に出て働いているはずの年齢の私が、田舎の山に閉じ込もって、精神の死んだ無気力でいる姿を見たからでしょう。教育者であった先生は、私の精神を取り戻させ、本来あるべき姿、いきいきと喜んで、社会の一員として働いて生きるということをさせるために、小学校の産休補助教員として働かないかと誘ってくださいました。

私は自信がなくて迷っていたのですが、先生は「ヤマショウさんの娘さんなら大丈夫だよ。」と言ってくださいました。ヤマショウというのは、父の店の屋号です。「ヤマショウさんの娘さんなら大丈夫」と言い切ってくださったその言葉に、心に力を得て、お話を引き受けさせていただきました。

とはいえ、訓練も受けてない、学力もない私が教壇に立つわけです。私も不安でいっぱいでした。でも先生は、「失敗しても私が責任取ります」と言ってくださいました。その信頼に応えようと教科書に取り組み、子ども達が理解できるように黒板に向かう。ただ夢中で初体験の教師という役割に徹しました。

明るく「サッコ先生」と私の周りに子ども達が来てくれたのを目の前にして、今までの自分から目が覚める感じがいたしました。これを機に、次の小学校の勤務の依頼もあり、私は自分で決めて進んだ道ではありませんでしたが、児童教育の職場で働いて生きることができました。自信を失っていた私は、この職に就いたことで人から認められたとうれしくなりました。そして、内から湧き出るような自分を発見できたのです。

支援とは何でしょうか。物を与えたり、お金を与えたりすることも必要な時もあるかもしれませんが、そればかりが支援とは言えないと思います。その人が本来なすべきことへ導いてあげる、人としていきいきと生きていく、そのような精神への支援も必要と思います。

兄も私もそうでしたが、この世で一番つらいことは、何もすることが見つからないことでした。言葉にもありますが、「働かざる者食うべからず」、仕事があることが、やはり心の安定となりました。その意味で、支援と言って最初に浮かぶのは、私の背中を社会へ押し出してくれた先生のことです。

被害者は、衝撃により精神が壊れてしまっていることすら気づかず、今後自分の進む道、生きる道を見出すことすらできないのです。たとえそのような精神であっても、ある程度月日が経つと、自分でできるようになるかもしれません。でも、それでは遅いのです。

また、先ほども申し上げましたが、兄の存在についてもう一度お話しいたします。

兄は卒業後、家業を継ぐと頑張っていました。でも、思いがけず途中から新たな道を進むことになりました。誰の支援もなく、つてもなく、資金もなく、早々に生活をしなければいけない境遇で、兄が選んだ道はタクシーの運転手でした。昼夜逆転した生活を送る兄の姿に、ショックで泣いたこともあります。でも、自ら生きるため、家族のため、黙々と頑張る兄を、私は誰よりも尊敬しています。私の兄の精神は本当に強く、誰にも負けません。私の自慢の世界一の兄です。

両親を殺害で失うという「まさか」の人生に遭遇いたしましたが、兄も私も、基本は「人に迷惑をかけずに生きる」ということを心に思っておりました。なぜなら、私も兄もヤマショウの息子、娘だからです。亡き両親に顔向けできない生き方はできないと強く思っていたからです。

事件から約50年を迎えましたが、兄と向き合って「苦しかった、辛かった、悲しかったけど、一生懸命頑張って生きてきたね。お父さん、お母さんも誉めてくれるよね」と言い合えるこの頃です。

最後に、高校時代の友人から受けた愛についてお話しいたします。

私は2009年に還暦記念同窓会に出席いたしました。そのとき友人から、私が下宿屋を移った時の話を伺いました。そう言われてみれば、私は住んでいた下宿屋から別の下宿屋に移っていたなと思います。でも、そのいきさつについて、全く記憶から消えていました。

本来亡き父が頼んでいた下宿屋の部屋は、南側の明るい部屋でした。でも、両親殺害後に下宿に戻った時、大家さんに北側の窓のない部屋に移るように言われました。それを私は多分学校で話したんだと思います。そうしたら、友人たちが数人でリヤカーを引いてきて、「サッコを大事にしてくれる下宿屋に移す」と言って荷物を運び出し、そして私を違う下宿屋に移したというのです。消えていた記憶のパズルが埋まるようでした。同窓会に出ていなければ、私の記憶はまだ消えたままでした。

振り返ってみれば、同級生たちは私をいつも見守り続けていてくれました。私の精神が不安定になって音沙汰をなくしていても、ひょっこり「元気でいる?」と声を掛けてくれました。今は、同じ埼玉県に住んでいる友達と、たまにはランチなどもして昔話に花を咲かせています。

支援を必要とする人に対して、愛情、温かさを持って、たとえその支援を受ける手が変化しようとも、支援する側は裏も影もなく、いつも真正面から見守ってくれる。そういう人を支援者というのだと思います。私はこの友人から、その変わらぬ温かな心を受け取りました。

会場の皆様にお願いいたします。支援とは、私の友人が私にしてくれたように、見返りを期待せず、無心の愛を向けることだと思います。この空気のように、見えずともなくてはならぬものです。透明な清さの支援を、是非被害者の方に愛情を持って向けていただけたらとお願い申し上げます。

堀河: ありがとうございました。佐藤さんからは、お兄さんの存在とともに、お友達、周りの人のさりげない見守り、声掛け、優しい愛が被害を受けた佐藤さんの大きな支えとなったことを聞かせていただきました。支援する私達も、しっかりこの言葉を受け止めて、今後もやっていきたいと思っております。ありがとうございました。

では、渡邉さん、よろしくお願いします。

渡邉: 今、お話をいろいろ聞いていまして、自分の事件当時は、本当に周りには誰もいない孤独感にさいなまれ、スクールカウンセラー制度もない、あったとしても使えないという状況が、北口さんの時代にはきちんと制度として、被害者に温かい心を寄せる人を派遣してくれるものができているということで、とてもうれしく思います。

そして、もしそういう制度ができているならば、本当に、被害者が学校や都道府県によって差が生じたり、カウンセラーさんの資質や経験に大きな差があったり、そういうことが弊害になって、被害者の人たちに二次被害を与えたりということが決してないように、そのためにも、スクールカウンセラーさんの身分の保証とかということもしっかりしてあげて、重要な仕事だということを皆で認識するということが大切ではないかと思いました。

そして、長い時間がかかりましたが、今私たち家族が普通に生活できているということは、やはり、何よりも周りの人の温かい支援があったからだということに、いつも感謝しています。

一部でも話をさせていただきましたが、担当の刑事さんですが、当時ですと、警察の立場で、被害者と加害者がいて、被害者にそれだけの力を注ぐというのは有り得ないことだったと思います。しかし、刑事さんは事件の概要を一番知っていましたので、このままでいったらこの家族は崩壊するということを一番認識していました。自分では思ってもいませんでしたが、後で聞きますと、「当時お母さんは本当にもう頭がおかしくなったのではないかと思った。この人はこれからどうなっちゃうんだろうと本当に心配した」と言っていました。

そういうこともあり、また、事件の本当の概要を私が知らない中で、子ども達の立直りをどういうふうにしていくのか、事件の内容はすべて刑事さんが私に直接すべて話ができることではないので、その中で悩みながらも、できることをしてくれました。娘がいなくなれば、夜昼なく、「自分たちの仲間で探し続けるから心配するな」と言ってくれたり、娘を山登りに連れて行ってくれたり、奥様も含め、家族の方々が私たちを家に寄せて、夜中じゅう話を聞いてくれることもありました。今でも娘は「あの当時刑事さんに怒られたのが本当に怖かった」と言うほど、本気で向き合ってくれました。

また、遺棄現場の山の持ち主は、迷惑な気持ちなど一度も表すことなく、私たちが普通に暮らせるようになったことを心から喜んでくださっています。最近知りましたが、奥様もお姉さまをプールの事故で亡くしていたということです。身内を失うつらさは本当に知っていたので、心から同じ思いを共感してくださったのだと思いますが、そういうことは一切言わず、行く度、「今年も来てくれたの。良かった。うれしい、顔を見られて。」と言ってくれています。

娘に付き合い学校を抜け出した子ども達も、今はみんないいお母さんになって、私を「ゆうこママ」と呼んで、遊びに来てくれます。娘たちも「あの時がなかったら、自分はなかった」と言いますし、「心配はかけて申し訳なかったけど、後悔はしていない」と言います。そこには子ども達なりの大切な思いがあったのだと、今は思います。

振り返ってみると、私たちが普通に暮らせることを、本当に心から一緒になって喜んでくれる人たち、それがすべて、私たちの支援者です。事件の直後は、あまり踏み込まれるのも苦痛ということがあります。待ってあげる、変わらないというスタンスが、本当に有り難いです。

でも、被害者になってみれば、今やらなければならないこと、今、時期を逃してはいけないこと、そういうことも必ずあります。そういうことは、きちんと公的に担保していただきたいと思います。明日からどんな世界が訪れるか何も分からない被害者が、困らないように、不利にならないようにしていただけたらと思います。後で後悔の残るような対処をせざるを得なかったということは、被害者遺族が自分を責め続けることになります。立ち直りにも深い影を落とします。

自分の場合、事件の直後、弁護士さんを見つけるのにも苦労しました。同じような事件の仲間たちの間にも、民事訴訟を起こしたくても、弁護士の問題や、費用の問題、周囲の目の問題などで、実行できずに悩んでいる被害者もたくさんいます。被害者支援センターなども全国に配置された現在、被害に遭った人が最初にどこへ行くべきか、誰がどこへどうつなぐかという専門機関の横の連帯のつながり、その充実こそが大切だと私は思います。

加えて、被害者同士が話し合える場も、私の場合、本当に助かりました。事件当初というより、何年も経ってからの悩みでしたが、子育てや生き方に悩んだとき、私の場合は、他の被害者はどうやって生きていくんだろう、どうやって生活しているんだろう、と教えていただきたい気になりました。ネットで探して見た、少年犯罪被害当事者の会の代表が、当時は会員ではありませんでしたが、話を聞いてくれました。他愛もないことでしたが、私の思いをすべて受け止めてくれました。

支援の状況も、被害者の状況も様々ですが、本音や弱みを出せる場所が大切だと思います。被害者には、生活をする場にそれを求めるのは無理がある場合もたくさんあります。そういう場合、他に同じような思いをする人たちの心の声を出せる場があるということは、本当に私たち被害者の心のバランスを保つ上でも重要なことだと思います。

今こうして何とか私たちみんなが生活していることを一番喜んでいるのは、私の両親だと思います。両親は周りからいろんな中傷も浴びせられ、いろんなことも言われましたが、私や娘達には一切それを伝えることはありませんでした。自分達で心の中にしまい、娘や孫達が何とか普通に生きられることだけを願い、生きてくれました。昨年父が亡くなりましたが、孫達が結婚し、そして孫が生まれ、それがどんなに両親の心の安らぎになったかと思います。

人が、家族が減ることは本当に悲しいです。その痛みを、本当に皆さんに分かっていただき、長い目で続けて、忘れないでいてやってくれる、そういうようなことを本当にお願いしたいと思います。

堀河: ありがとうございました。渡邉さんの周りの、亡くなられたお嬢さんのお友達、また、残された妹さん達のお友達が、変わらずずっと支えてくださったという思いもお話しいただきました。本当に、被害を受けた皆さんが、いつでもどこでも同じような支援が受けられるということがとても大切かと思います。それは、私たち一人ひとり、市民として、心して聞いておかなければならないお話だと思いました。ありがとうございました。

それでは北口さん、どうでしょうか。お話しいただけますでしょうか。

北口: 今日いろいろお話を伺っていて、三人の中では、私が一番良い支援をいただいていたと思います。今、広島には、広島被害者支援センターというしっかり確立した被害者のためのセンターもあります。

私が当時お世話になったのは、県警の中の被害者支援室です。そちらのカウンセラーの方に相談をし、親身になって相談に乗っていただきました。相談員の方がいつも同じ人ですからすごく安心できました。相談する私の方が「助けてください」という気持ちで接しているのに対して、「助けてあげましょう」という高飛車な態度ではなく、「一緒に相談に乗りますよ」というように話していただいて、本当に感謝しています。

カウンセラーの方ですが、本来であれば、多分こちらから相談して初めて向こうから連絡が来るのが一般的というか普通なのかなと思うのですが、月に一度ないし二度、「北口さん、どうですか」と連絡を向こうの方から取ってくださいました。事件が起こったのが平成16年10月で、それから約1年以上経った平成17年11月まで、1年1か月くらい心配されて、「どうですか」という連絡を下さいました。

この1年1か月で止まったというのは、ちょっとはっきり覚えていませんが、私の方から「もうそんなに心配していただかなくても大丈夫ですよ。また何かありましたら、私の方から相談しますから」ということで、そこで初めて向こうからの連絡はしないようになさったと思います。

相談に乗ってくださる方が、待つだけでなく自ら動いて連絡を取ってくださったら、相談する方も「真剣に考えて下さる」という思いにもなりますので、良い関係が築けます。私の負った大きな傷すべてが消えるわけではありませんが、かなり癒されたと思います。

もう一つ大きな点を言えば、母が別の病院に入院していて、娘は聡美という名前ですが、母も「聡美はどうなの?」と自分が傷を負っていながら聞いてきます。さすがに集中治療室の中で「娘は亡くなったよ」という言葉は、伝える訳にはいきません。しかし、ずっと隠せるわけではないので、どのタイミングで母に話せば良いのか。こういうのもカウンセラーの方に相談して、「話すタイミングとしては、集中治療室から出るとき、お父さんから話してください」と言われたのですが、言うタイミングというか、言う私も本当にどう話せば良いのかと…。話した後の、あの時の母の態度というのも忘れることはないですね。ですから、そういう本当に困ったというか悩んだ時に相談に乗っていただいたことには、感謝するばかりです。

何度も言いますが相談する時に「被害者の方のために相談に乗る」とか「乗ってあげる」というような、変な言い方ですが、一段高い所から見下ろすような高飛車な態度でなく、そんな態度は全然とられず、「一緒に話を聞いて、気持ちを楽にさせてあげる」というような接し方でしたから、私は助かりました。

次に、周囲の方の配慮について。こんなことが起こってはいけないのですが、もし周囲の方で本当に悲しい事件に遭われた方がいらっしゃったら、私の場合ですが、「遺族」という言葉がすごく苦手で、「遺族」という言葉は使わない方が良いのではないかなという思いがあります。

また、接し方ですが近所の方も、今は事件前と同じく、「おはようございます」、「こんにちは」という日常的な挨拶や会話もできますが最初のうちは、私の方からも挨拶もできない。向こうからも挨拶ができないから会釈だけして通り過ぎる。お互い何を話して良いのか分からないからそんな行動になってしまう。ある時期は仕方ないかも知れませんが事件前の関係を思い出していただき、普段どおりの付き合い方を少しでも早く取り戻していただきたいのが一番だと思います。

これは私が思ったことですが、事件直後、親身に思われる方は、急に来られることはありませんが、電話を掛けられて「お伺いしてもよろしいですか」と言われれば「病院や警察に行く時間を外せば大丈夫ですよ」と返答しますし時間がないときには、「すみません、今日は時間が取れないんですよ」と言えば「分かりました。またお電話してお伺いするようにいたします」というように言われて、すごく気を使っていただけるなという思いを持ちました。

その反面、電話を掛けてこられて、「今日の何時に伺いますから、お父さん会ってください」と言われるだけで、「いや、ちょっと都合が悪いので無理ですけど」と言っても、「どうしても心配なのでお伺いします」とだけ言われて、無理して来られる人も居られました。こういう時には、心配で来られているのか、逆に事件に遭った家族がどんな顔をして暮らしているのか様子を見に来る、どっちなのかな私の方も不信感を持つようになりますし、周りの方も態度を見れば分かりますので、相手の方のことを考えて行動すべきだと思います。

最後になりますが、相談窓口についてです。私の事件の場所は廿日市で広島市の近くで、相談に乗っていただいた県警本部まで、車で移動しても30分もあれば十分行けるという、地理的にも恵まれたと言えばおかしいのですが、すぐに相談に乗っていただける場所でしたので、本当に助かったなと思っています。

広島県で言えばそんなに大きな県ではないですが、広島市近辺なら大丈夫ですが、少し離れた場所を考慮した相談窓口が何か所かあった方が良いのではないかなという思いは持っております。親身になって相談に乗っていただけるカウンセラーの方や相談員の方が数多くおられることも大切ですが、相談できる場所も大切なのではないかなと思っております。以上です。

堀河: ありがとうございました。同じ社会に生きる市民として、また、専門家といえども、被害者の置かれている立場、その目線に立って支援をすることが大きな支えとなったというお話をお聞きしました。

では、これで最後になりますが、会場の皆様方に一言ずつメッセージがありましたら、よろしくお願いします。

佐藤: 今日、被害者の心情や必要な支援のあり方についてお話しさせていただきました。被害者の壊れた心は、月日が経つにつれ、緩やかであっても回復していくのではとお考えの方もいるかもしれませんが、天命を全うした死以外は、残された者にとっては、悲しみが癒される期限はありません。

私は、きっと母の年齢になったら、自分にとって癒しか何か変化があるのかと思っておりました。しかし、母52歳、父54歳の年齢になった時、何も変わりませんでした。今はもうとっくに母の年齢を越えておりますが、母はあの当時の52歳。そして、私の心は15歳のままです。私はこの時点で、「やはりこの心の痛みは変わることはないんだ。私はこの世を去る時でないとこの悲しみから解放されることはないのだ」と思いました。

その後、私は皆さんもご存知の『千の風になって』という歌に出会いました。皆さんもお聞きになったことがあると思いますが、心にしみ入る旋律と、いつも見守ってくれるメッセージで、ちょっと長くなりますが、引用させていただきます。

私のお墓の前で泣かないでください
私はそこにいません眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

秋には光となって 畑にふりそそぐ
冬は きらめくダイヤの雪になる
朝は小鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
私は 死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

でも、この千の風も受け取ることができない、事件から日の浅い方もいらっしゃいます。私もこの年になって、やっと、ようやく、千の風の歌を両親からの励ましとして受け取ることができました。

人生の中ではいろいろな坂があります。下り坂、上り坂、険しき坂、そして「まさか」の坂。もし会場の皆様が、「まさか」の坂に遭遇した時、あなたの心に痛み、励まし、見守り、慰めてくれるのは誰かお考えいただきたいのです。

今日、この被害者のことを、帰りましたら、是非、御家族の間で話し合っていただき、命、そして家族の絆を考えていただければ、うれしく存じます。他人に命を奪われた者の悔しさ、自ら命を絶った者の苦しみ。でも、その残された者の悲しみを分かち合える優しい心になって、犯罪のない社会になると思います。

私は、32歳でクリスチャンになりました。ですから、本日お集まりいただきました皆々様の御祝福と、誰一人被害者にも、加害者にもならないでというお祈りをいたしたいと思います。本日はありがとうございました。

堀河: ありがとうございました。渡邉さん、よろしくお願いします。

渡邉: 被害者になってみれば、元にもう戻すことは二度とできません。この思いは一生抱えたまま、どのようにこれから生きていったら良いのかということが、被害者自身、いろいろ一番考えることでもあります。

私は、いろいろ子育ても、娘を亡くしたことも悩み、悲しみの中にありましたが、表現をすることをしないできた人間だと思います。それが、今となっては良かったとは思えない自分がありますが、では、何が私を今ここまで連れてきたのかと思うと、周りの人の支援もたくさんありましたが、自分の周りの身近な人を幸せにしたい、そしてその幸せな人の姿を見たいという思いが、本当に一番大きかったなと、今、思います。

苦しい、苦しいと言っても何も変わりません。自分の大切な娘が幸せになることを望み、きっと娘達は、自分が生んだ子どもがまた幸せになってくることを望み、そして、人は自分以外の大切な人を幸せにしたいと思って、それを拠り所にして生きていくのだと思います。それが、いつか自分を強くし、自分を守ることにつながるんだということを、娘を亡くしてから本当に気づきました。

こういう思いは、する必要はないことで、しない方が良いことは当たり前です。でも私のような人間には、気がつけと神が与えた試練なのかなとも思いました。それにしては、亡くなった娘が一番かわいそうです。いろんなことを考え、答えなど死んでも出ない人生だと思いますが、ここにおられる方々には専門家の方も多いと聞きました。不幸にして被害に遭った人を、守ってください。

私のような事件は、少年犯罪の場合ですから、死んでしまった被害者より、生きている加害少年の更生や立ち直りに力が注がれるでしょう。まさに、被害者遺族となった兄弟姉妹たちは、忘れられた存在です。事件から何年過ぎているにもかかわらず、立ち直ることができず、未だに、社会復帰することができない兄弟姉妹たちも現実にいることを知って、忘れないでください。

被害者の現実に少しでも触れる機会を持っていただき、被害者への理解を持っていただき、同じ人間が大切な命を奪うなどというような犯罪が決して起きないように、教育、道徳、命の大切さに触れる機会を子どもの頃から持たせて欲しいと思います。そのためにも、皆様のお力を最大限に発揮していただきたいと思います。誰も加害者にも、被害者にもしない世界を作るために、皆様のお力を尽くしていただきたいと心よりお願い申し上げます。
本日はありがとうございました。

堀河: ありがとうございました。では、北口さん、よろしくお願いします。

北口: いろいろ聞いてから話そうとすれば、当時の事件のことを思い出して、しゃべれなくなりそうな気持ちとなります。事件に遭うと、これからの生活に対して一生懸命考えるときと、娘のことを考えたら、娘は助けてやれないという思いが大きくなるときがあり頑張る気持ちと反する気持ちとなります。と言いながらも、私も残された家族を守る必要もありますので、なりたくもない被害者になったとき、頑張るためには支援というものがものすごく必要なものになってきますので、そのときには支えていただきたい。そういう気持ちが大きいです。

それと大切なのは、我が家もそうでしたが、人の命が奪われるような事件をどうしても他人事で見てしまう。テレビや新聞等で見ても、「これは我が家とは関係ない」とか「こういう事件もあるな」というように、どこか「うちとは関係ない」という見方をされることが多いのではないかと思います。起こってはいけないのですが、凶悪事件というのはいつどこで起こるか、分からない。それが我が家で起こった時、「我が家で起こってしまった」と分かった時には遅いのです。

皆様の中にはこれからもしかしたら相談員になられる方がいらっしゃるかもしれませんが、「私は相談員だから」という具合に被害に遭わないというのは、そういうことは起こってはいけないけれども、ゼロではないという頭が私にはあります。皆様方の安心、安全、まずこれをしっかり考えていただき、あとは、相談に来られた方を守っていただきたい。まず、我が家の安心、安全。本当に、うちは安心だろうかということも考えていただきたいとも思います。

それと、我が家の場合は未解決事件なので、事件の風化が一番恐ろしいので、先ほども言いましたが、解決するまでは忘れないで欲しい。どこに解決につながる情報があるか分からない。そういう思いを持っておりますので、解決するまでは御協力していただきたいという思いは大きいです。

広島でも未解決事件は10件以上あるのですが、私みたいに前にどんどん出て、解決してくださいと協力をお願いする家族もいれば、前に出て話すのは苦手という、残された家族の方もいらっしゃいます。前に出て言うから、言わないからというのは関係なく、未解決事件の家族の一番の願いは、一日でも、一時間でも早く解決したいという思いが大きいので、解決するまでは風化しないように、事件のことは覚えておいて欲しいという願いは大きいです。

それと、あってはいけないのですが、皆様方ないしは皆様方の周りの方で事件が起こり、万が一、未解決で悲しい思いをする家族になられた場合、そんなことはあってはいけないのですが、そうなった時には、私は未解決事件遺族の「宙の会」という会に所属しております。この会は、特にみんなが集まってそんなに話をするということはないのですが、共通の未解決事件遺族が話をするということで、力を頂いたり、精神的にも助けていただけるそんな素晴らしい会です。「宙の会」というものがあるということは忘れて欲しくないと同時に、困った時には相談していただきたいとも思います。

最後になりますが、事件に遭うと残された家族は大変な思いになりますが、一番大変なのは、私と離れた娘です。娘の事も忘れて欲しくない気持ちで一杯です。今日は、ありがとうございました。

堀河: ありがとうございました。多くの皆様が、今日のお話を通して、被害者支援の輪につながってくださり、被害者の思い、提言に応えられるような社会づくりを目指したいと思います。

コーディネーターの不手際で、十分な議論を尽くさないままに時間となってしまいましたことをお許しください。それでは、これでパネルディスカッションを終わりたいと思います。パネリストの皆様、本当にありがとうございました。今一度温かい拍手をお願いいたします。また、会場の皆様も長時間に渡りまして、御協力ありがとうございました。

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