岡山大会:基調講演

「ある日突然、最愛の娘を奪われて」 ~犯罪がその後にもたらすもの~

 山内久子 (被害者遺族、秋田看護福祉大学看護福祉学部教授、
公益社団法人あおもり被害者支援センター理事)

ただいまご紹介いただきました山内でございます。今日はここに書いてある通りのテーマで皆様方にお話をさせていただきます。

私は昨日、青森から飛行機で大阪まで来て、そして、大阪から岡山まで新幹線で参りました。岡山駅に着いたのは、午後2時過ぎでした。そのあとホテルにすぐに行きまして、荷物を置いて、岡山城と後楽園に行ってまいりました。今、本当に日が暮れるのが早くて、もう5時半となると真っ暗になっておりましたが、でも岡山城を急ぎ足で回ってきました。

私が最近、お城にこだわっているのは、少し理由があります。それは亡くなった娘が弘前で生まれ育って、初めて1人暮らしをしたのが神奈川県の横浜というところです。彼女は大学で知り合った友達と小田原城に行ったそうです。小田原城に行った時に、そこで初めて生まれ育っていつも見慣れている弘前城の写真を見つけて非常に感激し、自分が1人暮らしをしていて、弘前城からは離れているが頑張るという気持ちを持ったということが、当時の手紙に書かれておりました。

私は、娘が大学3年の時に亡くなって、その手紙のことを思い出しました。その後、私は神奈川県のほうに出張した時に、小田原城に初めて寄ってみました。そして、娘がとても感激したという、その弘前城の写真を見つけるために行ったわけですが、本当にその写真を見た時に感慨深いものがありました。いつも見慣れている弘前城ですが、遠く700kmくらい離れた所で、そして、娘が感激したというその写真を見て、涙してしまいました。

その後、事あるごとにお城のある土地に行った時には、できるだけお城を見るように自分なりに努めてまいりました。そのようなこともあって、昨日は時間ギリギリでしたが、岡山城に行きました。私の見る限りでは、岡山城には弘前城の写真がなかったので、とても残念な思いもしましたが、もし娘がいたとすれば、一緒に登っていただろうなと思いをはせながら夕陽を見てまいりました。

私はこれまで、講演で熊本と和歌山に寄せていただきましたが、その時も熊本城や和歌山城にも行ってまいりました。やはりそこには全国のお城の写真が飾ってあり、その中には弘前城もあり、本当に懐かしいなという思いがしました。おそらく娘も小田原城で見た時に、そういう思いをしたのだなという思いになったわけです。

大切な家族の一員を死という形で失うということは、その人にとって本当に大きな喪失体験ではないかと思います。ここにいらっしゃる方々、大切なご家族を死という形で亡くされている方もいらっしゃるのではないかと思います。おじいさんや、おばあさんであったり、あるいは、お子さんであったりということで、その時は本当に悲しい思い、そして今もその悲しみをずっと持ち続けている方もいらっしゃるかと思います。

私もこれまでの人生で、父と、母と、そして、娘を死という形で失いました。父は脳卒中という病気でした。母は老衰でした。本当にこの2人に関しまして悲しみはありましたが、娘が21歳、大学3年生で、それも大切な命を他人の手によって奪われるということで、その悲しみだけではなくて、加害者に対する憎しみ、悔しさ、つらさ、そういう気持ちまで持つことになりまして、初めて犯罪被害者の遺族というのは、単に家族を死で失ったという気持ちだけではなく、そこに憎しみという1つの大きなエネルギーを持つことを知りました。人を憎むとか、そういうことはエネルギーが本当に費やされるものであることを実感しています。

ここに『マイメモリー』という小さな本があるのでご紹介いたします。

この斉藤睦子さんは私の娘が亡くなった事件のあとに手紙をくださいまして、もう10年以上もお付き合いをしております。実際会ったことはない方で、いつもお手紙、あるいは、電話でやり取りをしています。お互いにお写真の交換はしましたが、実際には会ったことはありません。

その方は、息子さんが小さい時に、医療ミスで亡くされたということでした。その方が自費出版で本を出されたのですが、その中の1ページに「愛するものを亡くした人にしか、本当の深い悲しみは分からないような気がする。慰めの多くの言葉は要りません。私のそばにそっといてくださるだけで、それだけでいいのです」という一文がありました。私の心を大きく奮わせました。本当にこれはそういう体験をした人でないと書けないと思いますし、また、そういう体験をした人が、非常に心が揺さぶられるものではないかと思っております。

ここで娘の事件のことを少しお話いたします。1995年、平成7年でした。この年は阪神淡路大震災という大きな震災がありました。そして、サリン事件という本当に大きな事件もあった年です。まさかこの年に、私たち家族の大切な娘の命が、他人の手によって奪われるということは、本当に想像もしませんでした。

阪神淡路大震災の時は、私は娘に電話をしました。「そういう震災が横浜でもあると思うけれど、気を付けなさいね。きちんと災害で逃げる時の準備をしておきなさい」とかそういう話をした覚えがあります。

また、サリン事件があった時は娘のほうから「今日、大学の先生が電車の中で異臭事件に巻き込まれて、講義の時間に遅れてきた」という話をしておりました。その時、私は「もし電車の中でそのようなことがあったら、とにかくハンカチか何かで口を押さえて、早く電車から降りるようにしなさいね」という話をして、「まあ、お母さん」ということで会話をした記憶があります。その同じ年に娘が亡くなったわけです。

亡くなったそのきっかけは、同じ大学の同じ学部の男子学生でした。娘は横浜の私立大学の法学部法律学科という所で学んでおりました。この男子学生とは同じクラスではあったということですが、個人的な会話というのはまったくなかったということが、裁判や、あるいは、同級生からあとで聞きまして、何ということをこの犯人はしたんだろうという思いに駆られました。

刺し傷は全身で17か所ということで、肺とか腎臓、心臓、そういう大切な臓器にまで達する傷だったということです。そして致命傷は、首のところにある太い動脈、頚動脈を切られての失血死ということです。私はこの失血死とか、若い女性とか、女子学生ということがニュースに入りますと、本当に娘の事件のことがフラッシュバックして、それを聞いただけで涙が出そうになります。

この加害者は、娘の留守中に部屋に忍び込みまして、玄関の鍵を盗んで、勝手に合鍵を作って、そして事件が起きるまで、10数回あの部屋に入っていたそうです。これはのちに神奈川県警から聞いた話ですが、何てことをするのだろうと、本当に怒りに震えました。

そしてこの犯人はストーカー行為や、無言電話、脅迫状を、娘や、私たち家族へも送ってきました。当時1995年には、まだストーカーという言葉は、日本では使われていない、そういう時でした。このあとに、桶川ストーカー事件というのがありまして、その時からストーカーという言葉が日本中に広まったように、私は記憶しております。

無言電話や、脅迫状は私たちにも来ました。「早くあなたの娘を弘前に連れ戻しなさい。そうでないと、あなたの娘は、あなたの娘の友達に殺される」というような内容でした。本当に不気味な内容でしたし、何でそういうことまで分かっているのだろうと思いました。娘の友達に関しては、私も会いましたが、大学で知った非常に素敵な女性です。モデルさんではないかと思うほどきれいで、背も高くて、その方の名前が書かれてありまして、○○さんとここでは言いますが、「あなたは○○さんに殺される」という3行の文字の脅迫文が娘に届きました。それで夫は私たちに来た手紙をコピーして、本物を娘に送りました。すぐその手紙を持って警察に相談に行きなさいということを言ったわけです。そして、娘も自分に来たその3行の脅迫文と私たちの文を持って、その○○さんに一緒について行ってもらって警察に話を聞いてもらおうということで行ったわけです。

しかし、娘に特別何か危害があったということではないので、そこでは何かあったらまた来なさいということで終わったということでした。結局、何かあったというのは、その後、娘が殺害されるという大きな事件になってしまったわけです。

当時、娘の書いていた手帳を見ますと、亡くなる何箇月か前ですが、6月のある日にアルバイトには遅れたが、警察に行って相談して少し安心したという文字が書かれてありました。本当に何もしてはもらえませんでしたが、相談に行ったというだけで娘は何かホッとしたようです。でも何かしてもらえれば、もしかすれば娘の大切な命は奪われなくて済んだかも分からないというのが親としての本音です。

先日も、神奈川県の逗子市でストーカー事件があって、その女性が殺害されました。そして、犯人も自殺したというニュースが流れました。その犯人は20日間で1089通のメールを送っていたということです。私はその神奈川の新聞社から電話インタビューを受けました。「お宅の娘さんもストーカーによって殺害されたけれども、このことをどう思いますか」ということを聞かれたわけです。
 「私としてはたった1通の脅迫電話、あるいは、脅迫文それでも怖いのに、千何通ものメールが、本当にたくさん送られてきているという、そのことだけで、身体的被害と同じくらいに心に大きな被害を与えたと思います。何とか法的な処分が下されるといいと思います」という回答をいたしました。

本当にその当時は、まだ今のように携帯電話も普及しておりませんでしたし、ほとんどが電話や手紙という形でしたが、今はそういうメールなどが本当にたくさん来るという事件などもありますので、私たち親としても、いろいろな意味で気をつけなければいけませんし、一市民としても何とか法的な処分が下せるようになってほしいと、心から願っております。

娘の事件では、裁判で明らかになりましたが、加害者と娘はまったく私的な言葉は交わしたことがなく、そして一方的な犯人の行動であったということです。本当に娘はいつも誰かに後ろに付きまとわれているという感じを持ったようです。

夫が娘の部屋に出張で泊まった時に、東側と南側にベランダがあって非常にいいということで娘が決めた部屋でしたが、そこを開けようとすると「お父さん、そっちのほうに何か気持ち悪い人がいるから開けないで」ということで、カーテンを開けるのを拒否したということでした。その時もっと私たちが真剣にそれを考えていれば、娘のそういう事件に至らなかったのかもわからないというのが、夫婦の本当に悔しい思いにつながっております。

娘は当時、公務員を目指しておりました。そして、ぜひ公務員になりたいということで大学の勉強だけでは十分ではないということで、公務員を目指す専門学校にも通っておりました。その一方で、級友たちとサークル活動を通して、大学生活を楽しんでおりました。本当にたった1つの大切な命、そして夢、二度とない青春を無残にもこの加害者によって奪われてしまったわけです。

加害者は2009年の5月に仮出所し、2010年10月3日に14年の刑期を終えて社会復帰しました。しかし、娘は帰ってはきませんでした。本当にたった1つの大切な命、これはここにいらっしゃる皆さんそれぞれに大切な命を1つずつ持っております。それが誰かに命を奪われた時、本当に14年というのは、とてもとても私は短いように思います。このあと法律が改正されましたが、当時は15年というのが普通の、犯人への刑期だと警察の方から聞きました。

これは他殺による死亡者数の推移ということで、グラフで示されております。少し見づらいかもしれませんが、グラフがだんだん右に行くに従って少なくなってきます。これは年々、他殺によっての死亡者数が少なくなっているということで、ある意味ではよい傾向だと思います。その反面、他殺によって亡くなる人が少ないということは、その遺族の方は、周りにそういう経験者がいないということで、同じ体験をした人にお話をするということもできないということにもつながっていると思います。

そして1番左側、1995年の棒グラフです。この1番上に727という数字が書かれておりますが、これはその年727人が殺害されたという数字です。私はこのグラフをネットで見て本当に涙が出ました。727のうちの1が私たちの大切な娘の命だったということが分かったからです。人の尊い命を他人が奪うということは、その人だけではなくて、残された家族の大切な人生まで奪うということに等しいと、私は今も思っております。

これは私たちが、平凡でしたが、本当に家族が幸せな時の写真です。前列の真ん中に座っている子が次女です。次女の七五三のお祝いでお宮参りに行ったあとに、町の写真屋さんで撮った家族全員のたった1枚の写真であります。家族の中で写真を撮ることはあっても、写真屋さんで全員そろってというのは、この写真しか私たちにはありません。そして、皆様から向かって右側の白いブラウスの子が、亡くなった娘です。ちょうど小学校5年生くらいの時でした。まさか長女も自分が、そのあと何年か後に、人の手によって自分の命が奪われるということは、思ってもいなかったと思いますし、私たち家族全員が思ってもいませんでした。

これは同じくスナップ写真で、下の赤い洋服を着ている次女がセルフタイマーを使って撮った写真です。しましまの服を着た女の子が高校3年生の長女でした。長女は友達のうちでおいしいケーキをごちそうになったということで、そのケーキ屋さんに寄って、夫の誕生日にバースデーケーキをプレゼントしてくれました。腕組みをしている男性、夫の前にケーキがあるのですが、ろうそくがついているのもご覧になれるかと思います。このケーキを買ってプレゼントしてくれました。この時も私は小さな幸せですが、本当に感じておりました。

私たちはいきなり、犯罪被害者の遺族という立場になりました。それまでは家族でしたが、遺族、残された家族というつらい立場に立たされたわけです。本当にこういう犯罪被害者の遺族というのを、私も頭では想像していました。加害者に対しては、本当に恨みを、憎しみを持つだろうと思っていましたが、加害者だけではなく、いろいろな所、いろいろな人に怒りを感ずるということを初めて体験しました。世間であったり、運命や、神様、そして自分自身、警察、報道、裁判、いろいろな所にです。

裁判は当時は、遺影を持って入ることは許されませんでした。私は青森から夜行列車に夫と2人で乗って、そして横浜地方裁判所に行きました。本当に心細かったです。初めて私は裁判所という所に入りました。後々に横浜の地方裁判所は、娘が大学で見学のためにそこの裁判所に来る予定であったと同級生から聞きました。その裁判所で、娘は自分の命を奪った犯人の裁判を行ったということを、きっとあちらのほうの世界で見ていたのではないかと思います。

遺影は持って入ることはできませんで、受付でお預かりしますということで、無理やりというか、預けさせられてしまいました。私は娘が使っていた定期券に娘の写真を入れて裁判長に見えるか見えないかという微妙な感じで持って裁判を聞きました。

初めて裁判を傍聴した時に、加害者が最後に法廷に入ってきました。青白い顔をして、背の高い、わりとがっちりした体格の人でした。私は本当にその犯人を見た時、あの手で娘の大切な命を奪ったのだと思いましたら、傍聴席と裁判を行うそのちょうど真ん中に柵があるのですが、その柵まで行って本当にあの手を取って、何かを言いたいという衝動に駆られました。しかし、そういう行動を取ってしまいますと、出てくださいと言われると思いましたので、何とか自分の心をコントロールいたしました。

犯人は娘を殺した後に、なぜか殺した娘の魂が弘前のほうに行くだろうということで、実家のある地からレンタカーで、弘前まで向かったということです。そして、弘前のリンゴ園で自分も自殺を図ろうとして、結局は未遂に終わって、大学病院で命を取り留めました。私も当時、弘前大学に勤務しておりまして、病院の実習で学生を連れて行っていたわけです。私が行っていた病棟は精神科病棟で6階にありましたが、この犯人は4階の耳鼻科で命を取り留めたわけです。私はいつも非常階段を使っていましたので、6階から下りてくる時に、その4階の扉の所に耳鼻科病棟と書かれておりました。私はその耳鼻科病棟と見た時に、本当に悔しい思いをしました。ここの病棟の中で犯人は命を永らえているんだ。私たちの大切な娘の命を奪った犯人が、今度は自分の命を助けてもらっているんだという思いです。

一方、私はそういう被害者の母親であると同時に、看護者でもあります。看護者というのは人の大切な命を助けなければいけないという役割もあります。そういう助けるという役割、悔しいという母親の気持ち、本当に葛藤いたしました。

事件から長く経った時に、その耳鼻科病棟の師長さんが、私の娘であるということは皆さん知っていましたので、自分たちもつらかった、私の大切な娘の命を奪った犯人を自分たちは助けなければいけない。それは仕事上、必要なことなのでということで、私と同じくらいに葛藤したということを聞きました。その他、師長さんのほかに教え子たちも、耳鼻科病棟に勤めていた数人から同じようなことを聞きました。本当につらい思いをいたしました。

そして先ほど、七五三の赤い着物を着ていた次女は、当時高校3年生の受験生でした。娘も本当に突然の出来事でしたので、犯人が耳鼻科病棟で入院治療していた時に、学校帰りに制服のまま耳鼻科病棟に寄っていたそうです。そして、犯人の病室の前をうろうろしていて、警察官から帰りなさいということで注意をされて、帰ってきたということが何回もあったということを、後々になって警察の方から聞きました。本人からはそれを聞くことはありませんでした。私たちもまだ聞けないという段階にあります。

そしてここに、警察と書いてあります。この会場にも何人かの警察官の方もいらっしゃるかと思いますが、娘の事件を初めて知ったのは神奈川の警察署でした。そして、それを弘前の警察署に連絡をして、夫、私がそれぞれの職場で電話を受けたのは、弘前の警察署でした。夫は実際警察に行きましたら、「自殺ではない」というふうに言われました。私は「部屋で倒れている」ということを、それぞれ違う警察官から言われたわけです。「とにかく横浜に早く行ってください」と言われまして、本当に取るものもとりあえず2人で横浜に行ったわけです。そして夜8時過ぎに着きました。警察の職員の方がタクシーのところまで迎えに来まして、「報道関係の方が来ているので、こちらから入ってください」ということで、何か裏口のようなところから入ったような記憶があります。

そして、そこで初めて娘が同級生に殺害されたということを聞いたわけですが、本当にその時は鉄格子のあるスチール製の机と椅子のある、そういう部屋で夫婦で聞きました。その時に説明をしてくださった警察官は、私たち夫婦にとっては笑って言ったように見えたわけです。おそらくその方は、決してそういう大切なことを笑っては言わないと思います。でも私たちにはそう見えましたので、今でも夫と2人で、悔しいねということを言っております。

本当に大切なことを言う時には、相手がどんな気持ちで聞いているかということも考えて、そういう発言をしなければいけないと、私自身も肝に銘じておりますが、警察の方、本当にそういう被害者の方と直接、そして、初めて会うということになりますので、気を付けていただければありがたいなと思います。

これは当時、地方紙に出た新聞の見出しです。「女友達殺したと遺書」、それから別な地方紙には「無理心中」という大きな文字が縦書きになっておりました。このことが後々にいろいろな人から、女友達、お友達だったのね、無理心中、無理心中をするくらい親しくお付き合いしていたんじゃないというような、まったく思いもかけない言葉が返ってきまして、それが二次被害だということを実感いたしました。

加害者の人権は、本当に法的に守られているということを私は感じました。それは裁判に初めて行った時に、「あなたにとって不利になることは言わなくてもよい」と裁判長が言いました。これは本当に遺族にとっては悔しいです。もう被害者は亡くなって何も真実を述べることはできません。そして、一方の加害者には、不利になることは言わなくてもよい、これはとても心外です。せめて「この裁判をきちんと行うためには、真実をあなたは言ってほしい」となぜ言えないのか、これもまた法律を改正しなければならないという大きな壁があるわけですが、とても悔しい思いをしております。

そして、遺族としていろいろな場面で傷つけられました。「もう1人娘さんがいるからよかったね」「天国にお嫁さんにやったと思うといいね」「親より早く亡くなる子は親不幸だね」「どうして2人の仲を許してあげなかったの」「いい娘を持つとこういうことになるんだよ」「名前が良くなかったのでは」。私に対しては、「仕事を辞めると思ってた」「都会に若い娘を出すと怖い目に遭うんだよね」「あまり泣いていると成仏しないよね」等々です。本当にその家族にとって子どもさんが5人いようと1人いようと同じだと私は思います。2人だからもう1人亡くなっても、もう1人いるからいいよね。この言葉は亡くなった娘にも非常に失礼だと思いますし、家族にとってはとても傷つきます。そして、その天国にお嫁さんにやったと思うといいねという辺り、そして、どうして2人の仲を許してあげなかったの、この辺りも私たちからは何も言ってないのに、そういうふうに言われますので、あの新聞の見出しというのが非常に大きく影響していると思いました。そして、実際にその新聞のことを言った方もいます。「ああいうふうに書かれているんだもの、そうなの?」と聞かれまして、私たちはその時は「本当に違います」と述べましたが、不特定多数に向けられているそういう新聞や報道は、私たちの力で否定をするということも限りがあるわけです。

そして悔しかったのは、私から言わせると三流誌ではないかと思うような週刊誌に娘のことが書かれておりました。まったく私たちは知らなかったのですが、夫の後輩が出張した時に、その週刊誌を買って読んだら、何か先輩の娘のことではないかということで、夫に知らせたということでした。その週刊誌を私たちは手に入れることはできませんでしたので、国会図書館にまで行きました。国会図書館には何でもあると私も聞いていましたので、そこでその週刊誌を出して、コピーをさせてもらいました。読みますと、娘とその加害者はとても仲が良くて、娘の部屋の前でケンカをすることもあってとか、そういう内容が書かれてありました。そして最後は、断定している「……だ」とか、「……である」という文ではなくて、「……だそうだ」というような推量の言葉で結ばれておりました。私たちはその出版社の所まで行きました。階段を登れば、その会社があるという所まで行ったのですが、どうしても勇気が無くて、その扉を開けることはできませんでした。下の娘はどうして最後まで扉を開けなかったのと私たちを責めたりしましたが、本当に弱い親でした。

遺族としてうれしかったこともあります。それは亡くなった娘の命日や誕生日を覚えてもらえた時です。私は命日の時にお花が送られてくるということは、「ああ、そうなんだ」と納得ができたのですが、亡くなってからでも誕生日を忘れないで、お花やメッセージ、また、実際に仏前で手を合わせていただく、そういうお友達もおりました。

先日も弘前に出張してきたという同じ学部の男性が参りまして、サークルで一緒だったということで来てくれました。雨の中、夫と3人でお墓参りをして、その後、私たちの家で一緒に食事をしながら、飛行機の時間までいろいろと娘の話をしたりしました。その彼が仏前で手を合わせていただいた時に、いきなり「山内」と声をかけてくれました。たぶん学生時代から娘のことを山内と言っていたのだと思います。「山内、おれは結婚した。子どももできた」ということで泣き出しまして、ずっと泣いておりました。私も後ろにいて一緒に涙を流しておりました。本当に何年経っても忘れないでいていただいて、非常にありがたく思いました。

タイミングよく遺族の心の内を聞いてもらえた時、それから亡くなった人の思い出話をしてもらえた時、これも非常に遺族としてはうれしいです。娘の高校時代とか大学時代、特に大学時代は遠く離れて暮らしていましたので、ほとんど手紙や電話でしか様子を知ることができませんでした。ですからアルバイトをしていた時とか、あるいはサークル活動をしていた時、あるいは、学生として学校に通っていた時の様子を教えてもらいますと、そういう生活をしていて有意義だったんだな、楽しい友達がいてよかったなと思えます。本当にありがたいなと思っております。

こういうことが遺族に対して温かい気遣いを示してもらえたと、私は思っております。

娘は100人くらいいる大学のサークルに入っておりました。夏はテニス、冬はスキーというサークルで、その大学でも1、2を争うくらいの大きな所帯だったようです。その中で、いろいろと同じサークル同士の人たちがお互いを知り合うために、お互いの情報を書いて、それをひとつの冊子にして渡しているということが、後々になって分かりました。

その中には、自宅、自宅と言っても実家の住所や電話番号、今住んでいる部屋の住所や電話番号、自分の生年月日、好きな人とかアーティストとかを、全部フォーマットがあって、それに書き込んで、それを一冊の冊子にして渡していたようです。私は、私たち家族のもとへの無言電話や脅迫状がなぜ送られてきたのか不思議でした。でも、こういう冊子がその当時あったということが、もしかすれば友達の友達の友達という形で加害者へも渡って、私たちのもとへもそういう怖いものが来たのかなと思っております。

私の前の大学、そして今の大学というふうに大学での仕事をしておりますが、当時は本当に学生間でそういう冊子を作っておりました。でも、いろいろな事件がありましてからは、私が勤めていた大学でもそれを止めるようにということで、本当に親しい人にはその間だけで電話交換とかをすればいいのではないかというアドバイスをしながら、今ではそういうものは作っておりませんが、そういうのもこういう怖い事件に発展していくのかも分かりません。本当に気をつけなければいけないことだと思います。

このいろいろなデータの中に「あなたの尊敬する人」という項目があって、その中に「両親」と書かれていました。私たちは亡くなってからその冊子を見つけたわけですが、娘が書いてくれた尊敬する人「両親」というところには、とてもうれしさと、そしてまた、娘がそう思ってくれたことに対するありがたさというものを感じました。

娘はチューリップが好きで、赤い色が好きだったということで、私は赤いチューリップと自分で勝手に2つを結びつけて、いつも赤いチューリップが目につくと、非常にうれしく思ったり、売っているものであれば買ったりしています。ですから2月の娘の誕生日には、まずほとんどの人が、チューリップの花を必ず花束の中に入れてくれております。こういうふうにして覚えていてくれるのだなと思いますと、とてもうれしく、また、娘が今でも皆さんから覚えていてもらえていることをありがたく思っております。

そして、遺族を支えた言葉というのもあります。それは裁判で明らかになりましたが、裁判長が最後に被害者にはまったく落ち度がない。加害者の自己中心的な犯行である。この言葉は本当に後々に私たちを支えてくれました。加害者の自己中心的な犯罪であって、娘には落ち度がなかったのだというこのことです。

そして裁判をする過程で、被害者と加害者は一度も言葉を交わしたことがない。そして娘が最後亡くなる時、犯人に対して「私はあなたに何もしていないのに」という娘の最後の言葉があったということです。これは犯人が言った言葉ですので、一番信用したくない言葉ですが、この犯人の言葉を信ずるよりほかはないというつらさもあります。娘は非常に暗い部屋の中を逃げ惑ったようです。犯人は先ほど言ったように17か所の傷をつけて、頚動脈を切ってということでした。

私たちが娘の部屋に入ることを許されたのは、12月になってからでした。事件があったのは後々に10月2日ということが判明しましたが、私たちは12月23日に横浜に遺品を整理に行きました。

その時に入って驚いたのは、玄関のところの横の壁にぽつぽつと血液がついておりました。そして部屋に入るまで、その血液がもう2カ月も経っているのに、色も鮮やかさは失っておりましたが、はっきりと付いておりました。そして娘の敷いていたカーペットが、本当に当日、当時はたくさんの血液がついていただろうということが予測されるような、2カ月経っても血液がそこに染みついておりまして、これが娘の大切な命を支えていた血液であったと思うと、本当に家族で涙を流しました。

夫がいろいろ娘の通帳とかそういうものをきちんと整理をするために、横浜のいろいろな銀行に行っていた時に、下の娘と少し休憩を取りまして、ベッドのそばで話をしておりました。そうしましたら、いきなり昆布巻き状に丸まっていた布団がぱーっと開き、その布団の中に血液がたくさん付いておりまして、当時はどれだけたくさんの血液がここに付いていただろうということを想像させました。本当に血液というのは2カ月経っても、はっきりとあるのだなということを初めて実感したわけです。

遺族の気持ちというのは少しずつですが、変化しているように私は思います。家族の強い絆、これは本当に家族の中でしか、私たちは娘のことや、事件のことを言うことはできませんでした。やっと言えたのは6年経ってから、初めて私は専門誌、『看護教育』という雑誌に娘の事件のことを投稿しました。そのあとに地方紙でそのことが取り上げられて、県警に依頼されて講演したのは、そのあとまた1年過ぎくらいでした。60分くらいの講演でしたが、その間に途中で本当に話ができなくなるのではないかという心配がありましたが、何とか涙を流しながら話すことができました。そして、犯罪に対する強い認識と命の尊さです。そしてまた遺族の気持ちというのが理解できるようになりました。それまでは、先ほど言ったように加害者に向ける気持ちは何となく分かるような気がしておりましたが、その他にもいろいろなところに怒りがあるということを実感しております。

そしてまた、今日のように皆様方に私の体験を話す機会を得たということも、私の気持ちを支えているということにもつながりますし、私自身が生きているということにもつながっているように思っております。

そして娘の事件をきっかけに報道関係の方であったり、警察関係の方であったり、生涯知り合いになることはないだろうという職種の人とも知り合うことができまして、これもまた、娘のこの事件がある意味で結びつけてくれたのかなというふうにも思ったりしております。

亡くなった人との思い出というのは、本当に私は大切にしなければいけないと思います。今日のパワーポイントの背景は花火です。花火は普通夏のものだと思うのですが、私は花火が大好きです。そして亡くなった娘も花火が大好きでした。私が横浜に遊びに行った時、よく2人で横浜にあるランドマークタワーというタワーから花火を見たり、隅田川の花火を見に行ったりしました。隅田川の花火大会は98万人とか100万人近い人が出るんですよね。来る時はみんなそれぞれいろいろな方向から来るのですが、終わった時は一斉に皆さん駅に向かいますので、全然電車に乗ることができなくて、結局、花火大会を見た時は、娘と2人でまた隅田川の橋の所に行きまして、そこで何時間か過ごして、少し人が少なくなっただろうという夜中に、最終電車だったと思いますが、それに乗って帰った記憶があります。

その時に、娘とちょうど旅館街の前を通ったんですね。今思うとどの辺かまったく分からないのですが、その旅館街を通った時、私は冗談ぽく「ここに今日は泊まろうか」という話をしました。そしたら娘は「お母さん泊まろう、泊まろう」と本当に真剣に言ったわけです。私のほうがびっくりしてしまいまして、あとで考えるとあの時はもしかすると自分の部屋に帰るよりも、こういう知らないところに泊まったほうが怖くないということだったのかなと思ったりもしております。

そして、橋に行っていろいろな話をしましたが、私はその思い出の橋にまた行きたいと思いまして、今度は昼の時間帯にその橋に行こうとしました。ところが隅田川というのはすごく長い川で、橋が何本もかかっているので、どの橋かまったく分からなくて、言問橋という橋は記憶にあるのですが、その言問橋をいくつか過ぎてからというのは分かるのですが、それが左に行ったのか、右に行ったのか記憶がごちゃごちゃで、今でもその橋がどこなのか考えております。本当に思い出はありますが、それを特定できないというところに悔しさがあります。

これは周和荘軽井沢と書いてあります。娘はサークルでテニスをして、夏に100人くらいのメンバーで行っているわけです。そこの民宿からもらったカップだったらしいです。私は横浜から遺品を整理した時に、このカップを包んで持ってきたのですが、うちで開けましたらカップの取っ手が取れていました。私はその取っ手を失わないように、そのカップの中に入れて、そのままあるところに置いておいたのですが、ある時ふと思ったわけです。

周和荘軽井沢ということは、娘が泊まったホテルというか民宿だと思いまして、当時娘が周和荘に泊まっている電話番号はここです、でも何かあったら電話をかけてくれてもいいが、いつでもかけてはほしくないというふうな手紙がありまして、私はここにかけてみようと思って電話をしました。そしたらそこでは「うちは大学生の人を主に泊めております。しかも、そういう100人くらいの単位で、いろいろな大学が時期をずらして泊まりに来ているので、普通の方は軽井沢にはたくさん素敵なペンションがあるので、そちらに泊まったほうがいいです」というふうに言ってくれました。でも私は理由を言わず、「お宅でないとダメなんです。なんとか泊めてほしいのですが」ということでお願いしました。何かを感じたのか、「では、女子学生の人にお願いして1部屋空けておきます」ということで当日行きました。

娘が亡くなってから見た写真で周和荘の玄関とか、中に入ってからの階段とかありまして、娘はここで友達と集合写真を撮ったのだなと思いましたら、涙が出てきました。その姿にびっくりしたのだと思いますが、周和荘のご主人が「どうしたのですか?」と聞きました。実はということで、娘の事件のことを話しました。そしたら、「そこの大学では、女子学生の方、みんな朝お手伝いしてくれました。きっとお宅の娘さんも、その中の1人だったと思います」と言ってくれました。

そして次の日はとてもお忙しい中、奥さんが軽井沢のテニスコートまで連れて行ってくれました。私はここで娘たちはテニスを存分に楽しんだのだなと思って、そこでもまた涙をして、あとはゆっくり1人で帰ってきました。そういう思い出のあるところです。

そして私が自宅に帰ってから間もなく、周和荘さんからお香典と長野の巨峰が送られてきまして、非常に恐縮したありがたい思い出もあります。

先ほど言いました娘は赤色が好きで、花はチューリップが好きということでした。これもあとで分かったことですが、その後、娘の部屋に行ってみますと、文房具のホッチキスとか、紙ばさみとかそういうものすべて、どこかに小さな赤いチューリップが付いていました。娘はこのようにしていろいろなものを集めていたのだということが分かりまして、それから私は外国に家族で行った時とか、出張した時とか、こういう赤いチューリップを見つけると、つい買ってしまうという状況になりました。

この他にも仏壇の中に飾ってあるものもあります。幼稚園の子どももよくチューリップの花を描きますよね。1番簡単に書ける花で、娘もそう言えば、幼稚園の頃チューリップを描いていたなということを思い出しました。

これは娘が初めてで、最後の海外旅行に行った時のものです。サイパン旅行です。先ほど言いました○○さんと2人で、格安運賃で行ってきたらしいのですが、すごく楽しかったようです。

これはワイド写真で、海をバックに両手を広げて撮ったものです。○○さんが撮ってくれたものだと後で聞きました。これは本当に初めての海外旅行で、解放感に浸ってこのポーズを取ったのだと思いますが、私はこの写真をワイドのままで仏壇の横に飾ってあります。

私はこの写真立てを拭きながら、「いつかは必ずお父さんもお母さんもそちらに行くからね」と語りかけています。何か天国で待ってるよというふうにも見えまして、そういう語りかけをしています。

本当に亡くなってから初めて分かったこともありますし、高校時代の友達は「陵子ちゃん」と言ってくれます。そして大学時代の友達は「陵子」と言ってくれます。そういう人たちから彼女のいろいろな出来事を聞かされ、そして私たちもまた家族であった出来事を話してお互いに「そういうことがあったのですね」ということで、また涙を流したりしております。

最近は涙を流すよりも、いろいろな思い出を語りながら、笑い合うことも多くなりました。いつも来てくれる友達が、自分に来た年賀状をいつも肌身離さず持っている。それをお父さんやお母さんは見たことがないでしょうけれどもということで、カラーコピーをして夫と私に持ってきてくれました。それもまた私は非常にありがたいと思って大切にしております。

本当にそういうふうにいろいろなところで優しい心遣いを見せてくれる友達に接しますと、こういうお友達に囲まれて娘も本当に楽しい、有意義な高校時代、大学時代を過ごしたのだなと思って感謝をしております。

今日は1時間お時間をいただきまして、私が遺族として体験しましたいろいろなことをお話しさせていただきました。本当にご清聴ありがとうございました。

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