■鹿児島大会:基調講演

テーマ:「東名高速酒酔いトラック事故で子ども二人を失って ~被害者遺族になって感じたこと」
講師:井上保孝・郁美夫妻(飲酒・ひき逃げ事犯に厳罰を求める遺族・関係者全国連絡協議会 幹事)

井上保孝: 皆様、こんにちは。御紹介をいただきました井上保孝と郁美です。千葉県千葉市に住んでおります。

本日は、平成23年度「犯罪被害者週間」国民のつどい鹿児島大会にお招きいただきまして、私たちが遭ってしまった事故のこと、感じたこと、そして今行っている活動について、お話をさせていただく機会を頂戴いたしました。最後までお聴きいただいて、命の大切さ、人の命は奪っても奪われてもいけないことを御自身のことと感じていただいて、自分にできることを考えるヒントにしていただければと思います。

それでは私から、遭ってしまった事故のことからお話をさせていただきます。

あれは、平成11年11月28日のことです。一昨日で丸12年が過ぎました。私たちは思い立って箱根に1泊の家族旅行に行きました。事故前日の夜、子どもたちと温泉につかり、当日の朝、芦ノ湖で遊覧船に乗り、紅葉を楽しみました。昼食の後、千葉に向かう高速道路が混雑しているとのことで早めに箱根を発ち、帰宅の途につきました。

東名高速東京料金所を過ぎ、首都高速用賀料金所にさしかかる手前で、私たちの乗用車は11トン大型トラックに追突されました。大型トラックと乗用車がくっついたような状態で50メートルほどガガガガッと押されました。その間に火が出ていたのでしょう。前の車に衝突して止まったときには、炎に包まれていました。運転していた郁美は、かろうじて自力で脱出することができましたが後部座席で眠っていた長女奏子(かなこ)、当時3歳7カ月、次女周子(ちかこ)、1歳11か月の2人は逃げることができず焼死しました。「あちゅい」という言葉を残して。助手席にいた私は、かろうじて引っ張り出されたのですが、背中と左腕に大やけどを負い、救急車で救急病院に運ばれて緊急手術を3回受けました。約3か月半入院し、その後も入退院を繰り返しました。現在も週に1度、会社近くの整形外科で機能回復のリハビリに通っています。

トラックを運転していた加害者は、海老名サービスエリアで昼食休憩をとりました。そのとき、大阪でフェリーを下りる際に買い込んだ缶入り焼酎飲料を飲み干し、それだけでは足りずに前日の夜、高知の自宅から持ち込んでいた700ミリリットル入りウイスキーひと瓶の約6割をフェリーの中で飲んでいたのですが、残っていた約4割もストレートで飲み干してしまいました。アルコールの影響が残っていると自覚しながらも、配達の時刻に遅れないようにと1時間ほど仮眠をとっただけでハンドルを握り、東京方面に走り出しました。東名高速の3車線を全部使うようなジグザグ運転を約40キロ繰り返し、周りのドライバーが「あのトラックは危ない」という情報を11件寄せていたのですが、誰も止めることができず、私たちの乗用車に追突して止まりました。加害者運転手は呂律が回らず、フラフラした状態で現場付近をうろついている姿がテレビカメラに収められていました。

加害者運転手は事故直後、警察官に逮捕されアルコール呼気検査をしたところ、呼気1リットル当たり0.63ミリグラムという高い濃度のアルコールが検出されました。加害者運転手は業務上過失致死傷罪と道路交通法違反(酒酔い運転)の罪で東京地方検察庁に送られました。東京地方検察庁は、同じ罪で東京地方裁判所に起訴しました。そして、東京地方検察庁の検事は、加害者運転手に対して懲役5年を求刑し、東京地方裁判所の裁判官は、加害者運転手に対して懲役4年の判決を言い渡しました。

判決公判の日、私たちは司法関係者から、こう言われました。「業務上過失致死傷罪で懲役4年というのは非常に重い」。「求刑が懲役5年で、判決が懲役4年というのは、いわゆる八掛け判決といって、満額に等しいんだ」とも言われました。70年、80年と生きられたであろう娘たちの命の重さに比べて、懲役4年というのは余りにも軽いのではないか。私たちはそう感じて、東京地方検察庁に控訴してくれるよう訴えました。東京地方検察庁は、私たちの訴えを聞き届けてくださいまして、異例の控訴となりました。こうして東京高等裁判所での控訴審が行われましたが、控訴審の判決は控訴棄却、1審の判決は不当ではないとの判断を下して加害者運転手に対して懲役4年の判決が確定してしまいました。

私たちは2度にわたる刑事裁判を通じて、疑問に思ったことが2つありました。

一つは、加害者運転手は、事故当日、初めて酒を飲んで運転したわけではなく、過去十数年にわたって飲酒運転を繰り返していた常習の飲酒運転手でした。常習の飲酒運転手が事故を起こして人を殺めても業務上過失致死傷罪、つまり、誤ってとか、間違ってとかという「過失罪」でしか裁けないことでした。

もう一つの疑問は、私たちの子どもたちはただ後部座席でスヤスヤと眠っていただけにすぎません。にもかかわらず、命を落とさなければならなかった。私たちから見れば、殺人と何ら変わりはありません。殺人罪であれば、無期懲役だって死刑だってあります。ところが、業務上過失致死傷罪というのは懲役5年が最高刑、人を何人殺めても、懲役5年が最高です。

私たちは事故から約半年後、一人のお母さんに出会いました。母一人子一人で、一人息子さんを大切に育てている方でした。お母さんの期待を担って、一人息子さんは希望の大学に入学しましたが、入学式の後、夜に友人と歩道を歩いているときに暴走車にはね飛ばされ、友人もろとも即死するという事故に遭って亡くなりました。その暴走車は、飲酒運転、スピード違反、無免許運転、無灯火、無保険、無車検の車でした。お母さんは「そのような加害者に対しては死刑でしょう?」と警察で尋ねたら、警察官は「いえ、お母さん、車を運転していて人を死に至らしめたら、業務上過失致死罪というのが適用されます。その最高刑は懲役5年です」と言われて、お母さんは愕然としました。今の日本の法律は、人の命の重みが反映されていない。このような法律は変えてもらわなければいけないと署名活動を始めました。私たちも全く同じ気持ちでしたので署名活動に参画しました。

生まれて初めて街頭署名に参加しました。道行く人たちにマイクを握って「私たちは東名高速で酒酔いトラックに追突され、娘2人が焼死し…」と呼びかけますと、多くの人が振り返って「あの事故はひどかった。でも、刑罰は軽かった」と言って署名をしてくださいました。また、ある人は「署名活動だったらお手伝いできるかもしれない。近所を回りたいから署名用紙をください」と用紙の束を持って帰ってくださいました。この日の様子がテレビや新聞で報道され、インターネット、FAXを通じて全国に署名用紙が配られ、全国から署名簿が送り返されてきました。また、街頭署名活動も私たちと同じ思いの被害者遺族が一緒になって、全国で展開されました。そして、全国から返ってきた署名数は37万4,339に達しました。この署名簿を4回に分け、当時の法務大臣に提出しました。

その間、国が私たちの思いを受けとめてくださっていました。刑法改正案を検討してくださっていたのです。そして、平成13年秋の臨時国会で刑法改正案が国会に上程され、衆議院を通過した後に、11月28日、危険運転致死傷罪の新設を含む刑法改正案が参議院で全会一致で可決成立しました。奇しくも11月 28日は、娘たちが私たちの元から旅立った日でした。きっと娘たちが、いつまでも自分たちのことを覚えておいてほしいという、精一杯の自己主張をしているのだと私たちは勝手に解釈しています。

こうして成立した危険運転致死傷罪は、酒酔い運転や危険な運転によって人を傷つけたり、人を死亡させたりしたら、過失犯ではなく故意犯として処罰される。そして、その最高刑は人を死亡させた場合は懲役15年以下、傷つけたら懲役10年以下、と大幅に厳罰化された法律です。私たちが疑問に思っていた二つの点が形になった法律だと思っています。この危険運転致死傷罪の最高刑はその後さらに引き上げられて、人を死亡させた場合は懲役20年以下、人を傷つけた場合は懲役15年以下と厳しくなっています。

危険運転致死傷罪は平成13年12月25日から施行されて、翌14年の1年間に322件の適用例があったと報告されています。私たちは元来、この法律が適用されるような事件・事故は起きてほしくはありません。しかし、危険で悪質な事件で人が亡くなったり傷ついたりしたらこの法律が適用されて、危険な運転をすればこれだけ厳しい罰則が待っているのだとこの法律が抑止力となってくれることを願って、その後もこの法律の行方をずっと見守ってきているところです。

そういった中で、私たちは新たな課題を感じるようになりました。この法律ができてから飲酒運転による死亡事故は、それまでの約4分の1にまで減ってきています。その一方で、ひき逃げが急増してしまいました。いけないと分かっていながら酒を飲んで車を運転し、事故を起こして現場から逃走する「飲酒・ひき逃げ」が多く含まれているのではないか。酒を飲んで事故を起こして、現場から逃走して、アルコールが抜けてから自首する。あるいは捕まっても、事故当時どれだけアルコールの影響があったかは分からなくなって、結果的に危険運転致死傷罪が適用されにくくなる。こういうことを狙っての飲酒・ひき逃げというのが増えているのではないかと思います。

同様に「重ね飲み」という事象も起きてしまいました。酒を飲んで事故を起こして現場から逃走し、コンビニに駆け込んでアルコールを購入し、その場で飲んで「気が動転していたので、静めるために事故後に酒を飲んだ」と言ってごまかす悪質なケースもあります。

あるいは、福岡で起きた3児死亡事件加害者のように飲酒運転で事故を起こし、現場から逃走して友人に水を持ってこさせて、水をがぶ飲みしてアルコール検知の数値をごまかそうとしたという例もありました。これは、逃げてしまえば刑罰が軽くなるということを狙っての悪質なケースだと考えられます。逃げたほうが刑は軽くなる「逃げ得」を無くしてほしい、危険運転致死傷罪の持つ「抑止効果」を取り戻してほしいと感じるようになったのです。

平成19年、二つの法改正がありました。一つは、自動車運転過失致死傷罪が刑法に新設されました。これは、従来の業務上過失致死傷罪の中から自動車運転に係るものを切り出して、その法定刑を5年から7年に引き上げるという法律です。もう一つは、道路交通法の中の救護義務違反であるひき逃げに対し、懲役5年が最高刑だったのを、懲役10年に大幅に厳罰化したものでした。しかし、この二つの法改正をもってしても、いまだに逃げ得というのがなくなっていない現実をお話しします。

現行犯で逮捕された場合、酒酔い運転であったと立証されれば危険運転致死傷罪が適用され、最高刑は懲役20年までとなる可能性があります。一方で、逃げて「酒の影響により正常な運転が困難であった」とは立証されなかった場合、自動車運転過失致死傷罪(懲役7年が最高刑)、道路交通法違反(救護義務違反) の懲役10年を合わせても懲役15年が最高刑ということになります。つまり、逃げて危険運転致死傷罪を逃れたら刑罰が軽くなるという法の抜け穴があることにお気づきいただけたかと思います。

その最たる例は、福岡3児死亡事件の一審判決の結果でした。

一審では危険運転致死傷罪が適用されず、当時の最高刑だった懲役7年半という判決になりました。2審の高等裁判所で逆転判決が出て、危険運転致死傷罪が適用されて懲役20年という判決に変わりました。そして、つい最近、最高裁でこの2審判決が支持されました。加害者側の上告は棄却され、最高裁として危険運転致死傷罪の判決を認めるという新たな判例ができました。この先も危険運転致死傷罪をめぐって様々な問題が生じるかと思います。私たちは飲酒・ひき逃げ、救急車を呼んでくれていれば助かったかもしれない命を見殺しにして逃げたほうが、刑罰が軽くなるということは無くなってほしいという思いで現在も署名活動を続けております。お手元の資料の中に署名用紙を入れてあります。持ち帰っていただいて署名を集めていただけたらと思います。会場にも署名用紙を用意してございますのでお帰りの際に署名に御協力いただけたらうれしいです。すでに52万5千人を超える署名簿を歴代の法務大臣に提出しております。飲酒・ひき逃げの逃げ得が無くなるまで、署名活動を続けていきたいと思っています。

引き続いて、郁美から話をさせていただきます。

井上郁美: 私からは、事故当時の写真を見ていただきながら始めたいと思います。

これは、事故の翌日、平成11年11月29日付の朝日新聞に載った記事です。とても珍しいことに、事故がまだ進行中に撮られたこの写真が掲載されていました。この写真が撮られていたとき、まだ奏子、周子ともこの車から救出されていませんでした。

大型トラックが、その前輪を私たちの乗用車のトランクに乗り上げるような形でやっと止まりましたので、2台の車はほとんど一体となって爆発的に炎上しているわけです。

よく見ていただきたいのは、私たちの乗用車の前の部分です。片方だけヘッドライトが点いているのが分かるでしょうか。事故当時、主人と運転を交代して私がハンドルを握っていました。事故が起きたのは午後3時半頃。11月末とはいえまだ外は明るい時間帯でした。私は、高速道路を運転しながらライトを点けていたわけではありません。多分、追突されたはずみでライトが点いてしまったのだと思います。そして、私自身もこの光景を自分の目で見て不思議に思ったのを覚えているのですが、これだけ燃えているにもかかわらず、最後までこの片方のヘッドライトは点いていました。つまり、最後まで電気系統だけはつながっていたということになります。

追突されるまで、運転していた私以外の家族3人は旅の疲れからか眠っていました。あと1時間もすれば自宅に到着する予定でした。ところが、突然大きな衝撃を覚えてみな飛び起きました。「わあーっ」という声を上げました。何が起きてしまったのかも分からない。でも、本能的に「逃げなければ」と思いました。逃げようと思いましたがドアは開かなくなっていました。「窓から逃げよう」と声をかけて、運転席側の窓の電動のボタンを押したら電気系統に異常はなく、窓がスルスルとおりてくれました。そうして私だけは奇跡的にほとんどケガを負うこともなく車から脱出することができました。でも、すぐに振り返って、後部座席の娘たちを助け出さなければと思いましたがもはや後部のドアに触ることはおろか近寄ることさえできないほど、車の後ろ半分は完全に炎に包まれていました。その瞬間「ああ、もう奏子たちはだめなんだ」と悟ってしまったのを覚えています。もし、ヘッドライトが点かなくなってしまっていたら、後ろにいた娘たちだけではなく、私も後から引っ張り出された主人も、私のおなかの中で順調に育っていた3番目の小さな命も、この日高速道路の上で終わっていたと思います。

こんな生々しい話を、今日、皆様の前でできるのは偶然の賜物にすぎません。なぜ、私たちだけは助かってしまったのだろう。なぜ、3歳と1歳の娘たちがこんなところでこんな形で命を奪われなければならなかったのだろう。その後、何百回この写真を見てもやはり私たちにはその理由は分かりません。

ほとんどの物が焼けてしまいました。わずかに、押しつぶされたトランクの中でかろうじて残骸として残った家族旅行の荷物の一部分、着替えの一部分、奏子が使っていたバスタオルのちぎれた部分、お風呂に入るために毎日のように使っていたので箱根にも持っていった、プラスチックのキティちゃんの絵柄の入った手おけ、その破片だけしか残っていませんでした。でも、ちゃんと焼け残っていた物もありました。次女・周子が座っていたチャイルドシートのバックルです。バックルは金属製なので焼け残っていました。3点固定式のチャイルドシートで肩のあたりから2本のシートベルトを、おなかのあたりにあるこのバックルに2か所装着する仕組みになっています。このバックルはちゃんとシートベルトがはまったままの状態で焼け残っていました。周子は最後までシートベルトをしていました。子どもたちは親や先生方から教わった、命を守るための大切なルールをちゃんと守っていました。ルールを守れなかったのは、34年間も職業として大型車を運転していたプロのドライバーのほうでした。

先ほど主人が「背中と左腕に大やけどを負い」とサラッと言いました。でも、耳から聞こえる情報は、皆様の想像力に任せないといけないところが多々あります。まったく同じことが法廷でも言えました。

主人が傍聴席にスーツを着て、前を向いて座っている限り、裁判官にも検察官にも弁護人にも、ケガを一番よく見て知ってほしい被告人本人にも全くと言っていいほどやけどのことはピンと来ていないようでした。裁判中にテレビで特集された際に主人の傷跡が映りました。それを見ていた担当検事が、ただちに家に電話をしてこられました。「井上さん、映像を見ました。ぜひ、あれを、お手持ちのカメラで撮ってきてください。追加の証拠書類として裁判所に提出しましょう」と。

そうやって撮った一連の写真を見ていただきますと、おなかの部分で長方形に明らかに不自然に赤くなっているのが分かると思います。やけどの度合いには1度、2度、3度と3段階あるそうです。最も重い3度のやけどを負ってしまうと、自分の力で皮膚が再生しなくなってしまっています。そのために、体のほかのところから健康な皮膚を削り取って受傷した部分に植えかえる植皮手術を何度も受けなければならなくなります。そうやって削り取ったところも、こうやって色が変わっているわけです。

背中を御覧ください。事故から12年経ちますがケロイド状になってしまっているところはこれ以上良くはなりません。事故現場で直接火に焼かれてやけどを負ってしまったのは体の約25%でした。事故後、主人は7回の手術を受けているのですが、その都度、ふくらはぎとか太もものところから削り取った皮膚も合計すると体の25%を超えています。簡単に言いますと、主人の体の半分以上が何かしらの形で傷ついてしまっているということになります。

この傷ついてしまったところからは、見事に汗が一滴も出なくなってしまいました。汗腺が傷ついてしまったのだと思います。健康な人でしたら、汗をかくことによって体温を平熱に保つ体温調整機能が働きます。でも、主人は、その能力が普通の人の半分以下になってしまったわけです。最近は毎年のように暑い夏を迎えます。普通の人でもこたえる夏の暑さですが、主人は夏を迎えるはるか手前、2月、3月ぐらいから汗をかいては、体温調節をすることに苦労しています。

これまで主人は7回しか手術を受けていません。会社に勤めながら入院するとなると最低でも仕事を1カ月程度は休まないといけないなど、不都合も多々あるために思うように手術を受けていないのです。やけどをした患者さんたちに話を聞くと「私、今回で17回目です」「私は23回目です」と普通に仰います。整形外科でリハビリを続けながらも、それ以上良くならないところを手術によってちょっとだけ良くしていく。でも、それを永久に繰り返さないといけない。つまり、主人は永久に治らないケガを負ってしまったことになります。

私たちが当事者として支援を様々な形で受けながら、あるいは、私たちがこの12年間の中でこんな支援があったらもっと良かったのにというふうに思ってきたことを、簡単にまとめてみました。振り返ってみれば、大きく3段階があったと思っています。

まずはじめは、事件直後の時期です。このときに警察の方、被害者支援センターの支援員、あるいは被害者の周りの家族や親類、近所の人、学校の先生といった人たちがどんなことに配慮してくれたら事件・事故直後の時期、楽になっただろうと思います。やり直しがきかないことがいくつか起きてしまうときに、周りの人が支援してくださったらと思っています。

人が亡くなる事件・事故でしたら、葬儀の準備というのが始まるかと思います。一般的には通夜が翌日、翌々日に行われて、その翌日に告別式が行われるというふうに段取りが進むのかもしれません。でも、犯罪に遭ってしまった、事件・事故に遭ってしまったとき、誰のために弔うのか、誰のために亡くなった人の葬儀をするのかという視点に立ってみれば、冷静な判断ができるのではないかと思っています。

予期せぬ事件に遭って家族4人のうち子ども2人が亡くなってしまった。主人は当分、病院から出てくることができないほどの重傷。私は当日、帰っていいですよと言われてしまうほど奇跡的に軽傷、我が子の命が絶たれた場合、どんな葬儀ができるのでしょう。主人が退院するのを待ってからしたらどうか、身内だけで密葬でしようなどと周りで話し合っている。私は、亡くなった奏子、周子が一番お世話になった人たちが、きちんと別れをできるようにするための葬儀が大事なのではないと思いました。慣例的な葬儀に、犯罪に遭ってしまった場合には必ずしもこだわらなくていいのではないかと私は感じました。

事故直後に病院や警察で、遺留品を渡されるケースがあります。主人も救命救急センターに担ぎ込まれて、最初に頭を丸坊主にされて、服はビリビリと裂かれました。その服がいつの間にか処分されていました。病院の人は、私以外の身内の者に「これ、処分しますよ。よろしいですね」と簡単に聞いたのだと思います。でも、これは事件、犯罪の大事な証拠なのです。血まみれの遺留品を簡単に「処分していいですか」と警察の人、病院の人に言ってほしくないと思います。遺族が混乱していて「処分してください」と言ったとしても「これは厳重に袋に入れて大事に持ち帰って、押し入れかどこかに保管されたらいいと思います」と、一言添えてくださるといいのではないかと思います。

先ほど説明したバックルも、廃棄車両の中に落ちていた金属のかけらにしか見えないかもしれません。警察官も気がつかないかもしれない。でも、私たちにとってはバックル一つがとても意味のあることなのです。簡単に処分されてしまわなくて良かったなと、これを見つけたときに改めて思いました。犯罪に巻き込まれた人に近しい場にいる職業に就いていらっしゃる方であればこそ「しばらくは、どうか保管ください」と、一言アドバイスしてもらえたらと思います。

二度と被害者を訪れない、訪ねてこないかもしれない典型では加害者の関係者がいます。通夜、告別式に加害者の関係者が焼香に来る。すると身内から「ばかやろう、帰れ」と追い返してしまう。よくドラマにあります。ドラマではいいかもしれないけれども、私は決していいことだとは思いません。

加害者が被害者に会いに来る。どんな顔をしていたのか、どんな言葉を口にしたのか、焼香には誰と一緒に来たのか、そして何と詫びたのかはとても大事な情報です。情報を得る機会を門前払いで遮断してしまうのは、被害者が知る権利を阻んでしまうのではないかと思います。被害者が会いたくないと言っても誰かが代わりに会って話を聞く、どんな格好をしていたか様子を見る、メモをする。後日、被害者が聞きたくなったときにあったままを伝えられる冷静な第三者がいてくれてもいいのではないかと思います。

私たちの場合も、病院に加害者の関係者である運送会社の役員が何人も来ていたそうです。私は会いたかったのですが、身内に「おなかの赤ちゃんに障るからやめときなさい」と言われ会えませんでした。非常に悔やまれました。この事実を知ることができたのはかなり月日が経ってからです。あなたがそんなに知りたがっていたとは思わなかったと、姉がそのときの様子をメモに起こして教えてくれて「加害者たちはずっと立ちっぱなしで、ただ頭を下げていたんだ」、そんな光景を思い浮かべました。

私たちの場合は加害者の関係者と、その後も何度か会うことができました。しかし、特に交通事故の場合は、加害者が被害者を訪ねて直接謝罪に来るというのは1回きりかもしれないわけです。「被害者に断られたから、もう行かないほうがいいと思いました」と言う加害者の関係者もいます。あるいは「保険会社に、もう行かなくていいと言われました」とも。事故直後だったら率直な詫びの言葉を聞けたかもしれないのに、何日も何か月も経つにつれて、加害者の中でも言い訳の気持ちが膨らんできてしまったりするわけです。当日だったら真実が分かったかもしれないのに、年月を置いてしまったために真相が分からなくなってしまった、本当の加害者の気持ちが分からなくなってしまったのではまずいと思います。警察関係者、被害者支援の専門家の方々には、ぜひ被害者、当事者に意向を聞いてほしい。「どうされますか。会われますか。会いたくなければ、私が代わりに会っておきますね」というふうに仲介してくださったら助かります。

事件後の状況はどんどん変わってしまいます。目撃者も直後ならすぐに見つかったかもしれないのに、時間が経ってしまえば事故が起きたことすらほとんど知られないまま忘れられてしまうかもしれません。事件直後の苦しい時期こそ、現場の状況、事故の真相が分からないで悔やむことがないようにしたいのです。この時期、体はしんどいし心は目一杯辛い。目撃者、証拠を警察は捜査してくださっているとはいえ、警察の捜査の情報が全て被害者にもたらされるとは限りません。

数週間から数か月が過ぎた頃は、少しずつ事件・事故の真相が明らかになってくる時期と重なります。事故の真相が分かるにつれて疑問もわいてきます。私たちも、加害者であるトラック運転手は当日、飲酒をしていたということまでは分かりました。ではなぜ、運送会社の人たちは分からなかったのだろう。家族はどうしていたのだろう。どんな家庭に育ったのだろう。疑問が次から次へとわいてくるわけです。そうしたことを知り得る手だては何があるだろうかとも考えます。自分自身で動くのが一番いいかもしれません。でも、なかなかそういう状況にいない被害者が多いと思います。私たちも入院したり、赤ちゃんを産んでいたりで全く自分たちで動けませんでした。何局かのメディアの関係者が高知まで行って、調べてくださったりもしました。でも、そうしたチャンスに恵まれない被害者も多いと思います。探偵を雇う、知り合いに頼むことも考えられます。この時期に情報が入れば入るほど、自分たちに何が起きてしまったのか、自分たちの家族に何が起きてしまったのかを知り得る手だてになるわけです。

横浜で数年前に、看護師3名が暴走車にはね飛ばされて即死した事件がありました。残された御家族、兄弟などが真相を知りたいと現場で署名活動をして危険運転致死罪の適用を求めると同時に情報提供を訴えました。私たちも協力しました。事故の現場付近で署名活動をすると色々な情報が集まります。署名しながら「私はあのとき、事故を起こした車の2台後ろにいました」と情報をもたらしてくださった方、「あの交差点はあの信号ひとつを無視すると、ずっと青信号が続く道路なので信号無視が有名だった」と地元の人しか知らないような情報が遺族にもたらされました。署名活動できる方ばかりではありませんから推奨しているわけではないのですが、情報を手に入れる良い手段ではあります。身近に被害に遭われた方がいて、御自分で動けない場合、例えば図書館で新聞記事を調べる。同様の事件の裁判経過などを集めてくれるだけでも、大変助かるわけです。

裁判になると、司法という非日常的な世界に被害者は引きずり込まれていきます。司法という不慣れな土俵の上で、どういう主張ができるのかの選択肢を専門家の方々に提供していただけたらと思います。この10年で、私たちが事故に遭った頃からは考えられなかったくらいに法律や制度が目まぐるしく変わりました。被害者の側にも法廷の中に入って裁判に参加する権利が与えられましたし、裁判員裁判が適用される場合もあります。適用されたらどんなことができるのか、被害者として何ができるのか、ぜひ、支援される側の方々もお考えをいただき、選択肢を提供していただけたらと思います。

事故の真実が明らかになる時期には、心と体のケアが非常に重要になってきます。

事故直後の数日、数週間、被害者は気が張っているので元気に見えるのです。告別式で気丈に振る舞っていたねとよく聞かされました。でも本当は、自分でも分からないぐらい疲れているかもしれない。けれども、倒れるわけにはいかないので何とか持ちこたえているわけです。それも限界になってくる時期が来ます。そんなときに支援センターであったり、民間の自助グループであったり、同じような境遇の人たちとただ話がしたい、ただ会いたい、話を聞いてもらうだけでもいいと思うのです。被害者同士でなくてもいいと思います。

私の親友の何人かは、ただ「家に行くよ」「何かすることがあったら言ってちょうだい」と言ってきました。「顔を出しても、郁美の子どもたちと遊ぶだけにしとくから」。こうした気持ちは大変助かります。来てくれれば雑用を頼めます。「新聞記事をスクラップするの、手伝ってくれる」と。その作業をしながら「この間ね、こんなことがあってね」とポロポロッと言っていくと私もすごく楽になっていくわけです。そうやって友だちにも支えられました。

事故・事件から数か月、あるいは1年の間には、何度も何度もこうしたメンタル面のケアが必要になってくると思います。社会に復帰しているかのような被害者の姿を見ながらも、この時期の心と体のケアは大事だと周りの人が気づいてくれて、配慮してくれたら嬉しいです。例えば「支援センターのカウンセリングに行ってきます」と、仕事を抜けることを許してくれるだけでもすごく楽なのです。そういう職場の環境があるだけでも被害者は助かります。

毎年、娘たちの命日の直前に「奏子ちゃん、周子ちゃんをしのぶ会」というのをやっています。私たちは、1年に1回、1日だけ親バカになる日だと決め込んで保育園の先生方、奏子、周子のかつてのお友だち、その保護者、あるいは事故後に知り合った方たちをお招きします。みなさんに軽い食事をとってもらいながら娘たちの写真やビデオを観てもらったり、クイズもやったりして天気が良ければ風船を空に向けて飛ばします。風船の下に一言、空にいる奏子、周子へ手紙をつけてもらって、空にいる他の人たちに向けて、手紙を飛ばしています。

こうやって亡くなった人のことを語る場は、事件・事故から年数が経つにつれて激減していきます。事故から1年以内は周りも事故・事件に遭ってしまったことを知っている人ばかりかもしれませんが、5年、10年経ちますと私たちがどんな事故に遭ったのかを何も知らずに、日常的に隣の机で仕事をしている人もいるかもしれない。それは自然なことなのですが、実はちょっと寂しくもあります。娘たちのことを話せる場が少なくなっていく中で、しのぶ会を開く日だけは遠慮なく娘たちのことを思い出し、話す。嫌がる人も困った顔をする人もいない。そういう場があるだけでも私たちは助かっています。

何年経っても加害者のことは気になります。気にならないという被害者は、巧妙に心の状況をひた隠ししているのかなと思います。気にならないわけはないはずです。被害者は命を奪われてしまったけれど加害者は生きているわけです。どうしているだろうと考えます。

加害者が懲役4年の刑期を終えて、出所した翌々日に私たちの自宅を訪ねてきてくれたときに撮った写真があります。元トラック運転手は事故現場で逮捕され、拘置所と裁判所とを何往復かしました。刑が確定すると栃木の刑務所に移送されました。加害者は一度も奏子、周子の遺影に向かって手を合わせる、線香を供えることが本人がそういう気持ちがあったとしても、できなかったわけです。本人の意思で被害者宅を訪ねようという気持ちを持ってくれなければ、こういった情景は無かったということになります。

彼は来てくれました。奥さん、親戚の方と3人で。長い時間、奏子、周子の遺影に向かった後に振り向かれて「大変申し訳ないことをいたしました。元来私は子どもが好きなほうで、まさかその自分が子どもの命を奪ってしまうとは思いませんでした。もう二度とハンドルは握りません。もう二度と酒も飲みません」と仰っていました。

この人は、ハンドルを握る職業に就きながらもアルコール依存症に知らず知らずのうちに侵されていたわけです。アルコールを飲まずにはいられない。飲酒が運転にとって相入れないものだと頭では分かっていても、アルコールを昼間から飲まずにはいられない重大な病気にかかってしまっていたのですが、本人も周りの人もそれを止めることができなかった。この病気はとても厄介です。毎日毎日、今日1日飲まないでいようという気持ちをずっと持ち続け、酒をやめ続けなければいけない。でも、落とし穴は何度でも訪れる。酒を断とうと努力している人が集まる断酒会などの仲間とともに、励まし合いながら断酒を続けるしか、回復ができないと聞いています。

この人は、私たちの家を訪ねてきてくれたのはこの1回限りでした。その後、高知の自宅に戻り、以後、車には乗っていないと聞いています。お酒を断ち続けてくれているのか、私たちに約束してくれたことを守り続けているのだろうか、とても気になりますが個人情報ですから公の機関を通しても知れるわけではありません。でも、被害者が加害者の近況を知りたいという気持ちは阻まないでほしいと思っています。

そして、最後に。こうやって皆様の前で講演をさせていただいている、お話をできているというのは、実は皆様が私たちを支援してくださっていることになるわけです。私たちが事件を語る、吐き出すという機会をいただけたからです。話をすることができるからこそ私たちはまた一歩回復できる。聴いてくださっていること、考えてくださること、そのものが支援につながってくるのです。

支援とは、専門家だけがするものではないと私たちは思っています。そして、支援の仕方も、一人ひとり異なるでしょう。子どもを2人失った主人と私とではまったく違うニーズがあるかもしれません。そういう意味で老若男女、年齢を問わず、小学生や中学生でも私たちを支えてくれると信じています。今日、皆様が聴いてくださったことが私たちを助けてくださっていると思い、さらに周りに被害に遭われた方が出たときにもそのような気持ちを持っていただけたらと思います。

時間を少々オーバーしてしまいましたが、主人にこのマイクを戻す前に一つだけ御紹介しておきます。

ホールに入る前の1階奥で「生命(いのち)のメッセージ展」が行われています。九州・沖縄地方で被害に遭われた方々の等身大のパネルが30体ほど展示されています。鹿児島県内で初めての「生命のメッセージ展」フルバージョンが霧島市市民ギャラリーで開かれる予定です。それがどんなものかというのを知るのに、この30人の子たちの3人分でも見ていっていただけたら十分わかるかと思います。貴重な展示ですから皆様、ぜひ見ていただけたらと思います。

最後に、主人から一言、お話しさせていただきます。

井上保孝:私たちはあの事故の日以来、二度と以前と同じ生活に戻れなくなってしまいました。体の傷は映像でも皆様にお見せすることができますが、目の前で子どもを焼き殺される喪失感、絶望感は心の傷となって、私たちの奥深くに入ってしまっています。心の傷を皆様にお見せすることはできません。私たちは、この心の傷を一生背負っていかなければいけないと覚悟を決めています。

私たちが何よりも辛いのは、私たちと同じような思いをする被害者遺族が出てきてしまっていると報道で知ることです。もう二度と同じような思いをする人が出てきてほしくない。そういう思いで活動をしています。

今日、こちらにお見えの皆様方は日ごろから犯罪被害者に対して高い見識をお持ちと思いますが、これからも一人ひとりが犯罪被害者にどう接していけばいいのか、あるいは犯罪被害者を出さないためにどうすればいいのか、考えていただければと思っています。何の罪もない子どもたちがルールを守らない大人の犠牲となって輝かしい未来を断ち切られてしまう、このようなことがあってはいけません。そのような世の中は、私たち大人が変えていかなければいけない。これからも微力ながら私たちは活動を続けていきます。皆様方もぜひ、犯罪被害の無い社会を作るために頑張っていただきたいとお願いしまして、私たちの話を終わります。どうもありがとうございました。

基調講演資料:「東名高速酒酔いトラック事故で子ども二人を失って ~被害者遺族になって感じたこと
1/4 (PDF形式:353KB) 別ウインドウで開きます2/4 (PDF形式:406KB) 別ウインドウで開きます3/4 (PDF形式:321KB) 別ウインドウで開きます4/4 (PDF形式:311KB) 別ウインドウで開きます

▲ このページの上へ

警察庁ロゴ警察庁トップページ犯罪被害者等施策ホームページ


Copyright (C) National Police Agency. All Rights Reserved.