■和歌山大会:基調講演

テーマ:「ある日突然最愛の娘を奪われて~犯罪がその後にもたらすもの~」
講師:山内 久子(秋田看護福祉大学看護福祉学部教授・公益社団法人あおもり被害者支援センター理事)

ただいまご紹介いただきました山内でございます。本日はよろしくお願いいたします。

今回、平成22年度犯罪被害者週間国民のつどい和歌山大会でお話をさせていただくことを、非常に感謝申し上げます。

私は、和歌山県に参りましたのは今回で2度目です。1回目は、2年前に下の娘が、私たちの結婚35年を記念して、和歌山、それから三重のあたりを旅行するということをプレゼントしてくれまして、そのときに和歌山県に初めて参りました。しかし、和歌山市に参りましたのは、昨日こちらに参りまして、今回2回目ではありますけども、和歌山市自体は初めてということです。

きょうは、私の娘の事件を中心にして、遺族としての気持ちということをお話しさせていただきます。

「命を大切にする心を育む県民運動推進大会」というのが、青森県で平成16年にありました。そのときに、小学校4年生の稲津宏哉君の「ひとつのいのち。みんなのだいじないのち。」というキャッチフレーズが最優秀賞ということで県知事賞をいただきました。きょうも皆様にお渡ししてあります資料(ある日突然最愛の娘を奪われて~犯罪がその後にもたらすもの~ 1/4 (PDF形式:404KB)別ウインドウで開きます2/4 (PDF形式:440KB)別ウインドウで開きます3/4 (PDF形式:267KB)別ウインドウで開きます4/4 (PDF形式:364KB)別ウインドウで開きます)の中にも、すばらしい標語が載っておりますけれども、本当にそれぞれお考えになった人は、命が大事、また犯罪被害者に対する気持ちというところがあらわされているのではないかなと思いました。

それから、また先ほど河原参事官のほうからもお話がありました絵のほうです、あれも青森県出身の人が描いたということで、私としては非常にうれしく思っております。

大切な家族の一員を死ということで失うということは、大きな喪失体験ではないかと思います。本日ここにいらっしゃる方も、それぞれにご家族のどなたかをこれまでに亡くしたという、そういうご経験を持っている方が多いのではないかと思います。それは、病気で亡くなられたり、あるいはまた老衰ということで、そういう形でご家族を亡くされているという方も多いと思うのですけども、中には自殺とか、あるいは交通事故とか、あるいは殺人事件等で失っている方もいらっしゃるかもわかりません。私自身は、その殺人事件で本当に思いもかけなく娘を失ってしまいました。ですから、この喪失体験というのは、いまだもって引きずっている部分があります。

これは、悲嘆のプロセスということで、上智大学の名誉教授、アルフォンス・デーケン先生が書いているものなのですけれども、一番最初に大きな打撃を受けますと、精神的打撃と麻痺状態ということが起こりまして、否認とかパニック状態、いろんな状態が起こります。そして、孤独感と抑うつ、あるいは混乱と無関心という、そういう状態がこの図のように順番に次々と時には行きつ戻りつということで、少しよくなったかなと思うと、またもとに戻ったりということを繰り返しながら、そのことを受け入れていくという受容、そしてこれではいけないという新しい希望を持っての立ち直り、こういうふうに悲嘆のプロセスはあるということをおっしゃっております。

私も、このことは娘の事件の前に、もう既に看護で学生たちにこの内容を話しておりましたけれども、事件に遭って、もう一度この図を見たときに、本当にそうなのだなということを自分の体験を通して実感しました。私が今ある段階は、受容まではきちっとはいっていませんけれども、受容に近い形かな、それから、これから新しい希望とか、本当の意味での立ち直りというまでには、まだまだ時間がかかるように思います。

人の尊い命を他人が奪うということは、残された家族の大切な人生まで奪うということに等しいと私は感じております。本当に、先ほどの「ひとつのいのち。みんなのだいじないのち。」という小学校4年生の子供が考えた、そしてつくった言葉、あれは本当にこういう意味をあらわしているんではないかなというふうに思っております。そして、その大事な命が奪われたということは、その被害者だけではなくて、残された家族、遺族が、本当にその後は、それぞれがいろんな意味で人生を奪われてしまうということになるということを実感しております。

この写真は、私が自分で一番あのころ幸せだったなと思うときの写真です。これは、私の母を入れて5人で撮った、町の写真屋さんで撮ったものですけれども、初めて町の写真屋さんで5人一緒に撮ったものです。この後はもうありません。これは、真ん中にいる子供が次女で、先ほど南紀白浜、それから三重のほうに招待してくれた娘ですけども、七五三のときにお宮参りした後に家族で撮ったものです。皆様からごらんになって、右側にいる白いブラウスにネクタイを締めている子が長女で、その後、人によって命を奪われるという、本当にだれもが思わなかったそういう事件に巻き込まれた娘です。

これは、家族のスナップ写真ですけれども、本当にこの5人で撮ったスナップ写真もこれが初めてであり、最後のものです。これは、次女がセルフタイマーを使って撮った写真ですけれども、夫の誕生日に、縞模様の洋服を着た長女が、自分が友達の家でごちそうになったケーキがとてもおいしかったということで、そのケーキ屋さんに夫のバースデーケーキを頼んで、そしてみんなでお祝いしたときのものです。皆様方、おわかりでしょうか。一番左の夫とそれから長女の間に、ちょっとろうそくが立っているのがあるのですけども、それがそのときプレゼントしてくれたケーキです。

最近の事件を見ますと、本当に家族内殺人事件、私、きょう朝、ホテルのテレビで見た事件も、やっぱり家族の中での殺人事件ということで報道されておりました。夫が妻を殺したり、あるいはまた祖母が孫を殺したりというような、そういう家族内殺人事件というのも非常に目にすることが多いように思います。それから、あともう一つは無差別の殺人事件、もう本当にだれを殺したいという目的もなく、自分がむしゃくしゃしているからとか、そういうことで、何人もの人の命を奪うという事件、この2つがすごく私は特徴的なのかなと考えております。

非常に記憶に残る殺人事件をここに3つ挙げてみました。それは、1995年の3月に起こりました地下鉄サリン事件です。死亡者が12人、負傷者が5,000人以上と言われております。1998年7月、これは、ここ和歌山市であった毒物カレー事件で、このときの死亡者が4人、砒素中毒者が63人です。それから2008年、非常に最近ですけれども、6月に秋葉原無差別殺傷事件ということで、死亡者が7人、重軽傷者10人という、そういう殺人事件がありました。この秋葉原の無差別殺傷事件の犯人は、残念なことに青森県出身ということで、非常に青森県人として心を痛めております。

地下鉄サリン事件では、今この被害者の方々にいろいろな補償をしているということで、きょうの資料の中にもそれが書かれてありましたけれども、先日、NHKで報道しておりました、被害者の91%、5,958人がこの被害者の給付金支給に申請したそうです。1人、その程度によって10万円から3,000万円ということで、総額27億円余りが支給されたということです。しかし、255人の方は申請しなかったということで、この中には、まだ期限がありますので、申請していない人もあると思うのですけれども、しかし、支給を受けたくないという人もいるということで報道がありました。

それから、私自身のことになりますけども、長女が亡くなった年というのは1995年です。平成7年の年です。この年は、和歌山のほうもいろいろ被害は多かったと思うのですけれども、1月17日に阪神・淡路大震災という本当に大きな震災がありました。死亡者6,434人、行方不明者3人、負傷者4万3,792人、避難人数30万人以上、そして被害総額が約10兆円規模ということで、本当に私には想像もできないくらいの額の被害があったということです。それだけ大きい被害です。この1月17日になりますと、必ず各報道関係で現場から取材、そして現地からの生中継という形で放送されておりますけれども、まだまだ本当にその傷はいやされていないなということを、日本人の1人として強く感じております。

そして、同じ年の3月20日、地下鉄サリン事件がありました。先ほども言った事件ですけれども、これは戦後最大級のテロ事件とも言われております。死亡者13人、負傷者は6,300人と言われております。そして、1995年10月2日、私たちの大事な娘が、当時大学3年、21歳でしたけれども、同じ大学の男子学生に殺害されるという事件が起きました。

事件の概要、ちょっと字が細かくて見づらいかもわかりませんけれども、長女が大学3年生のとき、横浜にある長女の部屋で、もう朝から待ち伏せしていた同じ大学の男子学生に刃物で殺害されました。殺害されたときの傷は17カ所ということで、肺とか心臓、腎臓、そういう大事な臓器にまで達していたということです。そして、致命傷は頸動脈を切られての失血死ということです。

私も料理をしながら、自分の持っている包丁を時々自分の首に当ててみるのですけれども、非常に冷たくて、そのまま力を入れると自分も死んでしまうなというふうな恐怖にびっくりして、その手をやめるんですけれども、娘は本当に相手に殺すぞという、そういう気持ちを持って殺害されましたので、どんなに痛くて苦しくて、そのときの気持ちを想像するんですけれども、どういう気持ちだったろうなということで、いまだもって本人に聞くこともできませんし、想像の域を出ません。

加害者は、長女の留守をねらっては部屋に忍び込んでいたということです。最初に忍び込んだときに、娘の部屋の中を探して、かぎを見つけて合いかぎをつくったということです。警察の方からお聞きしますと、殺害するまで10回以上は部屋に入っていたらしいということでした。娘は、そういうことは一切私たちには話してきませんので、全く気づかなかったのか、あるいは気づいていても私たちを心配させるので言わなかったのか、そこも私たちはもう娘に聞くことはできません。恐らく気づいていただろうというのが夫の考えで、私もそうだなというふうに思っております。

この男子学生は、ストーカー行為を起こしていました。平成7年のときは、まだストーカーという言葉が日常的に使われていない、後に平成11年に桶川の女子大生殺害事件で、初めてストーカーという言葉が日本中に駆けめぐったように私は記憶しております。でも、私が娘の事件のことを後で警察の方からお聞きしますと、あれはやっぱりストーカーだったというふうに確信しております。とにかく娘も帰省したときに、何か気持ち悪い人が自分の部屋の下の、娘の部屋は2階でしたので、1階のところに何かいつもいるというふうなことを私にも、それから出張したときの夫にも話しておりました。絶対これはストーカーであると、私は確信を持って言えるのです。非常に残念なことではあるのですけれども。その後に脅迫状とか、あるいは無言電話、これらも送ってきたり、無言電話は私たちにもよこしました。これは、恐らく彼であろうというふうに確信しております。娘はあるとき、「お母さん、今度、留守電を買いたいけど、いろいろアルバイトをして買うからね」という話をしていました。私は、「それはいいね、お母さんもいつでも留守電を入れられるから」というふうに、いい方にその言葉をとらえていたのですけれども、後々になって警察から返ってきたテープを聞きますと、本当に無言電話がたくさん入っており、この無言電話で娘は脅かされていたのだと思いました。

私が娘の部屋に行ったときも、電話が鳴っているのに娘が出ないのです。「どうして出ないの」と言うと、「お母さん、出ないでちょうだい」ということで、私は出ようとする手を一応そこでとめられてしまいました。留守電でだれだれですという声が出てきますと、初めて娘はその電話をとって、だれだれちゃんということで話をするのですけれども、それだけだれから来ているかわからないという時点では、もちろん娘もとりませんでしたし、私にもとらないようにと言いました。本当に怖かったんだろうなということが、後々になって私自身もわかりました。

裁判でこれは明らかになったことですけれども、加害者と長女は言葉を交わしたこともないということです。同じ大学の同じ学年の学生ですので、当然、おはようとか、そういう大学生としてのあいさつはしたかもわかりませんけれども、私的な会話は一度もないということでした。これは、加害者が法廷で述べた言葉ですので、一番信用したくない、信じられない、その加害者の言葉を信じなければいけないというつらさも私たちにはあります。

娘は、公務員になりたいというのが非常に大きな望みでした。そのために、大学のほかにセカンドスクールへ別にお金を払って、公務員を目指す学校に通っておりました。ですから、本当に大学も一生懸命やっていたようですし、そういう専門学校でも学んでいたようです。そして、サークル活動を通して級友たちと楽しい大学生活を送っておりました。しかし、たった一つしかない大切な命を、そして夢と、二度とない青春を、この男子学生によって無残にも奪われてしまったわけです。

加害者は、昨年の5月に仮出所しまして、ことしの10月3日、14年の刑期を終えて社会復帰しました。しかし、娘は戻ってくることはありませんでした。本当に加害者は、一つの刑を終えると、命をきちんと持ちながら家族のもとに帰れるわけですけども、被害者はそういうことは全くあり得るわけもありませんし、とても悲しい現実になります。

これは、他殺による死亡者数の推移ということで、ちょっと古い資料ですけども、一番左をごらんください。一番下に1995と書いてあります。娘の亡くなった年です。そして、棒グラフの一番上に書いている727、これがその年に他殺によって亡くなった人の数です。ですから、この数字を私、インターネットで見つけたとき、727の中に私たちの大切な娘の分が入っているのだと思いますと、この棒グラフを見て、私はとても涙が出ました。

怒りの対象というのは、私たち被害者、そしてまた遺族にはいろんなところに向けられるということがわかりました。私は、その前までは、犯罪の被害に遭った人も大変だろうな、そしてその遺族の人も大変だろうなという気持ちは何となくはわかっていましたけれども、しかし、自分がその立場になったとき、初めてこれを強く実感いたしました。黒く塗られている加害者、これは当然です。そして、世間とか運命、自分、警察、報道、裁判、いろんなところに怒りがあるということを、遺族になって初めてわかりました。

≪裁判≫では、今は普通に亡くなった人の遺影を持って裁判所の中に入ることができるわけですけれども、当時は私たち、ふろしきに遺影包んで持っていきましたら、受付のところで、それは何ですかと言われまして、遺影ですと言いましたら、早速、お預かりしますということで、私たちの手元からとられてしまいました。非常に悔しい思いをしました。それで私は、いつも娘の使っていた定期入れに娘の写真を入れて持ち歩いていましたので、その写真を裁判長さんに向かって、見てほしいという気持ちも込めて、そしてもし見つかったら出されるかなという、そういうこわごわした気持ちも両方持ちながら裁判を聞きました。

今は裁判員裁判も始まりまして、いろんな意味で課題はあるとは思うんですけれども、本当に前とは違うなと思いました。希望すれば本当に法廷の中にも入れるということですし、また加害者に対する質問とか、あるいはまたいろんな意見も述べられるという、そういう時代になってきまして、少しずつ被害者の立場もわかってもらえてきたなということを実感しております。

それから、≪報道≫に対してもいろんな怒りを持っております。事件直後に、報道関係の方が自宅に来られて娘の写真を貸してほしいと言われました。私たちも本当にパニック状態になっておりましたので、その対応もうまくできなかったんですけれども、親戚の者がおりまして、写真は貸せないということでお断りいたしました。しかし、次のような写真が地方紙に載りました。これは高校のアルバムの写真からとられたものです。ですから、私たち遺族は全然同意していないのに、こういうふうに出され、本当につらい気持ちですし、悔しい気持ちもあります。

そして、この表題に、女友達、弘前出身、殺したと遺書、こういうふうな大きな見出しがつきました。それから、また別な新聞には、無理心中という言葉も大きく書かれました。こういう無理心中とか女友達という表現が、後々に周りの人からいろんな言葉で、思いがけない言葉で私たちに返ってきました。

それから、≪警察≫と書きましたけれども、この警察は、私たち、初めてその事件を知ったのは、弘前の警察署の職員から聞いたときです。でも、このときは「自殺ではない」とか「部屋で倒れていた」という表現をされました。ですから私たちは、もしかすれば娘は何とか命はあるんではないかという望みも持っていたわけです。しかし、実際に横浜の警察署に行きましたら、その事件が報道されたのは10月7日で、10月6日に私たちは警察署から、自殺ではないとか、部屋で倒れているという表現で聞いたんですけども、実際にはあったのは、司法解剖の結果、10月3日の死亡ということを言われました。しかし、裁判では、加害者は10月2日に犯行を起こしたと言っております。

ですから、私たちとしては、前に亡くなっていたということを何日か後に警察で聞いたという形になります。そういう非常に大事なこと、私たちにとっては一生に一度あるかないかという、大切な家族が殺人によって亡くなったということを伝える警察官の方が、私たちには笑って言ったたように見えました。夫にも聞きましたら、確かに笑っていたというふうに言っております。本当に悔しい気持ちですし、そしてまた娘を失って非常に打撃を受けているのに、また追い打ちをかけるように、そこでそういう警察官の心ない表情、態度というのが私たちを苦しめました。

≪自分≫ということで、私たちは娘の希望する横浜にある私立大学に行かせることにしたわけですけども、私は本当に喜びました、自分の好きな横浜に娘が勉強するために行くということで。でも後々に、そういう大都会にやるからこういうことになるんだというふうな人の話もあったりして、本当は、私たちの行動がよくなかったのかなというふうに自分を責めることがありました。しかし、娘の行きたかった大学に行かせたということが、何よりも私たちにとっては、それでよかったんだというふうに気持ちを切りかえさせることにつながりました。

≪運命≫とか≪神≫ということもここに書きましたけれども、本当にこの世には運命がやっぱりあるのかなと思いましたけれども、その当時、1995年は国勢調査の年でした。ことしも国勢調査の年でしたけれども、娘は10月2日に国勢調査員の方にその用紙をお渡しするという約束をしていたようです。それで、調査員の方は、娘の部屋に来ようとマンションのエレベーターに乗ったわけです。

しかし、そこに一緒に乗り合わせた別の階の女性の方が、私の部屋に先に来てくださいということで、その方のほうに先に行ったということです。そして、その方の部屋の調査用紙をもらって、娘の部屋に来たときには、もう既に娘は亡くなっていたということで、加害者が何食わぬ姿で玄関の棚にあった調査用紙を渡したということでした。調査員が言うには、見た目には血液は何もついていなかったけれども、後できちんとその用紙を見ましたら血液がついていたということでした。本当に運命ってあるのだなということを、私は信ずることになってしまったわけです。

人は、非日常的な出来事に遭遇したとき、他人の言動で心が傷つけられることがある。しかし、時には心がいやされることもあるということを、被害者の遺族という立場になってわかりました。

まず、遺族を支えた言葉ですけれども、裁判で明らかになったこととして、被害者には全く落ち度がない、加害者の自己中心的な犯行であるということを判決のときに裁判長がおっしゃいました。これは、後々にいろんなニュースを見ますと、大抵こういう言葉を裁判長は言っているようですけれども、しかし、それはそれぞれにその言葉が当てはまるんだと思います。私は、私たちの娘が亡くなった事件に関して、その裁判長が言った言葉、もうこれは本当にありがたいと思ったわけです。娘には全く落ち度がない。

後々にいろんな人が、もしかすれば、かぎを渡して、そういう男性とつき合っていたからそういうことになったんではないかとか、そういうふうなことも言われましたけれども、娘がかぎを渡したわけでもなく、加害者が勝手に部屋に上がり込んで、そしてそれは娘がちょうど部屋のベランダの窓のかぎを締めなかったというときがあったらしいんです。そのときに加害者がそこから入って、そしてかぎを見つけて合いかぎをつくったということなんです。ですから、落ち度といえばそこが落ち度になるのかもわかりませんけれども、しかし、勝手に他人の部屋に入るという、それはもう犯罪行為だと思いますので、私はこの言葉がとても救いになりました。

そして、加害者は本当に自己中心的です。自分で殺人計画書というものをつくって、本当に計画的に殺人を実行したということです。そのため、殺人を行うと、もしかすれば手が汗でいっぱいになって、包丁を落としてしまうかもわからないということで、きちんと手袋をつけて、そしてもし失敗しても、もう一丁包丁があれば確実にできるということで、包丁は2本準備して、そして返り血を浴びるであろうということを予測して、きちんと着がえまで準備して犯行に及んだということです。

1995年10月2日というのは月曜日です。大学の後期の授業の最初の日です。後に残された教科書を見ましたら、あるページに10月2日というふうに書かれておりました。これは、ここまで今日やって、来週はこの続きということを意味しているんだと思います。私は、その10月2日という娘の書いた文字を見て、本当に涙が出ました。娘もまさか来週、この授業を受けることがないだろうとは夢にも思わなかったと思います。

そして、私たちが遺品を整理に行けたのは12月に入ってからでした。警察のお許しが出たのは2カ月たってからです。本当に12月23、24、25、ちょうどクリスマスのあたりに遺留品整理に行ったわけです。私は、娘の部屋のトイレとバスが一緒になっている所のドアをあけたとき、びっくりしました。あけた途端床に足跡がきちっと真っ赤に残っていたんですよね。2カ月たってもその足跡がくっきりとありまして、本当にびっくりしました。

下の娘と夫の3人で遺品を整理に行ったのですけれども、私はなぜかそのときに、この足跡を見せてはいけないと思いましてすぐ水でそこを洗い流してしまいました。後で次女と夫に話しましたら、どうしてそれを見せてくれなかったのかというふうに言われまして、何て私は軽はずみなことをしてしまったのだろうと後では思ったんですけども、そのときは、もうこれは家族には余りにもつらくて見せられないという気持ちが先行してしまったわけです。

それから、裁判で明らかになったのは、被害者と加害者は一度も言葉を交わしたことがない。「私はあなたに何もしていないのに」というのが娘の最期の言葉であったということです。この2つのことは、加害者が法廷で明らかにしたことです。先ほども言いましたように、本当に一番信じたくない人からこの言葉を聞いたということで、とても残念なのですけども、しかし、もう娘はおりません。ですから、その加害者の言葉を信じるしかないという、そういう私たちのつらさもあります。

「私はあなたに何もしていないのに」、恐らく娘は、午後8時くらいに部屋に帰ったということです。加害者は朝からずっと部屋で待ち構えていたということで、娘が帰って、玄関のドアをあけてすぐのところに、ちょっとした靴箱があって、その上に電気のスイッチがあるのですけども、そのスイッチを入れても電気がつかない。もう既に加害者は初めからブレーカーを落として、部屋を真っ暗にして待っていたということです。そして、娘がブーツを履いて帰ったその姿のまま部屋に引きずり込んで犯行に及んだということでした。亡くなったとき、娘はブーツを履いたまま、そして赤いワンピースを着て亡くなったようです。

この赤いワンピースというのは、私が横浜に遊びに行ったとき、娘と何回かデートしたのですけれども、そのとき赤い花模様のついたワンピースを着てきました。私はとても娘に似合っていると思いましたので、素直に「とてもかわいいよ、その洋服、すごくあなたに似合っているね」というふうなことを言いました。娘もとても喜んでいました。その洋服を着て亡くなったということが、とても私はつらかったです。

警察のほうでは、全部いろいろ調べた後に、その洋服もお返ししましょうかと言ってきました。私はそのとき、いっぱい包丁で傷つけられて、そして恐らく血液がいっぱいついているだろう、その洋服はとても見ることができないし、そちらのほうで処分してください、これは家族でも決めたことなのですけども、と言ってお願いしました。しかし、何年かたって、やっぱりその最期に来ていた、幾ら傷ついて、そして血液がついていたとしても、娘の大事な血液がついたその洋服をきちんともらうべきであったのではないかなという、これもまた後々になって悔いの一つになりました。

私は、そのときにそういうふうに思ったんですけれども、地方検察庁でいろいろな書類を見せてくれました。そのときに、娘の部屋の外側から犯行現場の室内まで、いろいろと写真が次々と張ってあったのですけども、私は娘の部屋までの写真は見たんですけども、次をめくると、その亡くなった人の顔が写っている写真が出てくるのではないか、よくテレビのサスペンスドラマでそういうシーンがありますけれども、それを見るに忍びなくて、私は見ることができませんでした。夫は最後まで見ました。夫が赤い洋服だったということを後で言っていましたので、あの洋服だなということを確信したわけです。それもまた後で、あのとき、どんなにつらくてもあの写真を、娘の最期というあの写真を見ておけばよかったなという、そういう思いに駆られております。

そういうことで娘は、「あなたに何もしていないのに」というのは、本当に命がもうなくなるかもわからないというせっぱ詰まった状態で、娘が最期に彼に対して言った言葉だと思います。どんなに娘は悔しくて、そしてまた恐ろしくて、この言葉を吐いただろうと思うと非常につらくなります。

加害者を許せないということは、本当に被害者としてはあるわけですけれども、先ほども言いましたように、社会的に罪は償いを終えました。しかし、娘は帰ってこないという現実、これは本当に加害者を許せないということにつながります。そして、加害者の人権はいろいろと法的に守られています。例えば、裁判で加害者は自分の気持ちを言える場がたくさんあります。これは、裁判を私たちが傍聴して初めてわかりましたけれども、本当に加害者は言える場があるんだなということを感じたわけです。

そして裁判で、あなたにとって不利になることは言わなくてもよいという、この加害者に有利な言葉、これはもう本当に遺族にとっては納得できませんし、何とか法律を変えて、あなたは真実を言ってほしい、そうすることによってこの事件はきちんと真相がわかるのです、あなたの協力を望みますという、そういう内容の言葉にできないものかということを、私は講演をさせていただく会場で皆様にも訴えております。遺族にとって癒えることのない大きな傷が、その事件の当時だけではなくて、一生抱えていかなければならない、そういう傷になっていると思います。

遺族としてうれしかったことは、娘の命日とか誕生日を覚えてもらえていたとき、遺族の心のうちを聞いてもらえたとき、それから思い出話をしてもらえたとき、そういうときは非常にありがたいなと思っております。先ほどのアルフォンス・デーケン先生もある本の中で言っておりましたけれども、やはり本当に亡くなった人のいろんな功績や、すばらしい人だったとか、それから懐かしい思い出等を遺族に語ること、これが残された人を情緒的に支えてあげることができるでしょうということを、「突然の死とグリーフケア」という著書の中で言っております。そして、亡くなった人との共通の思い出を語ったり、故人を褒めることも、残された人の心に誇りを持たせて、立ち直るための一つの支えになるということです。

ですから、私たちは本当に自分たちが立ち直ることができるのかなという不安に駆られることもあるのですけれども、しかし、周りの人から、娘さん、こういうことがありましたねとか、あるいは大学時代の友達は、娘、陵子という名前ですけども、陵子と呼んでいます。高校の友達は陵子ちゃんと「ちゃん」をつけて呼んでくれます。陵子ってこういうことがあったよとか、陵子ちゃん、こんなことしていましたよとかということを聞くにつけ、ああ、娘はそういう高校時代、大学時代を過ごしていたのだな、そしてこういう人たちから、いろいろそのときいっぱい楽しい思い出をつくってもらったんだなということを思いますと、そういう言葉をとてもありがたく思います。

ですから、本当に私たち、遺族の方に支えとして何をしてあげればいいのかなと思うときはあると思うんですけれども、その亡くなった人の思い出話、あるいはいいことがあったらそれを褒めてあげたりということが、何よりも本当に支えになることにつながるということも、ここでご紹介したいと思います。
これは、娘が30歳の誕生日のときのものです。大学時代の友人たちもうそれぞれに就職しておりました。そして、この年は雪の多い年でした。2月19日が娘の誕生日で、ちょうどこの年の2月19日が土日に当たりましたので、飛行機とか、あるいは夜行列車に乗って、そして娘のお墓参りをしてくれました。

本当にこの年は雪が多くて、一番左にいる夫が前の日に雪を片づけて、東京や、あるいは横浜、京都から来る友達が歩くのに困らないようにということで、雪を片づけてくれたのですけども、後ろのほうにあるお墓、皆さん、ごらんになれますでしょうか。本当にお墓の上のほうしか見えないんですよね。それだけ雪の多かった年ですけども、何とか娘のお墓は、夫のおかげで雪から少し出してもらうことができました。きっと娘も喜んでいたんではないかと思っております。

そして、遺族として傷ついた言葉もたくさんあります。その中の一部ですけども、「もう1人、娘さんがいるからよかったね」、何でよかったんだろう、1人亡くなっているのにというふうに思いました。「天国にお嫁さんにやったと思うといいね」、これは無理心中というような言葉、あるいは女友達という、そういう新聞の見出し、それがこういう言葉につながったんではないかと思います。全く私たちも、その男性の存在は娘からも聞いておりませんし、決してお嫁さんにやるという人ではないということです。本当に悔しい思いです。

それから、「親より早く亡くなる子は親不孝だね」、何で娘は親不孝なのだろう、娘は本当にいろいろ親孝行してくれた、その親孝行してくれた姿を見て、次女がいろんなことを私達夫婦にしてくれています。今、東京に住んでおりますけれども、父の日や母の日、私たちの誕生日とか結婚記念日、いつもカードとかお花、いろいろプレゼントなどを贈ってくれます。そのとき、陵子アンド冴子というふうに2人の連名でよこすんですよね。それが非常に私たち夫婦はうれしくて、いつまでもお姉ちゃんと一緒という、それが本当にうれしいのと同時に悲しい気持ちになります。そういうふうにやってくれるのも、姉がやった姿を下の娘が見て、そういうふうにしてくれているのだろうなと私たちは思っております。

それから、「いい娘を持つとこういうことになるんだよ」、「名前がよくなかったのでは」。それから、私に対しては「仕事をやめるのかと思った」、「都会に若い娘を出すと怖い目に遭うんだよ」、「余り泣いていると成仏しないよ」とか、こういう言葉がいろいろ出ました。一たんああいう内容がマスメディアで報道されますと、不特定多数の人に情報がいきますので、もう私たちには太刀打ちできないという結果になります。ですから、本当に新聞の見出しというのは、そのときだけではなくて、後々にも遺族を苦しめるということがあるということを、私は身をもって体験いたしましたので、ぜひ報道関係についた方には注意をしていただきたいと思っております。

遺族へのかかわりとしては、本当に遺族としては事件とか事故、あるいは自殺、こういうふうなものに触れてほしくないなという時とか場があります。それから、日常的に普通に行われていること、特に家族の話、これは私たちにとっては一番つらい話題になります。私も、学生と一緒に実習場で、患者さんのベッドサイドに行くのですけれども、どうしても患者さんも私に対して、ご家族は何人ですかとか、そういうふうなことを聞いてきます。そういうとき、一番つらいですよね。本当に家族についての会話というのは、遺族になって初めてそのつらさを感じました。

子供さんを亡くした人の親の集まりで、風の会という会があるんですけども、その風の会の主宰者の若林先生からお話を聞きましたときに、やはり同じことを言っておりました。家族の話が一番つらいということで、本当に同じだと思いました。

それから、遺族一人一人の亡くなった人への思いとか、事件に対する考え、それから加害者に対する憎しみとか恨み、これは微妙に異なるということです。事件によって違うというのはわかると思いますけれども、その同じ事件の中の家族によっても1人ずつ違うということですよね。私は、特に家族の中から被害者と加害者が出た場合、どんなにつらいだろうなということを想像しております。私の想像以上のものがあると思うのですけれども。そして、心がいやされていく過程というのも一人一人異なって、かなりの時間、そして期間が必要だと思っております。

しかし、こういう状況ではあるんですけども、遺族の気持ちというのは本当に私は生きていると思います。事件当時の気持ちと15年たった今の気持ちは、やはり自分でも少しずつ変わってきているなということを感じます。それは、家族の強いきずなをすごく感じます。それから、犯罪に対する強い認識と命の尊さ、本当に命ということは大事だということは、小学校のころから先生方に言われてきましたけれども、自分の大切な娘が人の手によって命を奪われたという、そういう経験をしてから、特にこの命の尊さということを感じております。

それから、一つずつの事件によって遺族の気持ちは違うと思うんですけれども、前よりは少しは理解できたかなと思っております。それから、体験を話す機会、今日のように皆様方に私のこういう話を聞いてもらえ、こういう機会を得ているということは本当に感謝したい気持ちでいっぱいです。

そして、多くの人と知り合うことができました。事件当時、弘前警察署でいろいろ私たちのお世話をしてくれた方々は、その当時、お線香を上げに来てくれたんですけども、定年退職した今でも毎年欠かさず来てくださっています。本当に私たちは感謝をしております。夫も、初めは非常に警察官に対して敵意を持っていたんですけども、やはり長い年月をかけて、またいろいろお話をしながら、あるいは食事をともにしながら、少しずつ打ち解けてきまして、警察のこともわかってきましたし、私たちのこともわかってもらえるように、より深く話を聞いてもらっております。

最後になりますけれども、犯罪被害者等に対する支援というのは、いろんな形で行われておりますし、これからも行われなければいけないと思います。犯罪被害者等基本法の制定が2004年12月にあったわけですけども、それ以前は、各都道府県の警察が中心に行っておりました。しかし、犯罪被害者のその犯罪被害の内容によっては、経済的支援が必要な人、あるいは住宅、例えば犯罪現場がその自宅であったとすれば、恐らくそこに住み続けるということは、私は気持ち的にも無理ではないかと思います。そうなれば、当然住宅をかえなければいけないという事態が出てくると思います。

それから、仕事をやめざるを得ない、あるいはやめさせられることはないにしても、そういうふうな状況に追われてしまうという人もいるかもわかりません。そうなると、新しい仕事、それからそばにいた人も、いろんなけがとか、あるいはまた心の傷というのを負うかもわかりません。そういうふうなときに医療、福祉のサービスということで、本当に生活全般の支援が被害者には必要になってきます。そうなりますと、警察だけでは十分できないということになります。

だからこそ、下のほうに書きましたけれども、国、地方公共団体とか、あるいは民間の支援団体、あるいは警察、弁護士会とか、自助グループ等、そういうふうなところの協力とか、支援というのがとても大切になるということを、ぜひここにいらっしゃる方々にもお願いしたいと思います。いろんな協力、支援があると思います。心の部分での協力、あるいは賛助会員になることによっての協力、いろんな形で、自分ができる協力の内容で私はいいと思いますので、それを見つけて、ぜひお願いしたいと思います。

これは、亡くなった娘の遺品の中にあった普通のマグカップです。私はこのカップ、引っ越しの中でちょっとこの取っ手をとってしまった、あるいは私がとったというよりも、気がついたときにとれていたんですよね。そのままにしていたんですけれども、あるとき、このカップをまじまじと見ましたら、「周和荘、軽井沢」と書いていました。初めて何年かたって気づいたんです。それで、はっと思いまして、生前、娘が私にあてた手紙を思い出して読んでみました。そうしましたら、サークルで軽井沢に行ってテニスの合宿訓練をする民宿の電話番号が書いてありました。でも、ここにはできるだけ電話しないでほしい、どうしてものときだけ電話してくださいということで、周和荘という名前も載ってなかったんです。

私は、この周和荘とその電話番号を結びつけまして、早速そこに電話をしました。そうしましたら、「周和荘です」という受け答えがありまして、あっと思いました。ぜひそちらに泊まりたいということをお願いしました。そうしましたら、「こっちはもうほとんど大学生を対象にした民宿のような宿なので、普通の方は別なところに泊まったほうがいいですよ」というふうに話してくれました。でも、私は「ぜひそちらに泊まりたいんです」と理由を言わないでお願いしましたら、「じゃ、1部屋あけておきます」と、今大学の合宿があって、もうみんな部屋を使っているんですけども、1部屋だけあけておきましょうということで、その部屋に泊まらせてもらったわけです。

私も、初めは何も言わないで、ああ、このテーブルに娘は座ったかもわからない、この大広間で学生たちのいろんなコンパがあったかもわからないという形で見ていたんですけども、やっぱりそういう状況になると涙が出てきてとまりませんでした。それを見た宿の方が不思議と思って、どうしたんですかと聞いてきましたので、実はということで、大学名を話して、娘も恐らくここに3回、毎年お邪魔していたと思いますという話をして、いろんなことを聞きました。

もちろん宿の方は、娘のことを個人的にはわかりませんので、大学全体のことをお話ししてくれて、そしてあの忙しい合宿がある中、奥さんがそのテニスコートまで、本当に近道をしながら連れていってくれました。帰りは私1人で帰りますということで、そのテニスコートに立って、ここで娘はテニスを楽しんでいて、その年の9月にもここに来たんだなと思いをめぐらしました。そして本当に1カ月もたたないうちに娘は亡くなりまして、ここでテニスをして楽しんだとき、まさか自分が10月に命を失うということは全く予想もしていなかっただろうと思うと、悲しさと悔しさで涙が出ました。

そして、この「周和荘」と書いたカップもとてもいとおしいものになりまして、早速ボンドで把っ手をつけまして、今は大事に飾っております。ということで、皆様にもごらんいただきました。

これで、私のお話を終えさせていただきますけれども、これは娘が初めてで最後の海外旅行をしたときのものです。サイパン旅行を、娘の最も大学時代、親しかった友達と2人で格安の飛行機に乗って行ったとその友達が教えてくれましたけれども、サイパンの海で両手を広げて非常に解放感に浸って撮った写真だと思います。

しかし、私はこの写真は、娘にとって本当に楽しかったひとときだったと思いますけれども、私たちにとっては、お父さん、お母さん、天国で待っているよというふうに言っているように見えます。ですから、いつも私は、この写真に向かって、いつになるかわからないけど、必ずお父さんもお母さんもそちらに行くから、それまで待っていてねというふうに言葉をかけております。本当に楽しい写真が、今は私たちにとっては非常につらい思い出の写真になりました。

長い間、ご清聴、本当にありがとうございました。私のつたないお話を聞いていただきまして、心から感謝申し上げます。ありがとうございます。


パネルディスカッション資料:ある日突然最愛の娘を奪われて~ 犯罪がその後にもたらすもの~
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