■中央大会:基調講演

テーマ:「犯罪被害者等が望む支援」
講師:糸賀 美恵(犯罪被害者遺族・被害者支援都民センター自助グループ)

皆さん、こんにちは。
 きょうの大会のパネリストの方たちは性犯罪ということですが、私は性犯罪の被害ではなく、殺人事件の遺族としてお話しさせていただきたいと思います。1時間、どうぞおつき合いください。

私は当時25歳であった長男を、1年半ほど交際のあった女性に、平成14年5月の早朝、寝ている息子の頚動脈にサバイバルナイフを突き刺されて、刺殺されるという殺人事件の遺族です。息子と加害者というのは、専門学校の同級生でした。彼女は小さいころから親とうまくいかず、早く家を出たいと専門学校卒業と同時に同級生と結婚しました。そんな結婚生活もうまくいかず、1年ほどで離婚、結婚している間も、その後も何人もの男の人とつき合っていたということを事件後に知りました。

学校を卒業して2年半ぐらいたった9月の同窓会で彼女と息子は再会し、3カ月ほど交際をしていたようでしたが、年が明けてすぐに一人暮らしをしていた息子のところへ住所を移してきました。息子の部屋と私たちの家は歩いて三、四分くらいしか離れておらず、近いうちに結婚するつもりだという彼女の言葉を信じて、2人を家へ呼んだり家族で食事をしたりボーリングや誕生日祝いをして、私と息子とその加害者3人で何度も遊びに行ったりしておりました。私には息子が 2人で、女の子がいませんでしたので、本当の娘ができたような、幸せな生活が1年半ほど続いておりました。

ところが加害者は、息子と交際中にほかに好きな人ができたからという理由で実家に戻りました。実家に戻り、その男性とつき合っていたのですが、たった2 カ月でその男性にも捨てられ、自分の思い通りにならない人生に絶望し、引きこもりになってしまったようです。3カ月ぐらい実家で引きこもっていましたが、親からはただのさぼりぐせだと言われるのが怖く、その家には居場所がなく、自殺願望を抱くようになりました。

行くところがないから少しいさせてほしいと、息子の部屋へ入り込み、私には親も友達もいない仕事もできない、ここを出ていったら死ぬしかないと、2回も手首を切っておどしていたことを事件後知りました。子どものころから優しかった息子は、死んだらだめだ、死んだら何にもなくなってしまうのだと、数カ月面倒を見ていたようです。加害者の親も何回か迎えに来たようですが、親には会いたくない、あの家には帰りたくないと、追い返していたようです。

息子は私に心配をかけまいと、リストカットしていたことなど、詳しい話は全くしませんでしたが、息子も限界だったのだと思います。その14年の1月に、彼女を親のもとへ帰しました。実家に帰っても自殺願望から抜け出せなかった彼女は、自分だけ死んだのでは、正和君はこれからずっと仕事もして、友達も大勢いて、普通の生活をしていくのが憎い。自分には頼る人が正和君しかいないと言ったのに実家に帰した、というとんでもない逆恨みで殺害計画を立て、本やサイトで頚動脈を切ったら確実に殺せるということを勉強し、インターネットで刃渡り20センチものサバイバルナイフを購入し、母親にその代金を払わせバッグの底にそのサバイバルナイフを隠し持って、また息子の部屋へ入り込んできました。

そんなこととは知らず、以前から親と仲が悪いと聞いていた私は、よほど実家にいづらいのかと息子よりも彼女のほうを心配してしまい、追い返すこともしませんでした。事件の数日前、加害者の両親が迎えに来たとき、偶然、息子の部屋の近くでその両親に会いました。母親は娘の居どころがわからなかったのですが、正和君のところにいることがわかって、2人で迎えにきました。正和君には本当に迷惑をかけて申しわけありませんと、私に深々と頭を下げました。私は両親が迎えに来たことで、やっと連れて帰ってくれるものと安心してしまいました。

ところが彼女は、両親の顔を見て逃げ出し、親が迎えに来たことで早く息子を殺して自分も自殺しなければ、あの家に連れ戻されるとあせりを感じ、5月の5 日前、やり残したことがある、それが終わったら帰ると親にメールを送っておりました。事件の前日の夜、明日は家に帰るからと息子を安心させ、翌朝、熟睡中の息子をめった刺しにして、命を奪いました。

事件が起きたのは5月13日、早朝4時45分ということでした。私の家の近くで消防車、救急車、パトカーのサイレンが聞こえました。その時間はまだ薄暗く、時計の針も見えないような時間でした。すぐに鳴りやんだサイレンに、私は何の執着をすることもなく、また眠りについてしまいました。7時ごろ、息子と同じ団地に住む私の友人から、警察から電話があった、正和君が刺されたみたいよと、電話をくれました。その知らせに私も主人も何が起こったのかわからないまま、息子の部屋へ駆けつけましたが、そこにいたのは数人の警察官と、玄関の指紋をとっている鑑識の人でした。

私と主人はそのままパトカーに乗せられ、光が丘警察へ連れていかれ、約4時間もの事情聴取、病院に搬送された息子はそこで死亡が確認されたということを、事情聴取の中で聞かされました。事情聴取が終わって、部屋を出ると、そこにいたのは葬儀屋さんでした。私にとっては息子が死んだと言われても、とても信じることもできず、悪い夢を見ているようにしか思いませんでした。事件直後、私の友人が警察の人に私の家の電話番号を書いて渡してくれていたようですが、警察からは何の連絡もありませんでした。犯人を逮捕したことで安心してしまったのか、逮捕した人間の事情聴取のほうが大切だったのか、殺された息子に家族がいるということまで考える余裕がなかったのかと、警察に対する不信感も覚えました。

病院から帝京大学病院へ運ばれ、司法解剖を終えて、夕方、私の家へ帰ってくるまで、私は何もすることもできず、ただじっと息子の帰りを待っていることしかできませんでした。夕方、棺に入った息子が家に帰ってきました。息子はいつもと同じ顔で、まるで眠っているようでした。現実のこととは思えず、起きてよ、正和、起きてよと、何度も声をかけましたが、もうあの子は二度と目を開けることはありませんでした。

テレビのニュースを見て、大勢の友人が家に駆けつけてくれましたが、そのときの私は現実から逃避していたのでしょうか、20人ぐらい集まってくれた友達のために、自分でお寿司を頼み、みんなにビールをついで回って、そのときは現実のこととは思えず、私はまるでドラマでも見ているように涙を流している友達を客観的に見ていたような記憶があります。

翌日のお通夜、葬儀もどうあったのか、途切れ途切れにしか記憶もありません。その日から眠れない、食べることができない、外に出られない。しばらくの間はカーテンも閉め切って、まるで自分たちが犯罪者であるかのように、引きこもる生活が続きました。友達が買い物に行ってあげるとか、何かほしいものはないと電話をくれるのですが、なぜか知っている人に会いたくない、だれにも会いたくない。特に息子を知っている人には会いたくないという気持ちがあり、すべて断っておりました。気がついたら体重も8キロほど落ち、次々にできる円形脱毛症、ひどいときにはまゆげまで抜け落ちているような状態でした。睡眠薬に頼る日も数年続きました。

事件は8年前の5月、加害者が自首、自白、2カ月以上もいつ殺そうかと思ってねらっていたという、殺意も計画性もすべてを認めているということもあると思いますが、事件からたった2カ月後に刑事裁判が始まりました。私にとってそのときはまだ、なぜ息子が殺されなければならなかったのかもわからず、近くに住んでいながらどうして息子を救えなかったかと、毎日毎日自分を責め、私よりもずっと体の大きかった息子が小さな骨壷の中に入ってしまい、私はその遺骨を抱きながら、毎日息子に謝り続ける日が続いておりました。裁判は月1回の割りで4回ありましたが、担当の検察官とは一度も話す機会もなく、私たち遺族はただ15分間、意見陳述ができるということだけで、加害者の量刑を決めるだけの裁判を、法廷の傍聴席でじっと聞いていることしかできませんでした。初公判の冒頭陳述で、被告人は寝ている被害者の頚動脈にナイフを突き刺し、目を覚ました被害者が口から血を吐きながら、救急車を呼んでと言った。それが最後の言葉だった。被告人はもうどうせ助からない、早く楽にしてあげようと、頭や胸、苦しみながら寝返りをうった背中等、十数カ所をめった刺しにして、命を奪ったということを聞かされました。加害者の親は、私と顔を合わせても、謝罪どころか目が合ってもじっと見ているだけで、頭を下げることすらしませんでした。裁判が終わると同時に、弁護士と一緒に逃げるように帰っていきました。

その後、警察の方にはお花を届けていただいたり、4回の裁判は傍聴してくださったり、とても心強かったことを覚えております。ただ一つ、事件後まもなく何が起きたのか、なぜあの子が殺されたのか、整理もつかず、呆然とした日々を送る中、警察の方から加害者についた弁護士はとてもよさそうな方です。間に立って話をしてもらったらどうですかと、こちらからも話しておきますと言われました。私はその警察の方の言葉を信じ、連絡を待っておりました。よく考えてみれば、加害者についた弁護士は、加害者の弁護をするだけで、私たち被害者のために間に立って話をするなんてことはあり得ません。そんなこともわからないほど、そのときの私たちはどうしたらいいかわからなく、ただ警察の方の言うことを信じ、連絡を待っておりました。

加害者の親は事件後、私たちの住所を教えてほしいと手紙を書いていたそうです。最初は息子や私たちに謝罪する気持ちもあったのかもしれません。しかし、弁護士はその手紙を私たちに渡すこともなく、住所を教えることもなく、数日の後に加害者の親に、二十歳を過ぎた子どもの犯罪は親の責任は問われることはない。被害者の家族と接触しないほうがいい。そういう指示を出していたのです。初公判の後、加害者の弁護士が親に預かってきたと、香典袋を持って一度家に来ましたが、私はあの両親から直接受け取りたいと、弁護士からの受け取りを拒否しましたが、加害者の親も弁護士も、もう二度と家へ来ることはありませんでした。

2回目の公判では、先に加害者の親が情状証人として証言台に立ち、その後、主人が意見陳述をすることになっておりました。私はあの親が息子や私たちにどのような謝罪をするのかと待っていましたが、直前になって親は証言台に立つことを拒否し、主人の意見陳述だけになってしまいました。主人は法廷の中に入り、息子はとても優しい子でした。いつも母親の体を心配し、4歳違いの弟を気遣う子でした。学校を卒業して就職し、5年間一生懸命仕事をし、仕事も順調で、いい友達が大勢いて、何の心配もない子でした。そんな息子を加害者は、自分勝手な思い込みで息子の優しさを振り回し、命まで奪いました。奪ったのは、息子の命だけではありません。私たち家族、親戚、友人、葬儀に駆けつけてくれた400人以上もの人たちを悲しみのどん底に突き落としたのです。本人を許せないのはもちろん、そんな子どもに育てた親に対しても同じ気持ちです。話しかけても返事もない遺影に手を合わせ、私たちもどう生きていったらいいのか、答えを探しながら生きていますと涙でぐしゃぐしゃになりながらの主人の陳述が終わり、裁判長から今の被害者のお父さんの陳述を聞いて、どう思いますかという質問に彼女は涙一つこぼすこともなく、何もありませんと、首を横に振りました。そしてたった一言、罪を償ったら死んでおわびをしますと言いました。私はその言葉を今でも忘れることはありません。

加害者の弁護士は正和の死には何ら落ち度もない事件なので、刑を軽くしてくれという弁護活動は一切やらないということを親と確認した。情状証人として両親が証言することも考えたが、すべてが言いわけになってしまう。結局、事件の責任は本人に果たさせる。それを親として見守るのが一番いいだろう。親が助け舟を出したら、本人のためにならないと親と話をしていたようです。私としては、言いわけでも何でもいい。本当のことを裁判で知りたかったんです。なぜ、彼女が家にいられなかったのか。なぜ親から逃げたか。そして証言台であの親に、息子に本当に悪いことをしたと謝ってほしかった。でも、弁護士はそれさえもさせませんでした。

検察側は懲役13年を求刑しましたが、自首をしていること、事実関係を認めていること、前科前歴がないこと、被告人は若年であること、反省をしている、更正の可能性があるという理由で、1年減刑されました。加害者は25歳、25歳が裁判で若年と救われるのに対して、25歳で命を奪われた息子の人生は一体何で救われるのでしょうか。反省しているといっても、事件から裁判までの2カ月の間、自分の親に迷惑をかけた、自分の親に悪いことをしたと、20通もの手紙のやりとりを親としている。それが裁判では反省していると認められてしまったのです。

過去の判例に基づいた1回の裁判は二、三時間の本当に簡単な裁判でした。当時の裁判では、加害者の供述調書、裁判記録をとれたのも、裁判が終わってから民事のためにしかとることもできず、何の真実もわからないうちに、4回で裁判は終わってしまいました。事件から1年間は息子の部屋に加害者が出入りしていることを知っていて、追い出すことをしなかった自分を責める毎日でした。事件の数日前に、加害者の親に会っていながら、どうして無理やりにでも連れて帰らせなかったかと自分を責めて、自分を責めることで息子に許しを求める日が続きました。幾ら息子に謝っても、自分を責めても、もう二度と取り返しがつかないというのが現実でした。

翌年一周忌には、友達が100人以上集まってくれて法要も終わりましたが、あの親からははがき一枚来ることもありませんでした。6月に入り、親のかわりに面倒を見ていて殺された息子に謝ってほしいと、謝罪を求める手紙を出しました。親からはもう終わったことだと思っていますと短い返事が来ました。私はまた手紙を書き、親を家に呼びました。引きこもりになったのは、小さいころから2歳違いの妹ばかりをかわいがって、自分には愛情をかけてもらえなかった。そのため、自分は妹をいじめるとなおさら叱られ、親は妹をかばう、ずっとそんな生活が続いていた。小中学校でもいじめに遭い、仲のいい友達もできず、家にも学校にもどこにも居場所がなかった。大きくなってからは親から受けられなかった愛情を男性に求めることで、親のことは何とも思わなくなっていた。だから家にもいられなかった。いたくなかったと供述書に書いてあったということを言うと、親は二人とも、私たちは普通に育てました。あの子が間違っていたんですと自分たちを正当化し、娘一人に罪をかぶせ、二十歳を過ぎた娘のやったことです。法律上、私たちには何の責任もない、弁護士もそう言っていますと法律を盾に、謝罪どころか、母親からは娘を追い出さなかった息子が悪かったような言葉にも苦しめられ、父親の口から出た言葉は、懲役12年に慰謝料は含まれているのですよという言葉でした。息子のところで2回も手首を切って、ここを出ていったら行くところがない、死ぬしかないとおどしていた。だからあの子は追い出せなかったのだ。それを知っていましたかというと、母親は、はい、知っていました。あの子は家でもやっているのですよと。とても信じられない言葉でした。加害者の親も娘の犯した罪に苦しんで、息子に本当に悪いことをしたと謝る気持ちがあったなら、私たちもこんなに苦しむことはなかったのです。

私はこのような事件に遭うまで、法律も知らず、二人の息子に恵まれ、幸せな生活を送っておりました。事件後、法律を学んでみると、生きている加害者にはさまざまな保護や保障、人権が守られているのに対して、死んでしまった被害者には人権もない。裁判の中ではまるで品物扱い、そして遺族には何の助けもない法律だということを、私は被害者になって初めて知りました。それまで私は本来加害者についた弁護士は、例えば正当防衛だったとか、被害者にも重大な過失があった場合の弁護をしているものだと思っておりました。

私はこの5年ぐらい、いろいろな裁判を見てきました。現実は何の罪もない人の命を、自分の私利私欲のために奪った加害者に対しても、人権があるとか、心神喪失、心神耗弱、責任能力の問題、また成育環境が悪かったなどと刑を軽くし、生きている加害者の人権を守るために、被害者や遺族はなおさら傷つけられてきました。裁判の中で、何の反省もさせないまま、過去の判例をもとに、事務的に量刑を決められ、自分の犯した罪に向かい合わせることもなく、刑務所に送られた加害者は、はたして刑務所の中で本当の反省ができるのでしょうか。また、病気とか成育環境のせいにして、情状を求める弁護活動というのが加害者本人のためになっているのだろうかと疑問に思います。

再犯を防ぐためにも、刑事裁判の中で加害者に本当の反省をさせるべきだと思いますが、現実は被告人の量刑を少しでも軽くするのが弁護士の仕事、刑事裁判が終われば、弁護士の仕事も終わり。加害者のことも被害者のことももう何も考えていないというのが現実だということを感じました。

刑務所に入ることが罪を償うということではありません。もし、生きて社会に戻ったらそれからが償いの始まりであり、生きている限り、一生息子に謝り続けてほしいという思いで、1年半ほどして民事訴訟を起こしました。民事訴訟といってもうちみたいな争点のない民事訴訟は、刑事のような裁判はなく、10分か 15分で終わったと弁護士から聞きました。ただ、刑務所にいる加害者に書類を送ってサインをさせるだけのものだということは、私はそのとき初めて知りました。

刑務所から戻ってきた書類には、加害者の署名と私の言い分という欄に、私にはお金がありませんので、出所したら一生懸命働いて、少しずつお支払いしますということが書いてあったように記憶しております。刑事裁判の中では死んで償うと言っていた加害者も、1年半もすると自分の犯した罪さえ忘れていくのかと感じました。

そんなとき、ばったり加害者の母親に会いました。母親から、あら、お母さん、元気でしたかと、まるで友達にでも会ったような声をかけられました。私は同じ子どもを持つ母親として、息子を殺された私の気持ちがわかりますかと言うと、母親は逆切れして、私たちも大変な思いをしたのですよ。正和君が娘を追い出してくれたら、私たち家族もこんな大変な思いをしなくて済んだと、息子を責める言葉でした。私は苦しくて、悔しくて、殺されても悪く言われる息子が本当に不憫で、その夜、走ってくる車のヘッドライトめがけて道路に飛び出しておりました。幸い、車がとっさに避けてくれて、大事には至りませんでしたが、そのときの私は、主人のことも、次男のことも、友達のことも何も考えることができず、死にたいというよりも死んだほうが楽になれる、死んだら息子のところへ行けるというところまで落ち込んでおりました。

私の知り合いにも高校のときの同級生に21歳のとき娘さんを殺され、3年後に加害者が自首してきたのですが、その後の裁判で被告人本人に暴言を吐かれ、娘さんを殺されたことでPTSDに陥ってしまっていた母親は、さらにその裁判で傷つけられ、その後、娘のところへ行きたいと、電車に飛び込んでしまったお母さんがいます。それほど遺族は苦しい思いを強いられてしまうのです。

そんな命を救わなければならないと今は思えるようになりました。それは事件から2年ほどたったころ、被害者支援都民センターから、自助グループへの誘いの手紙をいただきました。そして毎月1回、自助グループの集まりがあるのですけれども、出かけるようになりました。仕事場や友人の前では話すことのできない悲しさやつらさ、怒り、憎しみを、いろいろな被害に遭った人たちは自分たちのことのように聞いてくれました。最初のころは事故や事件で大切な家族を亡くしつらい思いをしている人の話を聞くだけで、自分の体験と重なってしまい、何度も席を離れたこともありました。自助グループに参加するまでは、ここにいて何の助けになるのだろう、息子が帰ってくるわけではないと疑問に思ったこともありましたが、センターの皆さんのサポートや、同じ苦しみ、悲しみを持つ自助グループの人たちの話を聞いたり、またそれまで友達にも話せなかった自分の体験を口にすることで、2年間、心の奥に封じ込めていた苦しみを吐き出せる場所、そんな場所があることを知り、少しずつ心の傷が小さくなってきたということを感じています。

裁判のとき、罪を償ったら、死んでおわびをしますと言っていた加害者は2年目に便せん29枚もの手紙を親経由で送ってきました。刑務所は規則が多く、受刑生活の大変さを知りました。昔から私は余計な一言を言って、周りの人を怒らせていました。そのくせもいまだ直らず、周りの人ともうまくいかず、ここの集団生活も苦痛でしかありません。どうか、正和さんが来世では幸せな人生を送れますように、毎日お祈りをしております。現時点で賞与金が1万2,000円たまりました。送ったほうがいいのか、もう少しまとまった金額になってから送ったほうがいいのか、刑務所あてに手紙をくださいという内容の手紙を親経由で送ってきました。

これが謝罪のつもりの手紙なのか、何の反省も見えない手紙だと感じました。親からの手紙は一枚もなく、親も本人が謝っていると言いたかったのか、私たちがお金をほしがっていると思ったのかと、また深く傷ついてしまいました。

私はこの手紙を読んでから、メニエール症で3週間ほど寝込んでしまいました。事件後からできた胃潰瘍が、3年後、胃がんにまでなってしまいました。病院の先生にがん宣告された日、私はただ亡くなった息子のことだけを思っていました。このまま私ががんで死んだら息子に会える、会って息子に謝ることができると、私にとって死に対する恐怖は何もありませんでした。ただ、私が入院中、主人は真っ暗な部屋へ一人で帰り、息子の仏壇に向かってお母さんを守ってくれ、まだ呼ばないでくれと、25歳のままの息子の写真に向かってお願いしていたのだろうと思います。

支援センターのスタッフ、自助グループの方からも、励ましの寄せ書きをいただきました。私はその寄せ書きを一人一人の顔を思い浮かべ、何度も読みました。大切な肉親を失った遺族は、悲しみや苦しみと闘いながら、みんなで励まし合い、前向きに生きていくことができるようになります。みんなの思いやりがとてもうれしく、苦しいのは私一人ではないのだということを感じることができました。そして、一度しかない人生を無駄にしてはいけない。もっともっと生きたかった息子の分まで生きなければならないと思えるようになりました。

そして、同じように苦しむ被害者のために、何か私にもできることはないかと思えるようになりました。私は今、被害者支援都民センターの紹介で、2006 年10月から国の事業として始まった法テラスの犯罪被害者支援のオペレーターをさせていただいております。遺族からの電話はまだまだ少ないのですが、私が今、とても心を痛めているのは、性犯罪の被害者といじめに遭って苦しんでいる被害者です。私たちと同じように外傷はなくても、心に大きな傷を持ってしまい、親にもお友達にも話せず、学校や仕事にも行けなくなって、孤立してしまっている被害者がとても多いということです。

ある性犯罪の被害者は、被害から数日後、やっとの思いで警察に駆け込んだのですが、婦警さんから、外傷がないということは、合意があったのではないのと言われ、なおさら傷ついて、死にたいと電話をしてきたことがあります。私たち遺族と同じようになかなか声を上げられない性犯罪の被害者も少なくありません。ある少年は同級生から暴行を受け、加害者は少年ということで、親も学校も表に出したくないと保護されるのに対して、被害少年には何のケアもなかった。そのため、けがは治っても心の傷は治らず、学校にも行けず、転校した学校で悪い仲間に入って、数年後大きな事件の今度は加害者になってしまったという話も耳にしたことがあります。

今までの司法は加害者の人権、更正ということを考える余り、被害者の心の傷に目を向けることもしなかった。そのため、被害者はなおさら傷ついてきたのではないかと思います。今、年間で自殺者が3万人を超しているそうですが、中には生活苦で自殺してしまう人もいるかと思いますが、多くはこのような精神的な問題を抱えて、生きているのが辛いとみずから命を断ってしまう人が増えているのかと思われます。私も経験しましたが、自殺を防ぐ、犯罪を防ぐという意味からも、被害者支援は大変大きな役割があるのではないかと考えております。

加害者ばかりではなく、苦しみながら生きている被害者にも目を向けてほしい、そういう支援者や被害者の願いが国を動かし、2004年に犯罪被害者等基本法が成立し、その後、いろいろな法律の改正もありました。2007年12月、更正保護法の改正、これは私もすぐに申し込みました。今では、5月、11月の 2回加害者の刑務所での処遇状況を連絡してきてくれております。2008年7月、犯罪被害給付制度の改正もありました。私は、年収約400万ぐらいだった息子、この息子の遺失利益とか計算して、600万くらいの給付金が出ました。ところがこれが通り魔とか全く相手を知らない場合には全額出ますが、相手を知っているということで、3分の1カットさせてもらいますと公安委員会から言われて、三百七、八十万、給付金が出ましたが、これは正直言ってすべて葬式代に消えました。

あとは2008年12月15日に少年法の改正、私、手帳の中にも、本当に加害少年はケアされるのに、被害少年のケア、ここのところをすごくまだ考えられていないと、被害少年のケアもこれから考えていかなければならない問題だと思っております。また2008年12月に始まりました被害者参加制度、被害者国選弁護制度、損害賠償命令制度、被害者国選弁護は、私たち法テラスに委託されて、私たちも相談者にぜひこのような被害者のための制度を利用してもらいたいとは思っていますが、まだまだこの周知度の低いことに頭を悩ませています。その背景にあるのは、突然の被害に遭うと、当事者は何もわからなくなってしまう。どこに相談したらいいのか、それさえもわからなくなってしまうということだと思います。

先月の初めでしたか、性犯罪の被害に遭った20代の女性から、私、電話を受けました。刑事裁判が終わり、1カ月たちましたが、加害者から何にも言ってこないというのです。彼女は被害の後、仕事にも行けず、夜になると家から一歩も出られないということでした。刑事裁判の傍聴に行ったんですかと聞くと、相手の顔も見たくないので行かなかったということでした。かわりに両親が傍聴に行ったのですが、刑事裁判の中で、相手や弁護士の言っていることが娘の言っていることと違うと両親は思ったのですが、何も言うこともできず、ただ傍聴席でじっと聞いていることしかできなかった。弁護士も頼まず、検察官とも事情聴取のとき一回しか会っていないということでした。ただ、両親が言うには、刑事裁判の中で加害者の父親が証人として出廷し、息子と一緒に被害者にはできるだけの償いをしますと頭を下げたそうです。両親も被害者もその言葉を信じて刑事裁判が終わってから1カ月、連絡があるものと思って待っていました。しかし、相手からは何も言ってこない。加害者の弁護士に電話をしたほうがいいのでしょうかというお話でした。私は加害者の弁護士は、刑事裁判で被害者の量刑をいかに軽くするかが被告人弁護士の仕事であって、刑事裁判が終われば、加害者のためにも被害者にも何もすることはないと思います。加害者の父親ができるだけの償いをしますと言ったのも、一般的には、被害者であるあなたや両親に言ったのではなく、裁判官に反省していると、量刑を軽くしてもらうために言った言葉ではないかと思われます。実際に賠償をする、しないにかかわらず、裁判の中でしょく罪の気持ちがあると言うと、被告人に有利な事情になってしまいます。こちらから新たに民事訴訟を起こさなければなりません。そう言うと彼女は大変ショックを受けたようでした。

被害者参加制度、損害賠償命令制度の説明をすると、だれもそんな制度があることを教えてくれる人はいなかったと言うのです。性犯罪の被害者は、相手の顔も見たくないという思いで、被害者参加には消極的な人がほとんどだと思いますが、遮へいの措置もできます。被告人の言っていることが事実と違う、被害者の名誉回復のために、本当のことを言いたい、知りたいという思いや、できるだけの償いというのはどのような償いなのか被告人本人や親に聞くこともできるんです。また、求刑もできます。この被告人は懲役2年、執行猶予4年という判決だったそうです。被害者がこんなに苦しんで生活をしているのに、相手はまた刑事裁判が終われば、以前と同じ生活に戻っていくんです。

この制度ができるまでは、被害者は相手側がどんな責任逃れの証言をしても、傍聴席でじっと聞いていることしかできませんでした。被害者参加制度は、被害者自身が直接裁判に参加し、自ら発言したいという強い思いから生まれた制度で、被害者の生の声を裁判官や被告人に伝えていくためにつくられた制度です。裁判で何もしなかった、何もできないで裁判が終わってしまったという後悔が被害からの回復の大きな妨げになっているのではないか。精神的な立ち直りに大きく影響するのではないかと思われます。

私にとっても加害者の親の次に大きな二次被害は、この刑事裁判でした。私の息子の刑事裁判は8年前のことで、当然このような制度はありませんでした。もしあのときにこのような制度があったら、私も裁判の中で、被告人に息子と交際しているときは、本当の娘ができているようでうれしかった。生きていれば、今ごろ結婚して子どもも生まれ、幸せな家庭を息子がつくっていたはず。もう二度と息子にはそんな生活は戻ってこない。取り返しのつかない罪を犯したのだということが言えたら、加害者も少しは自分の犯した罪の重さを感じたのではないかと思います。

資力要件はありますが、被害者参加のための国選弁護士を被害者も依頼することができます。私はこの4年余り、法テラスのコールセンターで被害者支援担当のオペレーターをさせていただいておりますが、法テラスには1,800人以上の被害者に理解や経験のある精通弁護士の登録がされています。全国の被害者からの電話を受け、精通弁護士に取り次ぐというのが私たち法テラスコールセンター犯罪被害者支援担当オペレーターの役割です。このような法律改正がされるまで、被害者からの入電は少なく、先ほどお話しした被害者のように、刑事裁判が終わって、民事での相談が多かったように思います。最近は被害に遭ってこれから裁判が始まる。どうしたらいいかわからないという電話もふえてきています。

この制度ができるまでの裁判は、被害に遭っていない検察官、裁判官、刑事弁護士だけで、過去の判例に基づいて裁判を行い、法律家だけで進められてきました。なぜ、事件の最大の被害者や遺族が蚊帳の外に置かれて裁判が行われているのかという強い疑問から、この制度が生まれたものです。今は裁判員制度も始まり、裁判官や裁判員に被害の実情、苦しみを被害者の生の声で伝えたい、また被告人に被害者の声を直接聞かせたいという思いがやっとこの制度でかなうんです。そして法律だけでなく、裁判員には判例ではなく、一般の常識から判断してほしいと望んでいます。相手が起訴された段階で参加の申し込みをすることはできます。申出はできても、法律では素人の被害者が裁判官相手にどれだけの思いを伝え、納得のいく説明を受けることができるでしょうか。そのためには、なるべく早い時期に理解のある被害者参加弁護士とつながること。

そこで期待されるのが、被害者参加弁護士の役割です。特に性犯罪被害者の場合、被害の内容を語ること自体、大きな負担や不安があるからだと思います。しかし、先ほどの被害者のように、被告人の言っていることや弁護士の言っていることが事実と違う。被害者の名誉回復のために、事実を確かめたい。それができなければこれはこの被害者みたいに泣き寝入りで終わってしまうんです。そのためには、被害者参加弁護士が密接に被害者とコミュニケーションをとりながら、被害者参加のためのケアをしてくれるということが理想ではないでしょうか。被害後、検察官に呼び出されて説明されても、法律用語さえ理解できず、何もできないことにまた自責を感じる被害者も多いのではないでしょうか。そのとき、被害者参加弁護士が被害者に寄り添い、被害者の思いを検察官ともコミュニケーションをとりながら、被害者が裁判に参加できる手助けをしてくれるというのが、一番望ましい方法ではないかと思われます。

被害者はどうしたらいいのかわからない。そこで、法律の専門家である弁護士がかわりに代弁しようとか、訴訟行為なので、専門家である私がやりましょうと言われるとします。被害者は何もわからないまま、被告人質問や証人尋問、求刑までも被害者ではなく、参加弁護士がすることになってしまいます。すると、被害者の本当の思いと弁護士の思いとの間に温度差が生じ、自分でやるべきだったと後悔する被害者もいるのではないでしょうか。幾ら信頼している弁護士であっても、実際に被害に遭った本人の本当の思いというのを伝えるには、被害者本人が発言するということにあると思います。

そうは言っても、法律もわからない被害者。弁護士の先生には、被害者と寄り添いながら、少しでも発言しやすい環境を整えていただくというのが一番いい方法ではないかと思います。被害者が法廷でどこまで質問できるのか、どんな尋問ができるのか、弁護士がアドバイスをして、どれだけ被害者の思いを裁判に活かせるかが、被害回復への第一歩ではないかと思います。代理人である弁護士が法廷の中で被害者の代弁をするよりも、被害者や遺族の思いを被告人に直接伝えるということが、被告人や親を犯した罪に向かい合わせるためにも、一番効果的なことだと思います。被害者も裁判に参加するとなると、不安やちゅうちょする気持ちが大きいと思われますが、私の経験から、何もしなかった、何もできずに刑事裁判が終わってしまった、ごめんと、息子に対するそういう気持ちが精神的な立ち直りに大きく影響したのも事実です。

特に性犯罪の被害者は、自分自身がどうしても参加できない場合、検察官の判断ではありますが、心身に重大な障害を負った被害者は、家族が参加できるともされています。この制度は、義務ではなくやっと被害者に与えられた数少ない権利のうちの一つだと思います。この制度を利用しないで裁判が終わってしまったら、後悔が自責につながってしまうという危険性も考えられます。

また、損害賠償命令制度、私は民事のときにお願いした弁護士から、どうせ何もとれないのだから、せいぜい5,000万にしておいたらどうですかと、国にお金を払うようなものですよと言われました。私は、全部計算してほしいと弁護士にお願いしたところ、1億4,000万円近い金額が出ました。それにかかる費用は、弁護士費用と合わせて80万円近く、50万円近くの印紙代が当時はかかりました。それがこの損害賠償命令制度では、印紙代が2,000円で済む。死刑でない限り、いつか加害者は反省しているいないにかかわらず、出所してくるのでしょう。そのとき、賠償責任がないと思えば、刑務所に入ったことで罪を償ったととんでもない勘違いをして出所してくるんだと思います。奪われた命は二度と戻ってくることはないということを、加害者は忘れてはならないのです。私は加害者が犯した罪を、一生忘れさせないために、民事訴訟を起こしました。それまで、出所してもどうせ何もとれない、印紙代が負担になって、民事訴訟も起こさなかったという被害者も多かったのではないかと思います。

このような被害者のための法律改正が施行されて、きょうでちょうど2年たちました。法テラスで電話を受けるとまだまだこの制度を知らないまま刑事裁判が終わってしまう被害者も少なくありません。

皆さんもそうだと思いますけれども、例えば刑事ドラマを見ていると、例えば警察は犯人を逮捕したらそこで終わり、検察のドラマを見ていると、刑事裁判が終わってしまうとそこで終わり。でも被害者にとって刑事裁判は終結ではありません。今回のこの標語、とても私も心にしみました。「被害者の悲痛な気持ちに時効なし」。相手は刑事裁判が終わったら終わりと思っているかもしれませんが、被害者はこの刑事裁判が終わりではないんです。例えば私も息子の友人が結婚したり、子どもが生まれたり、幸せそうな家族を見るたびに、息子も生きていたら、今ごろこんな幸せな家庭を築いていたはずと思うと、また苦しい現実に引き戻される日が今でも続いています。私の事件は、新聞や週刊誌の見出しに、地雷女という見出しで書かれましたが、一人の女性が元交際相手の男性を刺殺したという簡単な事件の扱いでした。

例えば有名な事件、秋葉原とか、今裁判員裁判で死刑判決が出るかどうかという、そういうような有名な事件の被害者ではありません。亡くなった被害者が一人だと、事件でも事故でも自殺でも、数多い事件のうちの一つだと、簡単に処理されてしまいますが、一人が被害に遭うと、その被害者は一人であってもその家族もまた苦しい思いをしてしまう。そして、被害者や遺族は突然の被害に遭ってから、精神的や経済的、また周りの人たちとの人間関係までも壊され、被害に遭うまでの生活に戻れない人も少なくありません。遺族ばかりでなく、特に性犯罪、傷害事件、いじめのような生存している被害者も、同じように苦しみと闘いながら生きているのではないかと思います。

犯罪は最大の人権侵害だと私は感じています。加害者の人権救済をする前に、被害者や被害者家族の人権救済がされるようになったら、こんなに苦しむことがなかったのではないかと思います。被害者も人それぞれですが、私は自分の経験から、悲しさ、苦しさを自分の胸に押し込めているということは、本当の回復にはつながらない。直後は無理でも、ある程度時間がたったら現実と向き合い、前を向いていかなければならない。そのためには、胸に封じ込めている苦しみを吐き出す場所が必要だということを、私は被害者支援都民センターから学びました。そういう温かい人間関係や、周りの人とのつながりが、被害回復には何より必要だということを改めて感じています。

そして、この被害者のための制度をどれだけ活用できるかということも、被害からの回復に大きな影響があると思っております。被害によって必要とする支援もさまざまですが、自宅が事件の現場になってしまったら、その日から住むところがない。家族に小さい子どもやお年寄りがいた場合は、学校や福祉の手助けも必要になります。病院や役所に行くことの手助けを必要とする被害者もいます。被害に遭うまでの生活に完全に戻ることはできませんが、それに近い状態に戻るためには、周囲の人からの手助けを必要としております。事件や事故に真っ先に直面する警察を初め、支援の窓口、弁護士会、医療機関、そして福祉など、自治体が被害者支援の窓口になって、必要とする機関の連携で被害者や遺族などが立ち直るための支援がなるべく早い時期から受けられるようになることを望んでおります。

周りの人たちには、人ごとと思わず、被害者の心情や命の重さということを考えてほしい。これから先、不幸にも被害に遭った人たちには、私たちのようなつらい思いをさせたくないという思いで、きょうは被害者遺族の一人としてお話をさせていただきました。そのためには、被害者支援ということの重要性を、国や被害に遭っていない人にも理解していただきたい。そして、まずは身近に相談できる被害者支援の窓口を各都道府県や市区町村の自治体につくっていただきたいということを望んでいます。

少し早いですけれども、被害者遺族としてのお話をこれで終わらせていただきたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

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