■千葉大会:基調講演

テーマ:「松本サリン事件の被害とは」
講師:河野 義行(松本サリン事件被害者)

こんにちは。河野です。

私は今年の9月に鹿児島に引っ越しました。事件があったときが44歳、今年は60、還暦を迎えたから少しゆっくりしようかということで、拠点を鹿児島に移しまして、口之永良部島という島があります。屋久島のすぐ隣です。ここで割とスローライフな生活をしております。

今日は犯罪被害者に関する話をさせていただきますが、まず犯罪被害者というのは、被害を受けた人とその家族、こういう定義になっております。

では被害者というのをだれが決めるかという話になります。警察が決めるわけで、そうしますと、時としては被害者が被害者にならないケースがあるのです。

これは私が公安委員をやっているときに体験した事例ですけれども、1つは生坂ダム事件という事件で、ここに男性の死体が上がりその死体はビニールにひもで巻かれている。当然、警察は当初事件として捜査を開始するわけです。

ところが、捜査が進むに従って、この男性は自殺したのではないかということになってくる。周辺の捜査をしますと、この男性は厭世的な言葉、もう自分は死にたい、そういう言葉をあちこちで話していたりとか、あるいは家庭内の問題があったりということで、自殺のほうへ固まる情報が圧倒的に多くなってしまったのです。

警察は自殺と断定しました。亡くなった男性の母親は、息子は自殺はしないと独自でいろいろ調べるわけですが、話はそれで消えてしまいました。

そして、20年たったとき、刑務所に服役中の男性から長野県の豊科警察署というところへ手紙が届き、20年前の事件あれはおれがやったんだと、そういう告白の手紙だったわけです。

そういう告白があったから、すぐ発表するわけにはいかないですね。裏づけをとらなきゃいけない。結局、3年かかりこの男性は殺された。そういうことがわかります。

ただし、このときには、殺人の時効、これが15年、そして民事の時効が20年ということですから、すべての時効は成立していたわけですね。ですから、その男性がやったという裏づけがとれても、結局検察側は不起訴処分ということになったわけです。

そして、殺された男性のお母さんを何とか救う法律がないだろうか、いろいろ探したんですけれども、何もないんですね。犯罪被害者等給付金制度、こういうのはありますけれども、この事件はそれより前の事件なのです。

それで、警友会というところがあります。警察のOB会です。そこがカンパ運動をやって、何とか警察の気持ちを届けようということで決着したわけです。言ってみれば、殺されたのに自殺したというふうに警察が判断された場合、ずっと自殺ということで通っていくということです。

次に、警察が殺されたのか、心中したのか、判断できない。こういう事件もありました。

これは長野県の塩尻市というところで、河川敷で男女の焼死体が上がりました。警察は事件、あるいは心中、両面で捜査を開始するわけです。しかし、結論が出ないのです。5年結論が出なきゃ5年間ほっとかれるということです。犯罪被害者として認定されないわけですから、そんな決められないというケースもあるということです。

そして、もう一つです。

それは、被害者なのに加害者扱いをされてしまったという事例、これは私のケースもまさにそうですけれども、平成16年の4月27日です。長野県の飯田市、ここで起こった事件です。77歳の女性が殺される。そして、その娘さんが疑われた。その後、飯田市内で窃盗に入って逮捕された人が実はその事件も含めて4件、4人の殺人事件を犯したということがわかりまして、それが起訴されて、裁判になる。そういう事件です。言ってみれば、被害者なのに加害者にされてしまうというケースもあるということですね。

事件が起こりますと、警察はどこから捜査を開始するかといいますと、まず被害者の周りの人から調べます。あるいは現場の近くの人、事件に近い人はまずは一たんは疑われる対象なのです。そして、その捜査の過程で、これは警察の経験則で、おや、この人はちょっとおかしいなと警察が思ってしまったとき、警察はその人をとことん調べて、事件に関与したのか、しないのか、結論を出さなきゃいけない組織ということです。そんな捜査の過程で、迷惑がかかってしまうこともあるということです。ですから、単に犯罪被害者といってもいろいろな事例があるということです。

そして、今日は私の事例ですね。これは犯罪被害者ですけれども、1年間加害者として扱われました。そのときに一体何が起こるのか、そんな話をさせていただきます。

事件が起こりましたのは、1994年6月27日、深夜です。

私は会社に勤めており1日の仕事を終え、8時ちょっと前、家に帰ってきました。そして家族と食事をし、新聞を読み、テレビを見、全くふだんと変わらない1日が終わろうとしておりました。時刻は11時ちょっと前です。深夜ですね。

突然飼っている2匹の犬が口から白い泡を吹いて、けいれんしながら死んでいく。それに引き続ついて、妻、私、長女、次々と体がおかしくなるわけです。

そして、私はすぐ救急通報します。その後、妻に対して簡単な救急措置―気道確保する、あるいは衣服を緩める、そんなことをしている間に私の体がおかしくなってくる。最初の異常、それは視覚異常ですね。何だか知らないけど、部屋の中が暗いのです。私の家は古い家でそんなに明るくはない。それにしても暗い、そんな状況から始まりました。

見える像がゆがみ、流れる。そして、激しい吐き気が襲ってくる。とても立っていられない。こういう状況になるわけですね。

このときに、苦しんでいる妻のところを離れて玄関まで移動したのです。それは救急通報したので、1秒でも速く、救急隊員を妻のところへ誘導しようとそう思ったから、妻のところを離れて玄関まで移動したのです。

ところが、この行動というのは、警察から見たときに不審な行動というふうに映ってしまったのですね。後の事情聴取で言われました。

「河野さんね、普通であれば奥さんが苦しんでいるときに奥さんのところを離れる。こういうことはしない。あんたの行動は極めて不自然だ」このように言われたのです。

警察というのは、そういう細かいところをきちっと押さえないと、事件の検挙にはなっていかない、それは事実ですね。ですから、警察はそこがまず怪しいと思ったのです。

松本サリン事件では、私が苦しんでいる妻のところを離れた、そのことが警察の最初の疑問、疑惑だったんです。

私が玄関に座り込んでいると、離れにいた長男が玄関に入ってきました。このときには、もう自分は死ぬかな、そういう思いでした。15分ぐらいの間に自分の体がどんどん変わっていく、そういう状況でした。

ですから、私は長男の手を握って、だめかもしれない。後のことは頼んだぞ。こういう言葉を出しているのですね。だめかもしれない、自分は死んでしまうかもしれないから、もしそうなったときは、あとはちゃんとやってほしい、そういう意味合いで言った言葉です。

しかし、この言葉もゆがんでマスコミに伝わる。そして、出てきた記事は、私が玄関で座り込んでいたら、長女が駆け寄ってきたというのですね。長男から長女に変わっていました。そして、私は長女に言ったそうです。これはかぎ括弧ですから、直接話法ということです。「大きなことになるから覚悟しとけ」と書いてあるのですね。「だめかもしれない」という言葉が「大きいことになるから覚悟しておけ」というふうに変わって、そして記事の見出しです。

「会社員、事件の関与ほのめかす」という記事になったのですね。実際には全く違う話です。

そうこうしているうち、救急車の音が聞こえてきた。私は地に足がつかない、そんな状況でふらふらと歩いてきますと、門の前に救急車がとまっていたのです。私は救急隊員に言いました。妻を助けてほしい。犬が死んだ。犬に毒を盛られたかもしれない。私自身体がおかしくなっている。こういうことを救急隊員に話したのです。

ところが、この場面も毎日新聞とNHKがどのように報じたか。会社員、つまり私です。「会社員は救急隊員に薬品の調合を間違えた」という話になってニュースになるわけです。一言も言わないのに、どんどん活字になってくる、テレビに出てくる、そういう状況だったわけです。結果、私は事件発生からたった 2日間、世間から殺人鬼、精神異常者、変質者、随分いろいろな呼ばれ方をされるわけです。

そして、事件の翌日です。私は警察から強制捜索を受けることになるわけです。その端緒は、私の家、5人家族ですけれども、4人が入院するということになります。そして、長男だけ1人入院せずに済みました。徹夜の看病をして、朝方家に帰って寝て、昼ごろ現場周辺の聞き込みという形で刑事さんが来て、長男に聞いたのです。

この家に薬品のようなものは置いてないか、そういう話が出た。長男はお父さん、持っている薬品ありますよと言って、薬品の置いてある部屋に刑事さんを案内したわけです。

私は趣味で写真、陶芸、そんなことを松本でやっておりました。それに使う薬品が二十数点部屋に置いてあったわけです。その中で警察が関心を引く薬品がありました。これは写真の現像液として使おうと思って置いてあったもの、青酸化合物ですね。青酸カリ、青酸銀、この2種類です。

警察は一般家庭にない、そういう薬品が置いてあって、しかも猛毒、この事件は発生からすぐに7名が亡くなっているわけですね。もしこの薬品が今回亡くなった人の原因物質ということであれば、証拠として保全しようというふうに考えました。

証拠として保全、それはまさに裁判所に令状を申請して、その令状をもってそれを押さえるということです。

6月28日、強制捜索が行われ、そして夜の10時です。捜査一課長の記者会見が開かれました。ここで警察は私の実名を発表したのです。河野義行宅を強制捜索した。その結果、薬品類数点を押収し、薬品の中には殺傷力のある薬も含まれている。強制捜索をした罪状、それは被疑者不詳の殺人、こういう発表だったのです。

ここで、今度は記者の経験則が働いていった。個人の住宅が強制捜索を受けて、警察はそれを実名発表、記者の経験則では決まりということです。あの人がやった、そして、どこのマスコミも言ってみれば編集方針というのがあり、あの会見で河野がやったという方向性が決まってしまうのです。

そうしますと、記者の人がいろいろなところへ行っていろいろな情報をとって記事を書いてきても、そこの新聞に載る記事、それは選択されていくということです。この男はこんなに黒い部分を持っていて、こんなに怪しいという記事しか載ってこないということです。

6月29日から、いわゆる犯人視報道というものが始まります。疑惑をどんどん、どんどん補強していくような記事が出てくるんです。

そうしますと、大勢の人があの男がやったのだというように確信すら持ってしまったというのです。どの新聞も断定はしてないですよ。印象を与える記事、そういうものが出るのですけれども、繰り返し、繰り返しそういう記事が出ますと刷り込まれてくるんです。そして、大勢の中には熱い人もいます。7人も殺した、そんな悪い男、ひとつおれがこらしめてやろうか、こういう人が出てくるわけですね。

6月29日から私の家には、無言電話、嫌がらせの電話、脅迫状、これが殺到するんです。これをとっていたのは高校1年生の長男です。

長男は血相を変えて病室に来ました。そして、お父さん、無言電話、嫌がらせの電話、半端じゃないというんです。もう僕はとてもつらいから、電話番号を変えてほしい。こんなふうに言いました。

確かに、番号を変えれば、それらの電話は入ってこない。それはわかっている。しかし、私はあえて反対した。電話番号を変えること、それはまさに現実から逃げる行為じゃないか。今うちはここで逃げていたら、世間からつぶされてしまうぞ。大事なこと、それはどんな電話であっても、正面から真摯に対応する。それが大事だ。無言電話であったならば、あなたはおっしゃることがないようですから、この電話切らせていただきますよ。断ってから切れ。人殺し、町から出て行け、こんなふうに言われたときは、あなたはどうしてそんなふうに考えてしまうのか、よかったらお父さんに会って話をしてみませんか。お父さんはあなたにお会いしますよと言うわけですね。電話は一方的に切られてしまいます。

当時、うちは逃げなかったのです。一たん逃げますと、次々逃げなきゃいけない場面になってくるのですね。ですから、うちは逃げずに、それを自分の力で乗り越えていったということです。子供たちは相当きつかったと思います。しかし、自分で乗り越えた。逆に家は大きなものをいただいたかな、そんな思いです。

あるいはメディアスクラム、こういうことも行われました。私が入院中、二、三十人の記者がいつも病院に張りついているのですね。そして、退院後は今度自宅の前、引っ越してくるのですね。朝から晩まで何カ月も見張っているのです。立っているのが大変だから、会社からいすを持ってきて、ずっと見張っている。彼らは何が欲しかったのか。彼らが欲しかったもの、たった一つです。私が逮捕されるその瞬間の映像、あるいは写真が欲しかったからなのです。

子供たちが学校に行くために門から出てくると、一斉に写真を撮る。テレビカメラを回す。マイクを突きつける。こんなことが行われました。子供たちはこのことがとても嫌だったのです。家の中にいれば無言電話、嫌がらせの電話、そして外に一歩出れば取材攻勢です。子供たちの心安らぐ場所があったのか。

実はあった、それは学校だったのです。当時、私は世間的には人殺しです。そして、子供たちは人殺しの子、学校では相当ないじめがあるかもしれない。そんなふうに考えました。あるいは子供たちがそのいじめを苦にして自殺でもしたらどうしようか、そんなことも考えていました。しかし、実際にはいじめはなかったのです。

当時、子供は中3、高1、高2です。それぞれ違う学校に行っておりました。このときに担任の先生や校長先生、この子供たちをどうやって守ろうか、そういう話し合いが行われたのです。そして、結論です。これはふだんと全く変わらないように接していくということを決めたのです。このことが子供たちは居心地がよかったのです。つらいときに頑張れという言葉、結構残酷な言葉だと思います。頑張れでも何でもない、普通に接してくれた。これがよかったのですね。

長女は退院と同時に、その日のうちに学校に行っている。そして、学校にいるときが一番楽しい、当時言っていました。曲がってしまうだろうな、そんなことも考えました。しかし、3人の子供たちは普通に育って、普通に学校を終えて、今社会で働いております。今があるのは、当時の先生方の判断、それがあるから今がある。私はいつも感謝しております。

そんな中で、私はとても早い時期に弁護士をつけているのですね。事件が起こったのは6月27日、そして弁護士をお願いしようと言ったのは6月29日です。そして、7月1日にはもう弁護士がついている。何でこんな早い時期、私が弁護士つけたのか。

それは、6月29日、夕方です。長男が血相を変えて病室に入ってき、「お父さん、テレビでお父さんのことを殺人者扱いしているよ」。そして、僕はその番組を録画し、自分を殺人者扱いしている、その言葉に反応します。そして、そんなテレビ局は許さぬぞ、裁判で訴えようと考えたのです。私は長男に指示をしました。お父さんの知り合いのここへ行って、弁護士を紹介してもらってこい、こういうふうに指示を出すわけですね。長男は私の知り合いのところへ行って、お父さんに弁護士を紹介してほしいと行くわけです。

私の知り合い、とても悩んだそうです。それは、7人が死んでいると、数十名が負傷して入院している。大きな事件ですね。若い弁護士さんでは恐らく世間からつぶされてしまうかもしれない。こんなふうに考えたのですね。よほど腹の据わった弁護士でなきゃもたないだろうというふうに考えました。

そして、売れっ子の弁護士さん、急がし過ぎてちゃんと見てもらえない。たまたま私の自宅の近くにいる永田恒治さん、この人に白羽の矢が立つわけです。ただし、永田弁護士さんの家族、友人、全員反対だった、そんなもの受けちゃいけない、おまえやめとけと言われた。この日本はとてつもない悪い人を弁護すると、その人も悪い弁護士になって、世間からバッシングを受ける事を家族の人は知っていたからです。

私の知り合いは永田さんのところへ行って、河野の代理人になってほしいと行きます。永田弁護士さんが最初に言った言葉、「弁護料は払えますか?」こう言ったのですね。それは世間では私の逮捕は時間の問題だと言われているわけです。逮捕された人が経済力あるわけがない。だから、そういう言葉が出た。

このときに、私の知り合いはこう言いました。河野君が弁護料を払えないとは思わないけれど、そういう心配が出るといけないから、お金を持ってきた。ポケットから300万出して着手金としてとっておいてほしい。そして、もし河野君が弁護料を払えなかったとき、私が全部持つからと、こういうふうに言ったのです。

永田弁護士さんは、私の代理人を受けてくれた。それは私の知人がお金を持っていったからではないのです。お金は取っていないのですね。それは、裁判所の出した令状、これが問題ありと考えたのですね。

裁判所は6月28日、まだ事件なのか、事故なのかわからない、その段階で殺人ということで強制捜索の令状を出しているのです。まだだれもがわからない、そんな状況の中で、裁判官はどうしてこれを殺人と言えるのか、こんないいかげんな令状を出す裁判官が許せない、そういう思いで受けてくれたということです。

しかし、永田弁護士さんはバッシングの対象になるわけですね。新聞で会社員に弁護士がついた、こういう情報が流れます。世間は一斉反発です。あの男は7人も殺しておいて、弁護士を雇って自分の罪を逃げようとしている。何てやつだ、そういう反応が1つです。

そして、もう一つの反応、そんな悪いやつを弁護する弁護士も弁護士だという反応が起こりました。弁護士の事務所には、弁護士を誹謗中傷する電話、ファクス、手紙、殺到するわけです。おまえは知名度をねらった悪徳弁護士だ、おまえは金目的の乞食弁護士だ、こんなことまで言われたのです。永田弁護士さん、私に最初に会ったとき言った言葉、河野君、僕は黒を白にする、そんな弁護はしないよこう言ったんですね。私は当然それでいいですと言いました。

続いて、弁護士さんは言いました。今、河野君は事件に関与していないと言っている。もしこれが後でひっくり返ったとき、恐らく自分の弁護士生命もそこで終わると思う、そういう意味では、君の弁護を引き受けたということそれは君と心中する、それぐらいの覚悟で引き受けているんだ。うそだけは決して言わないでほしい。こういうふうに言われました。そして、永田弁護士さん、1年間1件の仕事も入らなくなりました。世間がそんな悪い弁護士には仕事を出さない、こういう反応をしたんです。まさに心中覚悟の弁護だった。

しかし、弁護士と私の意見、かみ合わないのです。何がかみ合わないか、それは警察に対する思いが違ったのですね。私は、警察は自分を守ってくれるところ、そういう思いが入院中は非常に強かったんです。ところが、永田弁護士さんはそんなふうには考えていなかったのです。河野君な、警察がおまえさんの潔白を証明してくれる。そんなふうに考えたら、それは間違いだ。警察は犯人をつくるところなのだ。こんなふうに言っていたのですね。だから、かみ合わないのです。

そんな中で、私は7月30日です。退院しております。これは退院したというよりかも、させられた。事件が起こったとき、私の逮捕は時間の問題だと、だれもが言っていた。しかし、私は一ヶ月たっても逮捕されない。世間がじれてきて、そしてうわさが広がったのです。あの病院は犯人をかくまっている。こういううわさが松本市内の至るところで聞かれるようになったのです。そのことによって、病院の言い方が変わったんです。

主治医の先生は当初、河野さん、熱が下がって3日、4日様子見ないと退院はさせられない。こう言っていたんです。ところが、そんなうわさが広がったときに、河野さん、治療費もかさむというのです。自宅でも治療できるから退院してもらいたい。退院後は病院としては、往診という形で面倒見るから、とにかく病院を出ていってほしいと、言われたのです。

永田弁護士さんが院長や事務長にまだ河野君の体はよくないので、1日でも長いこと置いていただけないか、懇願しましたが認められなかったのです。だから、私は7月30日サリンの後遺症を持ったまま退院ということになるわけですね。熱は37度6分、頭痛、下痢はしている。口の中はすぐばりばり乾いてくる、そんな状況での退院です。

そんな状況であれば、退院したら自宅でゆっくり静養をとる。当たり前のことだと思いますが、その当たり前のことを世間が許してくれなかったのです。警察は退院の前日に病室に来て言いました。河野さん、退院したらまずは警察に出てきてもらいたい。押収したものの確認作業もしたいし、突っ込んだ話もしたい、こう言ったのですね。私は体調がよくないから、行けるかどうかわかりませんよと言ったら、その刑事さんは、もし河野さんが退院してすぐ家にこもってしまったとき、一体何が起こるかわかりませんよ。恐らく大勢のマスコミは河野さんの塀を乗り越えてなだれ込んでくる。まともな生活はできませんよ。こういうふうに言われたのです。

確かに、取材というのは取材要請が集中しておりました。多いときは1日に50社です。長男がそれを断るだけで4時間ぐらいかかってしまう。そんな状況だったのです。弁護士さん、あるいは友人を呼んで相談した。そして、結論はまずは体は具合悪いだろうけれども、一度は警察に行かないと世間が納得しない、これが結論です。任意の事情聴取に応ずるということを決めたのですね。

退院後、私は記者会見を開いて、マスコミに抗議しております。あなた方は随分いろいろな誤報を流している。そんな中で、謝罪はおろか記事の訂正すらしていない。あんたたちの記事で私や私の家族が一体どれだけ迷惑を受けているか、よく考えてもらいたい。誤報は速やかに訂正するように、そういう抗議の記者会見、1時間やったのです。そして、警察の車で任意の事情聴取、このときは参考人として出かけていきました。

私は長野県警の私への捜査というものを公正に考えたとき、長野県警は法に基づいておおむね適正に捜査をしていた。今はそのように思っております。しかし、当時やってはいけないこと、私は3つやったと思っております。これは退院後の2日間の事情聴取です。

まず、1つは医師が警察の事情聴取は2時間が適切であって、それ以上の事情聴取は医師の判断を必要とする、こういう診断書を持って事情聴取に行っているのですが、長野県警はそれを無視して、7時間半の事情聴取を2日やったのです。私は自分で立てないぐらい体が弱ってしまったのです。医師の診断書というのは非常に重たい、そういう書類を無視したということ、それが1点です。

そして、2点目、これは長男に対して切り違い尋問をやったということです。7月30日に私が松本署で事情聴取を受けている同じ時間帯です。自宅で高校1年生の長男を3人の警察官が取り囲んで尋問をしているわけです。

そんな中で、1人の警察官が言うわけですね。親父はもう吐いた。ポリグラフでも反応が出て、お父さん自身罪を認めている。僕だけ隠してもどうなるものでもない、僕も早く罪を認めて本当のことを言いなさい。これをやったのです。とても危ない橋だったと思います。

もし長男がその雰囲気にのまれてしまって、お父さん自身罪を認めているならそうかもしれないと言ってしまったら、恐らく私は7月30日、逮捕されていたのではないかと思います。逮捕する理由ができるでしょう。息子が父親の罪を認めているという話ですから、このときに長男は踏ん張った。お父さんはそんなことするはずもないし、言うはずもない。きっぱり拒否したのですね。だから、家に帰って来れました。しかし、事情聴取は7時間半、それが2点です。

もう1点は自白の強要です。7月31日。取調室で、おまえが犯人だ。おまえは亡くなった人に申しわけないと思わないのか、警察はおまえの44年間全部わかっているのだ、さっさと自分がやったと罪を認めろ、こんな自白の強要が行われたんです。

私は何という警察官だと思っていましたが、事実はそんなに簡単なものじゃなかった。10年後にわかるのです。私に対して自白の強要をしたその警察官というのは、当時警部でした。そして、捜査指揮をとっているトップ、刑事部長が発していたのです。とにかくやつを逮捕してしょっ引いてこい。長時間拘束すればやつは吐く。こう言っていた。このときに、私に対して自白強要したその警部は、刑事部長に言ったのですね。やつをしょっ引くのは簡単だが、やつがやったという証拠は何もない、公判をどうやって維持するのですか。今は逮捕すべきじゃない。こういうふうに上に言った人がいるのです。

警察というのは、縦社会です。1階級上に物を言う、それはまさに自分の警察生命をかけなきゃいけないぐらい大変なことなのです。しかし、その人は2階級上です。警視正です。警視正にまだ今逮捕しちゃまずいんだと言った人、警部がいたんです。言ってみれば、この人というのは、私や家族を救った人、今はそういう存在になっているんです。

このように、事実というのは変わっていくのです。マスコミで出てくる事実、それはその日の切り取った事実なのですね。今日の事実は明日になれば変わる。10年後には変わる。真実とは別のものである。そういう視点で記事に接する必要があるということです。

いずれにしても、私は7月31日、自白の強要を受け、本当に永田弁護士さん言っていることは確かなのだと、警察は本当に自分を逮捕するつもりなんだ。身をもって家に帰ってきました。警察は明日も出てきてくださいというのです。自白の強要をやって、明日も任意の事情聴取に出てこいというのです。私は弁護士と友人を呼んで相談しました。事情聴取に応ずるのか、拒否するのか、この選択です。

事情聴取、拒否を選ぶということは、まさに警察に対して逮捕のきっかけを与えるということです。そうかといって、任意で事情聴取を続けて、体が弱り切ったとき逮捕されたら、ひょっとしたら自分は虚偽の自白をしてしまうのではないか、そういう怖さもあったのですね。考えに考えて、結論は逮捕やむなし、こちらを選んだのです。

体調不良ということで事情聴取は断りました。それと同時に、逮捕に備えて準備を始めるんです。まずは資金手当て、事件前、財布は全部妻に任せておりました。お金がどれだけあるのか、貯金通帳がどこにあるかもわからない。こんな状態だったわけですね。3人の子供を動員して家捜しです。10日ぐらいしたときに、自分のところにあるお金が見えてきました。私は3人の子供を集めて言いました。恐らくお父さんは近々逮捕されることになると思う。もしそういうことになったら、おまえたちとはしばらく会えなくなる。接見禁止措置ですよね。だから、悪いけどおまえたちの生活はおまえたちでやってもらいたい。そして、意識不明のお母さんも守ってほしい。これが家にあるすべての現金、おまえたちの意思で全部使ってくれ。貯金通帳と印鑑を渡します。

そして、そのお金が終わったときは、次は学資保険を解約するのだぞ。これがその証書だ。そして、それも終わったとき、家と土地を売ってくれ。家の権利書、土地の権利書、私の知り合いのここへ持っていってお願いするのだぞ。二束三文で構わない。なぜなら、お父さん逮捕ということになれば、遺族の人は恐らく法的な手段を講じてくる。財産の仮差し押さえですね。いずれにしても、丸裸になることは確かだ。全く知らない人に財産を持っていかれるくらいなら、自分のために動いてくれるために全部使ったって構わないじゃないかといって、家の財産、子供の意思で処分できるようにまず段取りしたんです。

そして、次に弁護士から弁護団に組みかえました。永田弁護士さんではちょっと重過ぎるのですね、私が逮捕されてしまったということになると。地元の弁護士さんにお願いして1人入ってもらいました。まだ不安です。何が不安か。弁護士は法律の専門家です。サリン事件は薬品の事件なのです。当時、私は警察が証拠の捏造をしたらどうしようか、そんなことまで考えていたのですね。薬品に詳しい弁護士はいないか、探しました。梶山正三さん、東京にいます。薬品のプロ、この人も入ってもらうわけです。弁護団を組む、次に警察は私の何を疑ったのか、それを全部書き出していくわけです。これは2日間の事情聴取で言われたことを書いていけばいいわけです。警察がやはり疑う理由があったから疑ったことは事実なのですね。だから、それを書き出す。そして、一つ一つつぶし込んでいくという作業をしました。

例えば、警察からダイジストンという農薬を6キロ買っていると言われたのです。買った覚えはないのですが、買った、買わないというよりかも、ダイジストンで毒ガスが出るか出ないか、そこを押さえればいいわけです。永田弁護士が現物を買って、東京大学の森教授、化学の権威と言われるところへ持っていって鑑定していただき、ダイジストンでは毒ガスが発生しないということを押さえました。一つ一つそういう裏づけをとっていく、ただし、それは隠し球として置いておいた。闘う場所は法廷だと考えていたのですね。

そんなことをやっていく、そんな中で、とてもつらい場面に出会うわけです。それは、病院というところ、3カ月以上の長期入院患者、お荷物ですね。これは保険の点数の関係で3カ月たったらぼちぼち出ていってほしい、こういう話が出てくる。ちょうど9月です。病院は奥さんの医療的な措置はすべて終わったというんです。だから、どこかの施設にぼちぼち移っていただきたいと言われたのです、どこかの施設、これは重度身体障害者の養護施設ということです。調べますと、長野県では当時7カ所あった。しかし、7カ所とも今申し込んでもらっても5年待たなきゃ入れないというのです。ちょうどその時期です。私はテレビ局から、別件で逮捕される。そういう情報が入ってきました。

別件であっても逮捕されたときは、世間はあの男は人殺し、そういうラベルを張ってしまうということです。そうしますと、妻は人殺しの妻というラベルを張られるのです。人殺しの妻を受け入れてくれる病院、あるいは施設があるかといったときに、恐らくないだろうと思いました。治療費払えるかわからない、そんな人をとるわけがないのですね。

そうしますと、自分がもし逮捕されたときには、妻は意識不明のまま彼女の居場所がなくなってしまうということです。私は何をされるよりそれが一番つらかった。何とかこの苦しいところを出たい。いろいろ考えた結果、松本市長に嘆願書を書いたのです。今、自分の置かれている状況、そして妻の状況、それを手紙に書いて、市長、何とか助けてほしい。そういう手紙を送ったわけです。

ただし、市長が私や妻のために動くということは、この時点では市長はバッシングされる、そういう環境です。何でそんな悪い人の力になるんだ。しかし、このときに市長はこう言ったんです。河野さんの疑惑と奥さんの人権は別のものだと言って動いてくれたのです。社会部長を病院に派遣して調査を開始する。そのことによって、病院の言い方が変わったのです。奥さんの居場所が決まるまで、どうぞこの病院にいつまででもいてください。こう言われたのですね。本当にありがたかったですね。苦しい場面、場面で必ず世の中から救いの手が伸べられていたのです。

そんな中で、次は警察が私をいつ逮捕するかということを考えたんですね。私がやったという証拠があるときはいつだって来ますが、私は何もしていないんです。やったという証拠は存在しないわけです。

そうすると、次に危ないのはやはり世論がその方向へ動いたとき危ないと考えたんです。大勢の人が松本警察署に対して、いつまであの会社員をほっとくのだ。あんたたちのやり方は生ぬるい、こんな警察批判が大きくなったとき危ないと考えたのです。逮捕を阻止すること、それは世論を中立に持ってくる。これが結論だったのです。

そんな方法があるのだろうかと考えたときに、マスコミを使おうということになったのです。マスコミは普通の男を2日間で殺人鬼にしたのです。そうであるならば、その力を逆に使おう。新聞よりテレビのほうがいいだろう。読売新聞、自称発行部数1,000万部です。これが日本で一番部数の多い新聞です。しかし、テレビは10%の視聴率を取ればそれ以上のアピール力があるのです。TBSとテレビ朝日の番組、2つ選んで取材に対応する。テレビ局にとって、客観的に重要な情報というよりかも、重要なのはよそにない情報なのです。テレビ朝日とTBS、別々の情報を出して、両方スクープ取らせるのです。見返りは警察の動きをテレビ局から取る、そんなことをやっていたんですね。

流れが変わったのは、年が変わって1月1日です。読売新聞のスクープ記事の山梨県の上九一色村、ここでサリンの残留物が出てきたという記事が出ます。そして、このころから、オウム真理教というものが表に出る、そういう時期になるわけです。

私は2月6日、記者会見を開きました。そして、反省のないマスコミに対しては訴訟の用意がある。これを表明するわけです。

3月3日、今度は日弁連、日本弁護士連合会です。ここに人権の救済の申し立て、私は長野県警から人権侵害を受けた。日弁連は警告書を発するように、こういう申し立てをしました。

しかし、マスコミは依然として動かないんですね。警察が私を容疑の対象から外さないうちは変わっていかないので、仕方ないから3月20日地元の新聞、民事訴訟を起こしました。

そして、私が訴訟を起こしたその日。東京で地下鉄サリン事件が起こります。そして、消去法で私の容疑というのは薄まっていく。そんな中で、6月に入りまして、松本サリン事件もオウム真理教の犯行であると警察が断定するのです。そして、長野県警の刑事部長が公式な場所で、河野さんは松本サリン事件には関与していない。これを発表するのですね。

6月に起こった事件が翌年の6月に事件の関与を否定される。犯罪被害者が1年たってようやく犯罪被害者の仲間入りということです。

自分にとって、この1年間、とてつもない長い1年でした。そして、とてつもないつらい1年でした。よくつぶれなかったな、自分でも思っています。その一番大きな理由は、意識不明ではあったけれども、妻が生きていたことが一番大きかったと思います。

私が逮捕されてしまえば、妻は自分の居場所もなくなってしまう。それだけはさせない。そういう思いが逆に妻から力を与えてもらったと感じております。

私は妻のところへ毎日お見舞いに行っております。そして、毎回言う言葉があるのですね。あんたはしゃべることはできない。動くこともできない。そういう意味では、自分が生きていること、そのことが家族に迷惑をかけていると考えているのではないのか、しかし、それは間違いだよ。あんたがそこで生きている、そのことによって、子供たちも自分も力をもらっているんだ。そういう意味では、あんたが生きているから自分たちは頑張れるのだ。あんたは大きな仕事をしているのだよ。こういうことを毎日のように伝えました。

そういう意味では、妻は自分が生きていること、そのことによって家族を支えている。そういう自覚があったから、14年間生きてこられたと思っています。事件から1カ月たったとき、脳の写真を撮りましたら、妻の脳は90歳のおばあさんの脳ぐらいもう縮んでいたのですね。そして、死ぬ間際には大脳は数ミリ、皮一枚になっていた。こんな状態で生きている人、見たことないと医師は言っていたのです。それは、やはり生きるという思いが彼女の命を支えてきたということです。

そういう意味では、言葉というのは力なのですね。言葉によって救われる。言ってみれば命がそこにあるだけ、だけどそのことが尊いのだということを妻は教えてくれたと思います。

そして、今私は事件の加害者の人たちを、憎んだり恨んだり、そういうことをしておりません。それは、自分が加害者体験をしたからですね。子供たちは加害者の子供として世間からバッシング、あるいは排除、そういうことを行われたわけです。加害者の家族、これは普通の人でしょう。何かやった加害者はその罪に相応の罰というのはその人は受けるけれども、加害者の家族というのは法律的には普通の人なのです。そして、被害者と同じぐらいつらい思いをしているのが加害者の家族だと思います。場合によっては、その土地に住めない、こんな話もよく聞きます。

そういう意味では、事件が起こりますと、被害者と加害者が出る。その加害者にはその家族がいる。この家族というのは、私はケアされてもいい存在ではないかと思います。普通の人があんなにつらい思いをして、そんな中で世間がまたその人たちをたたいている。これはとても健全な世の中ではないと思います。加害者の家族、そこにもケアの手が差し伸べられる、そんな世の中になってほしいと思います。

時間でありますので、これで終わらせていただきます。

ご清聴ありがとうございます。

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