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平成21年度
「犯罪被害者週間」国民のつどい 
実施報告

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■奈良大会:基調講演

テーマ「犯罪被害者の置かれた現状と課題」

講師:岡本 真寿美(全国犯罪被害者の会(あすの会)会員)


 私の事件は平成6年2月のことです。ある日、同じ職場の女性と飲みに行くことになりました。私は知らなかったのですが、その女性と加害者は付き合っていたようです。ある日、加害者がものすごい勢いで職場へ乗り込んできて、「昨日行った場所を教えろ。あいつをあちこち連れ回すな」などと訳のわからないことを言って、「お前を絶対に殺してやる。生きてると思うなよ」と言い、私を職場から引っ張り出し、私はその場所から逃げようとしたとき、突然、体にガソリンをかけられ、火をつけられ、一瞬のうちに火だるまになってしまいました。

 私は必死に消そうとするけれど、なかなか消えず、やっと火が消えたとき、加害者が私のところへ来て、痛くてたまらない両肩をつかみ、「俺、警察に入りたくないから、タバコの火で引火したと言え。いいな」と言い私が救急車に乗るとき、救急隊員は加害者に対して「あなたも乗りなさい」と言い、加害者は私の足元に乗ってきました。病院に着く間、加害者はずっと泣き続け、私に向かって「死なないかな、死なないかな」と言い続けていました。

 私は体中の痛みを耐え、恐怖の中、その救急隊員の判断が今でも不思議でなりません。それは事件が発生した場所から、私が入院していた病院はすぐ近くであるのに対し、加害者を先に、かなり遠い病院へ連れて行かれ、そして、私は最後に病院へ連れて行かれました。救急隊員は重体と軽傷の区別はあると思います。私はほとんど衣類さえ燃えていて、体は腫れ上がり、呼吸をするのもつらくなっていました。その一方、軽傷の人物は衣類さえ燃えていなく、手と顔だけの火傷だったのです。どうして軽傷の人物を先に病院へ送り、重体の人物は後なのか、全くわかりませんでした。私は一分一秒、早く病院へ連れていってほしいと思い、必死に痛みを耐えていました。

 私はこのとき、「きっと本当の証言をする。気をしっかり持たなきゃ」と思っていました。けれど、なかなか病院に着かず、やっと病院に着き、処置室へ運ばれたものの、先生や看護婦はかなり慌てた様子でした。それは、救急隊員が病院へ連絡する際、「ちょっとした火傷です」と伝えたことによって、病院側は軽い処置用品だけを用意されていたのです。私は、このときの救急隊員の判断が今でも理解できません。私は先生に「助けて。助けてください」と何度も言い続けていました。けれど、少しずつ意識が薄れてきました。私の体は全身90%の熱傷で、先生は両親に「あなたの娘さんですが、1週間もてばいいでしょう。私たち医師は手を尽くすだけ尽くしました。一応、覚悟しておいてください」と告げられました。先生と家族の努力で意識を取り戻すことはできたけれど、目を開けることも話をすることも、口から食事をすることもできませんでした。不安の日々の中、人の声、足音を聞き取ることが私にとって唯一の望みでした。

 やっと話もできるようになった頃、私が運ばれたICU(集中治療室)に警察の方が事件の本当の真実を聞きに来られました。警察さんは何度か来られていたのですが、意識が朦朧としていたため、3度目に来られたとき、はっきりわかりました。警察の方より、「今日は事件の内容を聞きたくて来たのですが、いいですか。つらくなったら言ってくださいね。そのときはまた次にしますから」と言われました。私は「いいえ、大丈夫です。警察さん、私、悔しいです。なんにも悪いことしていないのに、どうしてこんな姿にさせられるのか。本当に悔しいです」と涙を流しながら、事件の内容を説明しました。

 すべて話し終わった後、強行犯の係長さんだった方より、「岡本さんは何も悪くないから。私たち警察は岡本さんの味方だから。大丈夫だからね。私たち警察は悪い人を捕まえるのが仕事なんだから。よく話してくれて、ありがとう。今日はゆっくり体を休めて、一日も早く体を治してくださいね」と言ってくださいました。私は、やっと本当の真実を伝えることができたと思いながら、深い眠りに入りました。強行犯の係長さんからの言葉は、私にとって勇気と希望をくれたことで、今もなお頑張っていけると思います。ありがとうございます。

 その後、少しでも元の体に戻していくには皮膚が必要なため、兄や父は、私に何も言わず、皮膚提供手術を行っていました。そのことを聞いたとき、看護婦さんに「その手術はすぐ止めさせてください。被害に遭うのは私だけでいいから、早く止めさせてください。お願いします」と言ったけれど、既に遅く、手術は終わっていました。手術を止めさせることも、起き上がることもできず、自分を責め、悔しくて涙が流れるばかりでした。皮膚提供手術は成功し、少しずつ回復へ向かい、その後、自分の皮膚をとっては移植手術を繰り返しました。

 その間、私と父と兄は加害者の親と話し合いをする際、その親は「息子は20歳までしか育てていませんので、後は知りません。叩きたいなら叩けば」「主人にはいろいろ言わないでください。仕事に影響を及ぼしますから」と言ってきました。数日たった頃、加害者の国選弁護士より警告状が届きました。それは私の兄が加害者の親に手を振り上げようとしたことによって精神的苦痛を受け、恐怖を抱いたということで、今後、その親に近づいた場合は告訴いたしますと書類が送られてきました。私や家族は一言で言い表せない以上の被害に遭わされ、憤りは増すばかりでした。

 その一方、私は毎日、壮絶で厳しいリハビリの猛特訓を続け、先生の支えもあり、やっと起き上がった瞬間、先生、看護婦、家族の拍手喝采が病棟中、聞こえるほどでした。やっと一つの壁を乗り越えることができた、という気持ちでした。

 その後も立ったり、座ったり、歩行練習から体を起こす練習、訓練を続け、やっと椅子から立てるようになった頃、刑事裁判が始まりました。証人尋問に出るか迷っていたとき、検察の方より加害者が「一生面倒を見るから、俺と結婚してくれ」と言って、罪を軽くしようとしていることを聞き、私は全身の痛みを耐え、立つことが精一杯の状態で裁判所へ行きました。それは、裁判官、加害者、その親に事件の真実を知ってもらうためでした。裁判官より「何か言いたいこと、ありますか」と問いかけられ、私は「はい、あります」と言って、柵の中に入りました。

 私は、「裁判官さん、もし、あなたの娘、息子がなんにもしていないのに、こんな姿、体にさせられたらどう思いますか。そこのところよーく考え、刑を下してください」と言い、加害者に対して「あなたは一生面倒見るから俺と結婚してくれと言ったそうですが、冗談じゃない。自分できっと、いい人、見つけます。」と言って柵から出ました。その後の裁判を見たかったのですが、検事の方より「もう帰っていい」と言われ、聞けないまま裁判所を後にしました。

 その刑は、求刑7年、判決6年、それは、到底、納得する判決ではありませんでした。加害者、その親からは一切の補償は全くなく、その親は、家は他人に売り、逃げ回り、今も行方をくらましたままです。

 その後も、私は入退院の日々で後遺症との戦いが続く中、一生懸命治療してくださった先生方に感謝しています。ありがとうございます。

 その一方で、医療費の問題でとても苦しめられました。事件直後から入院費をどうするか、家族が走り回るが、誰も相手にしてくれませんでした。市役所に生活保護を申し込むと「加害者が払うべきだから手が出せない」。法律扶助協会へ行くと、「こういう場合、加害者が払えないから泣き寝入りするしかない」と言われ。最後には生活保護担当者を父が怒鳴りつけ、やっと生活保護が認められました。このとき既に入院から2カ月経っていました。退院後、地元で生活保護を受けようとしましたが、当時の保護課の課長より「犯罪被害者と関わって、この町まで被害に遭いたくないから」と言い、却下されました。やっと2カ月かけて隣町で生活保護を認められました。

 しかし、生活保護が認められなかった間の病院代、つまり最初の2カ月と退院後の2カ月間の医療費合わせて四百数十万円を請求されるようになりました。私が入院中も手術後も病室へ押しかけ、請求してきました。私は医事課の方に「母1人に対して医事課の方5、6人で囲み、請求するやり方はおかしいのではないのですか。私は好きでこうなったのではない。全く関係ないのに、こんな姿にまでされられて。加害者がいるのだから加害者に請求してください」と言いました。

 しかし、医事課の方は、支払いをさせるため、「加害者は関係ない。献血するときはみんな献血代を支払っているんですよ。あなたが病院代を支払ってくれれば、この病院は成り立っていくのですから、早く支払ってください」、「どうしてここの病院に運ばれてきたのか。他の病院に行ってくれればよかった。そうすればこんなことにはならなかったのに」、「あなたが刑務所まで行って請求してきてください」などと言われ続けました。私は「そんなに言うのであれば、そのまま放っておいてくれればよかった。大体、加害者が支払うと言っていますので、加害者に請求してください」と言い続けました。

 請求は何年も続き、医事課の方はついに家まで押しかけ、請求してきました。私が玄関に出るまでインターフォンを鳴らし続け、私が玄関に出た途端、「今日は全額支払ってもらうまで帰りませんから。この用紙に印鑑を押し、名前を書いてください。ただし、これは私たちが強制的に請求したということは言わないでください」と言って3時間ほど座り込みました。

 次の日から病院へ行くのが嫌になるほどで、あまりにもひどいため、市会議員の方に相談したところ、それは余りにもひどすぎると院長に掛け合ってくれました。しかし、一時的に請求はされませんでしたが、再度、医事課の方より請求されました。医事課の方より「被害者は味方もいないし、いつも頭を下げていないといけない」と言われ続け次々と問題が重なり、精神的にも落ち着くこともできませんでした。

 生活保護も3年ほどして隣町から地元へ移すことを認められましたが、親との同居は、親に収入があるのでだめだと言われ続け、止むを得ず、住宅に入りました。また、生活保護担当者は、クーラーを使用することは贅沢品だからだめだと言われ続けました。私は事件によって発汗作用ができないため、熱がたまり、暑くなるとかゆくなり、夜寝ることすらできなくなるほどなのです。何度お願いしても却下されるため、私は生活保護担当者に「そんなにだめと言うのであれば、私が倒れたり、生命にかかわることがあれば、あなた方で私をみてくださいね。いいですね」と言ったところ、「それは困ります」との答えでした。

 その後、とうとう体調を崩し、病院へ駆け込んだ後、やっとクーラーの使用を認められました。しかし、生活保護担当者は「大変でしたね」の一言で済まされました。私は担当者に「生活保護は何のためにあるんですか。社会復帰のためじゃないんですか。あれもだめ、これもだめ。生活に必要なものはあります。そこのところをよく考え、認めてください」と言いました。精神的身体的にも全く理解してもらえず、私は保護担当者に「もし、あなたが私のような犯罪の被害に遭わされたとき、どんなに報復が怖いか、どんなに悔しい思いをするか、私の気持ちがそのときわかりますよ」と言いました。すると、担当者は「そんなばかな犯罪には遭いませんから。だから保護費を出してやっているんだろう。ガタガタ言うな。カウンセリング?行きたければ自費で勝手に行ってくれ。

 生活保護法には県外への交通費、医療費は認められていませんので」と言われ続けました。私は、担当者に「病院に通うことなど認めないと、ここで独断で判断するのではなく、上司や県にきちんと伝え、審議を行った上で回答をお願いします」と言いました。生活保護を受けるとき、民生委員の方より「これから皆さんのやり方と一緒ですから。あなただけ大目に見るということはできないんだから」と言われました。被害者だから大目にというわけではありませんが、被害者は高額な医療費を請求され、生活さえできない状況なのです。そして、法務局人権擁護委員へ相談に行くと、担当者より「夜働いていたあなたにも、原因、あるんですよ。加害者から医療費を補償してもらいたいなら、加害者の刑務所から出てくる日に、あなたが刑務所まで迎えに行き、法務局へ連れてきなさい。私が加害者に、話、してあげるから」と言われ、納得できず、悔しくて、その場は帰りましたが、なぜ加害者は優遇され、被害者はなぜ守られないのか。

 行政関係や福祉、医療費など手続や相談へ行くと冷たい対応で、何をお願いしても却下され、あやふやに片づけてしまう行政には愕然とさせられ、最終的に「前例がない」の一言で済まされました。その一方で、世間からは偏見の目で見られ、指を指され、事実でない噂を広められる日々を今でも過ごしています。精神的にボロボロの状態で、悔しさとつらさの毎日で、どうやったら楽に死ねるか、自殺を考えるようになりました。

 そんなある日、新聞記事に犯罪被害者の会、岡村勲先生の記事内容を父が見つけました。弁護士さんであることが記載してあり、さんざん嫌な思いをしていたため、また同じような回答だろうね、と言い、これを最後の望みで、事件の書類を父が送った後、岡村先生より連絡があり、「事件の詳しい内容を送ってください」と言われました。私は岡村先生を信じて事件のいきさつと手紙を送って以来、やっと苦しい日々と状況から救われました。その後、手続を行い、平成12年4月、犯罪被害者の会に入会しました。その後、会の名前が変わり、「全国犯罪被害者の会」、通称「あすの会」となりました。

 その一方、加害者との民事裁判について、費用を立て替えてもらうように申請しましたが、私の問題は相手にしてもらえず、「加害者に支払う能力がないから、民事裁判しても一緒ですよ」という当時の長崎の弁護士の言葉には愕然とさせられました。

 そこで、岡村先生を通じて名古屋の弁護士から九州の被害者支援の弁護士の方が、加害者の情報や福祉、医療費など対応していただきましたが、民事裁判について、私の住所を記入しなければならないこと、加害者からの報復、そして事件から年数が経っていることから時効となってしまいました。なぜ被害者に時効があるのか、誰のための時効なのか、納得できませんでした。どうして加害者のプライバシーは守られ、被害者のプライバシーは守られないのか矛盾がありすぎます。

 ある日の、新聞記事に被害者110番の記事内容を見て、私は勇気を出して電話で相談しました。すると女性警察官の方で、事件の内容を話していると、親身になって対応していただき、パソコン操作がわからない私を気遣ってくださり、「あすの会」のことを調べ、コピーして送ってくださいました。本当に嬉しかったです。ありがとうございました。後にわかったことでしたが、その相談室は性犯罪相談窓口だったのです。その女性警察官の方は私に何も言わず、犯罪被害者である私の説明をずっと聞いてくださいました。女性警察官さんが沢山の勇気をくださったこと、本当にありがとうございます。

 そして、平成13年に長崎県警察で岡村勲先生が講演された後、警察の方の対応が変わりました。

 被害者対策室の担当の方は2、3年ほどで替わられましたが、常に再被害防止のため、見回りや引き継ぎを常にしていただき感謝しています。ありがとうございます。事件が発生してから裁判が行われるまで、犯罪被害者は事件の真実を知ることも、裁判がいつ行われ、判決がいつで、何年の刑だったのかも知らされず、被害者のいない所で裁判がおこなわれ既に終わっていた、という状況でした。当時、日本の司法制度には、被害者のための裁判ではないとされて、証拠品と扱われていました。被害者は、証拠品ではありません。一人の人間です。

 加害者は逮捕された後、出獄するまで何度も名字を変えていました。そして、現在では新たな名字に変え、のうのうと結婚をし家庭をもち、今では会社を経営しています。また、加害者との関係があった女性は2店舗の店を経営しています。私は加害者から謝罪してほしいのではありません。私の人生、元の姿、すべてを返してください。それだけです。

 事件が発生してから最初に会うのは警察です。事件現場で突然何も言われず、写真を撮られるのはイヤなものです。そのとき、警察の方から一言、言ってほしかったです。「事件の本当の真実を刑事裁判で残すため」と言われていたら、私はこの状況や状態を明らかにするため、「撮ってください」と言ったと思います。写真を撮られる前に一言、言葉を交わすことによって、状況は変わってくるのではないのでしょうか。どうか、被害直後の写真について、二次被害、三次被害を増やさないためにも、改めて見直していただきたいと思います。

 そして、行政機関の方々にお願いがあります。ある日、突然、犯罪被害に遭わされ、行政機関へ相談に行ったとき、すべて専門用語で対応された上、冷たい対応でした。誰でも、初めから何でも知っているわけではありません。説明を短縮するのではなく、わかりやすい説明と、今後、安心して相談できる対応をしてほしいです。被害者は一般の素人です。そして、ある日、突然、加害者の身勝手な犯行により、犯罪の被害者は一変して生活や平穏な人生を奪われます。犯罪被害者はなりたくてなったわけでも、かわいそうでも、同情してほしいわけでもありません。事件前の平穏な生活に戻れるよう、社会の方々の支えと一人ひとり理解してくださる方が少しでも多くなっていただけたらと願っています。

 犯罪はいつ、どこで、誰が被害に遭うかわかりません。明日は我が身です。そして、被害者支援センターでは、被害者に添ったサポートが行われていますが、ある被害者支援センターより個人情報を漏らされ、言葉の配慮のなさに傷つき、了承なしの報告、要望を無視され、「支援をしてやった」、「してあげた」という対応が多く、いくどとなく悔しい思いをしました。これでは被害者支援の自己満足にしか過ぎません。もし、自分が同じような対応をされたとき、それでも支援してもらって良かったと思えるでしょうか。改めて支援のあり方について、見直していただきたいと切に願っております。

 あすの会は平成12年1月23日に、独自で会を設立しているため、年会費は会員の生活などを配慮し、いただいておりません。会の設立に当たり、事務用品やニューズレターの印刷から送付代などは社会の皆様からの支援で賄われております。どうか、今後ともご支援のほど、よろしくお願いいたします。

 事件発生後から、入退院の日々ではありましたが、ここまで来ることができたのは、家族の支えと励まし、協力があったからこそ頑張ってこれたと、心からそう思います。大変長くなりましたが、今回、この場を借りて発言させていただき、ご清聴いただきましたこと、心よりお礼の言葉と代えさせていただきます。今日は本当にありがとうございました。

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