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平成21年度
「犯罪被害者週間」国民のつどい 
実施報告

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■神奈川大会:基調講演

テーマ「犯罪被害者の置かれた立場」

講師:全国犯罪被害者の会(あすの会)会員 岡本 真寿美 

 こんにちは。今日はお忙しい中、たくさんお集まりいただきありがとうございます。ご紹介にあずかりました岡本真寿美と申します。今日は私の実際の体験をお話しさせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

 私の事件は、平成6年2月のことです。当時、私は店で働いていて、仕事も楽しく、プライベートも充実した毎日を過ごしていました。ある日当然、加害者が職場へ乗り込んできて、ものすごい勢いで「昨日行った場所を教えろ。あいつをあちこち連れ回すな」などと訳のわからないことを言って、「お前を絶対に殺してやる。生きていると思うなよ」と言い、私を職場から引っ張り出し、私がその場所から逃げようとしたとき、突然、体にガソリンをかけられ、火をつけられ、一瞬のうちに火だるまになってしまいました。

 私は必死に消そうとするけれど、なかなか消えず、やっと消えたとき、周りを見渡しました。私から見て前には黄色のキープアウトの紐で場所を囲んであり、その先にはたくさんの野次馬、そして右側にはたくさんの警察、そして後ろにはライトを照らした車が2、3台止まっていました。私の姿はほとんど全裸の状態で、まるで見世物の状態でした。早くライトを消してほしいと思っていたけれど、警察より「ここは車が通るところだから、そこから移動してください」と言われました。私は体じゅうの痛みを耐え、警察の言われるまま、その場所から移動しました。けれど、車の通行は全くありませんでした。移動した後、崩れるように座り込みました。すると、突然、バシャバシャッとカメラのフラッシュを照らされ、私は「撮らないで!」と叫びました。全身の痛みと寒さ、私の姿を見られている悔しさ、涙で頬がしみて痛むため、涙を出さないようにと耐えることで精一杯の状態でした。そんな状況であるにもかかわらず、私が叫び、訴えたことも全く聞き入れてもらえずその後も撮り続けられ、私はもう一度声を振り絞って「撮らないで!」と言いました。

 すると、加害者が私のところへ来て、「俺、警察に捕まりたくないから、タバコの火で引火したと言え。いいな」と言ってきました。私は「痛いからとにかく離して。私の体を返して!」と言い、救急車に乗ったとき、救急隊員は加害者に対して「あなたも乗りなさい」と言い、加害者は私の足元に乗ってきました。病院へ着く間、加害者はずっと泣き続け、私に向かって、「死なないかな。死なないかな」と言い続けていました。

 私は、体中の痛みと恐怖の中、そのときの救急隊員の判断が今でも不思議でなりません。それは、事件が発生した場所から私が入院していた病院はすぐ近くであるのに、加害者を先にかなり遠い病院へ連れて行き、私は後回しにされ、最後に病院に連れて行かれたのです。救急隊員は重体と軽傷の区別はあると思います。私は、ほとんど衣類さえ燃えていて、呼吸をするのも辛く、重体の状態でした。その一方、軽傷の人物は、手と顔だけの火傷で、衣類さえ燃えていなかったのです。どうして軽傷の人物を先に病院へ送り、重体の人物は後なのか、全くわかりませんでした。

 私は、一分一秒、早く病院へ連れていってほしいと思い、必死に痛みと寒さを耐えていました。このとき、私はきっと本当の証言をする、気をしっかり持たなきゃと思っていました。けれど、なかなか病院には着かず、やっと病院へ着いた後、処置室へ運ばれたものの、先生や看護婦はかなり慌てた様子でした。それは、救急隊員が病院へ連絡する際、「ちょっとした火傷です」と病院側に伝えたことによって、病院側は軽い処置用品だけを用意されていたのです。私は、そのとき、声をふりしぼって先生に「助けて、助けてください!」と言いながら、少しずつ意識も薄れていきました。

 私の体は全身90%の火傷で、先生は両親に「あなたの娘さんですが、私たちも精一杯手を尽くせるだけ尽くしました。しかし、1週間もてばいいでしょう。一応、覚悟しておいてください」と言われましたが、先生、家族の努力と願いで意識を取り戻すことはできたけれど、目を開けることも、話をすることも、口から食事をすることもできませんでした。不安の日々の中、人の声、足音を聞き取ることが、私にとって唯一の望みでした。

 やっと、話もできるようになり、目を開けることもできるようになった頃、私が運ばれたICU(集中治療室)に、警察の方が本当の真実を聞きに来られました。意識が朦朧としていたため、3度目に来られたとき、はっきりとわかりました。警察の方より「今日は事件の内容を聞きたくて来たのですが、いいですか。つらくなったら言ってくださいね、その時は、又次にしますから」と言われました。私は「いいえ、大丈夫です。警察さん、私、悔しいです。どうしてこんな事をされたのか、ほんとに悔しいんです。何も悪いことしてないのに」と涙を流しながら、事件の内容を説明しました。すべて話が終わった後、強行犯の係長さんだった方より、「岡本さんは何も悪くないから、私たち警察は岡本さんの味方だから、ずっと守るからね。大丈夫だから、私たち警察は悪い人を捕まえるのが仕事なんだから、よく話してくれてありがとう。今日はゆっくり休んで、一日も早く体を治してくださいね」と言っていただきました。私は、やっと本当の真実を聞いてもらえたと思いながら、深い眠りに入りました。強行犯の係長さんから言っていただいた言葉は、私にとって勇気と希望を与えてくれたことで、今もなお頑張れると思います。ありがとうございます。

 その後、少しでも元の体に戻していくには皮膚が必要なため、兄や父は、私に何も言わず皮膚提供手術を行っていました。そのことを聞いたとき、私は看護婦さんに「その手術はすぐ止めさせてください。被害に遭うのは私だけでいいから早く止めさせてください。お願いします」と言ったけれど既に遅く、手術は終わっていました。手術を止めさせることも、起き上がることもできず、自分を責め、悔しくて涙を流しながら手術室へ向かいました。皮膚提供手術は成功し、少しずつ回復へ向かい、その後、自分の皮膚を取っては移植手術を繰り返しました。

 その間、私の父と兄は加害者の親と話し合いをする際、その親は「息子は20歳までしか育てていませんので後は知りません。叩くなら叩けばいい、主人にはいろいろ言わないでください。仕事に影響を及ぼしますから」と言ってきました。数日経ったころ、加害者の国選弁護士より警告状が届きました。それは、私の兄が加害者の親に手を振り上げようとしたことによって精神的苦痛、恐怖を与えられたということにより、「その親に今後近づいた場合は告訴いたします」と書類が送られてきました。私や家族は、一言で言い表せないほどの被害に遭わされ、憤りは増すばかりでした。

 その一方、私は、毎日、壮絶で厳しい猛特訓を続け、先生の支えもあり、やっと起き上った瞬間、先生、看護婦、家族の拍手喝采が病棟中、聞こえるほどでした。このとき、やっと一つの壁を乗り越えることができた、という気持ちでした。

 その後、立ったり座ったり、歩行練習から体を起こす練習と訓練を続け、やっと椅子から立てるようになったころ、刑事裁判が始まりました。証人尋問に出るか迷っていたとき、検察の方より、加害者が「一生面倒を見るから俺と結婚してくれ」と言って罪を軽くしようとしていることを聞き、私は全身の痛みを耐え、立つことが精一杯の状態で裁判所へ行きました。それは、裁判官、加害者、その親に事件の真実と罪の重さを知ってもらうためでした。

 傍聴席に座っていた私に、裁判官より「何か言いたいことありますか」と言われ、私は「はい、あります」と言い、柵の中へ入りました。私は「裁判官さん、もしあなたの娘、息子が、何にもしてないのにこんな体にさせられたらどう思いますか。そこのところをよーく考え、刑を下してください」と言いました。私は加害者に対して「あなたは一生面倒を見るから俺と結婚してくれと言ったそうですが、冗談じゃない。きっと自分でいい人を見つけます」と言い、その後の内容を聞きたかったのですが、検事の方より「もう帰っていい」と言われ、聞けないまま裁判所を後にしました。

 その刑は、求刑7年、判決6年。それは到底納得できる判決ではありませんでした。加害者、その親からは一切の補償も、補償どころか、家を他人に売り、逃げ回り、行方をくらましたままです。

 その一方、私は入退院の日々で、後遺症との闘いが続き回復に向かうにつれ、痛み、痒みがすごく、眠れない毎日を過ごしていました。一生懸命治療してくださる先生方に感謝しています。ありがとうございます。

 その一方、医療費の問題でとても苦しめられました。事件直後から、入院費をどうするか、家族が走り回るが、誰も相手にくれませんでした。市役所に生活保護を申し込むと「加害者が支払うべきだから手が出せない」。法律扶助協会へ行くと、「こういう場合、加害者が払えないから泣き寝入りするしかない」と言われました。最後には、生活保護担当者を父が怒鳴りつけ、やっと保護が認められました。このとき、既に入院から2カ月経っていました。退院後、地元で生活保護を受けようとしましたが、当時の保護課の課長より「犯罪被害者と関わって、この町まで被害に遭いたくないから」と言い、却下されました。2カ月かけて、やっと隣町で保護が認められました。しかし、生活保護を認められなかった間の病院代、つまり最初の2カ月と退院後の2カ月間の医療費を合わせて四百数十万を請求されるようになりました。私が入院中も、手術後も、病室へ医事課の方が押しかけ、請求にきました。私は医事課の方に「母一人に対して医事課の方5、6人で囲み、請求するやり方はおかしいのではないのですか。私は好きでこうなったわけではない。全く関係ないのにこんな体にさせられて。加害者がいるのだから加害者に請求してください」と言いました。

 しかし、医事課の方は、「支払いをさせるため、加害者は関係ない。献血するときは、みんな献血代、払っているんですよ。だから支払ってください。あなたが病院代を支払ってくれれば、この病院は成り立っていくんですよ。だから、早く支払ってください。どうしてここの病院に運ばれてきたのか、他の病院に行ってくれればよかった。そうすればこんなことにはならなかったのに。あなたが刑務所まで行って加害者から請求してきてください」などと言われ続けました。私は「そんなに言うのであれば、放っておいてくれればよかった。加害者が支払うと言っていますので、加害者に請求してください」と言い続けました。

 請求は何年も続き、医事課の方は遂に家まで押しかけ、請求してきました。私が玄関に出るまでインターホンを鳴らし続け、私が玄関に出た途端、「今日は全額支払ってもらうまで帰りませんから。この用紙に「支払う」という印鑑と名前を押してください。ただし、私たちが無理やりに請求をしたということは言わないでください」と言って、3時間ほど座り込みました。

 次の日から病院へ行くのが嫌になるほどで、あまりにもひどいため、市会議員の方に相談したところ、それはあまりひど過ぎると言って、院長に掛け合ってくれました。その後、一時的に請求はありませんでしたが、再度、医事課の方より請求されました。医事課の方に「被害者は、味方もいないし、いつも頭を下げていないといけない」と言われ続けました。次々にいろいろな問題が重なり、精神的に落ち着くこともできませんでした。生活保護も、3年ほどして隣町から地元へ移すことを認められましたが、親との同居は、親に収入があるので駄目だと言われ続け、そこでやむを得なく住宅に入りました。

 また、生活保護担当者には、クーラーを使用することは贅沢品だと言われ続けました。私は、事件によって発汗作用、夜寝ることすらできず、暑くなると熱がたまり、眠れない毎日を過ごしているのです。何度お願いしても却下されるため、私は担当者に、「そんなに駄目と言うのであれば、私が倒れたり、生命にかかわることがあれば、あなた方で私を見てくださいね。いいですね」と言ったところ、担当者は「それは困ります」との答えでした。その後、とうとう体調を崩し、病院へ駆け込んだ後、やっとクーラーの使用を認められましたが、担当者は「大変でしたね」の一言で済まされました。私は担当者に「生活保護は何のためにあるんですか。社会復帰のためじゃないんですか。あれも駄目、これも駄目。生活に必要なものもあります。そこのところをよーく考え認めてください」と言いました。

 精神面から身体的にも全く理解してもらえず、私は担当者に「もしあなたが私のように犯罪の被害に遭わされたとき、どんなに悔しいか、どんなに報復が怖いか、どんなにつらいか。そのとき私の気持ちがわかりますよ」と言いました。すると担当者は「そんな馬鹿な犯罪には遭いませんから。だから、保護費、出してやっているんだろう。ガタガタ言うな。カウンセリング?通いたいなら自費で勝手に行ってくれ。生活保護法には、県外への交通費、医療費は認められていませんので」と言われ続けました。私は担当者に「病院へ通うことなど認めないと、ここで独断で判断するのではなく、上司や県にきちんと伝え、審議を行った上で回答をお願いいたします」と言いました。

 どうして被害者はじっとしていなければならないのか、全く理解できませんでした。

 そして、生活保護を受けるとき、民生委員の方より、これから皆さんのやり方と一緒ですから、あなただけ多めにというわけにはいかないのですから」と言われました。被害者だから多めにと言うわけではありませんが、被害者は高額な医療費を請求され、生活さえできない状況なのです。

 そして、法務局、人権擁護委員へ相談へ行くと、担当者より「夜働いていたあなたにも原因があるんですよ。加害者から医療費を補償してもらいたいんでしょう。加害者が刑務所から出てくる日に、あなたが刑務所まで迎えに行き、法務局に連れてきなさい。私が加害者に話してあげるから」と言われ、納得できず、その場は帰りました。なぜ加害者は優遇に扱われ、被害者は守られないのか、悔しくて涙を流しながら帰りました。

 行政関係や福祉、医療費など、手続や相談に行くと冷たい対応で、何をお願いしても却下され、あやふやに片づけてしまう行政には愕然とさせられ最後には「前例がない」の一言で済まされました。その一方で、世間からは偏見の目で見られ、指をさされ、白い目で見られ、事実でない噂を広められ、今もなお過ごしています。精神的にぼろぼろの状態で、どうやったら楽に死ねるかなと自殺を考えるようになりました。

 ある日、新聞に「犯罪被害者の会」、岡村勲先生の記事を父が見つけました。弁護士さんであることが記載してあり、さんざん弁護士さんからも嫌な思いをしていたため、「また同じような対応だろうね」と、これを最後の望みで事件の書類を父が送った後、岡村先生より連絡があり、「事件の詳しい内容を送ってください」と電話がありました。私は岡村先生に事件のいきさつと手紙を送って以来、やっと苦しい状況から救われました。

 その後、手続を行い、平成12年4月、犯罪被害者の会に入会、会員となりました。その後、会の名前が変わり「全国犯罪被害者の会(あすの会)」になりました。その一方、加害者との民事裁判について、費用を立て替えてもらうよう申請しましたが、私の問題は相手にしてもらえず、「加害者に支払う能力がないから民事裁判しても一緒ですよ」という当時の長崎の弁護士の言葉には愕然とさせられました。そこで、岡村先生を通じて、名古屋の弁護士から九州の被害者支援弁護士に、加害者の情報、福祉、医療費などを対応していただきました。民事裁判については私の住所を記入しなければならず、加害者からの報復の可能性があること、そして事件から年数が経っていることから、時効となってしまいました。なぜ被害者に時効があるのか、納得さえできません。どうして、被害者のプライバシーは守られず、加害者のプライバシーは守られているのか、矛盾がありすぎます。

 そして、ある日、新聞記事に「女性被害者110番」の記事を見て、私は勇気を出して電話で相談しました。すると、女性警察官の方で、犯罪被害者である私の話を親身になって最後まで聞いていただき、私はパソコンを当時持っていなかったため、あすの会のことをコピーして送ってくださいました。その相談室は、後にわかったのですが、「性犯罪相談窓口」だったのです。女性警察の方は、「犯罪の被害者の、相談はできません」ということは一切言われず、ずっと支えて下さいました。本当に嬉しかったです。本当にありがとうございます。

 そして、平成13年に長崎県警で岡村先生が講演された後、警察の方の対応が変わりました。犯罪被害者対策室も全国に設けられた後、再被害防止のため見回りや引き継ぎをしていただきました。いつも感謝しています。ありがとうございます。

 そして、事件が発生してから裁判が行われるまで、犯罪の被害者は事件の真実を知ることも、裁判がいつ行われることもわからず、判決はいつあって、どんな刑だったかも知らされず、既に終わっていたという状況でした。

 当時、日本の司法制度は、被害者のための裁判ではないとされ、証拠品として扱われていました。被害者に対する権利の確立、知る権利、調べる権利、より細かい出所情報、補償制度など、はるかに日本は遅れていました。

 そこで、あすの会ではヨーロッパ調査団を派遣され、平成14年9月、ドイツ、フランスへ刑事司法制度の調査に行かれました。また、同年の12月から、犯罪被害者のための刑事司法、訴訟参加、付帯私訴の実現を目指して、全国街頭署名活動を行いました。初めは表に出る不安と怖さがありましたが、今後、次の被害者に同じ体験をしてほしくない、きっと一生残る制度実現へと願い、一人ひとりに署名をしていただき、最終的に署名総数55万7,215名となりました。

 署名を平成16年6月に野沢法務大臣に提出し、7月8日には、あすの会創設メンバーの方が小泉総理に会い、被害者の現状を伝えることができました。その後、第二次調査団を派遣され、被害回復制度を調査するため、ドイツ、イギリスへ行かれました。そして、あすの会は、犯罪被害者の権利と被害回復制度の確立を求め、全国の県議会と市議会から国へ提出していただく陳情活動を行ってきました。つまり、地方自治法99条に基づく意見書を採択してください、という陳情活動を行ってきたのです。最終的に110の地方自治体が意見書を採択してくださいました。

 あすの会では、犯罪の被害に遭わされ、どこからも支援や補償もない状況でした。これからの被害者の方には、私たちと同じ苦しみを味わわせたくない。もし犯罪の被害に遭わされたら、少しでも救われるようにと活動を行ってきました。その声が届き、平成16年12月「犯罪被害者等基本法」が国会で可決成立され、平成17年12月「犯罪被害者等基本計画」が閣議決定されたことは画期的でした。その中で、これまで民事裁判を起こす際、自宅の住所を記入しなければならず、その内容を加害者に知られてしまい、報復の可能性があることで民事裁判を断念せざるを得ないのが実情でした。しかし、これからは自宅の住所を記入せず、弁護士事務所の住所でよくなったこと、そして加害者がどこの刑務所でいつ出所日なのか、被害者に通知されるようになりました。

 また、毎年11月25日から12月1日が「犯罪被害者週間」と設けられました。

 これまで被害者のいないところで裁判が行われ、加害者が嘘の証言をしても、被害者は反論することも真実を伝えることもできず、蚊帳の外でした。しかし、平成20年12月1日から、被害者は裁判に参加できるようになり、加害者に直接質問や求刑ができるようになりました。そして、刑事裁判と民事裁判を一緒に行って加害者へ一度に請求できる、いわゆる被害者参加損害賠償命令制度が実現されました。また、これまでどおり、刑事裁判と民事裁判を別々に行うこともできます。そして、補償制度が実施される前の被害者、つまり犯罪被害に遭わされたことにより生命、身体、精神的に及ぶ後遺症が残ってしまった被害者への補償制度は、全くといっていいほど何の補償もされない日本は遅れています。どうか実施される前の犯罪被害者の補償制度を確立してほしいです。

 加害者は、刑を終え逮捕された後、刑務所へ入り出所するまで、名字を何度も変えていました。その後、新たに名字を変え、のうのうと結婚をし、今では会社を経営しています。また、その加害者と関係があったその女性は、2店舗の会社を経営しています。私は、加害者から謝罪してほしいのではありません。私の人生、事件前のもとの姿を返してください。それだけです。

 そして、刑事裁判が行われるとき、被害者は「証拠品」として扱われていることを当時初めて知りました。証拠品は身につけているものであって、被害者は物ではありません。一人の人間です。また、警察の捜査では、加害者を逮捕するため、被害者は「捜査の協力者」であったことも知りました。被害者は捜査協力者でなく真実を知りたい被害者です。

 事件が発生してから最初に会うのは警察です。事件現場で何も言われず突然写真を撮られるのは、誰でも嫌なものです。そのとき、警察の方から一言、言ってほしかったです。「事件の本当の真実を刑事裁判に残すため」と言われていたら、私は、この状況や状態を明らかにするため「撮ってください」と言ったと思います。写真を撮られる前に一言、言葉を交わすことによって、状況は変わってくるのではないのでしょうか。これからの被害者の方には、被害直後の現場写真について、二次被害、三次被害を増やさないためにも、どうか改めて見直していただきたいと思います。お願いいたします。

 そして、犯罪被害者の方とたずさわる行政機関や弁護士の方々にお願いがあります。ある日、突然、犯罪の被害に遭わされ、行政機関へ相談に行ったとき、すべて専門用語で対応された上、冷たい対応でした。被害者は一般の素人です。誰でも初めから何でも知っているわけではありません。説明を短縮するのではなく、わかりやすい説明と、今後安心して相談できる対応をしてほしいのです。そして、ある日、突然、加害者の身勝手な犯行により、犯罪の被害者は一変して平穏な生活や人生までも奪われます。犯罪被害者は、なりたくてなったわけでも、かわいそうでも、同情してほしいわけでもありません。事件前の平穏な生活に戻れるよう、社会の方々の支えと、一人ひとり理解してくださる方が少しでも多くなっていただけたらと願っています。

 犯罪は、いつ、どこで、誰が被害に遭うかわかりません。明日は我が身です。そして被害者支援センターでは被害者に沿ったサポートが行われていますが、ある被害者支援センターより個人情報を漏らされ、言葉の配慮のなさに傷つき、了承なしの報告、要望を無視され、支援をしてやった、してあげたとの対応が多く、いくどとなく悔しい思いをしました。これでは支援センターの自己満足にしか過ぎません。被害者はマニュアルどおりにはいきません。もし自分が同じような対応をされたとき、それでも支援をしてもらって良かったと思えるでしょうか。改めて見直していただきたいと思います。

 そして、あすの会は、平成12年1月23日に独自で会を設立しているため、年会費は、会員の生活などを配慮し、会費はいただいておりません。会の設立に当たり、事務用品やニューズレターの印刷から送付代、冊子代は、社会の皆様からの支援で賄われております。どうか今後ともご支援のほどよろしくお願いいたします。

 そして事件直後から、私は入退院の日々を過ごしていましたがここまで来ることができたのも、家族の協力と支えがあったからこそ、ここまで頑張ってこれたとそう思います。

 時間も限られていまので、少し資料のほうの説明をさせていただきたいと思います。

 こちらの資料は、あすの会がこれまで活動し法制度など一部の記録であります。、1枚目を開いていただくと、左側に岡村先生ですが、こちらの岡村先生から救われ、次に全国署名活動を行いました。。

 次々になってしまうのですけれども、4ページの右上の「第一次ヨーロッパ調査団 成田空港にて」というのは、あすの会の顧問弁護士の方々がドイツ、フランスへ調査に行かれる前の写真であります。日本では犯罪被害者の権利や何の制度もないため調査しようということより行かれました。

 次に、小泉総理大臣と面会。あすの会創設メンバーの方が直接会い、「生の声」を聞いていただきました。次に、「犯罪被害者支援フォーラム2008イン鹿児島」と、南日本新聞なのですけれども、これはあすの会の関西集会の方が人形操りをしながら、被害者の状況をわかりやすく人形にたとえ、行われています。これは、年齢は全然問わず、すごくわかりやすく見れますので、是非とも神奈川県のほうに呼んでいただけたらと願っています。

 そして、『犯罪被害者の声が聞こえますか』の文庫本は現在、書店のほうにどこでもあると思いますので、興味があられる方は見ていただければと思います。

 次の「謝礼金、上限300万円、情報求む」というのは、関西集会の幹事である林良平さんの奥さまが犯罪被害者で、まだ犯人が見つかっておりません。未解決事件で、来年時効を迎えます。1日も早く犯人が見つかる様に、私どもも協力させていただきたいということで、今回の資料を配らせていただきました。

 今回資料のほうにはないんですけれども、あすの会では被害者参加制度、損害賠償命令制度が昨年12月に施行されまして、それを市民の皆さんにわかりやすく冊子にしています。薄いピンク色の本で、あすの会のホームページを見ると、出てきます。あすの会の弁護士さんがわかりやすく文面にして、Q&Aの本にしてあります。もし興味のあられる方は見ていただきたいと思います。

 もう一点、わかりやすく、被害者参加制度、損害賠償命令制度の裁判劇を弁護士の方々が専門用語を使わず、わかりやすく、劇をつくられています。名前が「偽装あなたの名誉を守りたい」というDVDなんですけれども、もし興味のあられる方は見ていただきたいと思います。強制的に買ってくださいというわけではありませんので、どうかご理解のほど、よろしくお願いいたします。

 次に、薄い2枚ホチキスで挟んである大阪市人形劇「犯罪被害者週間に願うこと」の用紙があると思いますが、少し読ませていただきます。

 「我が国は、ほんの数年前まで、犯罪被害者に何の権利も認められていませんでした。そんな中、過去の被害者を集い、犯罪被害者の刑事司法への参加制度の実現と経済的補償制度の確立を目指した全国犯罪被害者の会、(通称)あすの会を結成し、社会に訴えた結果、犯罪被害者等基本法が成立し、昨年、平成20年7月1日から犯給法を大幅に見直した被害者支援法が施行されました。また、同年12月1日から、刑事裁判では、被害者参加制度が始まりました。しかし、これらの制度、法律は、過去の被害者には遡及しません。施行以降の人たちのものになりました。言葉を変えれば、今後、いつ、どこで被害者になるかもしれない日本国民全体のための制度を私たち過去の被害者は成立させたことになりました。
 基本法、基本計画により設置された経済的支援に関する検討会では、過去の被害者に遡及しない支援法が結果的にでき上がりました。昭和56年、犯罪被害者等給付金支給法が成立しましたが、この制度も、当時活動を行っていた被害者には遡及しませんでした。あまりにも気の毒だということで、当時の警察の方がポケットマネーを出し合って、被害者の小学生・中学生を対象に奨学金を提供する財団法人犯罪被害者救援基金を設立してくださいました。この財団法人が、昨年12月、犯罪被害者支援法以前の被害者に対する経済的支援を行うことを始めました。どうかこの財団法人犯罪被害者救援基金に対する寄付金にもご協力をお願いしたいと思います。皆さんの近くの警察署にこの募金箱があります。でも、私たちの願いは、新しい支援法が過去の被害者にも適用できるようにしてもらいたいのです。」

 少し話は変わりますが、最近、肝炎対策基本法が成立しました。今、肝炎などで苦しんでおられる被害者たちは、この法律の制定を今か今かと心から望んでおられたでしょう。しかし、今の私たち同様、過去の患者には遡及しない。「法制定以降、肝炎になった患者に適用されるものである」と書いてあります。

 どうか、お時間のあるときに目を通していただければと願っております。今日は皆さんお忙しい中、足を運んでいただき、またご清聴いただきましたこと、本当にありがとうございました。また、神奈川県の皆様、呼んでいただきありがとうございました。今日は本当にありがとうございました。


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