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平成21年度
「犯罪被害者週間」国民のつどい 
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■中央大会:基調講演

テーマ「被害者支援の原点に戻って~私たちが望んだ支援私たちが受けた支援~」

講師:酒井 肇(大阪教育大学付属池田小学校児童殺傷事件犯罪被害者遺族)

 皆様、こんにちは。ただいまご紹介にあずかりました酒井です。今日は大阪から参りました。
今日は「犯罪被害者支援の原点に戻って~私たちが望んだ支援私たちが受けた支援」というテーマでお話しさせていただきます。

 ここに英語で“homicide survivor”という言葉が書いてありますが、これは事件の1年後、今日この会場にもいらっしゃいます、後ほどコーディネーターを務めていただきます長井先生と一緒に、家族でアメリカの被害者支援組織、アリゾナ州にあります「Homicide Survivors Inc」というところを訪問したときに知った単語なのですが、直訳しますと“殺人事件と生存者”という意味ですが、殺人犯罪被害に負けず、殺人犯罪被害を乗り越えて生きていく者というような意味を含んでいると思うのですが、私もそうありたいとそのときから願うようになりました。

 今日は1時間ほど、実際に私たちが受けた支援が何であったかということを振り返ってみたいと思います。

 その前に、今日、皆様のお手元に2つレジュメがあるかと思いますが、1つが今から私がお話ししする基調講演に関するパワーポイントのレジュメ[PDF:207KB]と、もう一つ、後ほどのパネルディスカッションに使用する資料ということで小冊子がございます。このパネルディスカッション資料の1ページ目に、そもそも私たちが被害を受けました大阪教育大学付属池田小学校事件がどんな時代背景において起きたかということが簡単に書いてあります。これは、読売新聞さんの「犯罪被害者を巡る主な動き」ということをピックアップしたのですが、ここに書いてありますとおり、1980年5月に犯罪被害者等給付金支給法が成立しました。その後、1999年4月に検察庁の被害者等通知制度が実施され、公判の日時や判決結果を通知することになったと。そして、2000年1月には、「全国犯罪被害者の会」、いわゆる「あすの会」が設立され、その5月には犯罪被害者保護関連二法が成立しまして、我々被害者が意見陳述をしたり、刑事記録の閲覧等が可能になりました。その頃、2001年6月8日がありまして、正に私の娘が命を奪われた大阪教育大学付属池田小学校事件が発生しました。その後、3年半を経まして、犯罪被害者等基本法が成立し、ここで初めて、日本の法律において被害者の権利が明記されることになりました。

 2ページをご覧ください。

 その後、2005年12月には、犯罪被害者等基本計画が閣議決定されまして、この犯罪被害者等基本法に基づき258項目の施策が盛り込まれました。約2年後には、改正刑事法訴訟法も成立しまして、裁判での被害者参加制度が創設されました。翌年には、被害者参加弁護士制度が成立し、訴訟に参加する犯罪被害者が国選弁護人をつけることが可能になり、その後、先ほど述べました犯罪被害者等給付金支給法が改正されたり、改正少年法が施行されたりということで、正に私たちの体験した事件というのが、日本における被害者を取り巻く環境というのが大きく変わろうとした、正に黎明期といいますか、その時に起きた事件であります。今となってはもう8年半前になりますが、当時の状況において、あくまでも私たちが望んだ支援、私たちが受けた支援というお話をさせていただきます。

 今日は1時間の間に、簡単にこの11項目、そもそも大阪教育大学付属池田小学校事件は何であったのか、それから私たちが受けた被害、そして娘を失うという絶望の淵で思ったこと、それから被害の回復の必要なこと、事件の再発防止に対する願い、そして具体的に私たちが受けた支援、そして私たちが知りたかったこと、参加したこと、先ほどにも通じます絶望の淵からの回復に必要なこと、そして日本の被害者支援の枠組み、犯罪被害者等基本法、そして今回のまとめであります「私たちが望む被害者支援とはどんなものなのか」、それを通じた「成功のカギ」についてお話しさせていただきたいと思います。

 平成13年6月8日にこの事件は起きました。後に、我々8遺族と文部科学省大阪教育大学、そして付属池田小学校と合意書を締結した中の事件の概要と経過というところで、簡単に事件の概要を話します。

 大阪教育大学教育学部付属池田小学校に、出刃包丁を持った男1名が平成13年6月8日、金曜日の2時間目の授業が終わりに近づいた午前10時過ぎ頃、自動車専用門から校内に侵入し、校舎1階にある第2学年と第1学年の教室等において、児童や教員23名を殺傷した。平成13年9月14日、大阪地方検察庁は被告人を殺人、殺人未遂、建造物侵入及び銃刀法違反で大阪地方裁判所に起訴した。犠牲者。死者8名、うち1年男子児童1名、2年女子児童7名、負傷者15名、うち児童13名(男子5名、女子8名、教員2名)、そういった被害のあった事件でした。

 殺人犯罪被害者が受ける被害の最たるものは、私たちの場合は、最愛の娘、麻希、麻希というのは、麻のようにすくすくと希望を持って育ってほしいという親の気持ちを込めて名前をつけました。この麻希が、学校という、我々が家庭の次に安全だと信じていた場所で、あのような犯罪に巻き込まれて、愛する娘を失った悲しみは、月日が経っても決して癒されるものではありません。

 これは2004年、ニューヨーク州の9.11同時テロの追悼式典で、現在も市長を続けておられますブルームバーグ市長が述べた追悼の辞の一節を拾いました。

 「親を亡くした子どもを孤児という。伴侶を亡くした夫、妻をそれぞれ寡夫(婦)という。しかしながら、子どもを亡くした親を呼ぶ言葉はない。なぜなから、その痛みを言葉で表すことができないからだ。」

 私も子どもを失った親として、同じ思いを抱いております。

 この写真が私どもの娘、麻希といいます。事件当時、8歳の誕生日の前で、私どもの年代になりますとなかなか仕事が忙しいのですが、月曜日から金曜日くらいは、近くの電車の駅に向かって毎朝一緒に手をつないで歩いていくのですけれども、思い起こしますと、ちょうど事件当日の朝も一緒に学校に向かいながら、娘は7月末が誕生日だったものですから、事件のあった6月8日というのは、誕生日をあと2カ月くらいに控えていまして、その日も「誕生日プレゼント、何がほしいの?」とか、たまたまその日、席替えがあると聞いていましたので、娘と「今日、席替えがあるの。席替えがあったら、こんな席に座りたいな」などという話をしたことを昨日のように思い出します。

 私たちは、ある日突然、朝、元気に送り出した子どもと変わり果てた姿になって再会するという、正に絶望の淵に立たされました。娘を失ったという絶望の淵で、私たちは様々なことを思いました。これは、私たちに固有の問題ではなくて、犯罪被害者の方、共通の普遍性を含んでいるように思います。

 まず、「答えなき永遠の問いかけ」。なぜ、娘は死ななければならなかったのか。これは、私たちは今も問いかけていますが、永久に答えは見つかりません。

 そして、事件の真実を知りたいと思います。あのとき、娘はどうだったのか、一体、何が起きたのか。

 そして、事件の原因を知りたいと思います。なぜ、あの事件は起きてしまったのか。そして、絶望の淵から我々犯罪被害者が回復する上で、これも同じように私たち家族固有のものではなく、犯罪被害者共通の普遍性を含んでいるというふうに考えますが、1つ目としまして、責任所在の明確化。誰が何をしたから、もしくは何をしなかったから、あの事件が起きてしまったのか、その責任所在の明確化。

 2つ目としまして、責任ある者の心からの謝罪。娘や私たちに心から謝ってほしいと願いました。

 そして、冒頭申し上げました、正に「Homicide Survivors Inc」という、被害者支援団体に考えにも則りますが、私たちはやはり生き続けなければいけない。何とか生き続けるために、やはり生きる意味を再認識しなければなりません。そのためには安心できる生活を取り戻して、何とか生きていきたいという思いがありました。

 そして、4つ目は、私たちのように愛する子どもを失ってはいけない、または愛する家族を失ってはいけないということで、事件の再発防止に対する願いがあります。二度とあのような事件は起きてほしくありません。

 私たちの思い、二度とあのような事件は起きてほしくないという願いとは裏腹に、子どもが犠牲になる事件は跡を絶ちません。ここには一例を書きましたが、小学生や未就学の子どもが被害者となった傷害事件、これは平成16年の1年間で520件ほど起きておりまして、これは前年対比17%くらい増えております。殺人事件も112件、当時起きておりまして、これも当時の前年対比23%増。うち未就学児童が被害に遭ったケースは86件ございまして、これも前年対比20%くらい増えております。また、これも当時になりますが、警察が認知した殺人や強盗などの重要犯罪、平成16年の1年間で22,568件と、これは前年対比6%くらい減っているのですが、非常に多い数で驚きました。子どもを狙った連れ去りなどの誘拐事件なども320件ほど起きていまして、これも13%くらい増えておりました。また、私たちの事件と直結するような、学校への不法侵入や登下校時の事件件数も平成11年が1,000件余りだったのに対して、平成14年では2,000件と、わずか3年間で2倍に急増しております。

 警察庁によりますと、小学生が被害に遭う事件は、平成18年の上半期だけで13,000件近く、なんと日数割りしますと、1日当たり71件も起きている。これも、古いデータですが、1998年の上半期に比べますと5年間で約2,000件も増えている。

 また、つい先日発表されました犯罪白書を紐解いてみますと、13歳未満の子どもが被害者となった刑法犯の被害者数の推移を見ますと、暴行及び傷害において、平成10年と比べて大幅に増加している。特に女の子、私たちの場合も女の子でしたけれども、被害に遭う場合が非常に増えているということで、非常に私たちは胸を痛めています。

 さて、今日の本題であります、私たちの受けた支援についてお話ししますが、ここでは大きく3つのことについてお話ししたいと思います。

 1つ目は、私たちが実際に受けて、実質的な支援となった出来事。これは、私たちのように8人の子どもが学校で殺されたという特別の事件の特別の支援というわけではなくて、私たちが受けた支援というものが、その教訓となって生かされ、今後の普遍的な支援となることを望んで、敢えてここでお話しさせていただきます。また、2番目には、残念ながら実質的な支援とならなかった出来事と、私が考えます原因。3番目には、当時はわかりませんでしたが、今にして思えば、こんな支援を受けたかったなと思うこと、今日はその3つをお話しします。

 その中の一番始めの実質的な支援となった出来事を4つの時世に分解してお話しします。

 1つ目は、正に事件発生当時、平成13年6月8日、私たちの身に起こった出来事が夢か現実かわからない、そういった「超混乱期」。私は、それを「超混乱期」といって、正に取り乱した状態、何が起きたかわからない状態を言っていますが、その「超混乱期」に起きたことに対する支援。そして、事件直後、数週間続きました「混乱期」。そして、事件後、数カ月くらい経ちますと、だんだん、自分の身に一体何が起きたのかということを理解し始めます。こうした「事実の認識を開始した時期」。そして、4番目には、そういった事実の認識をした後、現在に至るまで、この8年以上に及ぶ期間の支援。具体的な事実関係や問題認識もしております。そういった上で、敢えて、問題解決努力を我々がするといったような事件後、今に至るまで、という4つの時世に分けてお話しします。

 私は常々こうした場でお話の機会をいただく度に、いつも被害者視点での支援検証のフレームワークということについてお話ししています。

 これには、3つのステップを考えておりまして、1つは、まず<状況>分析。状況分析と申しますのは、当該もしくは私たち被害者が一体どんな状況に置かれているかという、正に状況分析をまずしてみること。そして、第2ステップは、そのような被害者が置かれている状況において、被害者自身は一体どんな<思い>でいるのかということを把握すること。そして、3番目は、具体的な<支援>。その支援の検証に対して、俗にPDCAサイクルというのがございます。Plan、Do、Check、Actionという検証サイクルがありますが、ここにおいて、一体何ができて、何ができなかったのか、それができた理由はどうしてなのか。それが逆にできなかったのは、どうしてなのかということですね。そういったことを振り返っていく。これは、支援というサービスを享受する立場、すなわち我々犯罪被害者自身が支援に対してどういう評価をするのかということをしっかり明らかにしていく。そのためには、我々犯罪被害者も単にそういった犯罪被害者支援というサービスに甘んじることなく、しっかりそのへんを振り返って、支援者とともに考えていくという行為が必要になってきます。そうした上で、今後どういうふうに改善していくかということがポイントになります。

 ここでよく言われる落とし穴といいますか、問題点なのですが、こんなことをしてほしい、ああしてほしいという、我々被害者自身がニーズをわかっていない場合があります。わかっている場合は、「こんなことをしていただけませんか」、「こういうことは考えていただけませんか」ということが言えるのですけれども、顕在化しているようなニーズの場合には、支援の方もわりとしやすいのかなと思いますが、それとは逆に被害者のニーズ、何を必要としているかが潜在化していて見えない。私たち被害者自身もわからないというケースにおいては、当然、何をしていただいていいかわからない、私自身も何をしていいかわからないとなりますと、先ほど言いました3ステップのうちの<思い>、被害者はどんな思いでいるのかということをしっかり掘り下げないと、そのニーズが見えてこないという落とし穴がありますので、そのあたりが注意するポイントかなというふうに考えています。

 こうした<状況>分析、それから被害者の<思い>の分析、そして私たちが受けた<支援>という、この3つのフレームワークで今日はお話を続けていきます。

 まず、先ほど申しました事件発生時、それを私は「超混乱期」と呼んでおりますが、そのときには6月8日の10時過ぎに事件が起きて、私たちは2時間近くかかり、やっとの思いで娘が搬送された大阪大学付属病院、搬送先で変わり果てた娘の姿と対面し、そこで主治医から娘の死が告げられました。その時の思いとしましては、ここに書いてありますとおり、本当に娘に一体何が起きたのか、全くわからない。そして、今、目の前で起きていることが夢か現実かわからない。夢なら覚めてほしいと思いました。そして、こういう状況の中で、私たちはどうすればよいのか全くわからない。当時、2001年6月時点で、私たちは極めて一般的な市民として、被害者支援という概念すら存在しませんでした。このとき、実に迅速に大阪府警の被害者対策室の方は動いてくださって、事件直後、私たちが阪大病院で娘の死が告げられた直後に、大阪府警から派遣されました被害者対策室の婦警さんらと会うことになったのですが、私たちもそのときには被害者支援の概念がありません。ですから、その婦警さんらに、「これから私たちが酒井さんご家族を支援します」というご提案をいただいたときに、きっぱりと「私たちにはもう支援は必要ありません。なぜなら、愛する子どもはもう死んでしまったのですから」というふうに答えてしまいました。これは、今にして思えば正に大きな間違いで、私たちはそれくらい、当時、一般市民として被害者支援に対する認識がありませんでした。

 その直後に、既に被害者支援は大阪府警の被害者対策室によって始まりまして、ショック状態で車を運転することができない家内を連れて、警察の車両で婦警さんと家内は自宅に帰りました。そして、立ち尽くす家内に代わって、ベランダに干したままになっている洗濯物を取り込んだり、それから屋外に大挙する報道陣が次々とテレビカメラを回したり、シャッターを切ったりしているのですが、そういった撮影から家族を守るために、婦警さんがカーテンを閉めてくださったり、正に早期危機介入と言われる支援がそこからスタートしました。ですから、繰り返しになりますが、「私たちは支援はもう要りません」と言った私たちの認識は大きく誤っていて、正にそこで、一番重要な早期支援が始まりました。これは、現在におきましては、犯罪被害者等の早期援助団体ということで、関する規定があって、日本各地の民間支援団体の下にこういった概念が広がっていると聞いております。私はそのまま病院に残りまして、娘の司法解剖を受けました。司法解剖が終わると、当時、昼間に病院に駆けつけたのですが、6月でも当時真っ暗になってしまうほど、たぶん7時、8時を越えていました。そして、真っ暗な中、自宅に帰っていきます。その後、お通夜、お葬式を迎えることになりますが、その頃、既に私たちの自宅の周りは夥しい数の報道陣に取り囲まれていました。私が亡くなった娘を連れて帰る際も、そしてお通夜に出すとき、そして出棺でお葬式の場から火葬場に向かうときも、私たちの周りには夥しい数の報道陣がいて、テレビカメラとカメラに囲まれていました。

 私が今でも覚えていますのは、お葬式が終わって、火葬場に向かうとき、焚かれるフラッシュでカーテンを閉めた霊柩車の中が明るくなるほど、私たちは撮影の対象にされたということがあります。私にしますと、このお通夜、お葬式というのは娘と過ごす最後の時間でした。今から取り戻しようもありません。娘と過ごす、最後のかけがえのない時間をそういった取材攻勢、ひっきりなしにインターホンが鳴らされ、ひっきりなしに電話が鳴り、それによって私たちの心は大きくかき乱されました。できることならそっとしてほしいと思いました。

 しかしながら、私たちのマンションの管理人さんや、私たちの会社の上司が、何度も何度も自宅を取り囲む報道陣の方に「近所の方の迷惑にもなりますし、酒井もそっとしてほしいと申しております」と何度も頭を下げても、一時的にはそうした報道陣の方は退去する素振りを見せるのですが、またすぐに舞い戻ってきまして、そんなイタチごっこが続いていました。私たちはどうしていいかわからず、我が家にいる大阪府警の被害者対策室の婦警さんに相談しました。そうしたところ、やっと制服の警察官の方が出てきてくださいまして、「酒井もこう言っているので、取材に関しては控えてほしい」という、制服の警察の方がお願いすることによって、やっと自宅付近は静かさを取り戻したということがございます。

 こうした被害者支援も、先ほど申しました事件直後に被害者のもとに駆けつける、正に警察の機動性・迅速性を生かした支援と同様に、警察にしかできない、民間人、民間団体にはなかなかできない支援の一つかなというふうに私は実感しました。

 事件から数日経ってきますと、私たちにはもう一人きょうだいがおりまして、そのきょうだいも幼稚園に行きたいというふうに言い出しました。しかしながら、幼稚園側も実際にこうした犯罪できょうだいを失った子どもをどのように受け入れるかといった受け入れ体制が全く未経験だったものですから、どうやって受け入れようかということを悩んでおりました。

 そうしたときに、そもそも亡くなった麻希の幼稚園におられました幼稚園カウンセラー、臨床心理士であられます武庫川女子大学の倉石先生が幼稚園の先生方と話し合って、こうした兄弟を失った幼い子どもをどのように幼稚園に受け入れられるか、どのように対処すべきかという受け入れ準備をしてくださいました。

 また、事件後、数日間、ショック状態で全く車が運転できず、幼稚園へ子どもの送迎ができない家内に代わって、先ほどから再三出ています大阪婦警の方が家内に代わって車を運転していただきまして、警察車両に乗って、家内と子どもは幼稚園に送迎していただく。正に警察の機動力を生かした支援によって、私たちの幼いきょうだいは無事に幼稚園に通い出すことができました。

 大阪府警被害者対策室による支援というのは、実にかけがえのない支援でした。後に振り返ってみると、その支援はたった11日間でしたが、先ほど申しましたような、事件直後からの早期支援ということと相まって、実に我々が支援の実感を得た支援と言えます。

 その後、数日間経ってきますと、私たちはやっとテレビをつけたり、うちに山積みになっていた新聞を徐々に目を通し出しました。私たちは驚きました。連日のように池田小学校事件がテレビで報道され、新聞で報道されていました。私たちは、改めて、そういったニュースを見て、我が子を失ったことの事実、そして報道を通じた社会の反響や事件の及ぼした影響を再認識することになります。そうなりますと、私たちは事実を認識し始めて、世の中にこんな不幸な目に遭うのは私たちだけではないかという孤独感、孤立感、絶望感にさいなまれ始めました。

 そんなとき、「全国犯罪被害者の会(あすの会)」の岡村代表、そして私たちと同じように愛する家族を悲惨な事件、事故で失った被害者の方々、ご遺族、そして常磐大学の当時の学長をされていました諸澤先生が自宅まで弔問に来てくださいました。私たちは、こんな不幸な目に遭うのは私たちだけと思っていましたが、ご自身がそういったつらい事件、事故を通じてご家族を失ったご遺族の方が私たちを弔問してくださったことに対して非常に励まされました。このときの弔問の様子は今でもはっきりと覚えています。

 そして、数週間が経ちますと、校舎が取り壊される、当時の文部科学省の副大臣が「事件のあった校舎は取り壊すということを決めた」というようなことを新聞報道等で知りまして、私たちは非常に驚きました。私たち両親からしますと、まだ事件後数週間、あの日、一体あの校舎の中で何が起きたのか、全く知らない。そんな状態であの事件現場が取り壊されては困ります。ちょうどその時、偶然、新聞で知った常磐大学の長井先生が「今この時に事件現場をなくしてしまうのは、決して遺族のためにならない」という趣旨のコラムを書いていらっしゃって、それをたまたま発見した私たちは、藁にもすがるような思いで、長井先生にコンタクトを取り始めました。

 「池田小学校の遺族の方は様々な支援があって恵まれていますね」ということをよく聞きます。それも確かに事実だと思います。しかしながら、実際、我々は様々な支援があてがわれたわけでもなく、校舎改築の問題、それから被害者支援に対する様々な考え方、現状、そういったものはすべて偶然によって、ある意味、私たちの小さな努力と多くの偶然によって結びつきができたということになります。そうするうちに、先ほど言いましたような児童や教員を含めて23人もの被害者を出した犯人が起訴さえされない可能性があるということを知りました。私たちは、子どもをなくした親として非常に驚きました。やはり犯した罪に相応しい刑罰を受けるべきではないかと考え始めました。

 そして、亡くなった麻希のお友達のご両親がたまたま弁護士をされていましたので、そういった知人の法律家から「上申書というものがあるよ」と。「被害者がこういった上申書というものを通じて、思いの丈を書くことができるよ」とか、それから、「そういった思いを世間の方々に理解していただくために、署名活動があるよ」ということを伺いました。しかしながら、私たちは町で自分たちが署名活動に協力することはあっても、実際に自分たちが署名活動を起こしたことなど、当然、あるはずもありません。そこで長井先生に相談したところ、交通事故で愛する家族を失ったご遺族の方が既に自らが起こした署名活動等を経験していらっしゃいましたので、そういった方々を紹介していただいて、「酒井さん、署名活動はこうして行うのですよ」というような、いろいろなことを教えていただきました。その結果、学校の安全を願った署名活動と合わせて、非常に短い期間ではありましたが、約80万人という、非常に多くの方の署名のご協力を得ることができて、今でも当時ご協力してくださった皆様に深く感謝しています。

 先ほど申しましたように、私たちは事件の特殊性から、娘と過ごすかけがえのない時間を妨げられたという、すさまじい、壮絶な報道被害を持っていますので、マスメディアの重要性は頭としては理解できるのですが、それを超える憎悪感、嫌悪感を私たちはマスコミに対して持っておりました。しかし、その裏腹に、私たちの思いを世の中に何とか伝えたい、そして私たちと同じ苦しみを持ったご遺族と語り合いたいという気持ちも持っていました。長井先生から「酒井さん、マスメディアはそういった対象ばかりではありませんよ。マスメディアの中にも被害者支援に対して深い造詣を持った、理解あるマスメディアがいますよ」ということを教えていただきまして、私たちは事件後、半年以上経ってから、徐々にそういうマスメディアの方とコンタクトすることが始まりました。

 そうして紹介していただいたマスメディアの方のおかげで、私たちはそういったサポートがあって、アメリカの被害者支援組織を訪問することができたり、同じく学校という場所で愛する子どもを失ったアメリカのコロンバイン高校のご遺族と会合することができました。そういったことも理解あるマスメディアの方の協力なしでは考えられませんでした。私たちはそういった意味からも、マスメディアには、非常に感謝を、今現在はしております。

 そして、もしかしたら、これが私たちの受けた支援の中で、一番、私たちの考え方、方向性、行動を大きく変えた出来事かもしれません。私たちの事件において、犯行時というのは、事件の通報をしに教室の中から先生が通報に向かって出ていったために、事件当時は教室内は犯人と子どもたちだけ、小学校2年生の小さな子どもたちだけが残された状況になりました。当然、そういった子どもたちも犯人から逃げるのに必死で、周りで何があったか覚えていません。私たちの子ども麻希は、校舎の端のほうで、先生に抱き抱えられて、救命処置を受けているところからわかっているのですが、それまで麻希が一体どういう被害に遭って、どうしてそこまで運ばれたのかということが全然わかりませんでした。

 麻希と同じ同級生に聞いても答えは全然返ってきませんし、それ以外の学年の子どもたちにいろいろ聞いてみても、「麻希ちゃんは校庭のほうを歩いていたよ」と言われたり、「麻希ちゃんは学校の先生に抱き抱えられて、教室から出ていったよ」と言われたり、いろいろな子どもがいろいろなことを言うので、結局、私たちは麻希が最終的に救急車に乗り始める頃はわかっているのですが、救急車で搬送されるまでの足取りがわかっていませんでした。そのときのことを支援の一例として今日はちょっと詳しくお話ししたいと思います。

 麻希の最後の足取りは、最終的に警察による支援によって明らかにされました。警察が現場に残っていた数々の血痕にDNA鑑定を施し、麻希の血痕を特定してくれたのです。2001年9月末、事件から4カ月近くが経っていました。2001年9月のある日、大阪府警の担当者から電話がかかってきました。電話は、「お嬢さんが被害に遭われたときの状況について説明したい」という内容でした。

 それから、1週間も経たない9月28日、担当者が来宅されました。そこで、私たちは初めてDNA鑑定というものが行われたことを知りました。担当者は、学校の図面を示しながら、麻希の様子を丁寧に説明してくれました。説明後、私たちはその担当者に「明日、現場に行って確かめてもいいですか」と尋ねました。担当者は「もちろんです」と快諾してくれました。早速、翌日の9月29日に、まだ事件当時のまま保存されていた校舎へと私たちは足を踏み入れました。私たちが大阪府警にDNA鑑定を依頼したわけではありません。DNA鑑定という手法によって、私たちは麻希の足取りがわかるなど、想像すらしていませんでした。ただ、私たちは大阪府警と担当の検事さんに、繰り返し、繰り返し、「どうしても麻希の最期の様子を含め、事件当時の詳細を知りたいのです。そうしなければ、私たちは一歩も前に歩めないです」と訴え続けてはいました。

 「事実を知りたい」という私たちの願いを真摯に受け止めてくれました。大阪府警は自らの判断で、校舎内に残る血痕を一つひとつ精査してくれました。そして、麻希がいた2年西組の後方出口前から廊下北側の壁づたいに、西へ50mほどの児童用出口まで続く血痕が麻希のものであることを探り当ててくれたのです。搬送された阪大病院に麻希の血液が保存されており、その血痕との照合の結果、判明したのでした。

 2年西組の教室内からは、麻希の血痕は検出されませんでした。麻希は、教室の後方出口付近で犯人に刺されたことがわかりました。その後、自力で廊下を50mほど移動して、力尽きたのです。廊下の壁には、3カ所、はけで掃いたような血痕があり、それも麻希のものとわかりました。恐らく時々よろけて、廊下の壁に体をこすりながら走ったのでしょう。最後に、麻希が倒れたところには、血だまりと小さな左右の手形が残っていました。左手の手形には、床をひっかいたような跡が残っていました。一歩でも前に逃げようとしていたのだと思います。私たちは、学校との間で長期に渡って事実確認をしました。しかし、麻希が廊下を50m余りに渡って移動したことは、学校との事実確認でもわかりませんでした。その意味で、もしDNA鑑定の支援がなかったら、永遠に麻希の最期の様子はわからなかったと言えます。

 現場では、担当者が麻希の血痕を一つひとつ示してくれました。その麻希の足跡を私たちは共に辿って歩きました。私たちはあふれる涙を堪えることができませんでした。傷ついた体で50mも移動し、倒れた後も、最後まで力を振り絞り、一歩でも前に進もうとした麻希、その姿が目の前に鮮やかな幻影となって現れるようでした。私たち両親がやっと麻希の気持ちに触れることができたと思えた瞬間でした。こうして事件から4カ月が経とうとしていた2001年9月29日、事件現場において、私たちは麻希の最期を知ることができたのです。

 事件当日の朝、私たちは麻希を学校に送り出し、次に会ったときには、麻希は阪大病院の救急部の処置室に横たわっていました。麻希は既に心臓マッサージを受けている状態でした。ですから、事件が起きてから、麻希が病院に搬送されるまでの間が、私たちにとって空白の時間となっていました。この時間が埋まらない限り、私たちの心が麻希のところに届くことはありません。なぜならば、麻希が一番苦しみ、つらい思いをしたその瞬間のことをわかってあげることかできないからです。

 今思うと、麻希の状況がわからなかった期間、私たちはずっとどこかで立ち止まっていたように思います。あの事件の起きた6月8日というわけではなく、全く違うところにとどまっていました。混沌として、何をどう考えればいいのかわからない状態でした。次から次へと押し寄せる課題に対処しようと頑張ってはいました。でも、麻希の思いを我が身に抱いてやることができず、私たちはどこへ向いて歩んでいけばいいのか、その方向性すら曖昧だったように思います。

 大阪府警のDNA鑑定によって、私たちもようやく6月8日の原点に立つことができたと言えます。私たちは、麻希のこの世の最後の思いにやっと辿り着くことができました。私たちは麻希に向かって、「本当に最後まで頑張ったんだよね。怖かったよね。痛かったよね。つらかったよね。今まで麻希のことがわからなくてごめんね」と声をかけることができました。

 その後も私たちへの支援は続きました。12月になりますと、刑事公判が始まろうとしていました。しかし、私たちは刑事公判に関わったこともありませんので、どんな流れで、どんな内容かもわからないということがありました。しかしながら、先ほどと同じように、娘に関することはすべて知りたい。たとえ被害者が公判に参加できなくても、公判を理解して関わりたいという思いがありました。

 当時は、警察や検察が刑事公判に対して直接相談の機会があったり、きめの細やかな説明会がありました。私たちは、それまでにはできないことがあったと聞いて驚いたのですが、刑事公判の傍聴もできました。そして、証人として発言したり、意見陳述もすることができました。ビデオリンク等の配慮もありました。これらもすべて長井先生から紹介された関西の垣添弁護士ら支援弁護士による支援がありまして、証拠の請求ですとか、公判記録の謄写などの様々な支援を受けることができました。

 また、私たちは事件の真実を知れば知るほど、学校の安全管理に問題があったことも知りました。冒頭申し上げましたように、我々被害者は責任所在の明確化と再発防止を強く望んでいます。そこで、長井先生から紹介を受けた垣添弁護士ら支援弁護士の協力を得て、平成15年に文部科学省、大学、小学校に対して、再発防止策を盛り込んだ合意書を締結することができました。

 また、私たちは、そういった刑事公判ですとか、文部科学省との交渉において、非常に時間と手間を取られました。先ほど申しました、小さなきょうだいの面倒を見ることができません。私たちは本当に困っていました。でも、どうしていいかわかりません。こんなときに、幼稚園カウンセラーの武庫川女子大学の倉石先生のほうから、「酒井さん、子どもの面倒を見るボランティアの準備をしたらどうですか」という提案を受けまして、それを受け入れました。これも私たちが気づかずにいたニーズです。そうすることによって、私たちは保育ボランティアを通じて幼いきょうだいの様子を知ることができました。

 平成15年8月28日に刑事公判の判決言い渡しがあり、その後、様々なことがありました。いろいろな思いがありましたが、このときも長井先生や垣添先生らから、支援者による中長期的な継続的な支援を受けることができましたので、私たちは非常に力強く思っていました。非常に安心していました。こうした継続する支援というのが被害者にとっては非常に重要かと考えています。また、そんな時、私たちは一被害者として、当時の日本の被害者支援を取り巻く環境や状況を全く知りませんでした。そうした上で、一体何が問題になっていて、どうしたことをすれば、そういった問題が解決するのか、全く知る由もありませんでした。私たちは、私たちが受けた支援、その教訓が生かされることによって、今後の日本の被害者支援が広がっていくことを望んでいました。

 そんな時、全国被害者支援ネットワークの山上先生と出会いました。山上先生からは、当時の日本の被害者支援の現状ですとか、どういう状況に置かれているのかという様々なご助言、ご指導をいただきました。それによって私たちは、日本の被害者が当時置かれていた状況をよく理解し始めました。そして、同時に、私たちのような被害者が声を上げること、こうした場で発信すること、思いを発信する、そういった被害者の思いを社会に対して発信することの重要性も教えていただきました。それが、平成13年にありました全国被害者支援ネットワークでの発言につながっております。今日のこうした講演もその当時の山上先生の教えに乞うところが大きく、今でも非常に感謝しております。

 以上、私たちが受けた支援をお話ししましたが、残念ながら実質的な支援にならなかった出来事もあります。

 まず、1つ目は、私たちは事件直後から大阪教育大学、後の学校危機メンタルサポートセンターからの支援を受けました。しかしながら、私たち被害者からしますと、大阪教育大学というのは事件そのものの発生、そして事件の被害拡大に関与した当事者と言えます。私たちからしますと、そういった事件の発生及び被害の拡大に関与した当事者からはなかなか支援を受けにくい。これは、JR西日本のご遺族の方もおっしゃっていましたけれども、そういった事件の当事者からの支援というのは、被害者の心情からしますと非常に支援を受けにくい。ですから、こうした支援というのは、事件の被害拡大等に関与した当事者ではなくて、やはり第三者の関与、そういったものが必要ではないかと思います。

 また、事件直後に、同じく大阪教育大学から派遣された精神科医の支援に関しましては、当時、時間が非常に制約されていた。今回の事件の場合は、非常に多くの被害者がいましたので、支援する側も非常に多忙でした。そういった意味からもなかなか満足な支援を当時の仕組みの中では受けることはできませんでした。やはり、私としては、多方面の情報を入手して、的確な情報判断、状況判断、今被害者がどういう状況に置かれていて、どんなことが必要なのかという支援が重要であるように感じました。

 また、信頼関係が確立する前の弁護士との支援においても様々な問題がありました。これは、弁護士の先生方が専門家であるがゆえに、「被害者はこういうことを望んでいるだろう」というようなことを誤解してしまったことに端を発します。私は、専門家というのは、専門家ゆえに落とし穴がある。つまり、専門家が従来の価値観や思考や行動に引っ張られないように、そういった改革が必要なのではないかというふうに当時感じました。

 今にして思えば、こんな支援を受けたかったなと思うことが数点あります。

 1つは、事件発生時の超混乱期。私たちは先ほど言いましたように、被害者支援の概念すらありませんので、何をしていいかわかりませんし、支援の必要性さえわかりません。ですから、断ってしまいました。幸いにも、大阪府警の方々は諦めずに支援の手を差し伸べてくれましたから良かったのですが、そういったときに、「具体的に酒井さんには、今後こんなことが起きますよ。こんなことが起きるので、こういった支援ができますよ」というような、早期の危機介入時に、被害者に発生する諸問題、それを具体的に教えてくださって、それに対する対応策を客観的に提案する支援者、そんな支援者が欲しかったように思います。

 また、混乱期は、多くの報道、取材も含めて非常に大変でした。ですから、マスコミと私たちの間に入って、マスコミ対応の手法についてアドバイスをしてくださるような、そんな支援者が当時の混乱期においていれば、もっと報道に対する被害が軽減できたのではないかというふうに考えています。

 これも繰り返しになりますが、私たちは長井先生という、事件直後から今に至るまで、私たち8家族を助けてくださった先生なのですが、知り合う仕組みといいますか、繰り返しますが、私たちがたまたま偶然新聞で見た記事に、長井先生の「校舎の取り壊しは遺族を癒さない」というコラムを発見したから、出会えただけです。誰かに紹介していただいたわけでもなく、ただ新聞紙面をたまたま見て、あるとき「あんな記事があったな」ということを思い出して、連絡を取りました。

 私は、繰り返しになりますが、被害者が置かれている状況や、抱えている問題に応じて、適切な支援に被害者が辿り着くことができる、そういった仕組みが重要ではないかというふうに思います。私たちのように、偶然に、しかも被害者自身が努力して辿り着く支援ではなくて、被害者と最適な方法で結びつく支援、それが日本において非常に重要ではないかと考えております。

 私たちは多くのことを知ろうと思い、多くのことに参加しました。皆様に協力を得た署名活動、校舎改築問題、そして娘の最期を知りたかったこと、そして、コロンバイン高校、アメリカまで同じような、学校で子どもを失った家族を訪問する、様々なことを知ろうと思って様々参加してきました。

 また、国や大阪教育大学や付属池田小学校と、単なる損害賠償ではなく、事件の再発防止に一番重きをおいた合意書を締結することができました。また、学校の安全に対する活動、被害者支援の充実に向けた活動、私たちが受けた報道被害を少しでも軽減するための活動、様々なことを知ろうとし、参加しています。

 このように、被害者自身にとって、エンパワーメント、いったん失った人生を再び取り戻して、人生に向き合っていく力を被害者自身が取り戻すこと、そして、私たちは「つながりの再生」と呼んでいますが、失ってしまった自分の人生を取り戻して、再び失われてしまった人間関係を築いていくことが大事になります。こうしないと、被害者は絶望の淵から回復することができません。どんなに素晴らしい支援があっても、被害者自身がそうしたエンパワーメントとつながりの再生をしないと、被害者は回復できません。

 このように、まず知ること、知って参加する、そして何らかのことを達成していただく、その中にコミュニケーションが介在する。こうした「知り」「参加し」「達成する」というステップが、被害者にとっては非常に重要になります。

 被害者支援の枠組みとしまして、よく経営資源で俗に言う「人」「もの」「金」の充実が必要です。

 「人」。犯罪被害者を取り巻く連携プレーが必要です。私たちの場合ですと8家族、そして様々な犯罪被害者の方々、友人、知人、PTA、大阪府警、大阪府、臨床心理士、ソーシャルワーカー、精神科医、弁護士、保護司、マスメディア、そして世間の方々、そうしたものを行政がうまくつなげていく、そういった仕組み。

 そして、「もの」。皆様の気持ち、有益情報、資料や文献、こうしたつどい、相談窓口、担当部署。繰り返しになりますが、超混乱期の被害者でも、辿り着ける名前と仕組みがないと被害者は被害支援に遭遇することができません。そして、重要なのは法律。幸いにも、事件以後、犯罪被害者等基本法ができましたけれども、私たちは学校の安全法もできればと考えております。

 そして、こうしたつどいを開くにも、様々な支援活動をするにも、やはり活動資金が必要です。国、地方自治体での予算化、支援活動を支える活動資金、そういったものが必要に感じます。今日、この場で、私は犯罪被害者等基本法について多く触れませんが、私が最も期待している条文は、この第3章の24条です。「犯罪被害者等施策推進会議を置く」という一節があります。ここには、「内閣府に特別の機関として、犯罪被害者等施策推進会議を置く。その役割というのは、犯罪被害者等のための施策の実施を推進し、並びにその実施の状況を検証し、評価し、及び監視すること」と謳ってあります。

 私たちは繰り返し申し上げていますように、支援というは何ができて、何ができなかったかということにおいて進めていくことが非常に大事だと考えますので、この推進会議というところにおいて私たちは最も期待しております。

 去年になりますが、平成20年10月24日に『犯罪被害者白書』が公表されました。私たちは、実際に私たちが受けた支援を集約して、そこに手記も掲載させていただきました。当時ですが、やはりまだ自治体によっては被害者からの相談窓口の設置に関して差があるように感じました。1年前になりますが、都道府県の約8割の自治体が相談窓口を設置していました。しかしながら、政令指定都市になるとその5割、市区町村になりますと、その設置は2割にとどまっていました。こうした認識がこの1年間で進んでいればいいと思いますし、今後もそのあたりがどんどん推進して、繰り返し申し上げたように、被害者が支援に、簡単に、効率良く辿り着ける仕組みが発達すればいいというふうに考えています。

 まとめになります。

 私たちが実体験、娘を失うという事件を通じて支援を受けていました。その支援を受けて感じたことは、とにかく被害者に寄り添う支援。寄り添う支援というのはどういうことかといいますと、私たちの置かれている状況を理解していただいて、私たちの思いや希望を把握していただいて、具体的な支援内容を提示していただくと非常に助かりました。

 「何かお役に立てることがあったら、何でもおっしゃってください」と言われても、私たち被害者は何を申し上げていいか、何をお願いしていいのか、わかりませんでした。できましたら、私たちはこんなことができて、こんなお役に立てますよ、という具体的なメニューをご提示いただくと非常に助かります。

 私たち被害者は、被害者の心理状態の分析やカウンセリングのみを望んでいません。最愛の娘をあのような事件で失って、心に傷があるのは当然と言えます。ですから、そういったことに加えて、是非とも、私たちが生きていくための実質的な支援をお願いできれば幸いです。そして、そういった被害者支援が被害者自身の精神的、肉体的な負担を増すことがないようなご配慮をお願いできればと思います。常に、この支援は誰のための支援なのか、ということを考えていただければと思います。

 私たち被害者は、それまでの人生で、支援に関する専門家とは、支援という形では接しておりません。ですから、専門家との接触や関係には十分に配慮していただきたいと思います。そのためには、私たちで言えば、長井先生のようなファシリテーター的な、中間に入っていただいて調整する方、そういった存在が非常に重要ではないかと考えております。

 また、専門家が専門家ゆえに陥りやすい落とし穴、固定観念、先入観、慣習、慣れ、経験、不適切なサンプリング、視野や思考の狭窄、そういったことにも注意していただければと思います。

 今後の被害者支援の成功のカギ。

 やはり1番目は、被害者支援の仕組み、体制づくり。これには被害者自身のニーズの把握ですとか、問題解決のための具体策を提示していくことが重要だと思います。

 また、継続的に持続することも重要です。支援の連携の重要性はここにもあります。支援する側も大変です。支援する側も必死の思いです。そうした支援する側も無理をしないような、支援を支える仕組みもつくっておきませんと、息切れしてしまいます、疲労してしまいます。ですから、継続的に支援を持続するためには支援もうまく連携してやっていくことが必要です。また、支援の検証・フィードバックが必要です。何ができ、何ができなかったか、何が役に立ったのか、立たなかったのか。これは支援した者とされた者が一緒に手を携えて検証することが重要です。一方的に文句を言ったりするのではなくて、「こういうことは助かったよ」「ああいうことは良かったよ」ということを含めて、一緒に振り返っていくことが大事です。

 最後になりました。

 起きた事件や子どもたちの死は、私たち遺族だけのものではありません。それを知るすべての人々がそれをどのように受け止め、何をするかによって、その意味は違ってくるのだと思います。

 今日はご清聴、どうもありがとうございました。 

資料:被害者支援の原点に戻って~私たちが望んだ支援私たちが受けた支援~[PDF:207KB]

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