滋賀大会:基調講演

 
テーマ:「犯罪被害者が求める支援のあり方」
講師:岩城順子(京都府犯罪被害者支援コーディネーター)

 皆さん、こんにちは。ただ今ご紹介いただきました岩城順子です。よろしくお願いいたします。まず始めに、私にこのような話をする機会を設けてくださった内閣府、滋賀県、滋賀県警の方々に、深く感謝いたします。そして、今日、この会場に集まってくださった方々にも感謝いたします。本当にありがとうございます。今日は、私の体験と、被害者の感情や私が見聞きしたこと、感じたことを通して、被害者を支援してくださる方々に望むことをお話しさせていただこうと思います。

 私は現在、社会福祉士として、京都府の犯罪被害者支援コーディネーター業務のほかに、市役所の生活支援課で生活保護の初回面接相談員として働いております。また、小学校で、教室に入れない子供たちの心理と学習担当のボランティアとして関わっております。学校に関わってもう5年目になりますが、次の世代を担う子どもたちに、「暴力では何も解決しない。」というメッセージを伝えたいという思いがあるからです。たった一人で何ができるか分かりません。けれども、せめて私が出会った子どもたちだけでも伝えることができ、言い続けることが大切だと思って、通っています。

 私は、平成16年の春、立命館大学大学院を修了しましたが、そこで、「犯罪被害者遺族の求める対人援助」をテーマに研究しました。犯罪被害に遭われた方が、どんな対人援助を一番求めておられるのか。どんな事柄に一番困られたのか。子どもを亡くして辛い中で、どんな助けがあれば、少しでも気持ちが楽になると思われるか。様々な犯罪で子どもを殺されたお父さんやお母さんに聴き取りを行ってきました。そして、同じ体験をした当事者同士が果たせる役割などについて研究していました。

 防犯等に対してご尽力いただいている皆様には大変失礼な質問かと思うのですが、犯罪が起こった時、どのように感じられるでしょうか。例えば、先日の舞鶴の事件では、「あんなに夜遅く歩いているのだから事件に遭うのだ」と思われたでしょうか。夏、薄い、透けるような服を着ている若い女性が襲われたら、「そんな服を着ているから襲われるのだ」と思われたでしょうか。スーツを着た立派な紳士が襲われた時には、すぐに犯罪の違法性に目が行きます。被害者によっては、バイアスをかけて見られることがあります。また、テレビで報道される犯罪被害者の人たちは、特殊な凶悪事件の被害者や遺族だから、あんなに傷つき、苦しんでいるのだと思われていないでしょうか。犯罪は、ごく普通に暮らしていた人にある日突然降りかかり、被害者をつくってしまうのです。

 いつもお話をさせていただく前にお断りしているのですが、こういう体験をした者の共通点として、記憶が無くなったり、突然その時の出来事がありありと蘇ってきたり、緊張すると記憶のコントロールができなくなります。そこで、原稿を読むことをお許しいただきたいと思います。

 私達夫婦の長男である道暁(ミチアキ)は、死産、流産の後、4人目にやっと生まれたかけがえのない子どもでした。平成8年3月、夜の9時ごろ、宮崎の大学生だった二十歳の時、見知らぬ二十歳の男に因縁をつけられ、いきなり殴られてしまいました。パチンコ屋の駐車場での出来事でした。誰も見ていません。息子は意識を失っています。加害者が話さない限り、真実は分かりませんでした。

 「男に頭部を殴られ、意識不明になったが、生きている」警察からはそのような連絡が入りましたが、誰もが喧嘩だと思いました。喧嘩という言葉は、「お互いさま」というニュアンスがあります。まして被害者が亡くなった場合、加害者のみの証言しかありません。平成8年頃は、犯罪被害者という存在はあったものの、言葉が社会に浸透していなかったように感じています。だから、「そのような結果になったのは、被害者も悪かったのではないの?」。そんな空気が、辺りを取り巻いていました。当事者から見れば、自分が犯罪被害者だと気付くことさえ、随分後になって民事裁判を起こす頃でないと、認識ができませんでした。

 外傷がほとんどなく、CTにも異常が見られなかったので、当直の医者は、すぐに全治2週間の診断書を警察に提出しました。でも、意識が戻ると、球麻痺と不全麻痺がありました。球麻痺というのは、舌が麻痺してしまい、食べ物をうまく飲み込むことが困難になり、声は出ても発音ができない。それで、話すことができなくなってしまう状態です。不全麻痺というのは、手足はある程度動くものの、その機能を十分に果たさないという状態です。手が震えて、物をつかむのも困難でした。そして、殴られた時の記憶は消えていました。

 警察の方が何度も足を運んでくださいましたが、事情聴取はなかなか進みませんでした。「何で? どうしてこうなったの?」、そればかりが頭の中を駆け巡っていました。その頃私は、養護学校の講師をしていて、夫は単身赴任で滋賀県で働いていました。2人が隔週の交替で、金曜日の最終の飛行機で宮崎に行き、日曜の最終で帰ってきて働くという生活になりました。一生懸命看病しましたが、一人になった時は泣いてばかりいました。治らなかったらどうしよう、道暁の将来はどうなるのだろう。考えると、夜もほとんど眠れませんでした。そんな無理がいつまでも続かず、私は学校で倒れてしまい、息子は自分の看病で仕事を辞めるのに反対しましたが、5ヶ月経ってから退職しました。

 長年、障害児教育に携わっていて、障害というものを少しは理解しているつもりでしたが、実際、自分の家族が中途障害を受けると、本当は理解していなかったことに気付きました。何も悪いことをしていないのに、隠したくなるのです。人に本当のことが言えないのです。健康な子どもを生んだ母親は、誰もが、その子はすくすくと成長するものだと信じています。それが、人の暴力によって障害者にさせられてしまうという、受け入れ難い苦痛を味わうのです。それは、被害の程度に関わりなく、大変な苦しみでした。今まで平和だった家族の幸せが一度に崩れ去って、家族の生活が一変してしまいました。そして、もう二度と同じものは戻ってこなくなったのです。

 事件後すぐには、様々な情報が欲しいと思いました。どこに行ってこれからのことを相談すればよいのかさえ分かりませんでした。事件後3ヶ月たって、宮崎から京都へ転院する時も、受け入れの病院を必死になって探しました。仕事を休んで、フィルムを持って入院のお願いに回りました。リハビリ病院では、自分で日常生活ができるように訓練が行われます。入院した病院は管理が厳しく、「ベッドでお菓子を食べた」と言っては職場に電話がかかってきて、すぐに来るように呼びつけられました。私が、脳に作用する薬をあまり使わないで欲しいと医者に言うと、「私の言うことが聞けないようなら出て行け」と言われました。「ケンカ」という言葉が紹介状に書かれていたからだと思います。

 全治2週間と言われたにも関わらず、状態が少しずつ悪くなっていき、症状が固定せず、身体障害者手帳がなかなか受け取れませんでした。しかも、車椅子も貰えていないのに、3ヶ月経ったからと退院を迫られてしまいました。腕の力がなく、とても普通の車椅子では無理なので、電動車椅子を申請したいと思いました。その申請には、身体障害者相談員の方の都合に合わせて会ってハンコをもらい、民生委員の方のハンコを貰い、その上、家の周囲の写真も何枚もつけなくてはなりませんでした。やっと申請した後、身体障害者更生相談所のお医者さんは、辛うじて2メートル歩いた姿を見て、「なんや、歩けるやん」と、電動車椅子は却下になりました。

 私達は、自費で電動車椅子ユニットを買いました。それは、家庭用電源で使える充電器に、お弁当箱ぐらいの大きさのバッテリーをつけて走るもので、その時はまだ認められていませんでした。普通の車椅子を申請しても、出来上がるまでに、また何ヶ月もかかりました。手が震えて字が書けず、こちらの言うことに首を振るだけでは、本人の思っていることは伝えることはできません。必要だったトーキングエイドも自費で買いました。トーキングエイドというのは、養護学校で言語障害児用に使われている携帯用会話補助装置で、音声ボタンを押すと喋ってくれる、日常の簡単な意思表示機です。意思を伝える道具は、意識が覚めた時から必要でした。長い文章の時はワープロが必要で、ワープロも立替払いで買いました。

 現在の制度では、身体障害者手帳がなければ、一切の福祉措置を受けることができないようになっています。しかも、障害の固定がして初めて医師の診断書が書かれて、身体障害者手帳を受け取ることができるのです。今すぐ必要なものが、必要な時にサポートされないのです。手帳が下りるまでは、自分達で買うしかありませんでした。

 リハビリセンターの入所を申し込んでいましたが、半年待ちだと言われ、自宅で介護していた時期がありました。夫は週末しか帰ってこない時で、道暁は自分でトイレにも行けず、食事も全介護の状態なのに、私は風邪を引いて寝込んでしまいました。行政に「ヘルパーの派遣をして欲しい」とお願いしたら、「中途障害者にヘルパーの派遣はありません」と断られてしまいました。自分の責任でこうなったのではないのに、どうして助けてくれないのか。死ぬしかないのだろうかと落ち込んだこともありました。10年程前は、そんな制度もなかったのです。

 近所では、人々の好奇の目にさらされました。心配そうに言葉をかけてくださるのですが、好奇心が見え見えの態度に悩まされました。道暁は事件の記憶も無く、喋ることができないのに、なぜかやはり「喧嘩をしたためにあんなふうになったのだ」という噂や、とんでもないデマを耳にしました。リハビリから帰ってくるところを待ち受けるように、こちらを窺っておられるのです。家の前に訪問看護ステーションの車が止まれば、その車を見に来られていました。落ち込んでいたら、また話の種になってしまう。私は、突っ張って生きるしかなくなりました。そして、交通事故だと嘘をつきました。そうせざるを得ない状況に追い込まれていってしまったのです。

 刑事裁判も屈辱的なものでした。事件後10ヶ月経って、宮崎から、検事さんや事務官の方など、3人が家に来られました。回復の見込みのない道暁の状態を見ておられるのに、略式起訴で、刑事裁判は知らない間に終わっていました。判決は、罰金30万円。加害者に問い合わせて初めて分かるという始末でした。刑事記録を取り寄せてみると、ただ目が合っただけで、道暁の顔が気に入らなかったからキレた。そして、何もしていない道暁の顔を力いっぱい殴ったというようなことが書かれていました。人が突然暴力を振るうことを学習していない息子は、構えることもなく、首がねじれて、脳幹部に損傷を受けたのです。加害者は、病院にはほとんど来なかったのに、「週5日はお見舞いに通っている」などとうその証言がありました。

 道暁が生きていたからこそ、自分の罪を認めています。これがすぐに亡くなっていたら、どんな証言になっていたか分かりません。しかも診断書は、全治2週間のままでした。あまりにも実態と離れた判決が下されています。当事者である私達は、終わってからでないと、事件の内容を知ることができなかったのです。私達が裁判で異議を申し立てる場も与えられず、判決が下される制度には、納得ができませんでした。判決についての疑問がある時には、申し立てる制度が欲しいと思いました。

 私は、道暁が亡くなってから検事に電話をかけました。「致死に至っても、あの量刑で妥当だと思われますか」と質問しました。「お気の毒だと思いますが、どうしようもありません」との返答でした。大学を出たら働いて、税金を納める人間の前途をふさいだ加害者に対して、どうしてもっと国は怒ってくれないのかと感じました。検事さんにとっては山のようにある事案の一つだったのでしょうが、私達にはそれが全てでした。

 2年経って起こした民事裁判も、相手は仕事を辞め、賠償の支払いはできないというものでしたが、闘わないという返事が、喧嘩ではなかったことを証明してくれました。民事裁判を起こすことに対して理解していただきたいのですが、少年事件や略式起訴、それに起訴もされなかった事件の被害者遺族にとって、民事裁判でしか真実を知ることができない、唯一の場になるのです。辛い事柄であっても、事実を知ることが、気持ちを整理する手段になるからです。心の整理がつかないと、前に進めないのです。賠償金の金額のみがクローズアップされるのは残念なことだと思っています。教育委員会に勤める父親と、有名な会社に勤める母親がいましたが、息子は二十歳だから、親に責任はないと言われました。「自分たちに全く責任がない」と言うのです。

 そんな中、脳幹部の損傷は、道暁の状態を少しずつ悪くしていきました。事件以来、加害者に対して恨み言も、愚痴も、泣き言も一切言わなかったのですが、「死にたい」と言ったことが一度ありました。最初は、治ると信じて一生懸命リハビリを頑張っていたのに、半年ほど経った頃、「だんだん筋力が弱ってきている。自分の体は自分で分かる。」とワープロに打ちました。私は、外傷というものは少しずつ良くなるものだと信じていました。だから、「21歳の誕生日まで待って。それでもだめなら一緒に死んであげる」と答えました。誕生日を1週間過ぎた頃、「いつ一緒に死んでくれるの?」と打ちました。「ごめんね。お母さんはまだ生きたい」と答えると、道暁は、じっと遠くを見詰めるように考えていました。そしてそれからは、そのことについて一度も触れようとはしなくなりました。

 私は、このままでは社会から取り残されると感じました。道暁は、不自由ながらもパソコンが使えたので、メールのやり取りならできます。同世代の友達が必要だと思いました。それに、身体障害者手帳などの申請で福祉課に行った時、窓口の若い職員に「私の弟も交通事故で死んだのですが、車椅子の生活になるなら、死んでよかったと思うんですよ」と言われた時、言い返せませんでした。養護学校で働いていたのに反論できない自分が情けなく、きちんと理論的に説明できるようになりたい。悔しい、賢くなってやる、そう思いました。大学を辞めざるをえなかった道暁に、「大学は、行きたいと思った時にはいつでも行ける」と言い続けていたこともあって、私が大学に行って福祉のことを知ろう。友達をいっぱい作って、道暁を理解してもらおうと決心しました。だから、編入ではなく、18歳の受験生と一緒に試験を受けました。

 大学の入学が決まってしばらくすると、発作を起こしてさらに容体が悪くなり、入院してしまいました。

 大学は諦めようかと思ったのですが、その時の主治医の先生が、「長くなると思うから、お母さんの夢を叶えてください。私が責任を持って診ます」とおっしゃってくださいました。夫も、「お前のしたいようにしなさい」と言ってくれました。ところが、「お子さんがあんなになってはるのに、能天気に大学なんかに行って、どういうつもり?」と言う人がいました。友人にさえ、「ずっと看病しなくていいの? 後で後悔するんじゃない?」と言われました。看護師さんには、「もっと純粋に看病されたらどうですか。大学でいろいろ勉強してはるみたいやけど」と、一日中付き添って看病される他のお母さんと比較して、非難されたこともありました。

 妻のために夫が仕事を辞め、介護に専念することが、新聞記事になったことがありました。どうしてでしょうか。介護する人は女性と決め、両立することを許さない社会の目が、当たり前になっているからではないかと思うのです。母親が一日中ずっと付き添うのも、立派な介護だと理解しています。その時の心の中は、先の見えないトンネルに入ったような不安や、いつまで続くか分からない焦りを抱えていました。介護だけの生活をしている者が精神的に追い詰められた時、虐待を犯したり、希望を失って死を選ぶのではないかなと感じました。実際、養護学校でも、そのようなことがありました。私が大学を選んだのは、精神的なバランスを崩さないための選択でした。距離を取ることで自分にゆとりを持ち、明るい顔で介護ができたと思うのです。人の心がどれだけ傷ついているかということは、外から見えませんし、人によっても違います。他人は、見えたところでしか判断しないのではないでしょうか。

 大学に通学する時には、洗濯物を持って京都駅のコインロッカーに預け、帰りにそれを持って病院へ行き、面会時間の終わりまで付き添いました。大学のクラスメートも会いに来てくれました。車椅子に乗せて散歩に出掛けたり、話をしてくれたりしました。学生たちも、障害を持って生きる道暁から何かを学んでくれたと思います。大学への選択は間違っていなかったと、今でも思っています。

 2年半経った秋の頃から、容体は更に悪化していきました。肺炎がひどくなり、自発呼吸に無理が出てきたため、人工呼吸器を付けました。40度から42度の高熱が続いて、血液検査の結果も思わしくなくなりました。荒い息と腫れ上がった顔を見ると、「早く何とかしてください!」と叫びたくなるのを必死でこらえながら、見ているしかありませんでした。私は、道暁が好きだった女の子に電話をかけて、会ってやってほしいと頼みました。次の日、道暁の手を握って呼びかけてくれると、道暁の目がツツーッと彼女のほうへ移動し、呼吸が落ち着いていき、しばらくすると体温も平熱に戻っていきました。

 機械に生かされているような状態が痛々しく、本人もそれを望んでいるのだろうか、本人のために良いことだろうかと悩んでいましたが、生きることと闘っているのだと知りました。道暁の体一つひとつの細胞が生きようとする限り、体に何本のチューブが付こうとも、医学の力を借りて、最後の最後まで生かし切ってやると思いました。若い細胞は、生きようとする力に溢れていました。けれどもその一方で、人に平等に訪れる死をどのように受け入れるか、身をもって、時間をかけて、私に教えてくれるようにも感じました。治ると思っていたのが治らない。できていたことができなくなっていき、少しずつ少しずつ、その時々の道暁を受け入れるよう、教えられていきました。親にとって子供は、生きているだけで満足できる存在なのだと思えるようになっていきました。

 亡くなるまで、大学と看病に精一杯頑張ったつもりでした。けれども道暁は、事件後3年、23歳の誕生日を目前に亡くなってしまいました。お葬式の時は、涙も出ませんでした。まるで映画の撮影をしているような感じでした。いろいろな人にテキパキとセットを組まれ、ちょこんと座っている私がいて、お別れに来てくださっている人に頭を下げている自分は分かるのですが、どこからか監督が出てきて、「はい、カット。お疲れさまでした」と声がかかるのではないかと思っていました。全エネルギーを使い切った放心状態で、抜け殻のようになっていたのです。何も考えられなくなって、感覚が麻痺していました。

 でも、時間が経つにつれ、それは現実だったのだと思い知らされてきました。何の支えもなくなった感じで、このままいなくなってしまいたいと考えていました。私は間違ったことをしたのだろうかと悩みました。絶対忘れることはないのに、忘れてしまうのではないかという不安に襲われました。「自分が楽しく生きていては申し訳ない」そんな気になって、自分を責めてしまうのです。学校に通っている間は何とか普通の生活ができるのですが、休みになるとカーテンも開けず、お風呂にも入る気がしません。勤めから帰ってくる夫のために、夕食だけを用意するのが精一杯という生活でした。そんな時、クラスメートが声をかけてくれました。「順ちゃん、今度は僕らが順ちゃんの子どもやで」その言葉で、ようやく生きる力が出てきたのです。

 私達家族は、事件の後、互いに心の辛さを言葉にして話し合ったことはありません。道暁には、2歳年下の妹の涼子(リョウコ)がいます。事件は、涼子の大学入学式の1週間前に起こりました。私は、春休みが終わるまで宮崎にいて、京都に帰ってきてふと気がつきました。入学式が終わってしまっている。私は何の用意もしてやることができず、その声かけさえも忘れていたのです。申し訳ないと思いました。涼子は、「大丈夫。ジーパンでも平気。大学生ってそんなもんよ」と答えました。最近の若い子の感覚はそうなんだと、素直に納得してしまいましたが、2年後、同じ大学に入学した私は、そうではなかったことを知りました。新しい門出と新たな希望に、みんな着飾ってました。

 毎日道暁の看病にかかりっきりの状態で、ほとんど一人暮らしをさせているようなものでした。「ごめんね。涼子ちゃんの面倒は、お金でしか見てあげられない」と言うと、「大学の近くに下宿させて欲しい」と言い、19歳の時から家を出ることになりました。中学・高校時代には職場の学校行事が重なり、一度も見に行ってやることができなかった文化祭を、友達とバンドを組んではじけている姿を、同じ学生として応援することができました。学部は違いましたが、教科の履修や就職情報など、互いによく理解できました。

 今はシステムエンジニアとして働いているのですが、就職を決めてから、こんな話をしてくれました。入社面接の時、「尊敬する人は誰ですか?」と聞かれ、「母です」と答えました。「自分の子供を亡くしても、泣いているばかりでなく大学へ行き、さらにその経験を生かすために、大学院で学んでいるからです」と答えてくれました。私は、そんな娘の心遣いや、黙って見守ってくれる夫に支えられてきたのだと思います。また、道暁が入院していた時、病院のそばに住んでいた友人が、「家に帰って一人でご飯を食べるより、私の家で夕食を食べてから帰りなさい」と、度々誘ってくれました。そんな友人にも助けられてきました。

 犯罪被害による突然の死は、人による犯罪行為が原因で、暴力的な要素を持ち、暴力の対象として命を落とすことです。老死や病死と違って、何の予告もなしに突然愛する我が子を失うことは、安らかな死を与えられなかったこととして、決して認めることができないのです。なぜ死ななければならなかったのかという意味が納得できなければ、受け入れることができないのです。いなくなったという事実は、頭では理解できても、感情面で納得ができないのです。

 私は特に、愛する我が子を突然殺された両親に聴き取りをしてきましたので、その中のことでしかお話しできませんが、誰もが強い怒りを持っていました。「誰にも私の気持ちなど分からない。」「どうせ他人に何を言っても通じない」というような、不信感を伴った怒りです。突然、予期せぬ形で家族を失うことは、回復することのない大きな後遺症を残してしまいます。でも、直接被害者と関わりを持たれていない方は、テレビや新聞でそれを知ると、気の毒に思うけれど、時間が経てばだんだん楽になるのではないかと思われるようです。だから、最初は誰でも気の毒に思って、心配りをしてくれますが、何年か経つと、「もう終わったことなのに、いつまでそんなことを考えているの」という言葉に変わります。よく「辛いことは早く忘れたほうがいい」そうおっしゃる方がありますが、むしろ忘れたくないのです。子供がこの世に生きていた証を、いつまでも心の中に残しておきたいのです。夫婦でも、悲しみ方や立ち直り方が違います。自分の感情を抑え、我慢している人ほど、「自分はこんなに頑張っているのに」と相手を責めてしまう例もあり、夫婦の危機さえよくあることだと聞きました。でも、決して終わることはないのです。

 私は、1年ぐらい経って宗教的な行事も一段落した頃、薬がなければほとんど眠れなくなりました。布団に入ったら、事件後の様々なことが、毎晩毎晩、鮮明に再現されてしまうのです。苦しみは、眠る時だけではありません。春の夜、生暖かい風に吹かれた瞬間、宮崎の病院の玄関先で泣いていた自分がそのまま蘇ってきます。町中で、塗装工の人がよくはいている、裾が異様に広がったズボンを見ると、背中が凍りついて動けなくなりました。宮崎で会った加害者の姿が目に焼きついているのです。

 センセーショナルな事件ほど世間の興味を引き、マスコミの取材も過熱します。テレビをつければ、ニュースで家族の死が報じられていることもあります。家の周りにはマスコミの人たちが張り込んでいて、洗濯物さえ干せない状態になります。買い物に出れば、「ほら、あの人がそうよ」とひそひそ話が露骨にされるのです。心ない噂だけが独り歩きします。また、少し顔見知りであれば、「大変やったね。どう?」と話しかけられてしまいます。周囲には冷静に見えても、心の動揺を隠して、緊張しながら、身構えた行動を無理してとっているのです。

 そんな時、人にかけられた不適切な言葉に心が傷ついてしまいます。落ち込んでいるだろうから、何とか元気になって欲しいと、慰めようとされているのは分かります。「頑張りや」「元気になりや」とエールを送られます。けれども、その時は、生きることさえ必死に頑張っているのです。これ以上、誰に対して、何に対して頑張ればよいのか分からなくなるのです。「頑張れ」はしんどい言葉です。それから、「思ったより元気やん」と言われる方もありました。時には、「自分の知っている人にこんな不幸な人もいたけれど、元気になった」と、他人の例を出してきてお説教を始める人もいました。心のない言葉かけは、余計に辛いだけでした。

 顔見知り程度なら、こちらが何も言わない限り、事件のことには一切触れていただかないほうが楽なのです。友人と思えばこそ、事件のことを話題にしなくてはならない時があります。そんな時、「どうしてそんなところにいたの?」とか、「何でそんなことをしたの?」と質問されます。起こってしまった結果を問い詰められているように感じます。責められているように感じて、話せなくなってしまうのです。「何で」という言葉は、責めの言葉です。

 犯罪被害者や遺族になるということは、心に大きなショックを受けた状態です。第三者的な言葉は、一見公平に映りますが、被害者の気持ちを理解しようとしてはいないように感じます。ひがみや被害妄想のように受け取るほど、エネルギーがなくなるのです。そんな人には二度と会いたくないほど、恨みとして残るのです。

 けれども、人間関係で傷ついた人は、人間関係でしか取り戻せないのです。お話をさせていただくと、「じゃあ、被害者の遺族にはどんな言葉かけをしたらいいのですか?」とよく聞かれることがあります。被害者の遺族が大声で泣いたり、わめいたりしているのを見た時、慰めようとか、何かを言ってあげなくてはならないと思うのはなぜでしょう。人は、辛いことから逃げたいと思うのが心情です。「何かを言ってあげなくてはならない」と思うのは、その言葉で自分の気持ちを納得させるために使おうとしているのではないでしょうか。もし自分のことならどうでしょう。逃げ出すことなんてできません。怒りや悲しみで、言葉など出ないのではないでしょうか。ただただ涙を流し、「つらいよ、悔しいよ」の言葉になるのではないでしょうか。他人のことでありながら自分の感覚になる。そんな感覚の人に出会えた時初めて、「この人なら、話しても分かって貰えるかもしれない」と感じます。

 希望を持って物事に取り組むポジティブな時ではなく、心のエネルギーが弱く、落ち込んでいる時は、かけられた言葉の中に、その言葉の使われ方の裏のメッセージを受け取ってしまうように感じています。先ほど、「頑張れ」はしんどい言葉だと言いましたが、それは、その人が持っている以上の力を要求する言葉のニュアンスがあるように思うからです。「頑張る」という言葉を使ってはいけないと言っているのではないのです。「頑張ってください」と言われると、「あなたは頑張りなさい。私は頑張りません」と聞こえるのです。けれども、「一緒に頑張りましょう」と言われると、その言葉の中に、「私も精いっぱいのことをします」というメッセージが含まれています。

 人の心に寄り添うというのは、相手と自分が話している内容に対して、別の位置や立ち位置になるのではなく、同じ場や位置を共有することではないかと考えています。例えば、「もう死にたいわ」と言われた時、それを受けて、「死んではいけません。残された人が悲しみますよ」と答えるよりも、「死にたいほど辛いですよね」と、同じ場や位置から物を見て欲しいと願っていることだと思うのです。

 腫物に触るようなピリピリした態度は、返って気持ちを重くさせてしまいます。同じ気持ちになってもらっていると感じたら、言葉遣いが少々ぎこちなくても、気持ちは十分通じると思います。言葉の持つ力は大きいのですが、それ以上に、気持ちが優先するのではないかなと考えています。だから、言葉遣いだけを神経質に考えるのも適切ではないかと思います。被害者の気持ちになるということは、一緒になって加害者の悪口を言ったり、被害者の味方をして個人的な感情を出して欲しいと要求しているのではなく、「本当に辛くて悲しいのだな」と、その感情を受け入れることだと思うのです。十分な配慮をすることはもちろん必要ですが、接する時は身構えないでほしいのです。

 犯罪被害者だから特別な制度が欲しいのではなく、今ある制度をどう利用できるか、一緒に考えてくれる人が欲しいのです。犯罪被害者支援の第一歩は、被害者の言葉を聴く姿勢からだと思っています。一般の方が積極的な支援を考えると、何をしてよいのか思いつかないかもしれませんが、一人ひとりが傍観者ではなく、関心を持ち、理解を深めることが、安心で安全な町づくりになると考えています。「もしかしたら、私も明日被害者になるかもしれない」というお気持ちが、支援に繋がるのではないでしょうか。そして、被害者に身近なところで支援が行われれば、被害者のニーズに的確に応えられたり、継続的な支援が可能になります。被害者の孤立を防ぎ、被害からの回復を支援するためには、地域ぐるみでの支援こそが大切だと思っています。

 犯罪被害者は特殊な人ではなく、ご存じのように、ごく普通に生活していた一般的な庶民です。ショックの余りに、日常の生活にも困難を来してしまいます。例えば、カレーを作る材料さえ思い出せなくなった人がいました。ホウレンソウの湯がき方も分からなくなりました。出掛けたら、いつも歩く道なのに、帰る道順が分からなくなった方もおられました。感覚がなくなって、暑いのか、寒いのかさえ感じなくなってしまいます。それは、珍しいことではないのです。私が聴き取りをさせていただいたほとんどの方が、そのように言っておられます。

 本当に助けになるのは、「同じ気持ちになって、直接手助けしてくれる人がありがたかった」と話されています。的確で具体的な、顔の見える援助です。もちろん親戚の方や親しい友人がおられますが、葬儀の時など、マスコミからの取材を地域の自治会の会長さんが一手に引き受けてくださり、それに煩わされることなく、助かったという話を聞きました。料理をいつも作り過ぎてしまうからと、度々食事を運んでくださったことも助かったそうです。生活を困難にさせている問題には、福祉的な日常生活援助のような支援が、事件直後には特に必要だと考えています。自分の状態に関心を持ってくれる相手がいると思うことで、人との信頼関係を取り戻し、生きる力を得ることが、回復に向かえるのだと私は思っています。

 私は、被害者遺族の一人であって、被害者を代表する者ではありませんが、制度的に考えて欲しいこともあります。事件後、支給された障害者基礎年金は、道暁が亡くなってから、社会保険業務センターから「賠償金が出たならお金を返せ」という意味に取れるはがきが、2ヶ月に一度来ました。裁判中で、しかも賠償金の見込みがないとの書類を提出しましたが、その書類を作るために、膨大な領収書を紙に貼り、証明しなくてはなりませんでした。精神的に大変辛い時期には、苦痛でした。

 また、犯罪被害者等給付金の受給にも、長い時間がかかりました。申請したのは平成9年で、お金が下りたのは平成13年でした。申請すると間もなく、警察の方から、「加害者から賠償金は支払われましたか?」という問い合わせの電話がかかってきました。「私に聞かずに、加害者に問い合わせてください」と答えるしかありませんでした。治療費も支払われず、毎月、夫の給料を全て病院側に払っている状態の中で、警察からは、加害者への電話のほうがよっぽどありがたいと思ったのです。また、犯罪被害者等給付金は、障害給付金と遺族給付金の二つに分かれています。最初、障害のほうに申請していたのが、下りる寸前に亡くなったため、また遺族のほうに申請の手続きをしなくてはなりませんでした。

 そして、日本の法律では、被害者の医療費などを全て被害者側が支払い、賠償請求を行って初めて、加害者は賠償しなくてはならない立場にあるということが理解できる構造になっています。しかも、民事裁判で争って賠償額が決定されても、加害者が全額賠償するとは限っていません。被害者の医療費、生活費、回復に必要な費用は膨大です。私は、被害者の回復に関わる諸費用の全額を国費で立替払いをして、それを国が加害者に請求する制度ができたらありがたいと思っています。被害者に負担をかけないことが、一番の被害者支援ではないでしょうか。

 被害者や遺族が被害から回復する時、司法や社会が壁になるのではなく、支える社会であって欲しいと願っています。これからも、どうぞ犯罪被害者の問題に関心を寄せていただけますよう、お願い申し上げます。ご清聴ありがとうございました。
 

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