11月25日~12月1日は犯罪被害者週間

「犯罪被害者週間」国民のつどい 熊本大会

議事内容

あいさつ

東 良信(内閣府審議官)

 内閣府審議官の東です。平成19年度「犯罪被害者週間」国民のつどい熊本大会の開催に当たり、一言ご挨拶申し上げます。本日は、基調講演やパネリストをしていただく有識者の方々をはじめ、多くの皆様方にご参列いただき、誠にありがとうございます。

 さて、国民の誰もが安心して暮らせる社会を実現するためには、犯罪を予防するにとどまらず、不幸にして犯罪被害にあわれた方々に対し、再び平穏な生活を営むことができるようになるまで、途切れることなく、支援を続けられるようにすることが重要です。

 政府は、「犯罪被害者等基本法」に基づき、犯罪被害者等の権利利益の保護が図られる社会の実現のため、平成17年12月、「犯罪被害者等基本計画」を閣議決定し、各種の施策を総合的かつ計画的に推進しています。

 基本計画に盛り込まれた258の施策のうち、ほとんどが既に実施されており、本年には基本計画に基づき設置された3つの検討会の最終取りまとめや、刑事訴訟法等の改正がなされるなど、施策は着実に実施されています。

 また、基本計画におきましては、基本方針として、「国民の総意を形成しながら展開されること」、重点課題として「国民の理解の増進と配慮・協力の確保への取組」が掲げられています。そして、集中的な啓発事業などの実施を通じて、犯罪被害者等が置かれている状況などについて、国民の理解を深めることを目的とし、基本法の成立日である12月1日にちなんで、毎年、11月25日から12月1日までが、「犯罪被害者週間」とされました。

 2回目となる本年度は「悲しみを希望にかえる社会のささえ」を標語として、様々な広報啓発活動を行っています。

 この「犯罪被害者週間」国民のつどいは、犯罪被害者週間の中核的な行事として、国民が犯罪による被害について考える機会として開催するものであります。この熊本大会は4つの地方大会の1つとして、内閣府、熊本県、社団法人熊本犯罪被害者支援センターとの共催により、開催しています。

 ここ、熊本県におかれましては、潮谷知事のリーダーシップの下、総合対応窓口の民間支援団体への委嘱など、行政と関係機関・団体などが連携しながら、意欲的に犯罪被害者等施策を推進してこられています。また現在、犯罪被害者等支援に関する取り組み指針を策定すべく検討しておられるとお聞きしています。このような熊本で国民のつどいを開催できましたことは、まことに喜びにたえません。

 本日は県民の方から寄せられた「いのち」に関するメッセージの表彰・朗読や、「いのち」の大切さをテーマとした講演・パネルディスカッションを行うほか、関係機関、団体によるパネル展示をご用意しています。これらを通じて、ご来場の皆様方には、犯罪被害者等の置かれている状況や犯罪被害者等の名誉・生活の平穏への配慮の重要性などについて、理解と関心を深めていただければ幸いです。

 最後に、犯罪被害者等の権利利益の保護が図られる社会が1日も早く実現されるよう、今後とも私どもは全力で取り組んでいくことをお約束申し上げ、私のご挨拶とします。

あいさつ

潮谷 義子(熊本県知事)(代読:金澤 和夫(熊本県副知事))

 皆さん、こんにちは。主催者の1人でございます、熊本県の副知事の金澤でございます。ここ3日、連休の間は本当に行楽日和と言ってもいい、いいお天気ですが、皆さんはご予定があったかもしれませんのに、今日こうしてお集まりいただきまして本当にありがとうございました。知事がご挨拶すべきところですけれども、今日は用事が重なっていまして、知事からの挨拶の代読をもって代えさせていただくことをお許しいただきたいと思います。

 本日は「犯罪被害者週間」国民のつどい熊本大会にご参加いただきましてまことにありがとうございます。この大会は、犯罪被害者やその家族、遺族が置かれている状況や、その名誉、平穏な生活への配慮の重要性などについて、国民の理解を深めることを目的として、昨年度から内閣府、都道府県等との共催で開催されております。今回、内閣府、熊本犯罪被害者支援センターと本県の共催により、九州で初めての開催となりましたことを大変喜ばしく思っています。

 熊本県では、犯罪の起きにくい安全で安心なまちづくりの推進を重点課題と位置付け、県民の防犯意識の高揚、地域における自主防犯活動の促進などに取り組んでまいりました。そのような取組みの成果もあって、熊本県における犯罪件数は、平成15年をピークに3年連続して減少してきました。しかし、それでも依然として、年間2万件を越える犯罪が発生しており、県民アンケート調査においても、「街頭犯罪、侵入犯罪対策の強化」が県民の関心度の高い項目の第1位となっています。

 県では今後も継続して警察、行政、地域が一体となって、安全・安心なまちづくりに取り組んでまいりますが、ある日、突然、凶悪な事件や事故に巻き込まれ、尊い命を奪われたり、心や体に傷を負わされるということは、誰の身にも起こり得ることです。また、新聞・テレビなどで、事件事故を目にしない日はなく、決して他人事ですませられることではありません。そして、被害者やその家族・遺族の多くは、事件そのものによる被害だけでなく、周囲の人たちからの偏見、無理解からくる二次的な被害を受けることも少なくありません。

 そのような現状を踏まえて、平成17年4月に、犯罪被害者等の権利、利益の保護を明示した「犯罪被害者等基本法」が施行されました。同年12月には、犯罪被害者などへの具体的な支援策を盛り込んだ、犯罪被害者等基本計画も策定され、国における施策の推進がなされております。熊本県においても、犯罪被害者等の平穏な日常生活への復帰、犯罪被害者等を支える社会環境づくり、そして、パートナーシップに基づく施策推進、この3つを重点的な課題および取組方針とした、「熊本県犯罪被害者等支援に関する取組指針」の策定を進め、本年度中の公表を予定しております。この指針の策定を契機に、施策の一層の推進を図っていきたいと考えています。

 本日の大会は、一行詩の表彰式・朗読、絵本作家の葉祥明さんによる講演、また犯罪被害者で遺族の酒井肇さんをお招きしたパネルディスカッションを予定しています。様々な角度から、命の尊さを再確認する機会としていただきたいと考えております。さらに、本大会を契機として、県民の皆様が、犯罪被害者等の置かれた現状や支援の必要性について理解を深め、地域全体で被害者等を支える社会が実現しますことを祈念いたしまして、私の挨拶とさせていただきます。

 平成19年11月25日、熊本県知事、潮谷義子。
 以上代読でございました。どうかよろしくお願いします。

あいさつ

横内 泉(熊本県警察本部長)

 皆様こんにちは。ただ今ご紹介いただきました熊本県警察本部長の横内でございます。「犯罪被害者週間」国民のつどい熊本大会が開催されるにあたり、一言ご挨拶を申し上げます。まずもって、本大会の開催に向け準備を進めて来られました関係各位のご努力に対し、敬意を表しますと共に、本日の開催を心よりお喜び申し上げます。また、本大会に参加されました皆様方には、日ごろから警察の被害者支援活動を初め、警察活動各般にわたり、深いご理解とご協力をいただき、この場をお借りして厚くお礼申し上げます。

 ご案内のとおり、全国的に殺人や強盗をはじめ、子どもが被害者となる事件や、少年による社会を震撼させる事件が相次ぐなど、治安情勢は依然として厳しい状況にあり、県警察といたしましては、地域や民間ボランティア団体等の皆様と連携し、治安回復に向けた諸対策を強力に推進しているところであります。

 一方、思いがけず犯罪被害に遭われた方々に対しては、被害者の方に思いをいたしつつ、再び平穏な生活を取り戻していただくため、「犯罪被害者等基本計画」を踏まえながら、より一層被害者の方々のニーズに応え得るよう各種施策を積極的に推進しているところであり、具体的には被害者の方が最も支援を必要とする、被害直後における精神的負担の軽減を図るため、刑事手続きの流れや、相談窓口等を盛り込んだ被害者の手引きの交付をはじめ、病院等への付き添いやカウンセリングのほか、必要な情報を提供することによる不安感の解消などきめ細かな支援に努めているところであります。また、性犯罪の被害者に対する緊急避妊等にかかる経費や検査費用を公費で負担するなど、被害者やご遺族の経済的負担の軽減にも努めているところです。

 現在、国レベル、県レベルでの被害者支援の取り組みが急速に進んでいるところでありますが、先般、警察本部で開催した被害者支援研修会におきまして、先進的な取り組みをされている東京都杉並区役所の方から講話を伺い、あらためて地域住民に最も身近な存在であります市町村の果たすべき役割の重要性を痛感すると同時に、今後ますます国、地方公共団体、県民が一体となり、社会全体で被害者を支えるシステム作りと機運の盛り上げを図っていくことが必要になってくるものと考えるところでございます。

 そのためには、まずは、県民一人ひとりが犯罪の被害に遭われた方の声に耳を傾け、被害者の置かれた状況、心の痛み、命の大切さ、尊さ、支援の必要性等について理解を深めていくことが重要であり、それが社会全体で被害者を支える機運の醸成につながり、犯罪を許さない、また犯罪を犯してはならないという、安全で安心して暮らせる地域社会の形成にも重要な意義を持つものと考えます。そのような意味から、「犯罪被害者週間」国民のつどい熊本大会は、命の大切さについて考え、社会全体で被害者を支える機運を盛り上げるための取り組みとして、大きな意味を持つと同時に、一行詩「いのちのうた」コンテストは、全国をリードする1つのモデルとして、素晴らしい企画であると思います。

 県警察といたしましては、今後とも県内唯一の被害者支援のボランティア団体であります熊本犯罪被害者支援センターをはじめ、自治体、関係機関、県民の皆様とさらに連携を深めて、それぞれの役割分担を踏まえた、きめ細かで、途切れのない被害者に対する支援を進めてまいりたいと考えています。

 最後になりましたが、本大会が明日を担う若者にとって、被害者への思いやりの心をはぐくみ、また熊本県における被害者支援活動のさらなる飛躍につながる契機になりますことを祈念いたしまして、私の挨拶とさせていただきます。どうもありがとうございました。

あいさつ

稲垣 精一((社)熊本犯罪被害者支援センター理事長)

 ただ今、ご紹介いただきました稲垣でございます。今日は内閣府、熊本県と共催で「犯罪被害者週間」国民のつどい熊本大会を開催しましたところ、かくも多数ご参集いただきまして、まことにありがとうございました。心から感謝申し上げる次第でございます。これまで、犯罪被害者週間のキャンペーン事業というものは、私どもセンターの単独事業で行ってきましたが、本年度は内閣府および熊本県と共催による、「国民のつどい」熊本大会ということで、非常に大きな形での開催となりまして、「犯罪被害者等基本計画」が具体化される時期を迎えて、まことに喜ばしいことであると考えています。本日は内閣府の東審議官様はじめ、県の金澤副知事様、また横内県警本部長様には、大変ご多用中にもかかわらず、ご出席いただきましてまことにありがとうございます。

 先ほど来、お話がございましたように、昨年から「犯罪被害者等基本法」の成立した日であります12月1日以前の1週間、つまり11月25 日から12月1日までを「犯罪被害者週間」と定められて、全国の犯罪被害者支援団体等が、被害者が置かれている状況であるとか、社会全体による支援の必要性を広く国民の皆様にご理解していただくために、集中的に広報・啓発活動を推進しているところでございます。

 本県では、その一環として、昨年に続いて、「心の声が聞こえますか~未来へつなぐ命のことば~」をテーマに、一行詩「いのちのうた」募集を行いました。一般の方も含め、小中高校生の皆さんから約4000編ものご応募をいただきました。ご協力、大変ありがとうございました。皆様方には心からお礼を申し上げる次第でございます。この後、5名の審査員の先生方に選考をいただきました優秀作につきましては、表彰を行わせていただきますが、いずれも素晴らしい作品ばかりでございます。第2部では、熊本ご出身の絵本作家・葉祥明様に「命の大切さ、尊さ」をテーマに講演をお願いしております。人の命が簡単に奪われる現実のなかで、私たちは葉先生の話から、前向きに生きる喜び、そしてやさしい思いやりの心を学びたいものです。そして、第3部のパネルディスカッションでは、大阪池田小学校の殺傷事件被害者の遺族でございます酒井肇様と葉先生を中心に、熊本県やセンターからも加わりまして、命の大切さ、尊さなどを語り合っていただき、そして犯罪被害者やその家族に対し、私たちに何ができるのかを考える契機を与えていただければというふうに思います。

 ところで、熊本犯罪被害者支援センターは、熊本県公安委員会から犯罪被害者等早期援助団体の指定を受けまして、より早い段階から直接的な支援活動に取り組んでいますけれども、今後も被害に遭われた方々や、遺族・家族の皆様方のニーズに沿って、精神的、身体的、経済的な負担の軽減に努めますと共に、支援の幅が広がるように効果的な活動の推進を図ることにしております。

 最後になりましたが、本事業の開催に当たりまして、ご指導、ご支援、ご協賛をいただきました内閣府をはじめ、関係機関の方々に対しまして厚くお礼申し上げますと共に、今後ともご支援、ご協力のほどをお願いいたしまして、本日のご挨拶とします。どうもありがとうございました。

第1部

一行詩「いのちのうた」表彰式・朗読

(司会)

 皆様、お待たせしました。それではこれより第1部、第4回一行詩「いのちのうた」表彰を行います。受賞者の皆様は壇上にお上がりください。

 熊本犯罪被害者支援センターでは「心の声が聞こえますか~未来へつなぐ命のことば~」をテーマに、一行詩「いのちのうた」の募集を行いました。小学生の部932編、中学生の部2017編、高校生の部602編、一般の部405編、合計3956編ものご応募をいただきました。各部門で最優秀賞1編、優秀賞3編、入選10編、および学校賞3校を決定しています。本日は、最優秀賞、優秀賞、学校賞の方々に表彰状と副賞を授与いたします。表彰状の授与は熊本犯罪被害者支援センター理事長稲垣精一が行います。なお入賞作品は、ご入場の際にお配りしたプログラムに掲載していますので、ぜひお手元でご覧いただければと思います。

 まずはじめに、小学生の部から表彰を行います。お名前をお呼びしますので、前にお進みください。小学生の部、最優秀賞、熊本市立城南小学校6年浦崎麻緒さん。続きまして優秀賞、水俣市立久木野小学校3年本井祐希さん。同じく優秀賞、熊本市立桜木小学校5年大野美沙希さん。同じく優秀賞、熊本市立本荘小学校2年竹下謡さん。以上4名の皆様です。おめでとうございます。代表して浦崎さんに前に出ていただきましょう。どうぞ、前にお進みください。表彰は稲垣理事長にお願いします。


(稲垣)

 表彰状。小学生の部、最優秀賞、浦崎麻緒様。あなたは、犯罪被害者週間キャンペーン事業、第4回一行詩「いのちのうた」コンクールにおいて頭書の通り優秀な成績を修められましたのでこれを賞します。平成19年11月25日、社団法人熊本犯罪被害者支援センター理事長、稲垣精一。ありがとうございました、おめでとうございます。


(司会)

 おめでとうございます。以上小学生の部、優秀作品の皆さんでした。大きな拍手をお贈りください。ではお席にお戻りください。

 続きまして、中学生の部の表彰です。お名前をお呼びしますので、前にお進みください。最優秀賞、八代市立第七中学校3年中道拓也さん。優秀賞、八代市立第七中学校1年拾雄千佳さん。同じく優秀賞、宇城市立不知火中学校1年新里麻実さん。同じく優秀賞宇城市立松橋中学校3年松田知実さん。以上4名の皆さんです。代表して、中道さんに表彰をお受けいただきます。理事長、よろしくお願いします。


(稲垣)

 表彰状。中学生の部、最優秀賞、中道拓也様。あなたは、犯罪被害者週間キャンペーン事業、第4回一行詩「いのちのうた」コンクールにおいて頭書の通り優秀な成績を修められましたのでこれを賞します。平成19年11月25日、社団法人熊本犯罪被害者支援センター理事長、稲垣精一。おめでとうございます。


(司会)

 おめでとうございます。この4名が優秀作品の皆さんです。大きな拍手をお贈りください。それではお席にお戻りください。

 続きまして高校生の部の表彰です。お名前をお呼びしますので、前にお進みください。高校生の部、最優秀賞、熊本県立北稜高校3年飯塚瑠美さん。続いて優秀賞、熊本県立松島商業高校2年池上裕馬さん。同じく優秀賞、慶誠高校3年永野ともみさん。同じく優秀賞、北稜高校3年西裕美さん。本日、西さんはご都合により欠席となっております。以上の4名の皆様おめでとうございます。では、高校生の部を代表して、飯塚さんにお受け取りいただきます。稲垣理事長、よろしくお願いします。


(稲垣)

 表彰状。高校生の部、最優秀賞、飯塚瑠美様。あなたは犯罪被害者週間キャンペーン事業、第4回一行詩「いのちのうた」コンクールにおいて頭書の通り優秀な成績を修められましたのでこれを賞します。平成19年11月25日、社団法人熊本犯罪被害者支援センター理事長、稲垣精一。おめでとうございました。


(司会)

 おめでとうございます。優秀作品の高校生の皆さんです、おめでとうございます。お席にお戻りください。

 続きまして、一般の部の表彰です。お名前をお呼びしますので前にお進みください。一般の部、最優秀賞、八代市岩田喜美子さん。続いて優秀賞、合志市山下幸子さん。同じく優秀賞、熊本市吉永文さん。同じく優秀賞、熊本市吉田龍馬さん。以上の4名の方々です。一般の部を代表して岩田さんにお受け取りいただきます。稲垣理事長、お願いします。


(稲垣)

 表彰状。一般の部、最優秀賞、岩田喜美子様。あなたは、犯罪被害者週間キャンペーン事業、第4回一行詩「いのちのうた」コンクールにおいて頭書の通り優秀な成績を修められましたのでこれを賞します。平成19年11月25日、社団法人熊本犯罪被害者支援センター理事長、稲垣精一。おめでとうございました。


(司会)

 おめでとうございます。一般の部、優秀作品の皆様でした。今一度大きな拍手をお贈りください。それではお席にお戻りください。

 続きまして、学校賞の表彰です。「いのちのうた」の応募に積極的に取り組んでいただきました、小学校、中学校、高等学校から各1校ずつ3校を選定いたしました。お名前をお呼びしますので、代表の先生、前にお進みください。まずはじめに、水俣市立久木野小学校。続いて、氷川町立竜北中学校。続いて、熊本県立松島商業高等学校。以上の3校です。代表して久木野小学校の高橋先生にお受け取りいただきます。稲垣理事長、お願いします。


(稲垣)

 表彰状。学校賞水俣市立久木野小学校様。あなたは犯罪被害者週間キャンペーン事業、第4回一行詩「いのちのうた」コンクールにおいて頭書の通り優秀な成績を修められましたのでこれを賞します。平成19年11月25日、社団法人熊本犯罪被害者支援センター理事長、稲垣精一。おめでとうございました。


(司会)

 おめでとうございます。学校賞をお受けになった、3校の代表の先生方です。今一度大きな拍手をお願いします。それではお席にお戻りください。以上が第4回一行詩「いのちのうた」の受賞者の皆様でした。どうぞ皆様、いま一度受賞された皆様に大きな祝福の拍手をお願いいたします。

 続きまして、審査員講評を行います。ここで、第4回一行詩「いのちのうた」の審査員の方々をご紹介申し上げます。まずはじめに、熊本県文化協会副会長、緒方惇様。そして、熊本県公安委員、武藤徳子様。葉祥明美術館理事長、葉山祥鼎様。熊本日日新聞社暮らし情報部次長、荒川直子様。本日は、荒川様は所用によりご欠席です。熊本県教育庁義務教育課教育審議員、緒方明治様。

 本日は、審査員を代表していただきまして、熊本県文化協会副会長で詩人の緒方惇様に審査の講評をお願いします。緒方様、どうぞよろしくお願いします。


(緒方)

 どうもこのテーブルが好きじゃないんです。首だけ出る感じで。失礼します。熊本犯罪被害者支援センターでは、県下の小学生、中学生、高校生、そして一般の方たちから一行詩「いのちのうた」を募って、今年で第4回目になります。犯罪被害者、そしてその家族には、いつ、誰がその立場になるかわかりません。ですから、その方たちの気持ちを思いやる心と、少しでもその方たちを支えようとする、心からの一行詩「いのちのうた」と言えましょう。今年も、数千の応募がありました。でも、実は命というものは、まさに私たち一人ひとりに同じように1つずつしかないものだけに、かえって個性のあるうたを生み出すことは非常にむずかしいのです。それでも、今年もとてもフレッシュな思いやりに満ちた、しかも個性的な「いのちのうた」をたくさん読むことができました。例えば、小学校の最優秀賞の作品は、「耳をすまして聞いてごらん。心の声が聞こえてくる。一人一人のいろんな声」といううたです。この冒頭の、「耳をすまして聞いてごらん」ということは、それを聞いたり読んだりした途端に、私たちは心をすませて聞いてしまいますね。小学生ですが、素晴らしい導入部だと思います。

 また中学生の方のは、「顔がちがう。声がちがう。性格がちがう。でも、命の尊さはいっしょだよ」も、それから高校生の「のびのびと育ててください あなたしか咲かせることのできない花だから」も、小、中、高校生と、みんなそれぞれに命をうたいながら、ちゃんとその学年らしい素直な、しかもオリジナルな「いのちのうた」になっているのです。一般の部の方々の応募もたくさんありました。こちらはやはり、命にまつわる悲しみとか、苦しみとか、あるいは思いやりの考えがにじみ出しているものが多く、共感しました。命、そして犯罪被害者やその家族の方々の思いを一行の詩「いのちのうた」をうたおうとすることによって真剣に考えようとすることになったのだと思います。一行詩「いのちのうた」は命の言葉を紡ぐことにほかなりません。雑り気のない美しい命の言葉のうたを、どうもありがとうございました。


(司会)

 緒方様、ありがとうございました。以上をもちまして第4回一行詩「いのちのうた」表彰式を終了いたします。この後引き続き、第4回一行詩「いのちのうた」入賞作品をご紹介してまいります。


(司会)

 お待たせいたしました。準備が整いました。それではこれより第4回一行詩「いのちのうた」優秀作品をご紹介してまいります。ご紹介いただきますのは、フリーアナウンサーとしてご活躍の小出史さん。ご紹介に合わせてピアノを演奏いただきますのは、中田由希子さんです。本日は、中田さんのオリジナルの楽曲を演奏していただきます。また、正面中央のスクリーンには、この後、第2部でご講演いただきます、葉祥明さんの絵をバックにして、今回受賞されました作品をご覧いただきます。それでは小出さん、中田さん、よろしくお願いいたします。


(小出)

 (小学生の部)

 「耳をすまして聞いてごらん。心の声が聞こえてくる。一人一人のいろんな声。」。
 「いつもケンカばかりの妹弟たち。おこってばかりのお母さん。だけど、いなくなったら悲しいさみしい。」。
 「知っていますか。人の命をうばったことは、自分の命をなげだしたことと同じなのです。」。
 「おかあさん、おとうさん、新しいいのちをありがとう。いもうとのおせわ、おまかせください。」。

 (中学生の部)

 「顔がちがう。声がちがう。性格がちがう。でも、命の尊さはいっしょだよ。」。
 「夢や希望を見つけてください。きっとあなたが生きる力になります。」。
 「命それは… たったひとつのいのち かけがえのないいのち ともに生きるいのち」。
 「もっと笑って もっと怒って もっと泣いて。もっと、生きてることを実感して。」。

 (高校生の部)

 「のびのびと育ててください あなたしか咲かせることのできない花だから」。
 「『大丈夫?』その一言が、わたしの命を救いました。」。
 「同じ子供なのに 世界中を見わたせば 銃を持っている男の子 その子の夢はどこに」。
 「望まれずに生まれた命… いつか必ずあなたが生まれてきたことを喜んでくれる人に出会える。だから生きて。」

 (一般の部)

 「かけがえのない命 季節ごとに思い出は限りなし」。
 「庭の鈴虫の声 梢の鳥の声 子どものはしゃぐ声 今日も響く 我が家の命の大合唱」。
 「また会える また話せると思って とっておいた笑顔も言葉もあったのに」。
 「『おぎゃー』たった今から父になる。オマエは俺が守ってやるけん。」。


(司会)

 ありがとうございました。朗読は小出史さん。ピアノは中田由希子さんでした。今一度大きな拍手をお送りください。以上で第1部、第4回一行詩「いのちのうた」表彰式・朗読を終了いたします。

第2部

講演「未来へつなぐ命のことば」
葉 祥明(絵本作家)

 こんにちは。すばらしい入選作品の数々でした。背景の絵もいいなと思って。これも自画自賛という言葉がありますが、胸がすーっと、心がすーっとするような絵でした。今回の催し、長丁場でいろいろ深いところから問題がありますから、僕のコーナーではすこしくつろいでいただければと思いました。

 どのような仕事をして、どのようなことを皆さんにメッセージを伝えてきたか。スライドでもう一度絵を見ていただきます。その後、お話して、それから最後に癒やしの一時と。僕、講演会ではこの最後の5分間の癒やしの一時が大変に好評です。今日いらっしゃる皆様、それぞれいろいろな思いがあると思いますが、講演の後はすっきりお目覚めのようにいい気持になれればと思います。それでは早速始めましょう。もう一度美しい絵を見ていただきましょう。

 (スライド上映開始)

 これは阿蘇にある絵本館です。僕の絵のような世界です。ですから、僕の絵の中に入れる。見るだけで心が安らぐのですが、中へ入ってこの道を歩きますと、心身が健康を取り戻します。近いですから、一度お訪ねください。

 これは北鎌倉にある美術館です。美術館というより、いわば心の病院、心の癒やしの場というふうに思っております。
 絵の世界ではイマジネーションが自由自在です。これは銀河の中心です。宇宙規模です。人の心の中にも外側にも宇宙が広がっている。こういう日々、様々に思い悩むことが多いわけですが、心を大きく持つということも必要ではないかというふうに思います。

 先ほどから何度も出ましたが、広い空と緑の大地、そこに家がポツンとある。こういう大きな景色をぽけーっと見る。これが日々疲れた方にとてもいい一服の清涼剤になると思います。
 さて、今日のテーマの一つが言葉です。僕は詩を二十歳過ぎてずーっと書いておりますが、ポエムとは違う、なんか言葉がやってくるようになりました。その一つです。子どもは世界の宝です。動物たちは地球の宝です。もちろんあなた自身もこの世の宝です。人はこのことを忘れてはなりません。我々はみんなこの地球という惑星の上に住んでおります。そこに戦争、犯罪、紛争、エコロジー、平和、様々なことが起っております。そんななかで我々人類にとって希望は、未来は子どもです。まさにお宝です。熊本弁でもお宝、お宝と子どものことを言います。そして、人間だけではない、この地球上には動物たちもいます。この多くの動物たちと共に、この豊かな自然の中で生きているのが人間です。

 そして、この子どもたちや動物たちだけではない、成長してお歳をお召しになられた皆さん自身も、この地球の宝だということです。宝物ならば貴重品です。美しい、そして大切にしたいものです。守りたいものです。この地球の宝の一つであることを自覚して、自分はそうだということならば、他の人もみんな一人ひとりが宝物だと。トレジャーと言いますね。世界遺産という言葉がありますが、この地球上の宝物だという自覚を一人ひとり、子どもの時から持ってもらいたいなと思います。

 「あなたは今日微笑みましたか。喜びを感じましたか。やさしい心になりましたか。そして美しいものに心を向けましたか」。この言葉は僕が仕事やその他のことで忙しくて、心がすっかり疲れているとき、ふっとやってきました。「僕は微笑んだろうか」。微笑みが出てないな、最近。「喜びは?」。そう、喜ぶどころじゃなかったな。忙しい、体調が悪い。そして、「やさしい心だったか」。そうだね、ギスギスしてたんではないだろうか。やさしい気持でいろんなものに接しなかったのではないかと思いました。そして、最後にだめ押し、「美しいものに心を向けましたか」。絵を描き、絵本を描いている僕にとって、美というのは特別な、大切なものです。そういう世界にある青空、夜空、お月様、夕日、草木という美しいものに、「ああ!」と感動したり、目を向けたか。向けなかったな。まず、この言葉たちに僕自身が慰められ、勇気づけられ、叱られている。そういう気がします。これを皆さんにも我がことのように思って見ていただければと思います。

 そして、そのような人生上の世界の心のあり方、生き方、愛、幸福というものに関しての言葉が、この10年ぐらいの間にたくさん浮かぶようになりまして、それらを本にしております。これは逆でなかなか読めないと思います。僕もちょっと読めないですね、スライドが逆転してますから。小さな、かわいらしい本です。日々の気づきのために、どうぞ見てみてください。

 それから、僕はエコロジー、戦争、平和、社会問題、医学、教育、様々な問題を考えております。考えざるを得ません。これ、すべて人間のなせるわざです。人間界における問題です。そのとき解決をどこからやるか。それぞれの分野で専門家の皆さん、関係者の皆さんが努力をしておられますが、僕はいったい何ができるだろうか。そのとき僕は一人ひとり人間だ、人間の心なんだ。今、働く女性が多いです。20代、30代、40代、50代、働いて。男性はもともと世間に出て働いて、いろんな病気をしたりしてますが、女性たちには健康で美しくあってほしい。そこで、この幸せ言葉。言葉です。幸せに、美しくなる、素敵な人になるための、誰でもが知っている言葉です。それをもう一度見て、意味をよく知って、身につけて、すばらしい人になってほしい。元気を出してほしいという思いで、この本は作られました。

 それから、「再び会う日のために」。長く生きていますと――と言っていいのかどうか、61なのですが、友人、知人、家族、愛する人、次々とこの世を去っていっておりますが、いつか自分もそうなります。しかしながら、死というものは永遠の別れではない。むしろ命や愛の絆は永遠だと。そこでこの世を去った人へ向けての気持を描きました。そして、この世を一時的に去った方々のこちらへのメッセージをこの1冊の詩集のような形で出しました。「フォー・リユニオン・デイズ」。ユニオンというのは大きく一つになるということですね。"リ"ですからもう一度。必ずもう一度会えるんだという希望。この希望を持っていきたいなというふうに思っております。

 それから、この本、「もう一度会える」。これは今日もこちらにいらしていただいておりますが、かつて池田小学校の事件がありました。8人の子どもたちが被害に遭われましたが、そのご両親たちの心中をお察しします。これを機会に僕は池田小学校の関係の方々に密かにこの本を捧げて作ったわけです。これはグリーフブックと言います。グリーフというのは嘆きです。嘆き、悲しむ。アメリカでは様々な出来事があったらば、それに対してすぐ処置をする。こういう本を作ったり、映画を作ったりして、その問題をみんなで考える。当事者たちはそれによって癒すこともできる。そういう表現手段というか、文化があります。グリーフブック、嘆きの本、嘆きを癒す本。この本は日本初のグリーフブックを作ろうというわけで、まさに具体的には池田小学校の関係者の皆様、あるいはその他、様々な理由で幼い子どもを亡くした方々のための嘆きを癒す本として作られました。とても美しくて、やさしい本。これもまた自画自賛ですね。手にとりたくなるような、胸に抱いていたくなるような、感触もそうです、柔らかい色彩と柔らかい紙で作られております。

 「光の世界」というタイトルにはふさわしくなくて、スライドがちょっと暗いのですが、本当はとてもきれいな色です。ティファニーという宝石屋さんがありますが、そこの包装紙の色とよく言うんですが、ミントブルー、食べるとミントの匂いがするような、そういう表紙です。ほわーっと卵型に光っているのは命です。あるいは愛です。光の世界とは、いわばこの世ではない世界、あちらの世界、死とかあの世と言うと、暗い、怖いイメージです。とても悲しい。それは違う。むしろ、僕は最近思うのは、この世を去るということは、若くても老いてもですが、僕はこの世の卒業というふうに思っています。幼稚園から小学校、小学校を卒業すると中学生になる。中学生の次が高校。そのようにこの世という学校を卒業したんだと。その卒業するときの仕方が様々である。早いか遅いか、そういうふうに思います。

 ならば、我々が今小学校にいるとすれば、じゃあ、中学校ってどういうところなんだろう。高校ってどういうところなんだろう。何をきっかけに、どういうことを小学校で学び終えたら卒業できるのだろうか。3年生で卒業する子もいるし、6年生で卒業する子もいる。いずれにしろ、ただ今現在、このホールにいらっしゃる皆さんはおそらく100年後にはどなたもいらっしゃらないでしょう。このようにすべての人がいつかはこの地球の現時点を卒業する。それは間違いのない事実です。その後、どうなるのか。この現実のなかで親子関係、友人、知人、愛し合った者同士が卒業の期日が違えば、二度と会えないのか。もう一度会うことはできないものか。そういうようなことをこの「光の世界」で描きました。

 そして、これはそういう心の内面の世界を描くと同時に、この世では今、世界各地で紛争、戦争が起っております。地雷の被害に遭われる方がたくさんいます。命を失う人、家族を失う人、手足を吹き飛ばされる人、その方々の支援のために、地雷撤去のためにこの絵本が作られました。新しいボランティアの形です。様々な活動、有意義な活動にこのように絵本出版と、そして絵や言葉でキャンペーンをし、メッセージを伝え、共感し合い、解決へ向けて心ある人が寄り集う。そういうことの媒介のために絵本が使える。そういうことの一つの例ですね。

 遡って行きました。もう35年経ちます。僕の最初の絵本作家としての出発点が「ぼくのべんちにしろいとり」でした。もう35年たちました。この間、様々に世界が変わりました。社会も。そして、僕は幼稚園、小学校、中学校の教科書の仕事もやるようになりましたが、多くの人に少なくとも言葉、ないしはこのようなやさしい絵を心に秘めて人生をおくっていただければうれしいなということで、心を込めて仕事をやってきた、というのが、駆け足の、僕がどういう人かということの説明でした。

 最後のスライドです。5時半から6時頃、空がコバルトブルーに染まります。そしてだんだんだんだん夜が始まります。この昼と夜の境目は神秘な一時です。野生動物は巣へ戻り、休みます。人間も本来はそうです。しかし、人間だけは巷の光、灯りに誘われてさまよい出たりするお父さんたちもいらっしゃるでしょうが、この静かな一時を大切にしたい。そういう絵です。

 そして、再び戻りました。実は先ほど一番最初に出た、阿蘇の絵本館の設計図はこれです。絵として描きました。そして、この絵をもとに設計図面を引いて、最初の写真のとおり、現実にできあがりました。芸術というのは、いや芸術に限らず、人類の文明・文化というのは、まず最初は形がない。ある人々の胸の中に、頭の中にイメージが湧く。そして、そのイメージも実現をするプロセスをたどってできるわけです。

 今回の犯罪被害者のこのような大会もそうですが、これはなんとかしたい、こういうものをつくりたい、こうなればいいなという思いが、誰かが、様々な人が思いはじめる。そして、その思いが寄り集まって、このような全国大会が行われる。組織ができ、法令化され、あるいは予算が組まれ、まさにこのテーマ、犯罪被害に遭われた方々の物心両面の末永い支援が社会的に認知され、できあがるというプロセス。まったくこれは芸術、あるいは絵本館ができたプロセスと一緒です。それの最初の基礎づくりではないかと思います。ありがとうございました。

 (スライド上映終了)

 改めて、今のような仕事をしてきた葉祥明と申します。熊本出身です。熊本へ帰ると、ふるさとに帰ったような気がすると言ってはおかしい。ふるさとへ帰ってきたわけです。そこですこしでも皆さんのお役に立てればと思って、今年はもう5~6回帰ってきましたでしょうか。毎年帰ってきて、こうやっておしゃべりをしております。

 今日のテーマ、まずは「命のことば」でした。先ほど一行詩「いのちのうた」の発表がありました。心打つ言葉の数々が入選されておりました。その言葉の数々が僕の絵とともにスライドに映されていて、これは1冊の本になるなというふうに思いました。出版社の方がどなたかいらっしゃれば、これはとても有意義な出版物になるのではないか。この犯罪被害という字面からいくと、すこし怖い感じがしていたのが、これでやさしい。そうだ、実は犯罪も被害も人間のことだ。人間の身体が被害に遭い、心が被害に遭うことなんだと。人間のやさしい、やわらかい部分をそーっと癒してくれる、そういう面もこのセンターの活動の中にあると思います。そういうものが行政に、社会的に反映されればいいような気がしました。

 そこで今日のこの長時間の中の僕の時間帯ではすこしくつろいでもらえればと思っておしゃべりをしております。「言葉」。言葉はコミュニケーションの手段、あるいは物事を説明する手段になっております。しかしながら、それ以上です、言葉は。命がある。エネルギーがある。日本には古来、言霊という言葉があります。言葉、言にはスピリット、霊が宿っている。それはまさにエネルギーです。それが人を動かす。人の心の深いところから、そのエネルギーが出て、相手に伝わるということです。

 昔は動作で、ジェスチャーで、あるいは「あああ」という言葉です。それがだんだん物に名前がつき、心のこういう気持はこういう言葉を使う。そして、それを並べて相手に伝える。美しく伝えれば、それはポエム、詩になる。あるいは巧みに説明できれば、それは散文、小説になる。そのほか、法律的な言葉もあります。医学的な言葉もあります。ですから、言葉をもっともっと大切にしたいと思いますが、この10年ぐらいの間に多くの人がそう思うようになりました。一つ一つの言葉が持つ力と意味をもっと知りたい。そういう風潮の中で、今日のこの「いのちのうた」一行詩がたくさんの応募があって、どれもこれもが心の思いを言葉によって美しく、あるいは胸を打つ表現がなされている。まさに僕自身の仕事がそうでした。しかし、もう僕自身の仕事を超えて、多くの人が日常生活の中で表現力を身につけてきているなと。この表現力を身につけるというのはすごく重要です。

 犯罪にいくつか原因があります。それは物欲、怒り、暴力、恨み、人間のいろいろな思いの部分で――実は子どものときに自分が何かを感じる、何かを見たときに、怒ったときに感じる。それが何なんだ。この思いは何なんだ。これは怒りなんだよ。憎しみなんだよ。あるいは正義と不正義、その違い。そういうものを言葉で表現する。そして、それを相手に伝える。この気持を伝える表現手段、表現技術を身につける。そのために国語というものがあります。国語教育と言うと硬くなりますが、それはやはり自分の思いを相手に伝える技術だということです。それを学校教育で一応なされてはいますが、もっとそれを上手に使いたい。それからとげとげしくなく伝えたい。心を込めて伝えたい。そういうとき芸術、文学というものが役に立ちます。文学作品、詩集を読む。そうすると、同じことが、こう言えば相手に伝わらない。あるいは間違って伝えられる、あるいは相手が怒るかもしれないことが、このように伝えると、相手にすーっと入っていく。よく伝わる。そういうもののために、僕は国語教育がもっと文学性、芸術性を教えてくれればいいなと思います。

 それから、ドラマとか映画もそうです。映画は何かの出来事が誰かと誰かに起ります。そのとき、脚本家がいて脚本を書きますから、通常の会話と実はちょっと違う。脚本家のフィルター、その人の言葉の持つニュアンスとか表現力を通して、その主人公なり出演者なりの立場にふさわしい言葉になるのですが、それも技術、巧みです。ですから、映画をおもしろおかしいものだけでなく、こういうとき、こういう人たちが相手にこういうことを言うんだ。セリフです。セリフというのはただ言ってるのでなくて、今言ったように脚本家が練って練って、このシチュエーションの場合はこういう表現をする。そうすると相手がこう感じるから、というところまで考えている。そういう大変余裕がある。磨いている、専門家が。

 実はそれが皆さん一人ひとりに身につけば、暴力という手段に訴えなくても、もっと思いを伝えることができる。街で、駅で、電車の中で様々な小競り合いがあります。東京に住んでいるのですが、年末近づくとやっぱりそうです。お酒も入りますし、夜遅くの電車の中で様々なことが起ります。実際、年末でなくても、駅の職員の皆さんがずいぶん被害に遭われてるし、お客様もそうです。キレる人が増えてきた。大人の、男の人もキレてきた。本来、男性というのは学校を出ますと、上役とか、職場とか、様々な人たちの指導によって、社会訓練ができていく。女性や若い人たちはその社会訓練の前に止めおかれていた。しかし、今は社会に出る人たちが多くなってきたので、社会的訓練がとても必要になってきておりますが、この社会的訓練を10年20年30年受けてきたはずの40歳、50歳、60歳、70歳の男性、お父さんとか、あるいはおじいちゃんがキレる人が増えてきた。中高年の男性がキレる。これは由々しき問題だということで、新聞にも記述がされております。

 そのとき、キレるにはワケがあります。様々なことがあるのです。これはお父さんたちだけではない。お母さんたちもそうだし、子ども、少年もそうです。キレる。キレるがキーワードです。キレるにはワケがある。体調の問題もあるし、シチュエーションの問題もあるし、それから繰り返してきた日々の中の鬱積したもの、いらつき、経済問題、人間関係、様々なものがある。それは誰にしもある。それが噴火のギリギリまで溶岩が溜まっている。それが爆発する。爆発するタイミングが家庭の中で、あるいはお店で、あるいは駅で、社会的なところで。そして、そのきっかけがちょっと手が触れた、あるいは対応が悪い、何かが遅い、思った通りにならない。これは小さなお子さんをお持ちの方は経験なさるでしょう。

 小さいお子さんは自分の気持が通らない、理解できないとき、泣いてそれを表現します。喋れるようになるともっと話しますが、それでも駄々をこねるという感じになります。それをお店の人、あるいは家族のみんながなだめたりする。しかしながら、最近見ますと、ファミリーレストランでも一人幼い子が騒いだり、駄々をこねても、ご両親が黙って、沈黙したまま。注意したり、なだめたり、なかなかしない家族が増えています。で、小学校、中学校、様々な事件がありました。これも小学生と思えない、あるいは青年なら青年と思えない、あるいは人間と思えない、こんなことするなんて、ということがずーっと続いておりますが、そういうのもキレてる。それは最終的に暴力で現れますが、その手前にそういう鬱積していること、何かが起ったことに対して、自分はこんな気持になっていってるんだということを、自分で理解できるかどうか、認識しているかどうか。そして、その認識したことを転化できる、解決のほうへ向ける、あるいはそれをそらしたり、解消したりする方向へ行けば、一般社会人と、良識ある社会人ということになります。

 しかしながら、それもできない。怒り、怒り、怒り、憎しみ、憎しみ、憎しみ、いらだち、いらだち、いらだちという感情レベルで思っている。実際の犯罪、刑事事件とまたちょっと違うレベル、「あんな人とても事件を起こすような人に見えない」というような、あるいは一般の人が事件を起こすようになってきた、この昨今の特徴です。そういう鬱積したものの出し方、それがとても下手になっている。あるいは逆に社会が豊かになって、便利になって、ある意味で戦争もない状態になっているけれど、一方、一人ひとりにはそれが表現できないような、むずかしい時期にもあるということでしょうか。

 そこで、ますます自分が今どう感じているか。そして、そのワケはこうなんだ。こういうことがあったから、自分はこうなっているんだというようなことを、自分の内部で考えられる理性、ないしは知性、あるいはセルフコントロール、自己認識、自分とはなんぞやと――究極はそうなんですが。とにかく自分がいる、自分がこう思っているということがわかるには、自分という人間を客観的に見る必要があります。その客観性は理性です。あるいは冷静・沈着という言葉です。これも社会人ならば、徐々に徐々に耐える力、我慢をする、あるいはそれを上手に発散する。ちょいと会社の帰りに寄って、1時間ほどひっかけるとか、あるいは喫茶店に寄ってコーヒーを飲む。そのようなことで解消して、できるだけすっきりして家へ帰る。持ち越さない。そのように解消の仕方がありました。

 しかし、最近はそれでも解消できない。どうしてもできない。いつでももう爆発する寸前の人々がこの社会にいっぱいいる。彼らは犯罪者ではない。明らかに犯罪者とは違う。物品、あるいは自分の欲望の解消のために被害者を捜しているのではない。だから、だれでもいいから、むしゃくしゃしてるから殴りたかった、誰でもいいから刺したかった。その前に刃物屋さんで刃物を買う。その前にどっかへ寄る。事件が起った後、追跡調査すれば、結局様々なことがプライベートに起っていた。

 交通事故でもそうだそうです。免許センターへ行きます。交通事故を起こしたとき一番の原因は何か? よそ見運転とか居眠りとかいろいろありますが、実は朝、あるいは前の晩、奥さんと夫婦喧嘩をした。そういう人たちが次の日、交通事故を起こしがちだというデータがあるそうです。むしゃくしゃしている、イライラしている。それが運転に集中できない。あるいはちょっとした何か、割り込まれたときに奥さんへの爆発するはずのものが、見ず知らずの人に交通網の中で起こす。あるいは奥さんに言えなかったこと、言い足りなかったことが、通りかかった誰かにエイヤッとなる。今一人ひとりが恐ろしい状態になっている。

 それだからこそ、特にここにいらっしゃる方、こういう世界で心を案じていらっしゃる方々は、冷静さ、自己認識を人一倍身につけて、街を、日々を過ごしてみてください。あちらこちらにキレる一歩手前という人たち、特に男性。男性は闘争本能があります。暴力性も凶暴性も本能であります。それは生物界でオスは戦う。ほかのオスと戦う、外敵と戦う。そういう本能がありますから、それは人間になっても残っておりますから、男性には特にご注意。

 それはもう出てます。その出ていることがキャッチできるかどうかです。犯罪者もそうですが、犯罪者は弱い者を狙います。反撃されない者、そして金品を持っている者。そうするとお年寄りや女性や子どもを狙う。あるいは弱そうな人を狙う。オオカミ、これは例えです。オオカミそのものが悪いわけじゃない。オオカミが羊や山羊、鹿を狙うときと同じです。これは警察の方々はよくご存じでしょう。もう一般の街にいます。時間帯も様々です。

 まず、夜更けにこの街にいる人たちは誰か。男か女か。男性か女性か。そして男性ならば、それが何歳ぐらいか。若者から、青年から、中高年まで。おじいさんの犯罪者はあまりいない。身の軽い窃盗はいるかもしれませんが、暴力犯罪者はいない。そして、犯罪防止のためには彼らの気持になればいい。僕は絵本を描いていますが、絵本を描くとき、子どもの気持になります。子どもの気持になって絵本を表現する。あるいは動物が主人公なら、動物になって動物の気持で表現します。

 それと同じで、この警察業務の中では犯人の気持になれと。犯人がどういうときに、どういう時間に、どういうところに出没し、どういう家に入りやすいか。どういう人を襲いやすいか。襲うにはこのような地形、死角、暗い、人気がない、つきあたり、そういうところに来た、自分より弱い、そしてなんか持っていそうと。いくつかの目的達成のための条件を彼らなりに考えている。それを知ることです、特に女性、子どもたちは。かどわかす、誘拐するとかというのもそうです。

 言葉の話から直感のほうへ来たんですが、つながります。子どものときにお母さんから絵本を読み聞かせをしてもらう。ここに抱っこしてもらって、絵本を読んでもらう。それが動物の本だったり、童話だったりする。これ、安全な状態です。お母さんがいる。暖かくて、やわらかくて、安心、安全。声が後から聞こえる。きれいな絵がある。幸せです。安全で、幸せ、愛です。愛のオーラ。テレビで「オーラの泉」というのがありますが、オーラです。子ども時代にたっぷりそれを体感してもらうわけです。

 そうすると、小学校になって、中学校になって、家を離れたときに、街を歩いたときに、「あれっ、変だな」と。見渡すとだれもいないようだけど、これはなんかお母さんの膝の上に抱っこされている状態とちがう。身体がわかる。そして、気配を感じ取る。人の姿が見えたとき、動物の「ぼくのべんちにしろいとり」、白い犬さんが出てきて、「どうしたの?」と公園のベンチで助けてくれたけれど。同じ公園、人気がない。ちょっと死角的なところがある。暗い。誰かがひそんでいる。姿が現れる。あれは子どものときの、あの絵本の白い、やさしそうな犬さんと違う。なんか違う。オーラが出てる。すでに襲ってやろう。奪ってやろうという思いがある人はそれが出てるんです。目には見えないけど、出てる。いやーな感じの人。

 これは警察の方が事件があったとき、現場へ行く、捜索するときに、なんか犯罪の臭いがただよう嫌な感じ。観察をします。遺留品がある、血痕がある。そのようなことが、子ども、あるいは女性の方、「嫌な感じだな、ここの場所は」。「変な人だな」。いや、人を見たら泥棒と思えという教育もあれば、人をそんな疑ってはいけませんというのもあるけれど、それは頭での話ですから、それはいろいろな問題があるけれど、直感です。この直感がどんどん薄れていっている。それは現代生活になればなるほどそうです。ですから、その直感の中の一つにそういう体感があるわけです。

 動物たちも、野生動物もイヌ、ネコもそうですが、食べ物でつられると思うけど、実は危険なときは食べ物が目の前にあっても、彼らは近づかない。要するに生物にとって、第一級の本能は生存本能です。それは危険でないこと、命が脅かされないこと。それを感じ取る。安全と確認できたら、その食べ物を食べる。そういうものが根本にあります。ですから、子ども時代に体感させる。うれしい、喜び、愛。それと違うものは用心する。野生動物の親が子どもに教えるのはそれです。身をひそめる、動かない、逃げる。そのために子どもたちは生きる上での知恵というよりも、直感です。

 そういうものを子ども時代に身につけるには、危ない、危ない、危ないという教育方法が従来でしたが、逆なんです。これが安全で、平和で、愛なんだということを絵本の読み聞かせを通して、お母さんとの関係の中の愛を身につける。それが十分身についていると、3歳、4歳、5歳までに直感が働きます。逃げ足も速くなるかもしれない。近づかないかもしれない。そういうことになります。ですから、そういう意味で絵本、言葉を幼いとき、小学校時代に、人間がこの後、社会人になって無事にサバイバルしていく、幸せになる、この社会を支えるためには様々な方法で、技術と言ってもいい、そういうものを身につけてもらう必要があると思います。

 そこで、この一行詩「いのちのうた」という募集は、そういう大切なこと、命に関わるテーマをこうやってコンクールがあるのをきっかけに考える。命というのを考える。普段はいのちを考えない。なくなったときに初めて考える。「この子うるさいな」とか、「言うこときかない」とか言ってるけど、その子がある日、社会に帰ってこなくなったとき、初めて「ああ」と思う。ですから、元気なうちにちゃんと命について親も子も考える。言葉で表現する、実感するということをしたい。そのきっかけにこのコンクールはなるのではないかというふうに思います。

 それから、命もそうですし、人生というのもそうです。人生とはなんぞや、命とはなんぞや。これは昔の旧制高校の学生が考えた、あるいは学者が考えている学術論文でということになっていますが、実はすべての人が命をもって、この人生を生きておりますから、一人ひとりにとって大問題です。そのほかに勉学やら、職業やらがあるわけです。このいのちと人生について、愛について、そして家族、親子、そういう一番身近なプリミティブなところから、一つ一つを再チェック、再検討する時期が来たと。

 ラディカルに考えるという言葉があります。70年頃はラディカリストと言ってました。過激派と訳していましたが、実はラディカルというのは根本、根っこから考える。最初の原点から考えるという意味ですから、この社会のあり方、戦争から、犯罪から、教育、様々の問題を人間がやっている。人間とはなんぞや。人間は家族、家庭がある。家庭とはなんぞや。そして、愛とか、命とか、親子とか、そういうものを一つ一つ、もうわかりきったこととしてでなく、実は逆にわかりにくくなってきているから、もう一度、家族、家庭の中でそういう根本を親子で会話できるようになりたいなと思います。

 そのために、映画、テレビ、あるいは本、絵本を大いに使ってほしいなと。そして、このような催しにもどんどん参加していただいて、これは法律や警察や医学の問題だから、その人たちがやればいいというのではない。一人ひとり、すべての人が社会に生きて、誰でも被害者になる可能性がある。と同時に加害者になりかねない。そういうのが現代の特徴です。そのとき、それぞれが自分を知って、自分はどういう人間か。そして自分らしく、人間らしく生きるのが一番いいんです。幸せな人は犯罪を犯しません。幸せな人は人を傷つけません。僕は人は幸せになる必要があると思います。やっぱり犯罪者、事件を起こす人々はその背景を探りますと、やはり不幸せがある、愛されなかった経験、それが社会に対して、人に対しての怒りや恨みになっている可能性が非常に高い。

 ですから、僕はこの世からそういう犯罪、悲しみをなくすには、一人ひとりが自分らしく生きる、幸せになる必要がある。そして、その出発点は家庭だ。その出発点は母と子なんだと。そういうわけで、母親に対する純粋な気持、それと母親の我が子に対する無償の愛、母心。古いようですけれど、ラディカルに考えれば、エコロジーから、戦争から、地球規模のことから考えるけれども、同時にそういうマクロからミクロを考えますと、人の心の出発点の母と子の関係、ほんとに母親から十分、父親から十分愛される。それから、自分がそういう母や父に対して、心から感謝の念を持つ。そういう子どもたちが後ほど人を傷つけたり、苦しめたりすることはないというふうに僕は信じております。「急がば回れ」です。今零歳、3歳、5歳の子どもたち、小学生の頃から、即このような人間の心の教育というか、指導をして、そうすれば20 年後、その子たちが二十歳を超えた頃、この世界は明らかに変わっていると思います。そういう「急がば回れ」によって、地球のこの身近な事件から、エコロジーから、戦争、紛争まで、必ず僕は解決できるというふうに信じて、希望を持って活動しております。

 そのために絵本という、子どもに対してのやさしい世界を描いているだけの絵本作家という立場であるにもかかわらず、様々な研究、あるいは会合に出向いて、お話するのはそこです。これはもう専門家だけに任せていられない時代です。犯罪者だけが犯罪を起こすのではない。一般の人は誰でもキレて事件を起こす可能性があるという時代だからこそ、様々な分野の人が知恵を寄せ合って解決していかなければいけないと思うわけです。

 そして、根本にあるのはすべての人が実は疲れている。心身ともに疲れている。ストレスでいっぱいです。がんもそうですけども、慢性病もそうです。事件も。あらゆるものが疲れすぎている。そこで、僕のおしゃべり、あとどのくらいあるんでしょうか。あと10分ぐらいありますか。最後の5~6分では、今日、あるいはこれまでの心身の疲れ、ストレスを解消する簡単な時間をお持ちしますから、それをお楽しみにして実感していただくと。

 お母さんから抱っこされて絵本を読み聞かせしてもらっている子どもの気持、その状態。安全で、平和で、心安らかな状態をちょっと味わっていただきます。そうすれば、大人になっても、まさに束の間の一瞬の潤い、癒やしが行なわれれば、もう一回やってみようという気持になるはずです。その時間を持ちたいと思います。ですから、あと数分が締めなわけですけれど。

 勉学だけ、あるいは仕事だけが人生ではない。人間のやることではない。ほかにもっともっといろんなことがある。その人がその人らしく生きる。そのために必要なのは自由です。自由でないこともイライラの原因です。この自由という言葉を解釈しますと、自らという「自」に自由の「由」。「由」というのは理由の由です。ですから、自分が自分である所以。これをもっとわかりやすく言えば、まさに自分らしくあるかどうかというふうに僕は解釈しております。自分らしくあればムリがない。ムリしないでいい。そして、安らかである。そしてうれしい。その自由な状態のなかで物事を選ぶ。たとえ大変な仕事でも、困難があっても、自分の自由意志によって、自分らしく選ぶから、もう文句も言わない。自己責任、責任も持てる。自由がないのに押しつけられる。そして、失敗したら叱られる。責任も問われる。そういうことがこの世にまかり通っておりますが、まず自由がほしい。

 子どもたちも、実は自由がほしい。しかし、受験勉強、その他、家庭や学校、社会の規制の中でがんじがらめになっているような気がしております。大人たちも実は同様です。お母さんだってそうです。お父さんは一個の人間であるのに、やっぱり社会人、勤め人として、父親としての義務、役割がある。お母さんもそうです。一人の女性、一人の人間であるけれど、母親でもあるし、妻でもあるし、孫がいればおばあちゃん。子どもたちもそうです。ちっちゃいし、幼いから、あれが小学生だ、あれが中学生だと押し込められているけれど、実はそういう年齢や役割、立場を外してしまえば、すべて一個の人間です、大きくても、小さくても、歳をとっていても。

 そして、その人間の中に何があるか? 魂がある、精神がある。その魂や精神のレベル、時限で考えれば、すべて一緒。これはひいて言えば、動物たちもそうです。牛、ブタ、小鳥、イヌ、ネコ、これはイヌ、ネコのような形をしてるけど、生きている。何があるか? 命があるからです。命のレベルでは生きとし生けるものすべてという表現がありますが、同一です。宗教的には、神の前にすべてが平等であるというようなことを言っておりましたが、神を持ち出さなくても、命の平等性は一緒。そして、その命がこの肉体へ入って、ものを考え、感じ、行動していくというわけです。

 ですから、お母さんたちが「ご飯食べたか」と、ご飯食べさせようと一生懸命です。これは元気か(ということ)、命のことです。身体があって、命がある。"命あっての物種"とよく言いますが、命自体は見えないし、ふれられない。しかし、命がこの物質のボディに入って、初めて触れる、暖かいし、やわらかい。イヌやネコだってそうです。命がなくなったものは冷たく、硬く、生気がない。見てもわかるし、さわってもわかる。

 ですから、命を大切にするということは、具体的、現実的には実は身体を大切にするということです。だから、母親がほんとに子どもの身体のこと、お父さんの身体のことを心配するのは、身体なんてどうにかなる、なんか食べなくたって平気、このぐらい頑張ったって平気と言うんだけども、お母さんは心配する。それはその身体の中にある命――、意識的な、あるいは無意識的か、その身体を動かしている中の命の大切さを、実は身体を大切に、そのために「ご飯食べたか」「夜更かしだめだよ」「危険なところに行っちゃだめだよ」と。これは身体を案じるということもありますが、まさに命を案じているわけです。

 ですから、一人ひとりが両親からもらった、この肉体を大切にしていく。命を大切にしたときにちょっとわかりづらいとすれば、身体を大切にと言い換えてもいいと思います。そして、自由意志によって自分らしく生きて、幸せな人は人を傷つけたりしない。それはぐるぐる回ります。なぜならば、自分らしくいる人はもうそれで満足です。心安らかです。そして、その前提条件である自由を身につけてほしい。ただし、その自由に条件がある。その自由とは、人は自由に生きる権利がある。たしかにそうです。ただし、自分と自分以外の人の存在を傷つけたり、苦しめたりしない限りにおいて。

 実はあらゆる犯罪、地球上の問題の根底に僕は人は自由に生きる権利がある。「自分以外の人を傷つけたり、苦しめたりしない限りにおいて」という、この一行があれば、あらゆる悪しきことは本当はないはずというふうに思っております。それを全地球、全世界的に、一国全部がそうなるには道は遠いけれど、まず自分が今日これから、自分が自分らしさを知り、自分らしく生きる、自由に生きる、そして幸せになると決心して、そのように今日から生き始めれば、ここにいらっしゃる300人の幸せな人、300の幸せな生き生きとした魂、命がここに出現したということになります。そして、それぞれの家庭に戻って、自由で、幸せということを経験できる家族が増えれば、この熊本から安全な世界が広がっていくというふうに思います。

 時間がなくなりました。癒やしの一時を数分ですけれど、味わっていただきましょう。音楽が流れます。耳を傾けてください。そして、軽く目を閉じて、ゆっくり息をしてください。リラックスしてください。それだけでも心安らかです。

 「ほほえみをあなたへ」。「悲しまないでください。私をほほえみでおくってください。私は今、自由です。心はあったかい愛でいっぱいです。だから、私のことを悲しみではなく、喜びをもって思ってください。私は生きています。あなた方が見ているのは、私がかつて宿っていた身体です。今、私は以前よりももっと元気な姿でいます。性格も好みも変りません。あなたが知ってたとおりの私のままです。ただ、そちらにいたときよりも、物事がよりはっきりとわかるようになりました。みんなの本当の気持や人生で何が一番大切か、そして命の真実や私自身の存在の意味も。今、私は魂の成長と進化に必要な学びと気づきの人生を終えて、ほっとしています。しばらくこちらで休んだら、また新たな人生を生きはじめます。私の愛する皆さんとも再び会うこともできます。人生はけっして一度きりでなく、私たちは全員永遠に続く魂の旅を共に歩んでいるのですから。心からのほほえみをあなたへ」

 「この世には捨てておかれてよい人なんかいません。苦しみにあえいだままほっておかれてもよい人もいません。人は誰でも人として敬われ、愛されなくてはいけない存在です。僕は生きています。いろいろと大変なことがあったけれど、なんとか元気で過ごしています。生活は変わりなく、仕事も途切れることはありません。君は元気ですか。いつも君のこと思ってます。それではまた」

 「今日は久しぶりにとてもいい天気です。ちょうど1年前の今ごろもこんなふうに明るくて、暖かい日の午前中、こんなふうに君のことを一人で散歩しながら思いました。来年は僕はどこでどうしているだろうね。命はたった一つ、代わりはないし、ストックもありません。命って目に見えないし、ふれることもできないけれど、実は命って、この世ではこの身体や家族や友達、イヌやネコのことに他ならないんだよ」

 「うれしいことがあったとき、一番先に知ってほしいのは母さん。悲しいことがあったとき、一番初めに知ってほしいのも母さん。『かあさん』て言うと、安心する。『かあさん』て言うと、うれしくなる。いくつになっても、人は人の子で、母親は永遠に母親のままです。母さんの一番の願いは家族みんなの幸せと健康。でも、自分のことはいつも後回し。母さんに知られたくないことがある。母さんを悲しませたくないから。母さん、あなたの悲しみと孤独をわかってあげられずに、ごめんなさい。母さんがいつも言ってた、『仕事よりも身体が大切』。母さんの手のぬくもり。温かくて、やわらかい手の記憶。だけど、あなたはもういない。私はあなたの子どもになれて幸せでした」

 「あなたは去った。この世ではもう会うこともない。あなたは去った。しかし、私たちの生活は今までと変わりない。あなたは去った。ただ、それだけ。私たちは私たちの人生を続ける。そして、いつか私も去る。そのとき、人々の生活と人生は相変わらず続くだろう。本来、この世を去るということは、木の葉が一枚、音もなくひらひらっと散るような、そんなさりげなく、また静かな出来事なのだから。人生は前へと進んでいくものです。それがこの世の法則です。後を振り返らず、また立ち止まらず、前へ前へ」

 「人生で大切なことは人を幸せにすること、喜びを分かち合うこと、感謝をすること、どんな人にとっても幸せと喜びを得て、感謝されることは自分の人生には意味があったと思えるほど大切なことだから。感謝は人間の持っている最高の感情の一つです。感謝すれば怒りも悲しみも不満も全部消え、人は必ず幸せになれます」

 はい、安らかになれましたでしょうか。どうも今日はありがとうございました。

第3部

パネルディスカッション「未来をつむぐいのちのうた」
コーディネーター:
村田 信一(熊本県環境生活部長)
パネリスト:
酒井 肇(大阪教育大学附属池田小学校事件遺族)
葉 祥明(絵本作家)
吉田 南海子(?熊本犯罪被害者支援センター長)

(村田)

 大変長時間にわたっておりまして恐縮でございます。約1時間半ほど、このパネルディスカッションをやりたいと思いますが、葉さんの癒やしの気持ちが伝わりすぎまして、頑張るぞという気持でおったのですが、なにかほわーっとしております。皆様方もそうではないかと思いますけれども、ゆっくりした気持ちでご参加をいただければ幸いでございます。

 私の肩書きが県庁で環境生活部というところにおります。厳密に言いますと、環境の次に「・」を入れていただいたほうがわかりやすいと思います。生活は県民の生活に関わりますような、今日のような犯罪被害者の話題、犯罪の起きにくいまちづくり、青少年育成、消費者行政とか、様々な県民生活に関することも所管をいたしておりまして、今回こういうコーディネートの役を仰せつかっております。

実はこの会は昨年までも同様のものがあったわけでございますが、2つの視点から今年は非常に節目の年だなと思います。1つはこのパネルにもありますように、「国民のつどい」ということで、内閣府も一緒になったかたちで、非常に大規模にやられております。いわゆる「犯罪被害者週間」ということで、今日から1週間始まるわけですが、全国の皮切りでこの熊本会場がスタートになりまして、あと、北海道、茨城、愛知という4つの道県でやられるということでございます。九州では初めてということで熊本が意気込んでいることが1つの現れではないかと思います。

もう1つは、実は去年までのこの会は警察並びに犯罪被害者支援センターが中心に行ってこられました。私は一般行政におる立場でありますが、いわゆる犯罪被害の質、内容、それから犯罪が起ってからの時間の経過とともに、いろいろな支援が必要になります。そういう意味では県庁の中の一般行政、市町村、民間の様々な団体にその支援の幅を広げようということが、今年から熊本で大規模に始まっております。そういうようなネットワークづくりを広げるために今、指針づくりをやっていますが、県庁の中でも30以上の課、セクションが関係するような状況になっております。そういった意味で今日のコーディネート役を務めさせていただくわけでございますけれども、1部の「一行詩」、2部の葉祥明さんのお話、3部で特に犯罪被害に遭遇するということを通しながら、命の尊さというものを一緒に考えさせていただければと思っております。本当にある日突然、犯罪により被害者になってしまう。また、家族の命を奪われてしまうということを、皆様想像してみていただきたいと思います。これはけっして他人事、人ごとということではございません。どういった立場に私たちが置かれ、どういう気持になるのか。

まず最初に、今日は遠路大阪からお見えいただきました、大阪教育大学附属池田小学校事件の遺族であられます酒井肇さんにお話をうかがいたいと思います。いわゆる犯罪に遭って被害を被られた、そのときの状況、あるいは体験等をお話をいただきまして、20分ということで短い時間しかとれませんが、熊本では今回が3回目でございます。そういう意味も込めまして、内容的には今後、犯罪被害の支援の輪が広がるというような意味で、酒井さんにこれまでのご経験、体験をもとにご示唆のあるようなお話がいただければと思いますので、まずは酒井さんによろしくお願い申し上げます。


(酒井)

 それではよろしくお願いいたします。大阪からまいりました酒井と申します。本日は私たちが受けた池田小事件という事件の概要、それから被害直後の私たちの状態、そしてどんな支援を受けたか、そういったことについて振り返りをしたいと思います。

 平成13年の6月8日に大阪教育大学付属池田小学校事件というのが起きました。今からもう6年半前になります。このときの事件の概要ですが、簡単に言いますと、私たちの子どもの学校に出刃包丁を持った男一人が、平成13年6月8日金曜日の2時間目の授業が終わりに近づいた午前10時過ぎごろ、自動車通用門から校内に侵入し、校舎1階にある第2学年と第1学年の教室等において、児童や教員23 名を殺傷しました。平成13年9月14日、大阪地方検察庁は被告人を殺人、殺人未遂、建造物侵入等及び銃刀法違反で大阪地方裁判所に起訴しました。犠牲になられた方々は死者が8名、うち1年生の男子児童が1名、私の子どもを含めます2年生の女子児童が7名、負傷者は15名、そのうち児童が13名おりまして、男の子が5名、女の子が8名、教員が2名と、そういった事件でした。

 殺人犯罪の被害者が受ける被害ということで、私たちの場合は最愛の娘、麻希(まき)と言います。マキという字は麻という字に希望の希という字を書きまして、麻のようにすくすくと希望を持って育ってほしいという気持を込めて、私たち両親が名付けました。彼女には何の罪も落ち度もないのに、私たちは学校というのは家庭の次に安全な場所と信じていました。そのような学校であの犯罪に巻き込まれて失った悲しみというものは、けっして癒されるものではありません。

 私たちの受けた事件が2001年にありましたけれども、その2001年にはニューヨークでも同時テロという悲惨な事件がありました。その追悼式典でニューヨークの市長が述べた追悼の言葉があります。「親をなくした子どもを孤児と言う。伴侶をなくした夫、妻をそれぞれ寡夫・寡婦と言います。しかしながら、子どもをなくした親を呼ぶ言葉はありません。なぜなら、その痛みを言葉で表わすことができないからだ」と、そのように追悼式典で語られましたが、私もまったく同じだと思います。

 この写真が私たちの娘麻希です。当時7歳と10ヶ月。7月の末が誕生日でしたので、あと2ヶ月もすると8歳の誕生日ということで、誕生日プレゼントは何にするかとか、そういう話をしていたのを思い出します。

 今日はまずあの事件当日、どんなことが私たちに起ったのかということを振り返ってみます。あの日はちょうど金曜日でした。私と麻希はいつも最寄りの電車の駅まで一緒に手をつないで向かっています。そこで子どもは小学校のある池田市の方面に、私は会社があります大阪市内の方面と、それぞれ逆の方向に駅で別れるというのが日課でした。その日も同じように、それぞれ行く先が違う電車に乗りました。いつも私が先の電車に乗りますから、子どもが電車に乗っている私をホームで見送りながら手を振っていくと。その日も同じように私が先に電車に乗りまして、子どもがホームで手を振っていました。まさかそのときは、自分の子どもの生きている姿を見るのがそれが最後になるとは思わずに、いつもと同じように電車の中から手を振って、子どもの姿を眺めていました。

 午前10時ぐらいに、私は会社で会議があるので会議室でその会議の準備をしていました。そうしましたら、私の上司が飛んできまして、「酒井君の娘さんの学校でなにか大変なことが起きてるらしいよ」と言われました。私は急いで会議室にあるテレビをつけますと、そこでは子どもたちが校庭を逃げまどう光景が空撮映像で流れていまして、子どもの通っている付属池田小学校に事件が起きたということを告げていました。そのときはまだどんな被害が発生しているのか、情報が錯綜していてよくわかりませんでした。そうすると、家内から私の携帯電話に電話があって、「麻希ちゃんの学校で何か大変なことが起きているらしい」と。家内も同じように学校からの連絡ではなくて、ニュースでその事件を知りました。家内はこれから小学校に向かうというふうに言ってましたので、私もすぐ学校に向かうということで、上司に理由を告げて、すぐ会社を出ました。

 そうしますと、また家内から電話があって、どうやら麻希の姿が見あたらないと。もしかしたら、怪我をして病院に運ばれているかもしれないという電話がありました。私は大変なことになったと思いました。それで、急いでタクシーを地下鉄の駅まで走らせ、タクシーよりも電車のほうが早いと思いまして、急いで地下鉄に飛び乗りました。そうしていると、また家内から電話があって、どうやら娘が怪我をして大阪大学の医学部付属病院に運ばれているらしい。小学校ではなく、病院に向かってほしいという連絡がありましたので、私は当初向かおうと思ってた小学校ではなく、病院に今度は向かいました。

 また、電車の中で携帯電話が鳴りました。どうやら娘は怪我どころじゃなくて、もっと大変なことになっているらしいということでした。私はそれを聞いて、電車の中で居ても立ってもいられず、電車の中をうろうろうろうろ歩き回りました。どうか命だけは無事であってほしいと、そんな思いで電車の中を行ったり来たりしていました。電車が進むのがあまりに遅く感じられたので、途中下車をしてタクシーに乗り換えました。タクシーに「阪大病院に向かってください」と。

 やっとの思いで病院に駆けつけると、そこにはすでに多くの報道陣が待ちかまえていました。私は自分の娘が怪我をして病院に運ばれたので、私が誰よりも真っ先にその現場に駆けつけたと思っていました。しかしながら、後から知ったのですが、そこにたくさんいる報道陣もやはり事件を知って駆けつけた報道陣でした。本来はやはり親が真っ先に知って、一番に駆けつけることが望ましいと思いますが、実は今の仕組みの中では親は娘がどこにいるのか、怪我をした場合駆けつけることがなかなか困難なのが実情です。

 救命センターに駆けつけますと、看護師さんがそこにいまして、「今日搬送された酒井麻希の父親です」と告げますと、看護師さんの顔色がさっと変わりましたので、私はこれは大変なことになっているかもしれないというふうに思いました。急いで救命救急室に駆けつけると、娘の傍らで「麻希ちゃん、がんばれ、がんばれ」と泣き叫んでいる母親の姿が見えました。そこに小さな女の子が横たわっていて、最初はまさかこれが自分の娘だとは思いませんでしたが、よく見ると、やっぱり自分の娘の麻希でした。朝、電車で別れたときとは違って、顔色は血の気のない土色に変わっていて、耳のあたりとか頬には砂がついて、爪の間にも土がいっぱい入って、血がついていて、とても朝元気に別れた娘とは思えない、変わり果てた姿でした。口には気管内チューブが挿管され、目はうつろで、口はぽかーんと開けたままで、もう生きているか死んでいるかわからない状態でした。

 家内が必死の思いで、「がんばれ、がんばれ」と泣き叫んでいる間、私は担当の医師に呼ばれました。そこで別室で聞かされたのは、もう娘は助からないと。もう心臓も止まっており、全身からも出血多量で血がない状態ですから、もう娘は助からないというふうに聞かされました。そして、再び娘のいる処置室に帰ってきました。もう助かる見込みはないのに、小さな身体が心臓マッサージで大きく揺れている姿を見たら、とても娘がかわいそうになったので、担当の先生方に「もうけっこうです」というふうに言いました。それが娘の亡くなった瞬間でした。

 私たちは最愛の娘を予想外の事件でなくすということになりましたが、その絶望の淵でいろんな思いを胸に抱きました。これは私たちだけではなくて、多くの犯罪被害者共通の普遍性を含んでいると思います。まず、答えなき永遠の問いかけです。なぜ、娘は死ななければならなかったのか。そして、事件の真実を知りたいと思いました。あのとき、いったい何が起きたのか。そして、娘はどうだったのか。また、事件の発生原因を知りたいとも思いました。なぜ、あの事件は起きてしまったのか。そして、我々犯罪被害者が絶望の淵から回復する上で、やはり多くのことを知りたいと思います。まずは責任所在の明確化。だれが何をしたから、またはだれが何をしなかったから、あの事件が起きてしまったのか。そして、責任ある者の心からの謝罪。娘や私たちに心から謝ってほしい。そして、私たちが再び生き続ける意味の再認識をしたいと思いました。なんとかして安心できる生活を取り戻して生きていきたいと。そして最後に、もう娘は戻ってきませんが、二度とあのような事件は起きてほしくないというふうに、事件の再発防止を願いました。

 今日は私たちが受けた支援で、実質的な支援となった出来事の事件直後に受けた支援について簡単にお話します。まず、事件直後、私たちは搬送先の阪大病院で娘の死を告げられました。そのときの思いとしては娘に何が起きたのか、まったくわからない状態です。そして、これが夢か真実かもまったくわかりません。そして、これから私たちはどうすればよいのか。まさに混乱の極致にありました。そのとき、事件後数時間たった段階で、私たちは大阪府警の被害者対策室の方々と会いました。当初、被害者対策室の方々は、「私たちはなんでもしますから、おっしゃってください」と言われました。しかし、私たちは「もう娘が死んでしまったので、私たちには支援は必要ありません」と答えました。でも、それは大きな間違いでした。

 家内と被害者対策室の方々は自宅に帰って、まずは報道陣が取り囲む自宅の周りから遮蔽するために、カーテンを閉めてもらいました。そして、何も動くことも考えることもできない家内に代わって、大阪府警の婦警さんたちが一緒に洗濯物を取り込んでくださいました。そんなことから、私たちへの支援は始まりました。

 我が子の無言の帰宅、お通夜やお葬式に私たちのまわりに実に数多くの報道陣が取り囲み、引き続き取材の申し込みを受けました。私たちはお通夜、お葬式と娘と過ごす最後のかけがえのない時間なので、ぜひともそっとしておいてほしいと思いました。しかしながら、報道陣は繰返し繰返し、私たちのもとにやってきました。そこで私たちは大阪府警の被害者対策室になんとか報道を自粛してもらうように依頼しました。こうした報道陣の排除というのは、なかなか私たち被害者ではできません。これは先ほど言いました、大阪府警の方々のような、事件直後にすぐ現場に駆けつけるといったことと同じように、やはり警察にしかできない被害者支援の1つかと思います。

 また、1週間もたちますと、私たちに残された幼いきょうだいが幼稚園に行きたいと言い出しました。そこで私たちは幼稚園の受け入れ体制や、その幼いきょうだいの送迎の確立をする必要が出てきました。そもそも私たちの幼稚園には幼稚園カウンセラーの倉石先生という臨床心理士の方がいらっしゃいましたので、その方によって幼稚園で幼いきょうだいをどうやって受け入れるのかという受け入れ体制の準備をしてもらいました。そして、また大阪府警の被害者対策室の方の警察車輌、家内は事件後とても運転ができるような状態ではありませんでしたので、大阪府警にあります車を利用させていただいて、幼稚園の送迎を助けていただきました。今にして振り返ると、たった11日間という短い間、大阪府警被害者対策室による支援でしたが、我々にとっては最も支援の実感を得た、きわめて重要な被害者の早期支援でした。

 お手元の資料にありますように、私たちは数多くの支援を受けましたが、改めてこの支援を振り返ってみますと、私たちはどんな支援を望んでいるかと言いますと、被害者に寄り添う支援を望んでいました。私たちに寄り添っていただければ、私たちの置かれている状況を理解していただくこともできますし、私たちの思いや希望を把握してもらうこともできます。そうしますと、寄り添っていることによって、具体的にどんな支援をしたらいいかということがわかってきます。「何かお役に立てることがあったら、何でもおっしゃってください」と言うのではなく、私たちに寄り添うことで、「私たちにはこんなことができますよ」「こんな役に立ちますよ」という具体的なメニューを提示することができます。

 よく言われているように、私たちは被害者の心理状態の分析やカウンセリングのみを望んでいません。最愛の娘をあのような事件で失ったのですから、心に傷があるのは当然と言えます。先ほど言いました、ほんの些細なこと、カーテンを閉めてもらう、洗濯物を一緒に取り込んでもらう。そんなことでも私たちにとっては非常に有益な支援になります。ぜひとも私たちが生きていく上での実質的な支援をしていただければと思います。被害者支援が被害者自身の精神的、肉体的負担を増すことがないように、様々な配慮をお願いしていただきたいと思います。常に誰のための支援かというのを考えていただければ幸いです。また、私たちはそれまでの人生で支援に対する専門家とは支援というかたちでは接していません。ぜひとも専門家との接触や関係には十分配慮していただきたいと思います。そういった意味でもソーシャルワーカー的な、またはファシリテーター的な役割の重要性を強く感じました。専門家が専門家ゆえに陥りやすい落とし穴にも十分注意していただきたいと思います。

 最後になりますが、起きた事件や子どもたちの死というものは、私たち遺族だけのものではありません。今日、この会場に来られた方、そういった事件を知るすべての人々がそれをどのように受け止め、何をするかによって、その意味は違ってくるものと思います。ご静聴、どうもありがとうございました。


(村田)

 ありがとうございました。事件の悲惨さを改めて感じますとともに、親としてのお気持ち、あるいは支援の有り様というものを本当に考えさせられたお話でございました。今のお話の中でありましたように、超混乱期という言葉が出てまいりました。時間の経過とともにその支援の中身が変わっていく状態があろうかと思います。それも含めて学ぶために、熊本での支援の状況を犯罪被害者支援センターの吉田さんにすこしお話をいただきまして、熊本での状況を学んでみたいと思います。よろしくお願いします。


(吉田)

 それでは、私どもから熊本犯罪被害者支援センターでどういう活動をして、実際支援に関わったお話をすこしさせていただきたいと思います。

 まず、熊本犯罪被害者支援センターは犯罪等の被害者や、その家族、遺族の方に対して様々な支援を行うとともに、啓発活動を進めて、被害者支援の意識を高めることで、被害者の被害の回復や軽減をはかるということを目的に活動をしております。私どものセンターは平成15年4月に設立をし、ちょうど4年半になります。そのときは熊本県警を中心に県下の経済界や弁護士会、医師会、臨床心理士会などのご協力を得て立ち上げられたもので、全国で30 番目にできたセンターでした。ただ、現在では45都道府県に46の民間の支援センターができており、全国被害者支援ネットワークに所属をして、全国でどこでも、誰でも、等しく支援が受けられることを目的に活動をしております。

 私ども平成15年4月設立当初は職員3名、ボランティア26名で事業を開始しました。今年度は職員5名、ボランティアの方が現在68 名登録をしていただいておりまして、活動を支えてくれています。本日もグリーンのスタッフジャンバーを着てご協力をいただいている方がたくさん会場におられますが、そういう方々がセンターのボランティアでございます。また、このボランティアとして、相当の経験を積まれた方の中から7名の方には被害者の方々に直接接して様々な支援を行なう、直接支援員というかたちで活動をしていただいています。

 犯罪被害者支援センターの場所は熊本県庁の敷地の中で、警察本部の正面玄関の前にあります県庁西側事務棟の2階にあります。相談をされる方にとっては、警察本部の前、県庁の敷地内ということで、安心して来庁していただくことができております。ちょうどこのテルサの会場の斜め前にあります。

 センターの事業としましては、大きく6つあるのですが、そのうちの主な3つをご紹介をいたします。まず一番最初に相談事業が一番メインの事業でございます。これは電話相談や面接による相談で、専門的な訓練を積んだ職員やボランティアが相談を受け付けております。支援に関わるボランティアの方には守秘義務を課しており、誓約書を出してもらっていますので、相談内容についても確実に秘密は守られますので、安心してご相談していただけるようになっています。これまで4年半活動してきましたが、毎年度500件を越す相談を受け付けていまして、内容も殺人事件、殺人未遂事件、暴行傷害事件などがあります。また、性犯罪の被害者の方からの相談というのもありまして、当センターで受け付けています相談の内容としては、性犯罪の被害者の相談が一番多くを占めています。非常につらい、厳しい状況に追い込まれた方々からの相談を受け、問題を解決する方法を一緒に考えて支援をしていくという体制をとっております。

 また、相談を受けるなかで法律的な問題への対応のために、弁護士による法律相談日、例えば加害者側の弁護士から、刑を軽くしたいがための和解の申し出でが突然手紙で来たりとか、また今後、裁判がどのように進められていくかというような不安をたくさん持っておられますので、そういうような法律的なアドバイスのために弁護士相談を設けております。もう一つは心理相談として、精神的なカウンセリングを必要とする被害者の方に対して、臨床心理士の方による心理相談日を定例日で設けて相談を受け付けております。専門家への相談についても、被害者の方は無料で相談をしていただいています。経費面についてもセンターのほうで対応をしております。相談は概略以上のようなことです。

 次に直接的支援事業についてすこしお話をさせていただきます。この直接的支援がセンターの活動のなかで中心となっているものです。誰でも犯罪の被害が自分の身にふりかかるということはほとんど考えておられませんし、またそのために犯罪に遭ったとき被害者や遺族の方々はまず何が起きたか理解できずに、どうしたらよいかというような判断も困難な状況に追い込まれます。また、被害者は二次被害を受けるなどして、社会のなかで孤立感を深め、家族間で支えることもできなくなって、また家族の間でも責め合いながら、家族関係を悪化させたり、また残された子どもの養育も困難になるなど、さらに被害を拡大させる被害者の方もたくさんおられます。今の酒井さんからのお話が実際にその実例だったと思います。

 そのためにセンターでは熊本県公安委員会から犯罪被害者等早期援助団体の指定を受けることができましたので、被害者や警察からの要請によりまして、被害者の心理を理解し、対応の訓練を受けた直接支援、先ほどのボランティアのなかから7名が関わっておりますと言いましたが、そういう方々が犯罪の発生後の早い時期に自宅や病院等で被害者とお会いして、また被害者の同意のもとに被害者が抱えておられるいろいろな問題を一緒に考えようと。例えば経済的な問題や、今後起きてくる司法の問題などについてお話をうかがったり、また精神的苦悩に対しましては継続的に支援を行なうこととしております。この早い段階からの直接的な支援が被害者の心の軽減をし、また被害の回復を早めるためにも有効であるというふうに言われております。

 これまでこの直接的支援の内容としまして、センターでは警察への被害の届け出に対して付き添ったり、またいろいろな事件が起きて、警察が検察庁のほうに事件として送致した後に、検察庁での事情聴取がありますけれども、その際の付き添いなどもしております。また、検察庁から事件が裁判所に送られました後は裁判になりますけれども、そのときの被害者の方の証人出廷の際の付き添いや裁判の傍聴に付き添いをしましたり、代理傍聴というかたちで支援をしたりしております。特にこの代理傍聴は、先ほど性犯罪の被害者からの相談が多いと言いましたが、性犯罪の被害を受けた方は、自分の事件、加害者がどういうかたちで裁判が行なわれ、どういうふうに裁かれているのかというのをぜひ知りたいけれども、その裁判の場所に自分が行って、それを見ることはとても耐えられない。そういうときにセンターに代理傍聴の要請があり、代わってセンターの支援員が裁判の一部始終を聞いて、被害者の方に詳しくまたお伝えするというような活動もさせていただいています。

 また、精神科の受診や産婦人科の受診が必要になった被害者の方に対して病院への付き添いも行なっております。これにつきましても、なかなか精神科へ一般の方が受診に行くというのは躊躇されますけれども、センターで病院と連絡をとり、一般の受診者の少ない時間を見計らい、なるべく待たないで受診をさせていただくとか、また産婦人科の受診についても一般の患者さんとは別に受付をさせていただいたり、というようなかたちで病院の付き添いなども実際にさせていただいています。また、行政等へのいろいろな届け出の付き添いや家庭訪問等があります。

 このような直接的支援活動は平成18 年度の実績として、合計146件させていただきました。4年間の活動の結果、検察庁や裁判所からは被害者の立場に立った支援ができていると認めていただき、いろいろな場面で連携をとらせていただいています。

 3つめの大きな事業としましては、広報啓発事業です。広く県民の方々に犯罪被害者の置かれた現状を伝えることで、被害者支援の必要性を理解してもらうことに努めております。その一環としての一行詩の取組みをやっているところです。

 一行詩の取組みについてもすこしご説明させていただきます。平成16年度「犯罪被害者支援の日」、犯罪被害者週間ができる前は10 月3日が犯罪被害者支援の日ということで、支援活動を全国的にキャンペーンをやっておりました。この記念事業の企画を立てる際に、ボランティアの方々と実行委員会をつくり、いろいろ試行錯誤をして、まず若い人たちに命の大切さをアピールする必要があると。犯罪の被害に遭った人たちの命がなくなる。それをより若い人たちにも命という観点で理解をしてもらうということで、話し合いました結果、一行詩を募集し、中学生や高校生に命についての討論をしてもらうということで、ヤングサミットをすることになりました。

 平成16年度の募集をしていくなかで、詩集「いのちのうた」に出会いました。平成15年の5月、突然の事故でお嬢さんをなくされました西村さんと、同級生である竜北中学校の生徒さんが、なくなられた由紀さんへの思いを綴られた詩集で、突然にお嬢さんをなくされ、深い絶望の日々をおくられていたご両親の思いと、また友達をなくした同級生のいのちを愛おしむ心に満ちた作品集でした。詩集の表紙がここの背景に流れております白いどくだみの花でありまして、これはなくなられた由紀さんが最後に残された作品だったそうです。

 一行詩には同級生であった竜北中の生徒さんたちがたくさん応募されまして、平成16年度の中学生の部で最優秀賞を受賞されたのも竜北中学校の生徒さんでした。ご紹介をしますと、「命 命とは小さいけれど大きいもの、見えないけれど見えるもの」という作品でして、命の大切さが本当に伝わってくる優秀な作品でした。表彰式に続いて行いましたヤングサミットでも由紀さんの同級生に登場してもらい、突然なくなられた友人への思いなどを発表してもらいました。このときの報告書はセンターで作成し、県下の全学校へ送っておりますけれども、関心のある方は私どものセンターへお申し出いただきますと、まだすこしはご提供できるようになっています。

 平成17年の一行詩の募集から、西村さんのご承諾をいただきまして、「いのちのうた」という題をつけて、命の尊さや大切な人への思いを綴って応募を呼びかけているところです。今回が4回目になりましたけれども、県下の全域からご応募が出てきておりまして、学校の現場で命の大切さや授業の中で生徒の皆さん一人ひとりが自分の命や友達の命、両親から受け継いだ命など、50文字の一行詩として、それぞれが考える時間を持っていただいたということが、とても重要で意義深いというふうに感じております。

 毎年のことながら、応募いただいた作品につきましては、一点一点目を通しておりますけれども、本日優秀作品として選ばれた一行詩以外にも、それぞれに命や家族、友達がいっぱい詰まっておりまして、全作品を公表したい思いであります。今年度の優秀作品につきましては、プログラムの内側にまとめてありますので、ぜひご覧ください。

 犯罪被害者週間事業として、熊本で取組みを始めたこの一行詩でしたけれども、今年度は宮崎の支援センターで、一行詩「「生命(いのち)のこえ」コンテストとして、また鹿児島の支援センターでは命の大切さについてのメッセージの募集として、お隣の県まで広がっていったのがとてもうれしく思っています。今年度の優秀作品につきましてはプログラムの内側に紹介してありますけれども、第1回目~第4回目までの優秀作品のパネルをテルサホールホワイエに展示していますので、ぜひご覧いただければと思います。


(村田)

 ありがとうございました。本当に広範な支援の内容がご紹介されましたけれども、先ほどの酒井さんのお話のなかで、たぶんさっきぐらいの時間ではお話が十分できなかったと思うのですが、酒井さんが「犯罪被害者支援とは何か」という本を著されておられます。私も読ませていただきましたけれども、非常に心のこもった、内容あるものでありまして、今後こういうかたちでいろんな動きに携わっていくものをぜひ読んでおきたいなというものでございました。

 今の吉田さんのお話も含めてでありますが、命というものを考えたときに、1つは犯罪をなくしていくような意味で命というものが非常に大切で、愛おしいものであるということを我々がどう学んでいくかということが1つあろうかと思います。もう1つの立場は、先ほど寄り添う支援ということを酒井さんがおっしゃいました。いわゆる犯罪被害者の方々の立場、気持になった支援でなければ、それは押しつけの支援になってしまう可能性があるわけです。

 先ほど葉さんのお話のなかで、例えば絵本を描かれるときに、子どものような気持になる、あるいは動物のような気持になるというお話がございました。冷静な自己認識をしながら、相手の立場を思いやるようなことが非常に大事なことなのかなということを、ご講演と今のお二人のお話の中で感じたところであります。そういったものも含めて、葉さんからご感想なり、命に対する思いを伺えればと思います。


(葉)

 まず支援ということですが、おっしゃるように思いやりが必要だと思います。これはすべてに関して、生きていく上で思いやり。思いやりというのは相手の思いを感じることです。これは共感をすることでもいいと言えると思います。相手の身になる。自分がいいと思って、してあげたいことをやってあげるのが一見よさそうですが、それは必ずしもあたらないことが多いので、常に相手の身になる。これはどのような職業、立場の人でもそうです。婦警さんがご家庭へ行って、洗濯物が干してあったのをそっと入れてくれた。たしかに女性の細やかな……、乾いたら取り込まなければいけないけど、ほんとに茫然自失の奥様を見たとき、その代わりをやってあげる。まさに思いやりです。

 そのとき大切なのは、今言ったように自分がいいと思ってやることとちょっとニュアンスが違う。相手が必要とすることをやってあげる。そのとき大切なのは自分が無になることだと思います。自分が無になってこそ、相手の気持が直接わかる。最近子どもが言うこと聞かないとか、そういうときも母親が子どもの気持になってあげるということをしないからわからないということになります。子どもがぐれるのは何かワケがあるからです。それと同じことがこの犯罪被害者の方の気持になるのはなかなかむずかしい。それはイマジネーションの問題です。コーディネーターの方の言葉にイマジネーション(想像力)がありました。この想像力はそれをそうと感じる力です、イメージする力です。人間にはそれが備わっているはずです、共感する気持もそうですが。しかし、新たな社会的な教育のなかで、感じる心、あるいはイメージする力が弱くなっている気がします、与えられる情報がいっぱいで。

 そうでなくて、イメージする。悲しいというのはどういうことか、相手が「痛い」ということはどういうことか。もちろん犯罪を起こした加害者もそれが実はわかっていなかった。痛い、悲しい、つらい、お母さんと会えなくなる、お父さんと会えなくなる悲しみ、様々な相手の悲しみや苦しみがイメージできなかったのではないか。イメージしたのは、自分の苦しみやイライラ、自分は不幸だ、自分は苛立っている。自分のことはわかったかもしれない。しかし、自分がこれからやることの結果、被害を受けた子どもの痛み、その子を持った親の悲しみ、そこまで思いいたらない。これはまさにラック・オブ・イマジネーション(想像力の欠如)で、これは非常に人間らしくない。

 人間のもっともな特徴は痛みがわかる、共感する力ではないか。それはともすれば消え去りつつある、あるいは大人になって、自分が不幸な生い立ちだとそう思えなくなる。他人にやさしくできなくなる。そうすると包容力も寛容の精神もなくなってしまう。ゆとりがなくなる。ですから、イマジネーションも自分が幸せで喜びであることが大切だということを、子どものときから芸術的なかたちで身につける必要があるのではないかと思います。殴ったら痛いでしょう、悲しいでしょう。自分が殴られたらどう思う?とか。本当に学校教育の原点ではないかと思います。それはまず家庭で行なわれる必要があると思います。

 もう1つは急に飛びますが、ダイアナ妃の事件があったとき、パパラッチが駆け寄ったとき――ご存じでしょうか。パパラッチという追っかけですね。「リーブ・ミー・アローン(ほっといて)」と虫の息の中でダイアナ妃は叫んだそうです。そのままこの世を去ったわけですが。その当事者の気持、「そっとしといて」「ほっといて」、それが遺族の方々にもある。「お気の毒さま」とか、「大変でしたね」とか、そういうことはその後の話。まずはそっとしておく。そして、何が起ったかを理解する、認識する時間、そっとする時間がほしい。ですから、事件が起ったときは被害に遭われた方と遺族の方々、交通事故でも飛行機事故でもそうです。やっぱり報道陣たちは最初の一呼吸は押さえる。人間としての節度、品位ではないかと。被害に遭われた遺族の方々の人間としての尊厳を守る。まずそれはエチケットではないかと思います。そして、その後、何がどうなったかを考え、お互いに知らせ合うと。だんだん理性が戻っていきます。

 キューブラ・ロス博士が、人はこの世を去るとき、いろいろな段階があるという5段階のことを発表していますが、この場合も同じことが言えると思います。人間心理の段階、その段階に応じたアプローチを、必要なかたちをしてあげる。何もしないという時期もある。カーテンを閉める、人の目にさらさない、二人だけにする、一人だけにするという時期とか。これは人を思いやる行為ではないかと思います。

 そして、命ということの大切さをどこまで認識しているか。人を殺してはいけないと。「殺してどうして10年の間言われましたが、本当はそれは論じるようなことではない。命がいわばすべてなわけですから、わざわざ「人を殺してはどうしていけないの?」と言わせること自体が、それをまともに受け取って「こうだよ」ということ自体がおかしい。その疑問を誰か子どもがしたとしたら、一発殴ってあげればいいのです。「痛いだろう?」と、「生きてるから、まだ痛いんだよ。君、殺されたらどうなる?」と、自分で考えさせるべきなのです。それを大人たちがああでもないこうでもないとよく言う。とても立派なことを言います。そういう疑問をもし誰か一人思ったら、あるいは何人かが思ったら、それを自分で考えさせるべきです。そこにイマジネーションの力が必要。そう、自分がこの世を去ったら、自分が誰かを殺めたらどうなるか。そういうことを考えられないようだったら、人間と言えないのではないでしょうか。ですから、そういうことを疑問にして、そして多くの人が答える。おかしな社会です。命を何だと思ってるのだという憤りを僕は感じます。命をもて遊ぶのではないよと。では、「命ってやっぱりわからない」と言うなら、「これだよ」とつねればいいのです。身体です。この身体の中に命が入っている。その身体をだめにしてしまうことなのです。傷つけてはいけない。そして、目に見えない気持、心を苦しめてはいけない。2500年前にお釈迦様はおっしゃった。「殺生戒。生きとし生けるものを傷つけ、苦しめるなかれ」と。まさに殺生戒という2500年前のことを、何で今さら言わなければいけないのか。人類が身についていないからです。そして、もう1つはやはりイエス・キリストの愛、「自分がしてほしいことを相手にしてあげなさい」、あるいは「自分がしてほしくないことは人にしてはいけません」という単純なことです。それさえもわからなければ、ゼロからもう一度勉強し直さなければいけない、人間をやり直さなければいけないというぐらい思うわけです。


(村田)

 ありがとうございました。今日は皆様方と一緒に、私どもの命のありよう、あるいは生きるということを考えさせられているわけでございますが、ここで平成17年度に熊本県警で制作されましたビデオをご覧いただきたいと思います。このビデオは犯罪のない、安全で安心して生活できる社会の実現をめざして、未来を担う子どもたちに命の大切さを伝えるために、今日ご講演いただきました葉祥明さんの協力により作成されたものでございます。「こころの声が聞こえますか~イルカの星~」というビデオでございます。それではしばらくご覧をいただきたいと思います。

 ―― 「こころの声が聞こえますか~イルカの星~」放映 ――


(村田)

 15分ほどビデオを見ていただきましたけれど、まず葉祥明さんのイマジネーションに感謝を申し上げたいと思いますし、熊本県警がこういうことをお仕事をされたことに改めて敬意を表したいと思います。

 時間の関係もありまして、そろそろまとめに入りたいと思います。まず葉さんから、今のビデオ制作にあたっての思いを含めまして、今後のご活動等々につきましてメッセージがございましたら、3~4分程度でいただければと思います。よろしくお願いいたします。


(葉)

 熊本県警からのお話があったとき、「えっ?!」と。僕のあの世界とどう結びつくのかなと思いましたが、見事に融合しました。


(村田)

 私の印象として母親の胎内にいるような思いをしましたけれど、そういう意図はございますか。


(葉)

 はい。やはり地球の3分の2は海ですから、この海と羊水の成分が一緒だということで、海のことを思えば母の胎内を思い出すでしょう。

 この本自体はもう7~8年、10年近く前にできた本です。そのときすでにこの地球上の様々な問題は人間が起こしていて、一人ひとりの心は幸せにならなければいけないのだなと思って書いたわけです。普通、人間というのはお偉いさんから、「ああしろこうしろ」「してはいけない」と言われると、反発しがちです。特に子どもたちは。そこで、このイルカとかクジラという愛らしい生き物の声を借りて伝えようというわけで、この本がこのようなかたちで多く広まっていくのは、とても喜んでおります。そして、今後とも絵本作家という立場を大いに活用して、人間たちが生きる上での様々な知恵、あるいは幸せになるための方法を絵本化していきたいと思いますが、一つ、僕は大人の男の人にメッセージを伝えるいい方法はないかなと思っています。それがまたこれからの課題です。


(村田)

 ありがとうございます。ぜひご活躍を期待したいと思いますし、私どももまた作品を拝見しながら考えていきたいと思います。

 吉田さんに今後の熊本での被害者支援の予定、あるいは課題がありましたら、メッセージとともにまとめをお願いしたいと思います。


(吉田)

 今、葉さんからも酒井さんからも本当に支援とは思いやりのある、寄り添う支援ということが非常に重要だというお話をいただきました。私どもの支援センターでも被害者の方のお話を十分にお聞きし、被害者の方が今どうしたいのか、何に困っているのか、そしてこれからどうしていったらいいのかということをセンターが主導してアドバイスするのではなくて一緒に考え、いくつかの選択肢の中から被害者の方に方向性を選んでいただくと。そのようなことに今、努めております。センターはまだ4年ちょっとしか活動をしてきていませんが、支援のほうはずいぶんと支援員さん方に動いていただいております。これからは被害者の方たちを支援をしていくなかで、今1年2年と長期にかかわって支援を続けている方々もおられますので、そういう方々が同じ被害に遭って、同じ立場の思いを一緒に語り合っていただく自助グループ的な活動ができればと思っております。これについては、ぜひ熊本の支援センターでも立ち上げて、この活動を広げていきたいと思っています。

 また、4年前にセンターの事業に関わりましたが、そのときはまだまだだった思いがいたします。この犯罪被害者週間ができて、社会が大きく被害者支援ということで動き出したのだなという実感をしております。国や県や行政の責務として被害者支援に取り組まれるようになりましたので、そちらのほうでぜひ積極的に取組みを進められ、また私たち民間の被害者支援センターが継続して活動していくことで、社会全体に被害者支援が広がっていくような役割が私たちにも期待されていると思って、これからももっとセンターでやれることをめざして頑張っていきたいと思います。


(村田)

 ありがとうございました。酒井さんにはお詫びを申し上げなければならないのですが、もっとお話いただくつもりでおりましたが、時間等々の関係でお話いただく時間が大変少ないのですが。 この熊本で今日、国民のつどいというかたちでございました。我々もこの熊本で犯罪被害者支援というものをもっとネットワークの輪を広げて、実のあるものにしていきたいと思っております。そういう意味も込めまして、今日ご紹介いたしました一行詩、あるいは今の葉祥明さんの「イルカの星」というビデオなどのご感想も含めまして、我々熊本での行動にメッセージがございましたら、ちょっと長めの5分ぐらいでお願いをしたいと思います。


(酒井)

 ありがとうございます。犯罪被害者週間ということで、ここで忘れていけないことは、やはり犯罪被害者、私たち自身がどうしていくかという話もあると思います。もちろん支援も大事ですけれども、やはり犯罪被害者自身もどうしていくかというところには目をあてなければいけない。私たちも犯罪には遭遇しましたけれども、そもそも人間として生きる望みも希望も失ってはいけないということで、私、今日時間の関係でお話できなかったことの1つに、被害者自身が自分の失った人生をどう取り戻していくのかという観点は、やはり私たち自身の口で語らなければいけないなと。よく私たちの言葉でエンパワーメントという言葉を使うのですが、エンパワーメントという言葉の意味は、私たちが再び人生に向き合っていく力を取り返すこと。やはり支援は受けますが、最終的に再び力を取り戻していくのは、自分自身の力になりますので、そのエンパワーメント。

 そして、私はつながりの再生という言葉を言うのですが、やはり犯罪に遭遇してしまいますと、すべてのことが信じられなくなります。自分自身のことも信じられなくなりますし、生きる望みも希望も失って、自分自身が世界でたった一人のような孤独感を覚えます。そういうなかからもう一度自分自身の人生の主導権を自ら取り戻して、人間と人間との信頼関係を再び築いていくこと。自分はけっして一人ではないのだと。自分自身の人生は自分で取り戻すのだと、そういった思いを抱いていくことが非常に大事になります。

 主催者側のコメントの中で、私が本に書きました「千の風」についてふれてほしいということがあったのですが、「千の風」という歌が去年の紅白あたりで急に評判になりました。去年が2006年ですが、この本を書いたのが2004年で、私たちが事件に遭ったのが2001年ですが、当初、この「千の風」という詩集を私は亡くなった麻希の主治医の歯科医の先生からもらいました。先ほど言いましたように、事件直後は何の本も読む気も起りませんし、新聞やテレビさえもいっさい見ませんし、何も目を通したくないという時期が続いていました。

 私たちは麻希が亡くなった真実は知っていましたけれども、どこで、どういうふうに被害に遭ったのかはずーっと知りませんでした。それはなぜかと言いますと、被害にあった現場がですね、先生が通報のために教室から出て行ってしまったために、事件現場は幼い小学校2年生の子どもと犯人だけという状態だったものですから、私たちは子どもたちに「うちの麻希はどうだったの?」と聞いても、子どもたちも「全然わからない」とか、「麻希ちゃんはあっちのほうへ歩いていった」とか、いろいろな情報があって、親の私たちでさえ、麻希がどういう状況で、どんな場面で、どう被害に遭ったかがずーっとわからなかったのです。 ところが、事件から5ヶ月後に大阪府警から電話がありました。私たちがお願いしたわけではないのですが、実は大阪府警が独自に現場にあった血痕を、血の跡をDNA鑑定してくださって、やっと自分たちの娘がどこで、どういうふうに被害に遭ったか、そしてどこを、どう逃げていったかということを知りました。そのなかで、私たちは事件後、うちの子どもが被害に遭い、身体中の4ヶ所を刺されながらも、なんと50メートルも必死の思いで逃げていったと、頑張ったんだということを知りました。私はそのときふと気がつきまして、私たちは親が一番苦しくて、悲しいと思ってましたけれども、やはり一番の被害者は私たちの娘、麻希ではなかったか。身体中を刺され、身体から多くの血を流しながら、なんとか頑張りたい、生きたいと思って、必死の思いで歩いた50メートル。私たちはそこにやっとたどりついたときに、初めて「千の風」という本があったことを思い出して、もう一回読み直してみました。

 私たちは明けても暮れても泣いてばかりいましたけれども、泣くことが親の務めではないなと。子どもは亡くなってしまったけれども、亡くなってしまった子どものためにも、生きている子どものためにも、そして私たちのためにももう一度歩まなければいけないと。そういった力を授けてくれたのが、この「千の風になって」という詩で、先ほど申しましたが、私たちがもう一度人生の主導権を持って、被害者自身が立ち直っていくこと、それが非常に大事ではないかなと感じました。今後もこうした命の大切さということを子どもたち自身が学んでいってくださって、しっかり生きていくということを、私は犯罪被害者として望んでいきたいと思います。


(村田)

 ありがとうございます。今日は私は何度か目がうるっとする場面がございました。お三方からいろいろなお話を伺うなかで、私どもが今後、犯罪被害者支援ということに関わっていく、さらにバージョンアップしていくような、そういう思いをいたしております。特に命、心、そういう根幹にかかわる、我々生きるという、人生そのものに関わるような思いがいたしております。

 現在、私ども県のほうでは、この支援に対する指針作りをいたしております。冒頭お話をしましたが、年度内にも公表する予定でございます。犯罪に遭われた方々や、そのご家族、ご遺族の方々が一日も早く平穏な生活を取り戻すことができるよう、施策を進めてまいりたいと考えております。また、本日のような大会を通して、犯罪被害者等が置かれた現状や支援、その必要性、さらには共に支え合う社会環境づくりに取り組んでまいりたいと考えております。どうぞ、皆様方におかれましても、より一層のご支援をお願い申し上げたいと思います。本日は長時間にわたり、ご清聴いただきまして、ありがとうございました。以上でパネルディスカッションを終了いたします。