第2節 極左暴力集団等の現状

1 組織の現況

(1) 組織及び勢力
 極左暴力集団の主なセクトは、図1-1のとおりであり、5グループ22セクト(5流22派)に分かれている。このほかにアナーキストグループやノンセクト・黒ヘルグループがある。勢力は、全体で約3万5,000人で、昭和44年の約5万3,500人をピークに減少し、49年以降は、横ばいの状態が続いている。
○ 革共同系
 革共同系は、中核派、革マル派及び第四インター日本支部に分かれており、現在、最も活発な活動を行っている。
 各派の勢力は、中核派が約5,000人、革マル派が約4,000人、第四インター日本支部が約2,000人である。
○ 共産同系
 共産同系は、革共同系と並んで過激な闘争の主役を演じてきたものであり、現在、戦旗・荒派、戦旗・両川派、赤軍派等12のセクトに分裂している。
 このうち、戦旗・荒派及び戦旗・両川派は、成田闘争等への取組の中で現在も「ゲリラ」事件を引き起こしている。両派の勢力は、戦旗・荒派が約700人、戦旗・両川派が約400人である。
○ 革労協系
 革労協系は、現在、革労協狭間派と同反狭間派に分裂しており、狭間

図1-1 極左暴力集団の系統図

派を中心にして、成田闘争等で活発な活動を展開している。勢力は、全体で約2,500人である。
○ 構造改革派系
 構造改革派系は、「70年闘争」では過激な活動を行ったが、現在では、その勢力もわずかとなっている。この中では、共労党(勢力約500人)が成田闘争の中で「ゲリラ」事件を引き起こしている。
○ 親中共派系
 親中共派系には、派出所襲撃事件やいわゆる連合赤軍事件を引き起こした日共革命左派神奈川県委等があるが、現在では、過激な路線から遠ざかっている。
○ アナーキストグループ
 アナーキストグループは、「反権力」、「無支配」を基調とするグループで、戦後間もなく日本アナキスト連盟や日本アナキストクラブが組織されたが、その後は群小グループが離合集散を繰り返し、現在に至っている。
○ ノンセクト・黒ヘルグループ
 ノンセクト・黒ヘルグループは、以上のいずれにも属さない無党派急進グループで、40年代に既成のセクトが分裂と対立を繰り返す中で、組織に縛られることを嫌い、気の合う者同志が小人数のグループを作る形で生まれたものであるため、思想的にも様々である。
 46年に「警視庁追分派出所クリスマスツリー爆弾事件」等を引き起こした鎌田グループや、49年から50年にかけて「連続企業爆破事件」を引き起こした東アジア反日武装戦線は、これに属する。
(2) 組織は学生主体から労働者主体へと変質
 極左暴力集団の組織の特徴の一つは、かつては学生主体の組織で、学生が行動の前面に立っていたこともあり、極左暴力集団とは学生の集団であり、極左暴力集団の行動は学生運動であるとみられていたものが、最近では、労働者主体の組織へと変質したことである。
 45年ころには、学生と労働者の割合は7対3で、学生が多数を占めていたが、その後は、学生活動家が減少したことにより労働者の比率が年々高まり、55年ころからは、学生3対労働者7の割合となっている。
 これは、
○ かつての学生活動家で確信的な者は、職に就いてからも活動してること
○ 内ゲバの続発等により学生の極左批判が進んだことや社会の安定化に伴い学生気質が変化したことなどから、学生に対するオルグ活動が進んでいないこと
などによるものとみられる。
 このような変化により、極左暴力集団の組織は、全体的に平均年齢が高まり、闘争形態も、学生運動依存型の集団武装闘争から、非公然・軍事組織の活動家依存型の「テロ、ゲリラ」へと推移していくこととなった。このことは、一面、いわゆる筋金入りの活動家が中心となって組織が質的に強化されたことを意味している。
(3) 非公然化、軍事化
 もう一つの最近の組織の特徴は、非公然化、軍事化を進めていることである。
 極左暴力集団は、孤立化と街頭闘争の行き詰まりの中で、46年ころから、「テロ、ゲリラ」の専門部隊である非公然・軍事組織の建設に着手し、その後も、これを組織強化の第一の課題とした。この場合、軍事組織の温存を図るため、すなわち、警察の摘発を避け、また、対立セクトからの襲撃に備えるため、軍事組織の構成員をデモ等の公然活動に参加させず、潜行活動を行わせるなどの非公然化を図った。
 また、このような動きに伴って、「軍」のみならず組織全体の非公然化も進められている。
 この結果、「テロ、ゲリラ」は、年々悪質かつ巧妙となって、被害が増大する一方検挙は困難となり、また、組織の実態把握も困難となっている。
ア 「テロ、ゲリラ」の専門部隊
 主な軍事組織としては、中核派の「人民革命軍・武装遊撃隊」、革労協の「プロレタリア統一戦線戦闘団」、革マル派の「特別行動隊」等があり、その勢力は、最も大きい中核派「人民革命軍・武装遊撃隊」が200~300人で、他のセクトを合わせて全体で数百人位と推定されている。また、これらのメンバーの多くは、「70年闘争」にかかわってきたいわゆる筋金入りの活動家で、逮捕歴を有する者や指名手配中の者も多い。
 なお、これらの軍事組織の活動は、カンパ(主として組織内の上納金であるが、一部は組織外からも集めている。)、党費、機関紙販売等公然部門で集められた資金によって賄われている。
 組織構成は、例えば、中核派の「人民革命軍・武装遊撃隊」では、「中央軍事委員会」の下に、完全な縦割り組織として作られており、「関東革命軍」、「関西革命軍」というように地域割りが行われている。これらの各「革命軍」は、[1]「テロ、ゲリラ」や内ゲバを直接実行する部隊、[2]攻撃対象等の調査を行う部隊、[3]爆弾等武器の開発、製造に当たる部隊、[4]連絡、輸送、防衛を任務とする部隊等に分かれ、さらに、武器製造部隊は、爆弾本体を作るグループ、発射装置を作るグループ、時限装置を作るグループ等といったように小人数のグループに分かれており、それぞれのグループで作った装置を1箇所に集めて武器を完成させるといった方法を取っている。
 これらの軍事組織は、たとえ一部が警察に検挙、摘発されてもその全容が分からないように、グループ間の横のつながりをなくし、上下のつながりも極端に制限するなど、組織防衛を第一に組み立てられている。各構成員同士は、所属するグループが違えばお互いが全く分からないようになっているほか、同じグループの中でも互いを異名で呼び合うといったように、その防衛措置は徹底を極めている。
 組織の指示、連絡は、各グループの責任者の会議での伝達や、伝令による方法が取られているが、このような会議の開催日や開催場所はもちろん、出席者についても特定の幹部以外には知らせず、集合に当たっても防衛員を配置するなど、細心の注意が払われている。
 また、報告、連絡等を文書によって行う場合でも、即座に廃棄できるように水溶紙の使用を義務付けているほか、万一、警察や対立セクトの手に渡っても内容が容易に判読されないように、暗号や隠語を使い、個人の識別も番号やアルファベット等を用いて、特定の者以外には全く分からないようにしている。
イ 非公然活動家の実態
 軍事組織構成員等の非公然活動家は、市民社会の中で自らの正体を隠し、徹底した潜行活動を行っている。非公然活動家の潜伏方法については、例えば、革労協が「暮しの手帖」と題する非公然資料を流し、その中で、「左翼的な言葉は使わない」、「ドアを開いた時、室内が見えないようカーテンでふさぐ」などとこと細かに示しているように、各セクトとも、アジトの設定や防衛方法、尾行に対する警戒要領、対立セクトヘの対処要領等を示して、活動家に周知徹底させている。また、非公然活動家の中には、爆弾事件等で指名手配されている者も多いが、これらの者も、単に逃走、潜伏しているだけでなく、警察の追及や市民の目をかいくぐって、爆弾等の凶器を製造するなどの活動を行っている。

(ア) 潜伏状況
 摘発事例等からみた具体的な潜伏状況は、次のようなものである。
 アジトは、家賃の安いアパート等を使うことが多く、入居に当たっては、実在する他人や架空の名前を使って身元を偽り、単身赴任者や夫婦を装うほか、家主、管理人や隣人にタオルや石けんを配ってあいさつを行うなど、近隣に不審感を持たれないようにしている。最近は、警察の追及を逃れるため、料金の安い旅館やビジネスホテルを転々とすることも多いが、この場合も、宿帳には虚偽の住所、氏名、会社名等を記載し、また、長期滞在の場合は、翻訳や執筆の仕事をしているなどと理由を付け、不自然にならないようにしている。
 日常の生活においても、近所の人には礼儀正しく笑顔であいさつを交わすなど、平凡な市民を装うとともに、サラリーマンらしくみせるため、毎日定時に出勤し、帰宅するといった体を装っている。中には、外出しない場合でも、隣家に不審がられないように必ずドアの開閉をして、外出したようにみせかけるといった手の込んだ偽装をする者もいる。また、単身や夫婦だけの生活を装いながら、実際は、他の活動家がひそかに同居し、外出等は一切せずに部屋の中で終日音をころして爆弾等の製造を行っていた例もあった。
 非公然活動家は、アルバイトをすることも多いが、ほとんどは、日給か週払いの簡単に働ける業種で、できる限り対人接触の少ない仕事を探し、偽名を使って稼働している。アルバイト先での勤務ぶりはまじめであるが、極力目立たないようにし、職場での付き合いも決して深入りしないようにしている。
(イ) 防衛状況
 非公然活動家は、警察の摘発を避け、また、対立セクトからの襲撃に備えるため、細心の注意を払っている。
 アジトへの転入、転出は、レンタカー等を利用し、小人数で目立たない時間帯に行い、転出後新たなアジトに転入するまでに、他の場所に一時荷物を預けたり、尾行されないように数県にまたがって遠回りするといった行動を取ることもある。また、アジト転入とともに錠を付け替えたり、補助錠を付けるといったことのほか、窓を内側から補強するなどの措置を講じている。
 アジトでの平素の生活においては、部屋の内部を見られたり、内部の人の動きなどが外部に漏れることを極端に警戒し、窓を厚手のカーテンでふさぎ、玄関の中にも大きなカーテンをつるなどしている。さらに、外出時等に無断で部屋に入られることも想定し、ドアの内側に計数器を取り付けたり、ドアや部屋のふすまの目立たないところに糸やテープをはるなどして、留守中に開閉されていれば、そのずれなどによってすぐ分かるようにしている。また、アジト周辺を厳しく点検し、駐車車両等の調査や訪問者の尾行等も行い、少しでも不審と思われる点があれば、すぐにアジトを引き払うといった措置を採っている。
 爆弾等武器の製造過程での防衛は特に厳しく、中でも「光」、「音」、「声」には最大の注意を払い、作業場に充てた部屋に黒ビニールの内張りをする、声を潜めて会話する、防衛要員を決めてアジト周辺を徒歩で警戒する、双眼鏡を使って周辺を監視するなどといった徹底ぶりである。
 文書類の管理面についても防衛措置を徹底しており、報告、指示その他の重要書類にはすべて水溶紙を使い、浴槽や部屋の中のバケツに常に水を張っておき、警察の捜索等の際には即座に廃棄できるようにしている。また、特に重要なものは、下着の中等自分自身の身に着けている場合が多い。
 目的地に向かうに当たっては、いったん全く反対の方に向かう、電車やタクシー等を頻繁に乗り継ぐ、電車やバスに乗る際にわざと一つ次を待って乗るなどして、その間、尾行や張り込みをしている者がないかを点検する。そして、少しでも疑わしい状況が感じられた場合には、目的地に行くのを断念してでも、普通では考えられないような手段、コースを取って動き回り、さらに、完全に安全だと思うまで繰り返し点検を行っている。これまで確認した例では、わずか数キロメートルの距離を行くのに3時間以上かけて、バス、電車の乗り継ぎや点検を繰り返したものもあった。
 また、特に、アジト周辺においては、「ひばりの原則」と称する点検行動を取ることを義務付けられている。これは、ひばりが巣に帰る場合、いったん離れた場所に降り、そこから巣に走り込む習性があることから名付けられたもので、例えば、電車を利用した際は、アジトの最寄りの駅で下車することなく、幾つか離れた駅で降り、また、その駅も、毎回違った駅を利用して、場合によっては1時間以上も歩き、尾行や張り込みに対する点検を行った後アジトに入るといったものである。
(ウ) 生活状況
 非公然活動家は、さらに、日常活動の細部について、定期的に上部組織に報告して点検を受けることを義務付けられている。家族と会うことについても極端に制限され、組織指導部の許可を要するのはもちろん、接触プランについて細部まで組織の点検を受け、これが通らなければ会うこともできないといった生活を送っている。また、アルバイト等の収入は組織に上納し、組織から支給される金で生活しているが、そのほとんどはアジトの部屋代、交通費、接触費等の活動費として使うことから、生活は極めて質素にすることを余儀なくされており、食費も極端に切り詰めている。中には、パンの耳を主食にしながら非公然活動を行っている者もあった。
〔事例1〕 四日市アジト
 昭和60年1月9日、四日市市で、アパートの一室を武器の研究開発等に使っていた中核派の非公然アジトを摘発するとともに、非公然活動家2人を逮捕、収監した。このアジトでは、表面上は不動産会社のセールスマンの一人暮らしと偽り、毎日、出勤を装うため、ドアの開閉を行って外出する姿勢を近隣に知らせるなどの工作をしながら、室内で男2人がひそかに新型ロケット弾の研究開発等を行 っていた。特に、逃亡被告人であった一人の活動家は、ほとんど外出せず、他の一人が外出中は、トイレの水音を立てないようにするため「しびん」で用を足しながら、留守宅を装って潜伏していた。また、防衛のため、玄関ドアの裏側に計数器を設置し、玄関と台所の境にのぞき穴付きのカーテンをつっていたほか、浴槽に水を張り、台所に水を入れたポリバケツを置いて、いつでも水溶紙書類の廃棄ができるようにしていた。さらに、外出時には、最寄りの駅を全く利用せず、隣の駅まで20分以上歩いたり、遠くの駅までバスを利用するほか、早朝にはアジト周辺の自動車調査をするなどの措置を採っていた。日常生活は質素で、食費については一人当たり毎月1万5,000円を目標にするといった切り詰めたものであった(三重)。
〔事例2〕 盛岡アジト
 61年10月12日、盛岡市郊外で、賃貸の一戸建て住宅を武器工場として使っていた中核派の非公然アジトを摘発するとともに、爆弾等の製造に従事していた非公然活動家5人を逮捕し、爆弾の原材料等多数を押収した。このアジトでは、男女5人の非公然活動家が共同生活を営んでいたが、表面上は夫婦二人暮らしを装い、入居時には近所に石けんを配ってあいさつしたほか、「夫」は毎日定時に近くの工場に出勤、帰宅し、「妻」も努めて主婦を装い、道路等で顔見知りに会えば笑顔で会釈するなど、ごく一般的なサラリーマン家庭にみせかけていた。しかし、アジトの2階には、旋盤、火薬調合器等の製造工具一式のほか、多量の火薬類原料等を持ち込み、2階の一部を火薬類等製造のための作業場に改造し、本格的な爆弾製造工場として「圧力釜爆弾」等を製造していた。このため、防衛や点検も極めて厳重で、窓のカーテンは絶対に開けず、洗濯物もほとんど表に干さないほか、2階作業場には黒ビニールの内張りをし、お互い の会話も極力声を潜め、任務を決めてアジト周辺を徒歩で警戒し、アジトから双眼鏡により監視を行うなど、徹底したものであった(岩手)。

2 「テロ、ゲリラ」の現況

(1) 「テロ、ゲリラ」の論理
 極左暴力集団が、平和な民主主義社会の中で、常識では理解できないような「テロ、ゲリラ」を引き起こしているのは、今これを行うことが、革命を達成していく道であると考えているからである。この考えは、極左暴力集団独特の現状認識と革命戦略等に由来している。
 極左暴力集団の多くは、現在の社会について、世界革命か世界戦争が避けられない危機的状況にあるととらえるとともに、革命に立ち上がるに必要な社会的情勢、すなわち「革命情勢」(注)が急激に接近してきていると受け止めている。
(注) 「革命情勢」について、レーニンは、次の主要な徴候がある場合であるとしている。[1]支配階級にとって、今までどおりの形でその支配を維持することが不可能なこと。[2]被抑圧階級の欠乏と困窮が普通以上に激化すること。[3]以上の諸原因によって、大衆の活動性が著しく高まること。
 さらに、このような情勢下において、「革命勢力」としては、単に「革命情勢」の到来を待つのではなく、主体的に危機を激化させて、「革命情勢」を促進し、武装蜂起の条件を作り出すとともに、武装蜂起することができる主体的力量を備えた組織作り等の準備を進めることが必要であると考えている。
 また、戦術的には、権力が圧倒的に優勢であり革命勢力が劣勢である 情勢下においては、間断のない小戦争(ゲリラ、パルチザン戦)を繰り返す持久戦を展開しなければならないと考えており、このような考えから、我が国のように、世界有数の経済力を持ち、治安が確立した国においては、「ゲリラ」戦によって社会の混乱状態を作り出すことが必要不可欠であるとしている。
 極左暴力集団は、このような考えを基にして、「テロ、ゲリラ」については、これを体制がはらむ矛盾、危機を露呈し、激化させ、かつ、自らの安全を図る最も効果的な戦術であり、また、内ゲバについては、警察を打倒する前にまず打倒しなければならない民間反革命勢力との戦いであるとそれぞれ位置付けて、悪質な「ゲリラ」事件や内ゲバ事件を引き起こしているのである。
 なお、内ゲバについては、これを革命戦略の一環であると理論付け、正当化しているが、基本的には、思想集団特有の党派闘争であり、自派こそが革命を進める唯一の前衛党で、これに反対する勢力は革命の敵、すなわち反革命勢力であるという考え方に基づくもので、これが極左暴力集団の暴力的体質により、内ゲバという形で現れているものとみられる。
(2) 凶悪化する「ゲリラ」事件
ア 発生状況
 過去10年間の極左暴力集団による「ゲリラ」事件の発生状況は、図1-2のとおりである。この間、「ゲリラ」事件は、22都府県にわたり531件発生し、多くの死傷者や物的被害を出している。
 過去10年間の「ゲリラ」事件を犯行セクト別にみると、表1-3のとおりで、中核派によるものが259件(48.8%)で最も多く、次いで革労協86件(16.2%)、戦旗・荒派58件(10.9%)の順となっている。
 これらの各セクトは、ほとんどの「ゲリラ」事件において、「大勝利を

図1-2 「ゲリラ」事件の発生状況(昭和53~62年)

表1-3 「ゲリラ」事件の犯行セクト別発生状況(昭和53~62年)

勝ちとった」などと自派の犯行であることを誇示する声明をビラや機関紙に掲載したり、報道機関へ通報するなどして、犯行を自認している。
 極左暴力集団は、主要国首脳会議開催時にはその粉砕を叫び、国鉄分割・民営化に当たってはこれに反対するといったように、その時々の闘争課題を掲げて「ゲリラ」事件を引き起こしているが、成田闘争については、42年以来の恒常的課題として、すべての闘争の中心に据えて取り組んでいる。過去10年間の主な闘争目標別「ゲリラ」事件の発生状況は、表1-4のとおりである。

表1-4 主な闘争目標別「ゲリラ」事件の発生状況(昭和53~62年)

イ 特徴
(ア) 悪質化する凶器
 「ゲリラ」事件の使用凶器は、49年から50年にかけて発生した「連続企業爆破事件」等の爆弾テロの終息後は、火炎びんが主流であったが、53、54年からは、時限式発火装置や火炎車がこれに取って代わった。さらに、59年には発射装置も出現し、翌60年にはこれによって爆発物が発射されるなど、極左暴力集団が使用する凶器は、最近、極めて悪質化するとともに、技術的にも高度化している。過去10年間の「ゲリラ」事件に使用された主な凶器の状況は、表1-5のとおりである。

表1-5 「ゲリラ」事件に使用された主な凶器の状況(昭和53~62年)

a 時限式発火装置
 時限式発火装置が最初に使われたのは、52年2月の革労協による「共同通信会館放火未遂事件」(東京)で、以後、各派で頻繁に使われだし、たちまち「ゲリラ」事件使用凶器の主流となり、現在に至っている。また、53年3月の中核派による「日航広島営業所放火未遂事件」(広島)以後、時限装置にICが使われるようになり、59年4月の中核派による「大阪科学技術センター放火事件」(大阪)では、発火装置の燃焼媒介物としてテルミット(注)が使用され始めるなど、精度、性能とも高まっている。
(注) テルミットとは、酸化第二鉄とアルミニウム粉末の混合物で、点火具等を用いて熱を加えると、酸化・還元反応により2,500~3,000゜Cの高熱を発する。
 現在使われている時限式発火装置は、時限装置にはデジタル時計やICを用いた手製タイマーが使われ、発火装置には、点火用電源として乾電池等が使われ、テルミットや発煙筒を第一次的着火物として灯油等を燃

焼させる方法が取られているのが一般的である。
 なお、時限装置は、このような発火装置だけでなく、最近の発射装置や爆発物使用の「ゲリラ」事件にも使用されている。
b 火炎車
 火炎車を使用した「ゲリラ」事件は、51年10月の革労協による「防衛庁東門自動車激突炎上事件」に端を発し、53、54年には頻発した。当初は、無人自動車を発火炎上させた上、目標に向かって暴走、激突させるなどの方法によるものであった。 54年には、これに加えて、自動車に火炎を放射する装置を付けたものが出現し、55年以降この方法によるものが中心となったが、61年3月以降火炎車による「ゲリラ」事件の発生はみられない。
〔事例1〕 自由民主党本部火炎車放火事件
 59年9月19日夜、自由民主党本部の建物が普通貨物自動車に積載した火炎放射装置によって放火された。この事件は、盗難車2台に50キログラムLPGボンベ等から成る時限式火炎放射装置を積載し、宅配便の車両に偽装して配達を装い、自由民主党本部裏の駐車場に駐車し、火炎を放射したものである(東京)。
〔事例2〕 運輸省横路上火炎車事件
 56年6月8日早朝、霞が関第3合同庁舎(運輸省、建設省)が普通貨物自動車に積載した火炎放射装置によって放火され、同庁舎建物の外壁を焦がしたほか、1階から8階までの窓ガラスやブラインドを破損した(東京)。
c 発射装置
 発射装置使用「ゲリラ」事件は、主にトラックやワゴン車の荷台に積載した発射筒から、黒色火薬等を推進薬として、火炎びん(物)、金属弾、爆発物等を撃ち出す方法によるものである。59年9月の中核派による「大阪第二法務合同庁舎火炎びん大量発射事件」(大阪)で、24発の棒付き火炎びんを発射したのが始まりで、このときは、最長飛距離が約200メートルで、威力も小さく性能も低いものであったが、61年5月の「迎賓館に向けた爆発物発射事件」(東京)においては、爆発物の飛距離が約3.5キロメートルにも及び、方向性も極めて正確なものとなるなど、その性能は、短期間に飛躍的に高まった。
〔事例1〕 迎賓館に向けた爆発物発射事件
 61年5月4日夕、主要国首脳会議歓迎行事を挙行中の迎賓館に向けて、約2.5キロメートル離れた新宿区矢来町のマンションの一室から5発の爆発物が発射された。この事件では、長さ約1.5メートルの発射筒5本から成る時限式発射装置が使われ、爆発物は、迎賓館を飛び越えて、発射地点から約3.5キロメートル離れた港区赤坂の路上やビルの屋上等に落下、爆発したが、幸い大きな被害はなかった(東京)。
〔事例2〕 皇居、北の丸公園に向けた爆発物発射事件
 62年8月27日夜、千代田区猿楽町の路上に駐車された普通貨物自動車(保冷車)に搭載された発射装置から、皇居、北の丸方向に向けて爆発物5発が発射された。この事件では、長さ約75センチメートルの発射筒5本を鉄製アングルで固定した時限式発射装置が使われ、爆発物は、発射地点から約750メートルから1,000メートル離れた北の丸公園等に落下、爆発し、居合わせた高校生が負傷するなどの被害が出た(東京)。
d 爆弾
 爆発物使用の「ゲリラ」事件では、現在、手製の黒色火薬や塩素酸塩系爆薬が主に使用されている。爆発物使用事件は、54年10月の「第2ハザマビル工事事務所爆弾事件」(東京)以後、発生が途絶えていたが、60年1月の中核派による「在大阪神戸米国総領事館爆発物発射事件」(兵庫)で、時限式発射装置から塩化ビニールパイプを使った爆発物が発射されたのを皮切りに再び続発し、さらに、金属製の本格的爆弾が使用され、火薬量も増加するなど、性能、威力とも一段と高まった。また、61年10月に中核派が製造し、使用前に発見、押収された「圧力釜爆弾」は、市販の圧力釜に約6キログラムの爆薬と約60個の鉛球を詰めた殺傷力の極めて強いもので、爆弾からコードを引いて手元のスイッチにより爆発させ、攻撃対象を確実にねらって殺傷する目的のものであった。
 62年に発生した爆発物使用事件は、表1-6のとおりで、11件のすべてが中核派によって引き起こされたものである。そのうち9件が強力な設置式の爆弾によるものであった。中でも、10月26日の「神奈川県茅ヶ崎警察署東海岸独身寮敷地内爆弾事件」は、自動車に爆発物を仕込んで爆破するという、自動車爆弾ともいうべき新たな手口のものであった。

〔事例1〕 新東京国際空港工事関連企業に対する同時多発爆弾事件
 62年3月14日早朝、千葉県内に所在する国土総合建設君津出張所等2箇所をはじめ東京1、茨城1、埼玉1の4都県5箇所に所在する空港工事関連企業の事務所及び作業員宿舎が中核派によって爆

表1-6 爆発物使用「ゲリラ」事件(昭和62年)

破され、宿舎で就寝中の作業員1人が負傷した。事件では、強力な時限式の爆弾が使われ、設置箇所付近が大破した。
〔事例2〕 神奈川県茅ヶ崎警察署東海岸独身寮敷地内爆弾事件
 62年10月26日未明、中核派が独身寮敷地内に時限式の爆弾を積載した普通乗用自動車を駐車させて、車もろとも爆破、炎上させ、付近に駐車中の車両3台が全焼又は破損したほか、独身寮の窓ガラス等が破損した。この事件では、爆発とともに火柱が約14、15メートル上がるのが目撃されているほか、車両屋根部が約20メートル吹き飛び、破片等が3階建ての寮を飛び越えて散乱するなど、極めて強力な爆弾が使用された(神奈川)。

(イ) 多様化する攻撃対象
 極左暴力集団による「ゲリラ」事件の攻撃対象は、皇室関係施設、警察施設や自衛隊施設等の官公庁施設、外国公館、米軍施設、鉄道関係施設、新東京国際空港関係施設、公務員や成田関係業者等の個人宅等と極めて多様化している。
 民間企業を攻撃対象とした「ゲリラ」事件は、最近5年間で63件に上っており、従来は、新東京国際空港関連工事の元請業者等、直接に工事を請け負っている企業が主な攻撃対象であったが、最近は、下請業者や孫請業者にまで攻撃対象が拡大している。
 また、官庁、公団等の職員等の個人宅を攻撃対象とした「ゲリラ」事件は、59年の6件をはじめとして、62年までに29件発生している。
 さらに、極左暴力集団は、社会を混乱させる目的で、都市機能を破壊し、不特定多数の一般市民を巻き込む「ゲリラ」事件を引き起こしている。このうち、国鉄線に対する「ゲリラ」事件は、従来は1箇所ないし数箇所に対する比較的小規模なものであったが、60年には、同時に33箇所の通信ケーブル等を時限式発火装置、カッター等で切断、損壊して国鉄線をまひさせる大規模な事件を引き起こし、続く61年にも、同様の同時多発「ゲリラ」事件を起こしている。
〔事例1〕 民間企業をねらった「ゲリラ」事件
 58年6月7日未明、新東京国際空港関連工事を請け負っている東鉄工業の事務所兼作業員宿舎(プレハブ平屋建て)が中核派の時限式発火装置により放火され、同所に宿泊中の同社社員2人が焼死し、1人が重傷を負った(千葉)。
〔事例2〕 民間企業をねらった「ゲリラ」事件
 62年7月12日深夜から13日未明にかけて、茨城及び千葉県下11箇所において、戦旗・荒派による空港関連業者等に対する同時多発「ゲリラ」事件が発生した。この事件では、下請や孫請業者のほか、これらと取引関係があるというだけの業者等の車両27台や建物が時限式発火装置により放火された。
〔事例3〕 個人宅をねらった「ゲリラ」事件
 61年9月4日未明、伊勢原市で、運輸省航空局職員の建築中の家屋が中核派の時限式発火装置により放火されて全焼し、周辺家屋7戸が類焼により全半焼した。被害者は、運輸省航空局勤務とはいえ、これまで成田空港建設にかかわったことはなかった(神奈川)。
〔事例4〕 国鉄線に対する同時多発「ゲリラ」事件
 60年11月29日の未明から朝にかけて、東京、埼玉、千葉、神奈川、京都、大阪、岡山、広島の8都府県下33箇所で、国鉄線の運行に直接関係している通信ケーブル、変電所、信号ボックス等が切断、放火され、多数の電車が運休、遅延し、国鉄線がまひ状態になった。さらに、これと連動して、同日朝、100人余りの極左暴力集団が総武 線浅草橋駅を襲撃し、火炎びん等で駅舎に放火し、これを炎上させた。この事件では、国家公務員2人、地方公務員2人、国鉄職員2人を含む47人を逮捕した。
 また、61年4月29日には大阪等3府県下5箇所で、61年9月24日には東京等5都県下22箇所で、同様の「ゲリラ」事件が発生した。これらは、いずれも「国鉄分割・民営化阻止」を叫ぶ中核派による犯行であった。

(ウ) 巧妙化する犯行手段
 極左暴力集団は、「ゲリラ」事件を実行するに当たっては、確実に攻撃目標に到達してこれに打撃を与えるとともに、逃走を容易にし、以後の警察の捜査の手から逃れるため、最近、ますます犯行の手段を巧妙化させている。
 極左暴力集団は、車両使用の「ゲリラ」事件では、そのほとんどに盗難車を使用しているが、これらの車両は、遠隔地の駐車場から計画的に 盗み出し、塗色を変えたり、偽造ナンバープレートを取り付けるなどの偽装を施すことが多い。特に、ナンバープレートは、最近、一見しただけでは真正なものと区別がつかないほど精巧なものが使われるなど、その偽造技術は著しく向上している。また、使用するナンバーは、あらかじめ実在する他の類似の型の車を調査し、しかも、「ゲリラ」実行地域の陸運支局等の記号に合わせるなど、巧妙な手段を取っている。過去10年間における盗難車、偽造ナンバー使用「ゲリラ」事件の発生状況は、表1-7のとおりである。

表1-7 盗難車、偽造ナンバー使用「ゲリラ」事件の発生状況(昭和53~62年)

 犯行に当たっては、使用車両に野菜等を積んで農作業用自動車を装う、道路工事用機材を積んで工事用車両を装う、家具等を積んで引っ越し車両を装う、ビールケースを積んで酒店の配達車両を装う、貨物自動車を宅配便の車両に見せるように塗装、装飾する、運転席に「現在配達中」と書いた紙をはるなどして荷物の配達中に見せかけるというように、犯行場所に合わせた偽装を施すほか、犯人自身も宅配便の集配人に変装するなどの巧みな方法によって、人目をごまかしている。
 また、発射装置を設置したマンションの窓や車のトランク等が時限装置により自動的に開くように改造を加えることもある。さらに、犯行後は、使用車両等を時限式発火装置により燃やすなどの方法により、証拠隠滅を図っていることも多い。
〔事例1〕 革労協による消防用自動車を偽装した「ゲリラ」事件  60年10月20日夕、新東京国際空港管理棟ビル前路上に停車した普通貨物自動車に搭載された発射装置から、多数の鉄の玉が同ビルに向けて発射された。なお、火炎放射装置も積載されていたが、これは作動しなかった。同車両は、赤色に塗り替えられ、ドア部分に地元消防署の名前が記載されていたほか、同署に実在する車両のナンバーを用いた偽造プレートが取り付けられているなど、実在の消防用自動車に偽装されていた。しかも、空港内に侵入する直前に、同空港第1駐車場内で個人タクシーに偽装した車両に放火して、その消火に向かうものと思わせるなど、手の込んだ手法を用いていた(千葉)。
〔事例2〕 中核派による配達中の営業車を偽装した「ゲリラ」事件  62年8月27日、千代田区の路上に駐車された普通貨物自動車(保冷車)に搭載された発射装置から、皇居、北の丸公園に向けて爆発物が発射された。この保冷車は、神奈川県下で盗まれたもので、偽造した営業用ナンバープレートを取り付け、車両の塗色も黄から青に変えられていたほか、発射台の周辺には、じゃが芋を入れたダンボール箱を積み上げて、荷台後部ドアを開いても見えないようにし、窓ガラスには「現在配達中」と書いた紙をはり付けるなどの偽装工作がなされていた。また、保冷車の屋根の一部は、発射角度に合わせて切り取られ、現場到着後にワイヤ一を引いて開けられるように改造されており、さらに、発射弾を発射した後、運転席及び荷台を時限式発火装置により燃やすなどの証拠隠滅を図っていた。この事件では、逃走用に使ったとみられる普通乗用自動車も発見されているが、これも、盗難車に偽造ナンバープレートを付けたもので、使

用後は時限式発火装置により燃やされていた(東京)。
(3) 陰湿、残忍な内ゲバ事件
ア 発生状況
 過去10年間の極左暴力集団による内ゲバ事件の発生状況は、図1-3のとおりで、過去10年間に123件発生しており、死者28人、負傷者175人を数えている。昭和56年以降は、発生件数は減少しているが、58年以降途絶えていた内ゲバによる殺人事件が61年に2件発生したほか、内容的にも、被害者に手錠をかけた上凶器で乱打する事件や、人目もはばからず駅構内で通勤途上の被害者を凶器で乱打する事件といった陰湿、残忍な事件が発生している。また、極左暴力集団は、このような凶悪な内ゲバ事件を犯しながらも、「ゲリラ」事件と同様、犯行を自認してこれを誇示するとともに、内ゲバ事件を更に熾(し)烈化させることを表明する場合がほとんどである。
 過去10年間の極左暴力集団相互間の内ゲバ事件107件をセクト別にみると、革マル派対中核派が59件、革マル派対革労協が23件となって

図1-3 内ゲバ事件の発生状況(昭和53~62年)

いる。
イ 特徴
(ア) 大半が個人「テロ」
 36年に始まった極左暴力集団による内ゲバの形態は、47年ころまでは、全学連大会や学園紛争、大衆運動の中でのトラブルや主導権争いのため発生した集団遭遇戦が大半を占めていたが、48年からは、被害者の再起不能や殺害をねらった個人「テロ」の様相を深めた。
 過去10年間では、内ゲバ事件123件のうち夜間に就寝中の被害者をねらうなど個人宅を襲撃する形態の個人「テロ」が38件、通勤途上等を待ち伏せて襲撃する形態のものが37件発生している。
 極左暴力集団は、現在、内ゲバについて、革命闘争そのものと位置付けて対立セクトの「せん滅」を目指しているが、組織を防衛しつつ対立 セクトに大きな打撃を与えるためには、相手が無防備の状態のときに一方的に襲撃する個人「テロ」の形態が最も有効と考えており、また、各派とも「等価報復の原則」を呼号していることから、今後も、個人「テロ」が続発することが懸念される。
(イ) 巧妙な犯行手口
 極左暴力集団は、内ゲバ事件を実行するに当たっては、攻撃対象の行動パターン、居宅や通勤、通学路の地理的状況等について、尾行、張り込みをはじめ、偽電話や、資料の窃取その他の違法手段を含むあらゆる方法を用いて、徹底した調査を行っている。
 また、犯行に際しては、あらかじめ車両を窃取し、巧妙に偽造したナンバープレートを取り付けたり、警察への通報を遅らせるため事前に現場付近の電話線を切断するほか、襲撃時には覆面等によって顔を隠し、逃走時には犯行に利用した車両等に放火して証拠隠滅を図るなど、犯行の手段、方法は、極めて悪質かつ巧妙である。
 過去10年間の内ゲバ事件のうち、盗難車を使用した事件は52件(全体の42.3%)、犯行時に電話線を切断した事件は48件(同39.0%)である。
〔事例1〕 大田区南千束路上内ゲバ殺人事件
 55年10月30日白昼、南千束の路上において、東京工業大生ら5人が、待ち伏せしていたスキー帽やヘルメット着用の集団にハンマーや鉄パイプ等で乱打され、頭がい骨骨折等により5人全員即死した。この事件では、あらかじめ現場付近の電話線が切断され、逃走用等に盗難車2台が使われた。事件について、中核派は、「我が革命軍は…カクマルジャックの集団を捕捉し…壊滅的打撃を与えた」などと犯行を自認した(東京)。
〔事例2〕 JR東日本赤羽駅構内内ゲバ事件
 62年10月30日朝、JR 東日本赤羽駅構内において、出勤途上のJR東日本の職員が、マスク、帽子等を着用した集団にハンマーや鉄パイプ等で乱打され、頭がい骨や両足を骨折するなどの重傷を負った。この事件は、人通りの多い出勤時間帯の駅通路で待ち伏せた上での大胆な犯行で、最初から頭部を重点に攻撃し、背広姿等の目立たない服装で人込みに紛れて逃走するという極めて計画的なものであった。革労協狭間派は、「反革命革マル…を徹底せん滅し、再起不可能状態を強制した…」などと犯行を自認した(東京)。
〔事例3〕 京都大学教養部構内内ゲバ殺人事件
 61年1月20日白昼、京都大学教養部構内において、中核派の全学連副委員長代行が、待ち伏せしていた集団に鉄パイプ様のもので頭部を乱打され、脳ざ傷等により死亡した。革マル派は、「中核派『軍団』の敵対を完全に粉砕した」などと犯行を自認した(京都)。

3 主要な闘争課題

 極左暴力集団は、安保条約、空港建設等その時々の政府の施策をはじめ、政治課題や、社会、地域等をめぐる様々な問題点を幅広く取り上げ、これらを日本の「帝国主義支配体制」そのものに起因するものととらえて、革命闘争の一環として反対闘争に取り組んでいる。
 これは、市民運動、農民運動等の大衆運動を支援する場合も同様であり、これらの大衆運動が本来目的としている個別、具体的な解決を真のねらいとしているのではなく、逆に反対闘争の長期化と先鋭化を図ることにより、自派の勢力を拡大し、これを反体制運動に発展させ、革命運動にまで結び付けることをねらっているのである。
 現在、極左暴力集団は、成田闘争、関西国際空港建設反対闘争、皇室闘争を最重要の闘争課題として、組織を挙げて取り組んでいる。
(1) 成田闘争
 極左暴力集団は、成田闘争を日本革命運動、階級闘争の「基軸中の基軸」として最重要かつ恒常的な闘争課題に位置付けて、長期的に取り組んでいる。
 成田闘争をめぐる「ゲリラ」事件は、最近5年間で136件発生し、「ゲリラ」事件全体のおおむね半数を占めている。
 極左暴力集団は、成田二期工事を「成田空港の軍事空港化、軍事基地化」、「農地強奪・農民圧殺」ととらえ、これを「階級闘争の最基軸」等と位置付けて、日本革命遂行のための格好の場として闘争に取り組んでいる。特に、65年度末空港概成に向けた二期工事の進展に伴い、各派とも、一様に危機感を募らせ、「本格的ゲリラ、パルチザン戦争で二期を絶対阻止する」、「三里塚は闘争史上最大の決戦期を迎えた」などと主張しており、今後、諸工事の節目をとらえて「ゲリラ」等の行動を激化させるものとみられる。
(2) 関西国際空港建設反対闘争
 関西国際空港は、昭和49年8月に運輸省・航空審議会の「海上空港として泉州沖に建設することが最適」とする答申がなされてから12年余りの歳月を経て、62年1月27日、建設工事が開始された。この工事は、67年度末の開港を目途として、大阪湾南東部の泉州沖公有水面を埋め立てて空港用地を造成し、ここに3,500メートルの滑走路1本を造るほか、関連施設を整備するものである。これに対し、極左暴力集団は、関西国際空港を
○ 24時間発着できる国内最大の軍事空港基地である
○ 政・財界の開発と利権の源である
○ 大阪湾岸一帯の生活・環境と地域の総破壊をもたらすものであるなどととらえ、「空港建設粉砕・空港連絡道路建設阻止」等を呼号して、各種反対闘争を行っている。
 同闘争をめぐる「ゲリラ」事件は、55年5月18日の「大阪空港交通バス焼燬(き)事件」(中核派)を最初として、62年までに12件(中核派9件、戦旗・荒派3件)発生しているが、特に、62年には、関係する船舶をねらった爆弾事件が2件発生した。
 極左暴力集団は、同闘争を「西の三里塚闘争」と位置付けており、今後、諸工事の進展に伴い、「ゲリラ」を交えた各種反対闘争に強力に取り組むものとみられる。
(3) 皇室闘争
 極左暴力集団は、近年、特に皇室闘争への取組を強めているが、これは、我が国の支配体制を支えている精神的な柱が天皇制であり、「天皇-天皇制イデオロギー粉砕、天皇制打倒こそ日本革命の緊要の課題である」との認識を深めているからである。
 極左暴力集団が、天皇制について公然と取り上げるようになったのは、昭和46年4月、天皇陛下が広島の原爆慰霊碑にお立寄りになることが明らかにされ、これに対し、中核派が「天皇の慰霊碑参拝は、被爆者を英霊化し、軍国主義化を推し進めようとするものであるから反対である」と主張したのが最初である。その後、56年5月に奈良県で開催された植樹祭への行幸を契機として、極左暴力集団による皇室闘争が恒常的な闘争課題となった。
 同闘争をめぐって発生した事件としては、49年の東アジア反日武装戦線による「荒川鉄橋爆破予備事件」(いわゆる虹作戦)(注)があるほか、「ゲリラ」事件は、46年以降62年までに44件発生している。主だった事件としては、50年の沖縄海洋博に御臨席のため沖縄を御訪問された皇太子同妃両殿下に対し、戦旗・両川派及び沖縄解放同盟(黒ヘルグループ)の活動家が火炎びんを投てきした「ひめゆりの塔火炎びん投てき事件」や、62年の沖縄国体開催に伴う「天皇訪沖阻止闘争」時に、中核派が爆発物を皇居、北の丸公園に向けて発射した「皇居、北の丸公園に向けた爆発物発射事件」等がある。
 極左暴力集団は、機関紙等において頻繁に「天皇制闘争の重大性」を強調しており、今後も、あらゆる機会をとらえて、皇室闘争に全力で取り組む構えを示している。
(注) 荒川鉄橋爆破予備事件(いわゆる虹作戦)
 49年8月14日、東アジア反日武装戦線が、御召列車を荒川鉄橋上で爆破しようと企て、鉄橋へ導火線等を敷設するなどの犯行準備をしていたが、犯行直前で断念した事件である。この事件は、直接皇室をねらったものであり、この時用意した爆弾は、同月30日の「三菱重工ビル爆破事件」に使用され、多数の死傷者を出した。

4 日本赤軍の動向と最近の国際テロ

(1) 日本赤軍の最近の動向
 日本赤軍は、現在、レバノンのベカー高原を本拠としている模様であり、一部のメンバーはかなり広い範囲で行動している。また、日本赤軍は、PFLPをはじめとするパレスチナ・ゲリラや日本国内の支援組織と連携しながら、テロ活動を計画したり、実行したりしている。
 日本赤軍は、依然として武装闘争方針を堅持しており、例えば、昭和62年5月に発表された「5.30リッダ闘争15周年にあたって~激動の予兆に応える戦士的連帯を強めよう」と題する声明でも、「我々の戦線は現在離れたものであっても、日本の人民の闘いに確実に一歩ずつ近づいていることを、我々は確信し、現在を闘い抜いています」、「我々日本赤軍は、『プロレタリア国際主義と組織された暴力』の旗を掲げ、復権させ、全力を尽くして、その一翼を担います」などと、改めてこの姿勢を示すとともに、出版物等による宣伝活動を通じて、日本国内の極左勢力への連帯を表明している。
 一方、数百人と推定される国内支援グループは、パレスチナ関係の記念日等に集会を開催するなどして、勢力拡大を図る動きをみせている。
 最近の日本赤軍の主な動向は、次のとおりである。
○ 60年5月21日、「テルアビブ・ロッド空港事件」により、イスラエルで服役していた岡本公三が、イスラエルとパレスチナ解放人民戦線総司令部派(PFLP-GC)との捕虜交換により、釈放され、日本赤軍に合流した。
○ 61年5月14日に発生した在インドネシア日本大使館等に対する砲撃等の同時多発事件(ジャカルタ事件)に関連して、犯行に使われたホテルの部屋から日本赤軍メンバー城崎勉の指紋が検出された。
○ 62年6月9日に発生した在イタリア米国大使館等に対する砲撃等の同時多発事件(ローマ事件)で、イタリア当局は、日本赤軍メンバー奥平純三と城崎勉が関与しているとして、逮捕状を取り、ICPOを通じて国際手配を行った。
○ 62年11月21日、「ダッカ事件」等で手配中であった日本赤軍メンバーDが、伊良波秀男名義の旅券を使って国内に潜入したところを、東京都内において、警視庁に逮捕(同年12月12日「ダッカ事件」で、63年1月18日「ドバイ事件」で再逮捕)された。さらに、「ダッカ事件」で釈放され、国外逃亡中であったFが、長期にわたり実業家と称してフィリピン・マニラに潜伏していたことが判明した。
 D及びFの捜査を進めた結果、Dが62年6月フィリピン人名で日本に入国しており、62年8月からは伊良波秀男名で日本をはじめ香港、フィリピン、中国、シンガポール等アジア地域を中心とする9箇国に渡航していたこと、Fがマニラにアジトを設け、Dと共謀して旅券を調達していたこと、日本赤軍が反戦民主戦線(ADF)と称する国内の共闘組織作りに着手していたことなどが明らかになった(注)。
 Dの逮捕に対し、日本赤軍は、「D同志の逮捕を許さない」と題する同年11月26日付けの声明で、「日本赤軍は、これまでもそうしてきたように、この逮捕の責任を日本帝国主義者とその手先どもに必ず取らせるだろう」、「…どのように弾圧しようとも、敗北を勝利の土台へとする日本赤軍の革命の意志と原則は、それを乗り越えていくだろう」などと報復を宣言した。
 このような情勢から、日本赤軍は、今後、Dらの釈放に向け、テロ等の過激な行動に出ることが懸念される。
(注) Fは、その後の捜査により、63年6月7日、フィリピン治安当局に逮捕され、同月8日、我が国へ強制送還された。同日、警視庁は、旅券法違反等で同人を逮捕した。
(2) 我が国を取り巻く国際テロ情勢
 日本赤軍が行うテロを除けば、我が国は、これまで比較的国際テロとは無縁であるとみられていた。しかし、最近では、海外において日本人が国際テロの被害者になったり、国内で国際テロ関連事件が発生するなど、国際テロを無視できない情勢になっている。昭和62年には、我が国に関連する国際テロとして、ペルーにおける東京銀行リマ支店長襲撃事件(3月)、フィリピンにおける熊谷組建設現場襲撃事件(5月)、イランにおける三井物産事務所爆破事件(6月)、ペルーにおけるペルー日産工場襲撃事件(11月)の発生をみている。
 今後、我が国の国際社会における活動が増大するに伴い、在外邦人、企業等に対するテロ事件が増加することが懸念される。
 日本赤軍は、我が国に関係する国際テロ活動の中心的存在であり、パレスチナ・ゲリラや他の国際テロ組織と連携しているほか、「よど号」乗っ取り犯人とも連携があるとみられることから、警察では、これらのグループの動向にも重大な関心を払っている。
 また、62年11月には、北朝鮮工作員が日本の偽造旅券等を所持して日本人に成り済まし、国際テロを引き起こすという大韓航空機事件(注)が発生した。本件は、日本の偽造旅券、日本製品を所持することによって日本人を仮装していたこと、また、56年から58年の間、平壌において女性工作員に日本人としての習慣等を教育した「李恩恵」は、日本からら致された日本人女性の疑いがあることから、我が国でも大きな関心を呼んだ。
(注) 大韓航空機事件
 バクダッド発アブダビ、バンコック経由ソウル行き大韓航空機は、62年11月29日、ラングーンの南方アンダマン海域上空で消息不明となり、その後、同海域で同機の救命ボート等の残がいが発見、回収された。
 同機の乗客中、邦人名義旅券所持者である男女各1人(蜂谷真一及び蜂谷真由美名義)がバクダッドで搭乗し、アブダビで降りたことが確認された。両人は、アブダビからバハレーンに入国しており、12月1日、ヨルダンに向けて出国しようとしたところをバハレーン当局の事情聴取を受けた。その際、両人は服毒自殺を図り、男性は死亡したが、女性は一命を取り留めた。
 バハレーン当局は、女性の事情聴取を経た後、身柄等の韓国移送を決定し、12月15日、女性の身柄及び男性の遺がい並びに証拠品を韓国に 移送した。
 韓国政府は、63年1月15日、韓国に身柄を移送された女性からの捜査結果として、
○ 両人は、北朝鮮労働党中央委員会調査部所属の特殊工作員の金勝一(70)及び金賢姫(25)であること
○ 両人は、「ソウルオリンピック妨害のため大韓航空機を爆破しろ」との北朝鮮の指示により、大韓航空機を爆破したこと
などを公表した。
 本件は、韓国のみならず日本の捜査結果や、米国等の調査からも、北朝鮮の組織的犯行であることが明らかにされている。
 また、金勝一及び金賢姫の所持していた旅券は、いずれも偽造されたものであったが、蜂谷真一名義の真正な旅券を所持している人物は、60年3月、警視庁が摘発した北朝鮮スパイ事件の関与者である北朝鮮工作員宮本明こと李京雨から勧められて旅券を取得し、当該旅券を李に貸し与えたことが判明し、蜂谷真一名義の旅券の偽造に北朝鮮工作員が関与していたことが明らかにされている。さらに、蜂谷真由美名義の旅券は、北朝鮮で59年7月に旅券用写真を撮影して作成されたものであり、59年8月に金賢姫が受け取って署名した時には、既に日本出国とタイ出入国のスタンプが押されていたことが判明している。


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