第7章 公安の維持

1 依然、活発に展開されるスパイ活動

 我が国に対して行われる共産圏諸国からのスパイ活動は、激動する国際情勢を反映して、依然、活発に展開されている。ところで、これらのスパイ活動は、国家機関が介在して組織的、計画的に行われるので極めて潜在性が強く、しかも、我が国には、スパイ活動を直接取り締まる法規がないことなどから、その実態把握と検挙は困難なものとなっている。こうしたなかで、昭和56年には、北朝鮮による、我が国に対するスパイ活動、我が国を中継基地とした韓国に対するスパイ活動3件を相次いで摘発して、その巧妙かつ悪質な活動実態を明らかにした。しかし、これらの検挙事例は、まさに氷山の一角にすぎないものと考えられ、今後とも徹底した取締りに努めることとしている。
(1) 日向事件
 昭和56年6月24日、宮崎県警察は、北朝鮮からひそかに派遣されて、在日工作員の指導監督に当たっていたK(62)を出入国管理令違反等で逮捕するとともに、精巧に偽造された外国人登録証明書、暗号メモ、短波受信機等多数の証拠品を押収した。また、続いて、Kの指導を受けて工作活動を行っていた元朝鮮籍の映画監督S(47)を出入国管理令違反(幇(ほう)助)で逮捕し、Sの自宅から通信日程表、換字表、乱数作成用文献等のちょう報連絡用暗号資料を押収した。さらに、KをかくまっていたG女(52)とH(32)の2人を犯人蔵匿で検挙した。
 Kは、55年6月、北朝鮮工作船で宮崎県日向の海岸にひそかに上陸した後、東京在住の(北朝鮮に親族がいる者)であるG女方に潜伏した上、在日韓国人実業家M(62)とSを使ってスパイ活動を行い始めた。Mは活動停止中の北朝鮮工作員であったが、このMには、韓国内の地下組織作りと併せ

て韓国の政治、経済、軍事情報の収集を行わせることとした。また、Sも45年ころから工作員となっていたが、このSには、日本国籍の映画監督という立場を利用して、海外での本国機関員との連絡、対韓工作に役立つ人物の掘り出し、自衛隊基地等の調査を行わせた。
 ところが、56年4月、韓国内でスパイ活動を行っていたMが韓国当局に逮捕されたことから、Kは、本国から帰還命令を受け、6月22日、同海岸から再度不法出国しようとしたが、北朝鮮工作船と「接線」できず、脱出に失敗したところを逮捕された。続いて、Sも逮捕され、さらに、G女とHも検挙されたものである。
 北朝鮮工作員の我が国に対する不法出入国は、過去、日本海沿岸で多く行われているが、この事件により新たに南九州沿岸でも行われていることが確認された。
 Kは、56年12月、外国人登録法違反、出入国管理令違反、有印公文書偽造で懲役1年6月の実刑判決を受け、Sは、56年9月、出入国管理令違反(幇(ほう)助)で懲役4月、執行猶予2年の判決を受けた。また、G女は、56年12月、 犯人蔵匿で罰金4万円の略式命令を受けた。
(2) 六郷事件
 昭和56年7月23日、警視庁は、偽造の外国人登録証明書を所持していた北朝鮮工作員K(59)を外国人登録法違反等で逮捕するとともに、潜伏先のB方から工作資金160万円を押収した。また、KをかくまっていたB(62)を犯人蔵匿で逮捕した。
 Kは、55年11月、北朝鮮工作船で山口県長門の海岸にひそかに上陸した後、あらかじめ指定された東京都大田区仲六郷在住のB方に潜伏し、在日韓国人等を工作してスパイ組織を作り上げ、日本の政治、経済、防衛に関する情報を入手し、本国に報告するため準備活動を行っていたところであった。
 Kは、56年10月、出入国管理令違反、外国人登録法違反で懲役1年6月、執行猶予4年の判決を受け、Bは、56年9月、犯人蔵匿で罰金4万円の略式命令を受けた。
(3) 男鹿脇本事件
 昭和56年8月5日夜、秋田県警察は、男鹿半島脇本海岸にゴムボートで不法入国してきた在日韓国人I(29)を外国人登録法違反で逮捕した。
 Iは、在日の韓国系団体の職員として勤務していた56年4月ごろ、在日の北朝鮮工作員Kから工作員になることを執ように説得され、これを承諾した。Iは、工作員としての教育訓練を受けるため、Kの指示に従って56年7月5日夜、同海岸から北朝鮮工作船でひそかに不法出国し、北朝鮮の平壌市で約1箇月間の訓練を受けた後、再び北朝鮮工作船で同海岸にひそかに上陸してきたものであった。
 Iは、56年10月、出入国管理令違反で懲役10月、執行猶予2年の判決を受けた。

2 本格的な「テロ」、「ゲリラ」指向を強める極左暴力集団

(1) 極左暴力集団の一般的動向
 極左暴力集団の勢力は、全国で約3万5,000人に上り、昭和49年以来依然として衰えをみせていない。
 こうしたなかで、極左暴力集団は、前年に引き続き、凶悪、残忍な内ゲバ殺人事件を引き起こしたのをはじめ、「成田闘争」等をめぐり、時限式可燃物や火炎放射装置を取り付けた改造自動車を使用して、運輸省、空港関連施設、警察施設等に対して襲撃するという悪質な「ゲリラ」事件を引き起こすなど、依然として「テロ」、「ゲリラ」への指向を続けている。
(2) 「成田闘争」を中心に悪質化する「ゲリラ」
 極左暴力集団による「ゲリラ」事件は、「成田闘争」を中心に11件発生し、前年に比べて、12件減少した。しかし、その犯行は、ガス溶断器を使って鉄橋の橋げたの一部を切断するという特異事件をはじめ、航空燃料輸送列車を停車させその機関車に放火するという列車襲撃事件、火炎の飛距離が30メー

トルにも達する強力な放射装置を搭載した改造自動車による放火事件等にみられるように一層悪質化した。
 56年には、「54.10.29東京検察合同庁舎横火炎車事件」等18件の「ゲリラ」事件を引き起こした革労協非公然組織の幹部Kを検挙した。
(3) 依然として続く凶悪な内ゲバ事件
 極左暴力集団の内ゲバ事件は、過去10年間に1,146件(うち、殺人事件57件)発生し、死者73人、負傷者2,415人に上っている。最近5年間の発生状況は、図7-1のとおりである。
 56年の内ゲバ事件は、発生件数9件、死者2人、負傷者6人で、前年に比べ発生件数は6件、死者は6人、負傷者は26人それぞれ減少した。
 56年の内ゲバ事件をセクト別にみると、中核派が革マル派を攻撃したとする事件が3件、革労協が革マル派を攻撃したとする事件が1件、革労協の組織分裂に伴う内ゲバが4件それぞれ発生し、これらが全体の5分の4以上を占めている。また、発生場所別でみると、大学構内が2件、学外が7件である。
 56年の内ゲバ事件は、革労協による「7.11渋谷区本町内ゲバ殺人事件」にみられるように、綿密、周到な事前調査の後、被害者が居住するアパート付

図7-1 内ゲバ事件の発生状況(昭和52~56年)

近の電話線を切断の上、被害者の居室のドアや窓を破壊して侵入し、就寝中の被害者の頭部、顔面等を鉄パイプで乱打して殺害するといった凶悪、残忍なものであった。
 警察は、内ゲバ事件に対しては、必要な警戒態勢をとり、その未然防止に努めるとともに、発生した事件については、捜査を強力に進め、56年には、被疑者20人を検挙した。
(4) 武装闘争路線を堅持する日本赤軍
 日本赤軍は、我が国の革命闘争に向けた基盤作りを目指して、3月以来「ソリダリティ」と題する英文パンフレットを続けて発刊するとともに、7月初めには、重信房子が朝日ジャーナル記者とのインタビューに応ずるなど、内外において支援組織の拡大を企図した宣伝活動を展開した。
 「ソリダリティ」では、「我々は全世界の人民を一つの反帝陣営へと結束させつつ、武装闘争を実践する」などと述べ、また、朝日ジャーナル記者とのインタビューにおいても「重信が武装闘争の継続を明言するとともに、『岡本同志の奪還闘争を常に考え続けている』と述べた。」と伝えられ、日本赤軍は依然として武装闘争路線を堅持していることを明らかにした。

3 1980年代に「民主連合政府」の樹立を目指す日本共産党

(1) 党勢拡大に全力を傾注
 日本共産党は、1980年代に「民主連合政府」を樹立することを目標として、当面、昭和58年に予定されている参議院通常選挙、統一地方選挙での勝利を目指している。そして、これに向けて、党勢拡大すなわち党員と「赤旗」読者の拡大に全力を挙げている。
 日本共産党は、56年1月の全国都道府県委員長会議で、党勢拡大の方針として、3月から4月の都道府県党会議までに第15回党大会時の水準である「44万党員、355万読者」を回復し、引き続き、7月15日の党創立記念日までに「50万党員、400万読者」の党勢拡大目標を達成するという方針を打ち出した。そして、この目標達成に向け、中央委員会総会など各種の会議を続け て開催し、党勢の拡大を督励するとともに、中央幹部が、各県に赴き、直接、下部党の指導に当たった。
 党員の拡大については、青年党員の比率を高めるために民青からの入党を重視し、6月には、全国から青年、学生担当の責任者を集めて4年ぶりに会議を開催したほか、宮本委員長名で初めて「民青同盟員への手紙」(6月29日付け)を送って入党の勧誘を行った。また、これと併せて、「全党の同志のみなさんへ」(6月30日付け)、「婦人への入党よびかけの手紙」(6月30日付け)を送った。「赤旗」読者の拡大については、党中央は、全党員が活動に参加するよう督励するとともに、配達、集金の乱れを読者数減少の大きな要因として重視し、その乱れをなくすための活動に取り組ませた。
 こうした取組の結果、期限とした7月15日の時点で、党員数の面では、青年党員が若干増加するという成果をあげたが、総数は「40数万」とほぼ横ばいのまま、また、「赤旗」読者は「300万」と第15回党大会時より55万も減少した状況で終わった。
 日本共産党は、7月、第7回中央委員会総会を開催し、党建設が「革命運動の原点」、「共産党の原点」であることを改めて強調し、引き続き、「50万党員、400万読者」の達成に全党を挙げて取り組むことを決定した。 さらに、10月には4年半ぶりに全国活動者会議を開催し、「方針の徹底」、「教育の徹底」、「会議の民主的運営と規律」を党躍進の三つのかぎとして打ち出した。しかし、その後も「赤旗」読者は減少を続けたため、党中央は、「全党運動」を唱えつつも、実質的には一部の活動家党員に依存した形で「拡大推進班」、「遅配、欠配根絶班」、「臨時集金者集団」という特別のグループを組織させて取り組ませた。その結果、一時的には読者数の減少に歯止めをかけたものの、停滞状況から脱け出すには至らなかった。
 党中央は、以上のような党勢拡大の停滞の根底には、幹部を含め、党員の間に配達、集金の乱れを放置するという官僚主義があり、これは思想上の問題であると繰り返し指摘し、この問題に対処するため、学習教育活動を強化する方針を打ち出した。そして、党中央の「党勢拡大推進委員会」を「思想 建設・党勢拡大推進委員会」に改組して量的な面だけでなく質的な面も重視して党建設を進めていくこととした。
(2) 独自の統一戦線活動を引き続き推進
 日本共産党は、昭和55年1月以来社公連合路線に立つ社会党を「右転落」したと厳しく批判し、同党が公明党と手を切って社共共闘へ立ち返るよう呼び掛けた。56年5月に行われたフランス大統領選挙についても、ミッテラン候補が勝利したのは社共共闘の成果によるものであるとして、我が国においても社共共闘が重要であることを強調した。しかし、こうした日本共産党の態度は社会党がその「誤り」を認め、改めるべきものであるというものであったため、社会党は反発を強めた。
 社共両党の対立は、大衆運動面にも現れ、公職選挙法の改正をめぐって、日本共産党は、社会党、総評に対し共同して反対闘争を行うよう呼び掛けたが賛同を得られず、共産党系団体のみの取組に終わった。また、「10.21闘争」中央集会も、社会党、総評系と共産党系が別個に行事を行ったが、これは、44年に第1回の「一日共闘」が成立して以来13年目にして分裂したものであった。
 こうしたなかで、日本共産党は、統一戦線の結成へ向けて独自の活動を進めた。「革新統一懇談会」については、55年以降組織化を進めてきたが、56年4月、全国で組織化を完了し、5月26日、全国組織として「平和・民主主義・革新統一をすすめる全国革新懇話会」が発足した。結成総会では、組織参加人員等について、個人は1万3,000人、団体は930団体、390万人と発表された。また、「統一戦線促進労働組合懇談会」については、統一戦線結成に向けた有力な基盤として重視してきたが、56年5月、その参加人員が150万人になったと発表された。
(3) 「自主独立」イメージの強化をねらった国際連帯活動
 日本共産党は、アフガニスタン問題やポーランド問題等によって強まった国内の反ソ世論が日本共産党に悪影響を及ぼさないようソ連共産党に対する批判を執ように行い、「自主独立」イメージの強化に努めた。56年1月10日 付けの「赤旗」に「アフガニスタン問題の原点-軍事介入による民族自決権の侵害」と題する論文を発表し、ソ連批判の立場を改めて強調した。次に、6月にはソ連共産党に電報を打ってポーランドへの干渉を中止するよう求めた。さらに、6月30日には「真の平和綱領のために」と題する論文を発表してソ連のアフガニスタン介入を「社会帝国主義的誤り」ときめ付け、また、ソ連が「軍事力均衡論」に立っていると非難した。12月13日のポーランドにおける非常事態宣言に対しても、これを厳しく非難するとともに、そうした事態に至った要因の一つとしてソ連の干渉的態度を指摘し、ソ連批判を強めた。
 中国共産党との関係は、対立状態のまま推移した。日本共産党は、中国共産党が6月の6中全会の決議で「文化大革命」の誤りを指摘して毛沢東批判を行ったことを評価しながらも、対外路線、特に日本共産党との関係についての反省がないと批判した。また、9月26日付け人民日報が日本国内の日本共産党から除名された親中グループによる「日本労働者党」の結成を報じたことをとらえ、10月15日付け「赤旗」で干渉主義を継承し、温存するものと厳しく批判した。
 他方、日本共産党は、「自主独立」の立場に立つ共産主義諸党との交流を重視し、イタリア、スペイン両党との連帯を引き続き深めたほか、インド、スイス、スウェーデン、ベルギー、オランダの各党と初の公式会談を行った。

4 多様な形で取り組まれた大衆行動

 左翼諸勢力等による大衆行動には、全国で延べ約719万人(うち、極左系32万人)が動員された。
 こうした大衆行動に伴って各種の違法行為がみられ、公務執行妨害、建造物侵入、暴力行為等処罰二関スル法律違反等で363人を検挙した。
(1) 「成田闘争」
 極左暴力集団等は、「成田闘争」を昭和56年の最大の闘争課題に掲げ、成田に延べ約8万7,000人、そのうち4回の主要な闘争に約1万6,600人を動員して集会、デモを繰り広げた。
 56年の闘争目標は、3月までは「ジェット燃料輸送延長阻止」に置かれたが、「5.24闘争」からは「二期工事着工粉砕」に変わり、9月には「空港突入・占拠・解体」の闘争スローガンが出るに至った。
 この間、火炎びん、時限式可燃物や火炎放射装置を取り付けた改造自動車等を使用した9件の「ゲリラ」事件を引き起こすとともに、気球を浮かべるなどの飛行妨害を行った。
 千葉県警察では、空港警備隊を中心として空港の警戒警備を常時実施し、「3.1成田現地闘争」等の全国動員による反対闘争の際には、全国の管区機動隊等の応援を得て警備の万全を図った。また、関係都道府県警察においても、成田における警備と運動して、航空保安施設等関係重要防護対象の警戒警備に当たった。
 これらの警備において、63人を公務執行妨害等で検挙した。これらの闘争に伴い、警察官8人が負傷した。
(2) 「原発闘争」
 原子力発電所の建設に対する反対闘争が活発に取り組まれた。昭和56年

は、原子力発電所の設置に伴う公開ヒアリングが、島根(島根)、浜岡(静岡)、巻(新潟)、共和・泊(北海道)においてそれぞれ開催されたが、これに反対する左翼諸勢力は、約2万2,500人(うち、極左暴力集団約1,200人)を動員して集会、デモ等を行った。
 これらの闘争に係る警備において、公務執行妨害等で9人を検挙した。
(3) 「反戦・基地闘争」
 核積載の米艦船が日本に寄港しているというライシャワー発言を契機として、左翼諸勢力は、昭和56年6月5日の米空母ミッドウェーの横須賀基地入港に際し、帰港反対を叫んで、集会、デモ、基地監視、市内街頭宣伝等の反対行動を展開した。そのほか、日米合同演習、米軍・自衛隊の実弾射撃演習、自衛隊観閲式に対する反対闘争等を併せ、「基地闘争」では、全国で延べ約38万人が動員された。これらの闘争に伴い、違法事案が16件発生し、公務執行妨害、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反等で32人を検挙した。
 一方、「反戦・平和運動」では、「4.28闘争」、「5.15闘争」、「6.23闘争」、「10.21闘争」等の各記念日闘争を中心として集会、デモ等が行われた。特に、「10.21闘争」では、全国で約29万1,000人が動員され、前年同様の盛り上がりをみせた。これらの記念日闘争に伴い発生した違法事案において、公務執行妨害、公安条例違反で31人を検挙した。
(4) 「狭山闘争」等
 部落解放同盟、極左暴力集団等は、延べ約8万4,000人を動員して「狭山闘争」に取り組んだ。この闘争に伴い発生した違法事案において、公務執行妨害、公安条例違反等で2人を検挙した。
 一方、部落解放運動関係団体による各種の「行政闘争」や、これらの団体間の対立抗争等に伴い、違法事案が17件発生し、公務執行妨害、傷害等で20人を検挙した。

5 厳しい経済情勢下の労働運動

 昭和56年の春闘は、個人消費と設備投資の停滞による景気回復の遅れ、消費者物価の上昇による実質賃金の目減り、行財政改革の推進等厳しい情勢下で行われた。国民春闘共闘会議は、2月下旬から4月下旬までに4次にわたる闘争集中期間を設定し、賃上げ要求と物価安定、減税の政策要求を掲げて、中央行動を含む全国統一行動を実施した。しかし、春闘最大の山場として設定した4月22日から24日までの第4次闘争集中期間では、私鉄総連が独自のストライキを実施したのみで、公労協、公務員共闘とも事前にストライキを中止し、39年春闘以来17年ぶりに「決戦スト」なしで終わった。
 秋季年末闘争では、総評が50年秋闘以来6年ぶりに闘争本部を設置して、「行革」反対、仲裁・人勧完全実施、公務員二法成立阻止等を闘争課題として10月中旬から11月下旬までに3次にわたって闘争を展開した。この間、10月29日には48年春闘以来2度目の「年金・福祉統一スト」を実施し、また、日教組、自治労が2波にわたる違法ストを行った。
 56年には、労働争議や労働組合間の対立等をめぐって170件の労働事件が発生し、傷害、暴行、建造物侵入、威力業務妨害等で187件、447人を検挙した。最近5年間の労働事件の検挙状況は、表7-1のとおりである。
 これら労働事件の主な内容をみると、官公労組関係については、自治労、日教組等の公務員労組における事件は、発生件数が13件、検挙件数が15件、検挙人員が39人で、前年に比べ発生件数が4件、検挙件数が8件、検挙人員が32人それぞれ増加した。民間労組関係については、運輸一般、自交総連、全国一般、全自交の4単産における事件が、発生件数が50件、検挙件数が49件、検挙人員が79人と大きな割合を占めた。また、反戦系労働者の関係した事件は、発生件数が22件、検挙件数が31件、検挙人員が107人であった。

表7-1 労働事件の検挙状況(昭和52~56年)

6 危機感を強め一段と活発化した右翼の活動

(1) 政府、与党に対する批判抗議活動を強化
 右翼は、内外情勢を極めて憂慮すべき危機的様相ととらえ、自主防衛の強化、靖国神社公式参拝の実現、自主憲法制定等を訴えて、政府、与党に対する抗議要請活動を活発に行った。特に、5月の日米首脳会談以降、日米共同声明をめぐる政府部内の「紛糾」、米国艦船の核持込み問題への政府の対応等について、不信といら立ちを募らせ、批判抗議活動を強めた。
 こうしたなかで、一部の右翼は、レーガン大統領狙撃事件等国際的なテロリズムの風潮に刺激されて直接行動への指向を強め、総理官邸に対する火炎びん投てき事件(7月6日)、自民党政経懇談会出席の閣僚車列に対する往来妨害事件(9月20日、岡山)等を引き起こした。
 また、ロッキード裁判中の田中元総理に対する暗殺を企図していた大日本誠流社隊員が殺人予備罪で検挙(8月26日)された。
(2) 北方領土返還運動の高まりのなかで反ソ活動を活発化
 右翼は、「北方領土の日」(2月7日)の制定等による官民一体の北方領土返還運動の高まりのなかで、ソ連軍の極東地域における軍事力の強化や「日ソ間に領土問題は存在しない。」というソ連の強硬な態度等に反発を強め、全国的に対ソ抗議の街頭宣伝活動を繰り返した。特に、日ソ親善協会の北海道羅臼町漁民に対する「会員証」の交付(3月)、駐日ソ連大使の「九州のソ連領編入」発言(5月)、さらには「函館日ソ友好会館」の開設(10月)等の動きに対しては、激しい対ソ抗議活動を展開した。
(3) 左翼勢力との対決活動の活発化と違法事案の多発
 右翼は、日本共産党をはじめとする左翼勢力の護憲、日米合同演習反対、核持込み反対等の大衆行動に反発して、対決姿勢を強め、「北富士演習反対集会妨害事件」(5月24日)、「ミッドウェー帰港に伴う社会党宣伝車襲撃事件」(6月5日)等の集団的暴力事件を引き起こした。また、日教組に対しては、教育研究全国集会(1月、東京)に156団体、1,620人、定期大会(7月、神奈川)に219団体、2,720人といずれもこれまでの最高人員を動員して反対活動を展開し、違法事案を多発させた。
 なお、警察は、これら右翼の活動に対して、違法事案の未然防止、早期検挙に努め、56年には、公務執行妨害、暴行、傷害、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反等で349件、528人を検挙した。最近5年間の右翼事件の検挙状況は、表7-2のとおりである。

表7-2 右翼事件の検挙状況(昭和52~56年)

7 警衛、警護

 警察は、天皇、皇后両陛下、皇族の御身辺の安全確保のために警衛を実施している。また、首相、国賓等内外の要人の安全確保のために警護を実施している。特に、警衛に当たっては、国民一般との融和を妨げることのないよう努めている。
(1) 警衛
 天皇、皇后両陛下は、全国植樹祭(5月、奈良)、地方事情御視察(5月、兵庫、6月、群馬)、国民体育大会秋季大会(10月、滋賀)及び栃木、静岡、神奈川各県の御用邸へ行幸啓された。
 皇太子、同妃両殿下は、国民体育大会冬季大会(1月、山梨)、神戸ポートアイランド博覧会(3月、兵庫)等全国各地へ行啓されたほか、サウジアラビア等4箇国(2月)、イギリス等2箇国(7月)を御訪問された。
 警察は、これらに伴う警衛を実施して御身辺の安全を確保した。
(2) 警護
ア 政府、政党要人等の警護
 鈴木首相は、ASEAN諸国(1月)、西欧7箇国(6月)を訪問し、日米首脳会談(5月、ワシントン)、主要国首脳会議(7月、オタワ)、協力と開

発に関する国際会議(南北サミット、10月、メキシコのカンクン)に出席した。これに伴い、警察は、首相出発時の極左暴力集団等の反対行動等に対処するとともに、警護員を関係諸国に派遣し、各国の関係機関と連絡協力を行い、身辺の安全を確保した。
イ 国賓等の警護
 最近における国際交流の活発化を反映して、ニエレレ・タンザニア連合共和国大統領(3月)、マルグレーテ2世・デンマーク王国女王(4月)、ホネカー・ドイツ民主共和国国家評議会議長(5月)等の国賓をはじめ、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世(2月)、アラファト・PLO議長(10月)等厳重な警護を必要とする外国要人の来日が相次いだ。
 警察は、国際礼譲を尊重しながら、これら外国要人対する警護を実施し、身辺の安全を確保した。


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