第8章 公安の維持

1 巧妙、活発化するスパイ活動

 我が国に対するスパイ活動は、我が国の置かれた国際的、地理的位置関係から、ソ連、北朝鮮等共産圏諸国からのものが多く、複雑な国際情勢を反映して、これらの活動はますます巧妙、活発に展開されている。
 スパイ活動を行う工作員には、外交官、特派員、貿易商、研修生等といった身分を隠れみのにして合法的に入国する者と、夜陰に乗じて海岸等からひそかに潜入する者等がある。これらの工作員は、金銭欲、異性関係、仕事関係等から生じる個人的弱点を巧みに利用して、日本人を手先に仕立てる例が多い。これらの手先となった者には、スパイ活動であることを知りながら積極的に加担する者もあるが、なかには無意識に利用されている者もある。
 我が国には直接スパイ活動を取り締まる法規がないことから、スパイ活動が摘発されるのは、その活動が各種の現行刑罰法令に触れて行われた場合に限られる。このような条件の下で検挙は困難を極めるが、昭和55年には4件のスパイ事件が検挙された。しかし、これらは正に氷山の一角にすぎないと考えられ、今後とも徹底した取締りに努めることとしている。
(1) コズロフ事件
 昭和55年1月18日、警視庁は、ソ連諜報機関の手先となって軍事関係情報の収集を行っていた元陸将補M(58)と、このMに防衛庁の秘密情報資料を提供していた現職自衛官二等陸尉K(45)、准陸尉O(49)の3人を自衛隊法違反等で逮捕した。また、Mの自宅から乱数表、換字表、通信日程表、受信機等多数の証拠品を押収した。この事件は、陸将補という高い地位にあった元自衛隊幹部がソ連諜報機関の手先となって活動していたことから、内外に大きな反響を呼んだ。
 Mがソ連諜報機関の手先となったいきさつは、Mが自衛隊停年退職を間近に控えた48年暮れ、再就職問題のためソ連大使館にR武官を訪ねたことから始まった。Rは、Mが自衛隊を退職した後も何かと口実を作ってはMを呼び出して接触を続け、巧みにソ連諜報網に取り込んでしまった。Mは、当初ソ連側に新聞や公刊資料にM自身でコメントを付けたものを提供していたが、報酬としてかなりの現金が渡されるようになるにつれ、ソ連側の資料要求もエスカレートし、価値の高い秘密の資料が求められるようになった。Mは、陸上自衛隊中央資料隊に勤務していたころの部下であったKとOに働き掛けて、防衛庁の秘密文書である「軍事情報月報」等を入手するようになり、それらをその都度指定された日時、場所でひそかにソ連側に手渡していた。Mは、約4年の間に自ら供述しただけでも合計約310万円の報酬をソ連側から受け取り、そのうち約135万円をK、Oの2人に渡していた。
 Mは、53年初めごろから諜報用の暗号無線受信についてソ連諜報機関員の指導を受け、54年には、ソ連側から手渡された通信日程表、乱数表等によりMに送られてくる暗号無線指令を受信するようになっていた。Mの逮捕は、Mがスパイとして一人立ちできるようになった矢先のことであった。

 M、K、Oの3人は、自衛隊法違反で起訴され、55年4月、東京地方裁判所でMが懲役1年、K、Oが同8月の実刑判決を受けた。
 なお、Mを工作したRはその後帰国し、Mとの諜報連絡はコズロフ武官(陸空軍大佐)が当たっていた。警視庁は、Mら3人を逮捕した翌日、外務省を通じてソ連側にコズロフの事情聴取を申し入れたが、ソ連側はこれを拒否する一方、コズロフを同日午後、急きょ成田からモスクワへ向け帰国させてしまった。
(2) レポ船第18和晃(わこう)丸事件
 昭和55年1月9日、北海道警察は、北方領土に駐留するソ連国境警備隊の指令によって情報活動を行っていた根室の漁民S(48)とその配下の第18和晃丸船長、同機関長の3人を、関税法、検疫法違反で逮捕した。
 これら3人の逮捕は、被疑者らが、ソ連国境警備隊と連絡のため、54年9月25日と30日の2回、第18和晃丸(漁船、9.99トン)でひそかに色丹島に行き、その際、北海道内で購入した露文タイプライター、ウイスキー、しょう油、スーツケース等の物品を不法に輸出し、さらに根室港帰港に際し検疫の手続をしなかったことによるものである。
 ソ連の指示を受けて我が国の情報や資料等をひそかにソ連側に渡し、その見返りにソ連の主張領海(北方海域)内での安全操業の保証を受けている漁船主のことを「レポ船主」、その船を「レポ船」と呼んでいるが、Sは、この「レポ船主」であった。Sは、42年8月、国後島沖で密漁中ソ連国境警備隊にだ捕され、2年の懲役刑を受けてサハリンの刑務所に収容された。Sはそれまで14回だ捕されていたが、15回目のこのとき初めてソ連の情報担当将校から身分や経歴等「レポ船主」としての適格性を詳しく調査された上、「レポ船主」になることを求められた。Sは、ソ連に対する協力を誓約した後、刑期半ばの43年8月釈放され帰還した。
 その後、Sは、防衛年鑑、政府発行公刊資料、新聞等のほか、北方領土返還運動、右翼の動向、自衛隊の装備や演習の状況、治安機関の動静についての情報収集を指示され、これらの情報資料をソ連側に渡していた。Sは、自ら操業する漁船のほか、他人の漁船(検挙時8隻)についても自分の指揮下にある漁船としてソ連側から安全操業の保証を取り付け、これらの漁船の船主から漁獲高の約20%をリベートとして納めさせていた。そのリベートは、52年から54年までの間に9,000万円近い額に上り、このうち約3分の1をソ連側に上納していたという。Sは、検挙時約1億円の隠し預金をしていた。
 55年4月、Sは、根室簡易裁判所において検疫法違反等で罰金20万円の処分を受けたほか、関税法違反で10万円の犯則通告処分、国税約1億3,000万円の追徴を受けた。

(3)水橋(みずはし)事件
 昭和55年2月20日、埼玉県警察は、北朝鮮へ不法出国して工作員の訓練を受け、ひそかに日本に入国していたL(31)を出入国管理令違反等で逮捕するとともに、通信日程表、換字表等の諜報連絡用暗号資料を押収した。また、続いて、Lを北朝鮮工作員に仕立てたP(56)を出入国管理令違反(教唆)等で逮捕した。Pの自宅からも、工作活動を裏付ける暗号メモ等を押収した。
 Lは、大学在学中の49年秋ごろから、Pに北朝鮮工作員になることを説得され、工作員としての教育訓練を受けるため、54年4月24日夜、富山県水橋海岸から北朝鮮工作船でひそかに北朝鮮へ出国した。北朝鮮平壌市郊外の「招待所」と称する建物で約2箇月間の訓練を受けたあと、6月末の深夜、再び北朝鮮工作船で福井県敦賀の海岸にひそかに上陸した。Lに与えられた任務は、韓国に革命を起こすための組織を日本や韓国に作ることや、北朝鮮工作員の不法出入国の新たな場所となる海岸の調査をすることなどであった。Lに対する北朝鮮からの暗号指令は、市販の文庫本のひらがなを拾い出して数字化し、所定の方式により解読するという巧妙な方法が用いられていた。
 日本海沿岸における北朝鮮工作員の不法出入国事案は、過去にも多く発生しているが、この事件でも、暗夜、工作船で海岸に接近しボートを使って工作員を運ぶという従来の方法が採られていた。また、出国する場合には、出迎えのボートに小石をたたいて合図する「打石信号」という方法が依然として使われていた。
 Lは、55年11月、浦和地方裁判所において、出入国管理令違反で懲役4月執行猶予2年の判決を受けた。Pは、公務執行妨害、傷害、出入国管理令違反(教唆)で起訴された。

(4) 磯の松島事件
 昭和55年6月12日夜、兵庫県警察は、同県香住海岸の通称「磯の松島」に潜んでいたL(24)、K(29)の2人を職務質問し、外国人登録法違反で逮捕した。Lは工作員の訓練を受けるため北朝鮮へ不法出国しようとし、これにKが案内役として同行していたものであった。
 2人は、56年1月、神戸地方裁判所において、外国人登録法、出入国管理令違反で懲役6月執行猶予3年の判決を受けた。

2 「テロ」、「ゲリラ」本格化への指向を続ける極左暴力集団

(1)極左暴力集団の一般的動向
 極左暴力集団の勢力は、全国で約3万5,000人に上り、昭和49年以来依然として衰えをみせていない。
 こうしたなかで極左暴力集団は、前年に引き続いて、凶悪、残忍な内ゲバ殺人事件を引き起こしたのをはじめ、「成田闘争」、「リムパック反対闘争」等をめぐり、多量の火炎びんのほか、時限式可燃物や火炎放射装置を取り付けた改造自動車を使用しての空港施設、警察施設等に対する襲撃等の悪質な「ゲリラ」事件を多発させるなど、依然として「テロ」、「ゲリラ」本格化への指向を続けているとみられる。
(2) 「成田闘争」が最大の闘争課題
 極左暴力集団等は、「成田闘争」を昭和55年の最大の闘争課題に掲げ、成

田現地に延べ約8万5,000人、そのうち4回の主要闘争に約1万7,000人を動員して集会、デモを繰り広げた。また、空港公団がパイプライン工事の工期延長を明らかにしたことから、「ジェット燃料暫定貨車輸送延長阻止」をスローガンに掲げて、「10.13~19成田連続闘争」を組織し、千葉県庁、運輸省等に対する抗議行動や都心部で街頭宣伝、集会、デモを行った。
 この間、火炎びん、時限式可燃物や火炎放射装置を取り付けた改造自動車等を使用した18件の「ゲリラ」事件を引き起こすとともに、気球を浮かべるなどして飛行妨害をひん繁に行った。
(3) 依然として続く凶悪な内ゲバ
 極左暴力集団の内ゲバ事件は、昭和46年から55年までの過去10年間に1,409件発生し、死傷者は、2,905人(うち、殺人事件59件、死者76人)に上っている。最近5年間の発生状況は、図8-1のとおりである。
 55年の内ゲバ事件は、発生件数15件、死者8人、負傷者32人で、前年(発生件数22件、死者8人、負傷者32人)に比べると、件数は7件減少したが、死者、負傷者は変わらなかった。
 55年の内ゲバ事件をセクト別にみると、中核派が革マル派を攻撃したとする事件が5件、革労協が革マル派を攻撃したとする事件が5件で、これらが全体の3分の2を占めている。また、発生場所でみると、15件のうち大学構

図8-1 内ゲバ事件発生状況(昭和51~55年)

内が4件、学外が11件である。
 55年の内ゲバ事件は、中核派による「大田区南千束(せんぞく)路上内ゲバ殺人事件」(10月、東京)では、路上で相手を待ち伏せて襲撃し、ハンマー、鉄パイプ等で頭部を集中的に殴打し、同時に5人を殺害したり、革労協による「東成区路上内ゲバ事件」(9月、大阪)では、盗難車両を使って相手車両を前後からはさみ撃ちにして停車させた上、鉄パイプの先端に出刃包丁を取り付けた凶器で攻撃したことなどにみられるように、計画的で極めて凶悪、残忍なものであった。
 警察は、内ゲバに対して必要な警戒態勢をとり、事件の未然防止に努めるとともに、発生した事件については、捜査を強力に進めた。55年には、「東大教養学部構内北寮内ゲバ事件」(1月)の被疑者6人を含め16人を検挙した。
(4) 国内各層に団結を呼び掛けた日本赤軍
 日本赤軍は、我が国の革命闘争に向けた基盤作りを目指して、「5.30声明にかえて、同志への手紙」(5月10日付け)や「ダッカ事件3周年声明」(10月3日付け)を発表するなど、国内各層に団結を呼び掛けた。
 また、国内支援グループは、組織の拡大、整備を図るとともに、各種活動を一層進展させた。
(5) 爆弾闘争の動向
 昭和55年には、極左暴力集団による爆弾事件は発生しなかったが、依然として一部極左暴力集団は、爆弾闘争の継続を表明しており、引き続き爆弾闘争への指向をうかがわせた。
 警察は、爆弾事件の未然防止に努めるとともに、爆弾事件指名手配被疑者に対しては、広く国民の協力を得て強力な捜査を進め、55年には、「クリスマス・ツリー爆弾事件」(46年12月)被疑者ら4人を検挙した。

3 1980年代に「民主連合政府」の樹立を目指す日本共産党

(1) 同日選挙で敗北し、党立て直しに懸命の努力
 日本共産党は、昭和55年2月、熱海市で第15回党大会を開催し、長期的に は1980年代に「民主連合政府」を樹立するという展望を切り開くため、短期的には参議院選挙で勝利を収めるための政策方針を決定するとともに、指導体制の整備を図った。
 日本共産党は、6月22日の衆・参同日選挙を1980年代に「民主連合政府」を樹立する上での重要な政治戦と位置付け、総選挙では予算を伴う議案提出権が得られる51議席の獲得を、また、参院選では全国区6人の全員当選と北海道、東京、京都、大阪、兵庫の5地方区での必勝を目指して選挙闘争に取り組んだ。しかし、選挙の結果、衆議院では改選前の41議席(革新共同2議席を含む。)から12議席減の29議席、参議院では全国区で3議席、地方区で1議席減らして16議席から12議席へと、大きく議席数を後退させた。
 そのため日本共産党は、7月、第4回中央委員会総会を開催し、党の路線と中央の方針に誤りはなく、下部党の取組みの弱さに敗北の基本的な原因があったとする選挙総括を行い、中央指導部に対する下部からの批判を抑えた。同時に、選挙後の情勢を「戦後第2の反動攻勢の時期」であると位置付け、これを打破するため、大衆闘争に対する取組みの強化、統一戦線の結集、党勢拡大等を中心とする党立て直しのための活動や、党の質的向上を目指した学習教育活動に取り組むこととした。
 日本共産党は、この学習教育活動を推進するに当たって、党の「独習指定文献」の改定を行った。そこでは、文献数を大幅に減少させながらも、「敵の出方」論に立った暴力革命の方針を明示した宮本委員長の「日本革命の展望」や、マルクス・エンゲルスの「共産党宣言」、レーニンの「国家と革命」等、マルクス・レーニン主義の代表的な古典と党綱領に基づく日本共産党の革命路線に関する基本的な文献を引き続き指定し、党員教育の重点を、共産主義者としての確信を植え付けることと、これに基づき革命性、戦闘性をかん養させることに置いた。
 一方、党大会時355万部で史上最高と公表した「赤旗」読者の数は、大会後急速に減り始め、選挙での敗北も加わって300万台を大きく割り込むという事態となった。このため日本共産党は、9月、全国都道府県委員長会議を 開催し、機関紙の定着と拡大が「絶体絶命の課題」であることを訴えて取組み強化を指示した。
 日本共産党を取り巻く内外の情勢も、同党にとって厳しく推移した。54年末のソ連によるアフガニスタン侵攻は国内の反ソ連気運を一挙に高め、これがソ連共産党との関係を正常化したばかりの同党に不利に作用した。このほか、ポーランドのストライキをめぐる動向、キューバにおける大量亡命騒ぎ等は、社会主義のイメージを大幅に低下させた。また、9月3日には、昭和25年の日本共産党中央委員に対する公職追放(「6.6追放」)後地下に潜行し、長く行方不明となっていた伊藤律元政治局員が中国から帰国した。マスコミは、同人が30年近い年月にわたって中国の監獄に幽閉されていたことや、同人を中国に引き渡したのは野坂参三現中央委員会議長であることなどを報じ、同党に衝撃を与えた。さらに、マスコミは、「伊藤律問題」の背景となっていた昭和20年代後半の日本共産党による軍事活動の問題をも含めて、「伊藤律問題」真相究明のキャンペーンを張り、このため、党立て直しに全力を注ごうとしていた日本共産党は対応に苦慮した。
(2) 独自の統一戦線活動と大衆行動を積極的に推進
 昭和55年1月、社会党は公明党との間で、共産党を排除した「連合政権構想」の合意に踏み切った。これに対して日本共産党は、「社会党の右転落」であるときめ付け、徹底的に批判するキャンペーンを展開するとともに、社会党の支持基盤に直接働き掛け、下部から統一戦線醸成の機運を盛り上げる方針を打ち出した。この方針に基づき同党は、「革新統一懇談会」の結成、拡大に力を入れ、55年には41道府県でこれを結成した。
 また、日本共産党は、総評が社公中軸路線を推進し、労働戦線の「右寄り」再編、統一の動きに追随している状況の下では、総評を「階級的民主的なナショナルセンター」を目指すものとみることはできないとして、「統一戦線促進労働組合懇談会」(以下「統一労組懇」という。)の強化、拡大に努め、独自活動を活発化させるなど、総評に対するけん制、揺さぶりを強めた。
 大衆運動の分野でも、「10.21闘争」や「統一労組懇」を中心とする「11.16 集会」等に取り組んだ。
(3) 国際連帯活動
 日本共産党は、昭和54年末のソ連共産党との関係正常化後、「アフガニスタン問題」が発生しながらも、ソ連共産党をはじめ東欧諸国共産党との国際連帯活動を着実に進展させた。2月の第15回党大会には、22年ぶりに参加するソ連共産党等29箇国、30党(前回は9箇国、9党)の外国代表団が参加したが、今回初めて参加した18党のうち、その半数以上がソ連共産党の強い影響下に置かれている共産党であった。その後も、日本共産党は、東ドイツ、ハンガリーへ研究代表団、ブルガリア、ルーマニアへ訪問団をそれぞれ派遣し、連帯を強めた。更に12月には、ソ連共産党代表団が来日し、日ソ両共産党会談が開かれた。
 他方、中国共産党との関係については、宮本委員長が第15回党大会後の記者会見で、中国側が近い将来日本共産党との関係改善を求めてくるかも知れないとの趣旨の発言をしてマスコミの注目を浴びた。しかし、日中両共産党の間には、安保条約、自衛隊問題をはじめとする厳しい路線の対立が存在しており、両党の関係には変化がみられなかった。
 また、日本共産党は、朝鮮労働党第6回大会に党代表団を派遣し、近年冷却化していた両党関係に変化への動きがみられたが、同時に、国内親朝勢力である「自主の会」の問題をめぐってなお微妙な関係にあることをうかがわせた。
 このほか、イタリア、フランス、スペイン等西欧諸国の共産党とも幹部の派遣等により交流を深めた。

4 多様化する大衆行動

 左翼諸勢力等による大衆行動には、全国で約584万人(うち、極左系31万人)が動員された。
 こうした大衆行動に伴って各種の違法行為がみられ、公務執行妨害、建造物侵入、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反等で335人を検挙した。
(1) 「成田闘争」
 極左暴力集団等は、昭和55年には、全国動員規模の「成田闘争」に5回(うち1回は東京で実施。)取り組んだ。この間、全国5都府県で火炎自動車、火炎びん、時限式可燃物等を使用して18件の「ゲリラ」事件を引き起こしたほか、空港周辺では、気球、照明弾、風船等を揚げて飛行妨害をねらった。
 千葉県警察では、空港警備隊を中心として空港の警戒警備を常時実施するとともに、「3.30成田現地闘争」等の全国動員による反対闘争が取り組まれた際には、全国の管区機動隊等の応援を得て警戒警備に当たった。また、関係都道府県警察においても、成田での警備と連動して、航空保安施設等関係重要防護対象の警戒警備に当たった。
 これらの警備において、極左暴力集団等14人を公務執行妨害、高圧ガス取締法違反等で検挙した。これらの闘争に伴い、警察官6人が負傷した。
(2) 「公害闘争」
 「公害闘争」では、原子力発電所の建設に対する反対闘争が活発に取り組まれた。特に、昭和55年から実施され全国で5回開催された原子力発電所の建設に伴う公開ヒアリングに対しては、延べ約1万1,000人が動員された。
 これらの闘争に伴い発生した26件の違法事案に対し、傷害、公務執行妨害等で20人を検挙した。
(3) 「狭山闘争」等
 部落解放同盟、極左暴力集団等は、延べ約8万4,000人を動員して「狭山闘争」に取り組んだ。この闘争の過程で、違法デモを指揮したり、警察官に暴行を加えるなどした極左暴力集団等9人を公務執行妨害、公安条例違反等で検挙した。
 一方、部落解放運動関係団体による各種の「行政闘争」や、これらの組織間の対立抗争等に伴い発生した12件の違法事案に対し、傷害、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反等で22人を検挙した。
(4) 「反戦・平和運動」、「基地闘争」
 昭和55年も「4.28闘争」、「5.15闘争」、「6.23闘争」、「10.21闘争」等の各 記念日闘争を節とする集会、デモ等の「反戦・平和運動」が展開された。特に、「10.21闘争」では、全国で約29万4,000人が動員された。このうち中央集会には約5万人が動員されたが、この数字は、闘争が始まった41年以降、46年(約6万人)、45年(約5万3,000人)に次ぐもので、大きな盛り上がりを示した。これらの記念日闘争に伴い発生した違法事案に対し、公務執行妨害、公安条例違反等で36人を検挙した。
 一方、「基地闘争」では、海上自衛隊の環太平洋合同演習(リムパック)参加、日米合同演習、米軍、自衛隊の実弾射撃演習、自衛隊観閲式等に対する反対闘争を中心に全国で延べ約34万3,000人が動員された。これらの闘争に伴い発生した7件の違法事案に対し、建造物侵入、公務執行妨害等で16人を検挙した。

5 不安定な経済情勢下の労働運動

 昭和55年の春闘は、6月の参院選を目前に控え、第2次石油危機や一連の公共料金値上げによる物価の先行き不安の下で行われた。国民春闘共闘会議は、賃上げ要求と物価抑制を目指して、2月下旬から4月下旬までの間に、6次にわたる中央行動を含む全国統一行動を実施した。4月段階では、公労協、公務員共闘を中心に「72時間決戦ストライキ」を構え、4月16日の早期からおおむね夕刻まで「統一ストライキ」を実施した。このため、国鉄ダイヤが乱れるなど国民生活は大きな影響を受けた。
 秋季年末闘争では、総評が集会、デモ、請願等を実施するなかで、国労、動労等国鉄関係4労組が「国鉄再建法粉砕」等を掲げて違法ストライキを実施し、また、自治労が「賃金確定」等の問題で各地において違法ストライキを繰り返した。
 55年には、労働争議や労働組合間の対立等をめぐって244件の労働事件が発生し、暴行、傷害、建造物侵入、威力業務妨害等で237件、444人を検挙した。最近5年間の労働争議等に伴う違法事案の検挙状況は、表8-1のとおりである。
 これら労働事件の主な内容をみると、日教組、自治労等の公務員労組が、「賃金引上げ」等を掲げて、短時間ではあったが依然として違法ストライキを繰り返したほか、全逓、国労等公共企業体等の労組において、労組間の組織対立等をめぐる違法事案の多発が目立った。このうち、郵政関係における全逓と全郵政の組織対立等に伴い発生した11件の集団暴行事案に対しては、暴行、傷害等で12件、14人を検挙した。
 また、民間労組関係では、交通、運輸関係労組による違法事案が目立った。このうち、全自交や自交総連等の組織対立に伴い発生した71件の違法事案に対しては、暴行、傷害等で64件、101人を検挙した。
 さらに、長期泥沼化の傾向を示している反戦系労働者による労働争議等に伴い発生した23件の違法事案に対し、傷害、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反等で30件、59人を検挙した。

表8-1 労働争議等に伴う違法事案の検挙状況(昭和51~55年)

6 危機感を強め一段と高揚した右翼の活動

(1)憲法論議の高まりのなかで改憲運動が活発化
 安全保障の問題と絡めて戦後体制を見直そうとする動きが一部に出てきているなかで、多くの右翼、民族派団体は、「占領憲法破棄」、「自主憲法制定」等を訴えて活発な街頭宣伝活動を展開した。特に、行動右翼の協議体である全日本愛国者団体会議等が、新たに「憲法問題共闘会議」を発足させ、11月、東京で101団体、約2,500人を動員して「自主憲法制定国民大会」を開催し、デモを実施したことが注目された。また、民族派青年団体は、全国各地にキャラバン隊を派遣し、改憲を目指して「日本を守る県民会議」の結成を 呼び掛けた。さらに、「三島事件」10周年の11月25日には、右翼、民族派諸団体は、全国各地で前年を大幅に上回る人員を動員して各種行事を開催し、三島精神を継承して組織の結集を図ろうとする動きを示した。
(2) 政府、与党に対する抗議、要請活動の強化
 右翼は、我が国の国防に強い危機感を抱き、対ソ抗議活動を一段と強めるとともに、政府、与党に対し、北方領土返還要求、自主国防体制の確立、靖国神社国家護持の実現等を要求して、活発な抗議、要請活動を展開した。
(3) 左翼勢力との対決活動の活発化と違法事案の多発
 右翼は、2月に開催された日本共産党第15回大会(熱海)をはじめ、日本共産党演説会等に対して活発な批判、抗議活動を展開した。また、日教組に対しては、教育研究全国集会(1月、高知)には、遠隔地にもかかわらず120団体、730人を、定期大会(8月、岩手)には、これまでの最高である169団体、1,600人を動員していずれも激しい反対活動を展開し、違法事案を多発させた。さらに、参議院選公示日(5月30日)には、日本革新党員が飛鳥田社会党委員長に対して墨汁を投てきするという事件を引き起こした。
 一方、ソ連に対しては、アフガニスタン侵攻、北方領土におけるソ連の軍事力増強等一連の動きに憤激して、激しい抗議活動を繰り返し、これに伴い、在日ソ連公館に対する違法事案が多発した。また、中国に対しては、華国鋒総理の来日(5~6月)等に際して、一部の右翼が活発な反対活動を行った。
 このほか、右翼は、55年に107団体(約1,200人)を結成したが、これらのほとんどは既存団体の離合集散によるもので、全体の勢力は、約700団体、約12万人と、前年に比べて横ばいの状態であった。
 警察は、これら右翼の活動に対して、違法事案の未然防止、早期検挙に努め、55年には、公務執行妨害、暴行、傷害、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反等で242件、349人を検挙した。最近5年間の右翼事件の検挙状況は、表8-2のとおりである。

表8-2 右翼事件の検挙状況(昭和51~55年)

7 警衛、警護

 警察は、天皇、皇后両陛下、皇族の御身辺の安全確保のために警衛を実施している。また、首相、国賓等内外の要人の安全確保のために警護を実施している。特に、警衛に当たっては、国民一般との融和を妨げることのないよう努めている。
(1) 警衛
 天皇、皇后両陛下は、全国植樹祭(5月、三重)、箱根方面御視察(7月、神奈川)、国民体育大会秋季大会(10月、栃木)、栃木、静岡両県の御用邸へ行幸啓された。
 皇太子、同妃両殿下は、国民体育大会冬季大会(2月、北海道)、献血運動推進全国大会(7月、兵庫)、身体障害者スポーツ大会(10月、栃木)等全国各地へ行啓され、浩宮殿下はタイ国へ(12月)、礼宮殿下はニュージーランドへ(8月)御旅行された。このほか、浩宮殿下の成年式(2月)、三笠宮寛仁殿下の御結婚式(11月)等の皇室慶事が行われた。
 警察は、これらに伴う警衛を実施して御身辺の安全を確保した。
(2) 警護
ア 政府、政党要人等の警護
 大平首相は、アメリカ、メキシコ、カナダ歴訪(4月)、故チトー・ユーゴスラビア大統領の国葬参列(5月)、西ドイツ訪問(5月)を行った。これに伴い、警察は、首相出発時の極左暴力集団等の反対行動等に対処するとともに、警護員を関係諸国に派遣して、各国の関係機関と連絡協力を行い、身辺の安全を確保した。
 また、衆・参同日選挙の応援のため全国を遊説した各政党の要人に対しては、警護を実施して身辺の安全を確保した。
イ 国賓等の警護
 「故大平正芳」内閣・自由民主党合同葬儀(7月)に、カーター・アメリカ大統領、華国鋒中国総理をはじめ、48箇国、2機関の外国特使が弔問のため来日した。このほか、最近における国際交流の活発化を反映して、華国鋒中国総理(5月)、フアン・カルロス・スペイン国王、同王妃両殿下(10月)等厳重な警護を必要とする国賓、公賓その他の外国要人の来日が相次いだ。
 警察は、国際礼譲を尊重しながら、これら外国要人に対する警護を実施し、身辺の安全を確保した。


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