第8章 公安の維持

 昭和52年は、公安の維持の面においても激動の1年であった。
 とりわけ、元日早々に発生した京都・梨木神社本殿爆破事件をはじめとする計7件の爆弾事件、3月3日に発生した右翼過激派による経団連事件、9月28日に発生した日本赤軍による日航機乗っ取り事件等は、世間の耳目をしょう動させた。
 左右を問わず、少数の過激派によるこれら一連の重大事件を通じていえることは、その政治的主張を実現するためには、無この個人の生命を危険にさらして何ら省みるところのない、憂うべきテロリズムの傾向がみられることである。そして、これは我が国だけでなく、西ドイツをはじめとする先進諸国に共通する傾向であり、無法なテロ集団からの社会防衛が当面の緊急課題として提起されている。
 警察は、これらの「テロ」、「ゲリラ」を未然に防止するため、捜査体制を整備するなどあらゆる努力を傾注している。

1 「テロ」、「ゲリラ」本格化への指向を一層強める極左暴力集団

(1) 極左暴力集団の動向
 極左暴力集団の総結集勢力は、昭和49年以来約3万5,000人と横ばいのまま推移している。
 しかし、こうしたなかで極左暴力集団は、組織全体の非公然化、軍事化を図り、「テロ」、「ゲリラ」への指向を一層強めた。
 すなわち、52年における極左暴力集団の主な動向として、「梨木神社本殿爆破事件」(1月)、「東大法文1号館内爆破事件」(5月)等を通じて爆弾闘争への強い指向がうかがわれたのをはじめ、「大阪高裁長官公舎放火未遂事件」(10月)や一部セクトの主張にみられるように治安機関関係者、政府、司法機関関係者等に対する「テロ」の動きがみられ、注目された。
 また、「成田闘争」、「狭山闘争」をめぐる火炎びん事件、無線発進装置付き車両等を使用した新しい悪質な手口の「ゲリラ」事件や、依然として後を絶たない内ゲバ殺人事件の発生が目立った。
 こうした状況から、極左暴力集団は、今後も「テロ」、「ゲリラ」本格化への指向を一層強めるものとみられ、その動向には、引き続き厳戒を要する。
(2) 続発する爆弾事件
 最近5年間の極左暴力集団による爆弾事件の発生の推移は、図8-1のとおりで、昭和52年は、7件(押収爆弾を加えると8件)発生し、前年(3件)を上回った。
 これら7件の爆弾事件をみると、神社、仏閣を対象とした事件が3件(「梨木神社本殿爆破事件」、「神社本庁爆破事件」、「東本願寺大師堂爆破事件」)、大学施設を対象とした事件が2件(「東大法文1号館内爆破事件」、「法大55年館内爆破事件」)のほか、大企業の社長私邸を対象とした事件等が発生し

図8-1 極左暴力集団による爆弾事件発生件数の推移(昭和48~52年)



ており、攻撃対象が幅広いものになるとともに、爆発物も精巧になるなど、極左暴力集団の爆弾闘争への強い指向が看取された。
 犯行後新聞社等に送られた声明文等から、犯人グループは、「アイヌ革命論」(注1)、「窮民革命論」(注2)等に強い影響を受けたものとみられる。
(注1) 「アイヌ革命論」とは、「日本帝国主義を打倒し、独立した共和国を建設する革命の主体は、アイヌを中心とする抑圧され、差別されている少数の民族であり、これらの人々が相提携して、日本帝国主義者が収奪し、搾取した領土、文化等を取り戻すべきだ。」と極左暴力集団の一部が主張している理論である。
(注2) 「窮民革命論」とは、「我が国では、既に一般の労働者は革命へのエネルギーを失い、アイヌ、在日朝鮮人、日雇労働者等の少数の差別を受けている人だけが革命の主体になりうる。」と極左暴力集団の一部が主張している理論である。
(3) 再び内外に大きな衝撃を与えた「日本赤軍」の暴走
ア 「9.28日航機乗っ取り事件」の概要
 昭和52年9月28日午前10時45分ごろ(日本時間、以下同じ。)、けん銃、手りゅう弾等で武装した「日本赤軍」5人が、インドのボンベイ空港を離陸したパリ発東京行きの日航機472便(乗客、乗務員151人)を乗っ取り、同日午後2時31分、バングラデシュのダッカ国際空港に着陸させ、多数の人質を盾に我が国に対して、拘禁中の「日本赤軍」奥平純三、同関係者A、「共産同赤軍派」城崎勉、B、「沖解同」(注)C、「東アジア反日武装戦線」大道寺あや子、浴田由起子、殺人犯のD、仁平映の9人の釈放と、身の代金600万米ドル(約16億円)を要求するという極めて悪質、重大な事件を引き起こした。
 日本政府は、人質の人命尊重の見地からやむなく犯人の要求を認め、釈放要求のあった9人のうち、出国を希望した奥平ら6人(A、C、Bの3人は拒否)と身の代金600万米ドルを、10月1日、日航特別機でダッカ国際空港へ移送した。翌2日、人質との交換を行い、乗客、乗務員合わせて118人が解放されたが、同機は、10月3日、人質33人を乗せたまま同空港を離陸し、クウェート、シリアでそれぞれ燃料補給を行った後(この間、人質17人が解放された。)、同日午後11時20分、アルジェリアのダル・エル・ベイダ空港に着陸し、同地において犯人ら11人は、同国官憲に連行され、人質全員が解放された。
 この事件は、「日本赤軍」が、50年8月4日の「クアラルンプール事件」に続いて引き起こした極めて悪質、重大な事件で、再び国内外に大きな衝撃を与えた。
(注) 「沖解同」(沖縄解放同盟)とは、「沖縄人民の権力樹立」を目標として結成された組織である。
イ 警察措置等
 警察は、事件発生とともに警察庁に対策室を設置して、ICPO及び外交ルートを通じて、事件の詳細なは握に努めるとともに、関係府県警察の総力を挙げて所要の国内捜査を進めた。
 この結果、これまでに犯人5人のうち、E(27)ら4人を割り出し、12月26日、航空機の強取等の処罰に関する法律違反等により逮捕状の発付を受け、全国に指名手配するとともに、ICPOを通じて国際手配に必要な諸手続きを行った。
 また、警察は、今後、このような国際テロ事案の発生を防止するため、政府が設置した「ハイジャック等非人道的暴力防止対策本部」の決定等に基づいて、「日本赤軍」に対する情報の収集、ICPO、外交ルート等を通じての国際捜査の推進、空港施設周辺における警戒警備の強化等種々の対策を進めている。
 このほか、7月に「日本赤軍」関係者1人が、偽造旅券を行使してスウェーデン当局に身柄拘束されたが、捜査の結果、F(42)と判明し、同月20日、我が国に送還された同人を偽造有印私文書行使の国外犯として検挙した。
(4) 内ゲバ事件の傾向
ア 内ゲバの発生状況
 極左暴力集団の内ゲバは、昭和44年から52年末までに1,832件発生し、死傷者は、4,445人(うち、殺人事件46件、死者57人)を数えているが、最近5年間の発生状況の推移をみると図8-2のとおりである。
 52年の内ゲバは、全国で41件発生し、死者10人、負傷者47人であるが、これは44年以来最低を示した51年(発生91件、死者3人、負傷者192人)

図8-2 内ゲバ事件発生状況の推移(昭和48~52年)

に比べ、発生件数及び負傷者数で更に大幅に減少し、これまでの最低となった。
 このような大幅な減少は、各都道府県警察が強力な防止策を講じたこと、関係セクトが防衛に力を入れていることなどによるものとみられる。
 しかし、このような内ゲバの総体的な減少のなかで、52年の殺人事件による死者は、前年の3人に比べ、10人と逆に増加した。
 特に、「浦和市内ゲバ殺人事件」(4月)は、革労協が革マル派の自動車を前後からはさみ打ちにして停車させた上、金網付の窓ガラスをつるはし、鉄パイプ等で破壊して車内にガソリンをまき、発煙筒を投げ込んで炎上させ、乗車していた4人全員を焼殺するという極めて凶悪、残忍な事件であった。

 52年の内ゲバ事件をセクト別に分析すると、図8-3のとおりで、極左暴力集団相互間が26件(63.4%)と最も多く、そのなかで革マル派対中核派が14件(34.1%)、革マル派対革労協が10件(24.4%)であり、この3セクトで全体の半数以上(58.5%)を占め、殺人事件もこの3セクトの間で敢行されたものであった。

図8-3 内ゲバ事件のセクト別発生状況(昭和52年)

イ 内ゲバの実態と警察の対応
 最近の内ゲバは、「個人テロ」の様相をますます強め、犯行の手段、方法も一層悪質、巧妙になってきている。
 このため、関係の極左暴力集団は、活動家の地下潜行やアジトの非公然化を進めるとともに、襲撃された場合の反撃、離脱方法の徹底、電話盗聴に備えての連絡手段の多様化を図り、組織の防衛に努めている。
 しかも、内ゲバ関係主要セクトは、「糾察隊」(中核派)、「特別行動隊」(革マル派)、「プロレタリア統一戦線戦闘団」(革労協)等の訓練された非公然軍事部門を擁し、これらが中心となって組織的、計画的に内ゲバを敢行している。
 犯行の手口をみると、専門の調査隊が、襲撃対象者の動静や通勤通学の状況等について、尾行、張り込み、偽電話、資料の窃取、電話や警察無線の盗聴等あらゆる方法を用いて周到綿密な事前調査を行い、これに基づいて訓練された少数精鋭の実行部隊が、相手方の出勤途中や帰宅時、あるいは就寝中等をねらって襲撃している。
 また、犯行に際しては、盗んだ車両等に巧妙に偽造したナンバープレートを取り付けて偽装したり、警察への通報を遅らせるため、犯行直前に電話線を切断するなど、悪質な方法を用いている。
 犯行に使用する凶器等は、当初にみられた石塊、竹ざお等から、鉄パイプ、おの、バール、刃物等と次第にエスカレートしている。これらの凶器は、非公然アジト等に隠匿し、襲撃の際には、別グループが犯行現場周辺まで運搬して襲撃部隊に渡すなど、事前段階での検挙を免れるため、周到な注意を払っている。
 このような内ゲバ事件に対して、警察は、全力を挙げて必要な警戒態勢をとるとともに、関係機関や市民への協力を呼び掛けて事件の未然防止に努める一方、発生した事件に対しては、現場での検挙を徹底するとともに、追跡捜査を強化し、昭和52年には、49人を検挙した。

2 党立て直しを目指し第14回党大会を開催した日本共産党

(1) 完敗した参議院選挙
 昭和51年末の総選挙で議席を半減させた日本共産党は、これを教訓に速やかに党を立て直して「民主連合政府」構想を再び軌道に乗せ直すための諸活動に取り組んだ。しかし、党内には総選挙での敗北を契機として、将来への展望を失ったことによるざ折感、党活動に対する息切れ、党中央に対する不信感等から党活動に対する消極的傾向が広がり、そうしたなかで広谷俊二元中央委員・青年学生部長のように「宮本路線」、「宮本体制」を真っ向から批判する意識的な「新日和見主義」の動きも現れた。
 このような動きに対し、党中央は、6月23日広谷俊二元中央委員を除名するなど厳しい措置を採るとともに、党員に対する締め付け、督励を行ったが、党員の活動意欲を盛り上げることができず、党勢は引き続き後退を続けた。
 こうした状況下で7月10日の参院選を迎えた日本共産党は、改選議席の9議席を5議席に半減させたのをはじめ、得票数、得票率も前回参院選より大幅に減少させるという文字通りの完敗を喫し、全党は大きな衝撃を受けた。日本共産党は、8月30日から9月1日まで開催した第16回中央委員会総会において、「参院選で敗れたのは、党の基本路線、政策方針に誤りがあったためではなく、反動支配勢力による本格的で大がかりな党攻撃が行われ、党にそれを打ち破るだけの攻撃力が不足していたためである。」との総括を行った。
(2) 第14回党大会の開催
 日本共産党は参院選直後の昭和52年7月16日に第15回中央委員会総会を開催し、51年以来2度にわたって延期してきた定期党大会である第14回党大会を、10月17日から22日まで熱海市の伊豆学習会館で開催することを明らかにした。同時に、第15回中央委員会総会では、9月1日から党大会初日の10月17日までを「大会記念党勢拡大特別月間」に設定したが、これは、国政選挙の2連敗が党内外に及ぼす影響を懸念して、党史上最高の党勢で第14回党大会を迎え、これを党内外に誇示することによって党外からの「限界論」や党内の敗北感、ざ折感を一掃し、あわせて党中央に対する反発を回避するというねらいによるものとみられた。
 党中央は、「特別月間」を成功させることが、第14回党大会を成功に導く基本条件の一つであり、「絶体絶命の任務」であるとして、専従党員や各級議員党員をはじめ全党員を督励し党勢拡大に取り組ませた。その結果、党発表によると、党大会最終日までの52日間に約7,000人の党員と約72万人の「赤旗」読者を拡大し、40万人近い党員、約326万人の「赤旗」読者という党史上最高の党勢で第14回党大会を迎えたとしている。
 日本共産党は、第14回党大会で、「敵の出方」論に立った暴力革命の方針や「労働者階級の権力の確立」すなわちプロレタリア独裁の方針等を明らかにしている綱領、「日本革命の展望」等の基本路線を堅持することを再確認した。また、「民主連合政府」構想について、構想そのものは堅持しながらも、「政府」樹立の時期についてはこれまで「70年代の遅くない時期」としていたのを「70年代から80年代にかけて」に繰り延べることを明らかにした。
 更に、「年間計画」方式による党勢拡大と「教育立党」をスローガンにした学習教育強化による質、量両面からの強大な党の建設に取り組むこと、戦闘的な大衆運動、労働運動の方針を採用して労組、大衆団体等の中に影響力を拡大し、下から日本共産党ベースの統一戦線機運の醸成に努めること、党運営面では引締めの方向を採ることなどを主な内容とする党立て直しの方針を明らかにした。
 党大会では、これまで宮本委員長を支えてきた戦前派幹部を多数更迭し、若手幹部で宮本委員長を支える新指導部を選出したが、取り分け、袴田副委員長を解任し、更に、12月30日付けで除名したことは、党内外で大きな話題を呼んだ。
 こうして日本共産党は、新中央指導部の下、「党史上最高」となった「赤旗」読者の定着を目指して「前進と定着の運動」に取り組むとともに、下部党の党会議を開催して県委員会、地区委員会等の新指導部を選出し、また、「党勢拡大年間計画」の策定を行うなど党立て直しのための活動に踏み出した。

3 多様化する大衆行動

 左翼諸勢力等は、「新東京国際空港開港阻止」、「狭山上告棄却糾弾」、「原発、公害反対」、「反戦・平和、反基地」その他をテーマに多様な形で大衆行動を展開した。
 昭和52年の大衆行動には、全国で延べ約589万2,000人(うち、極左系約20万9,000人)、中央で延べ約65万8,000人(うち、極左系約6万3,000人)が動員された。
 こうした大衆行動に伴って各種の違法行為がみられ、凶器準備集合、威力業務妨害、傷害、公務執行妨害、建造物侵入、爆発物取締罰則違反、暴力行為等処罰二関スル法律違反等で1,350人を検挙した。
(1) 「成田闘争」
 新東京国際空港公団等では、昭和52年度内開港を目途として、航空保安施設工事用及び管理用道路の建設、三里塚・芝山連合空港反対同盟が主滑走路南端のアプローチエリア内に建設した2基の妨害鉄塔に対する撤去仮処分をはじめ、四所神社の立木伐採作業、騒音テスト飛行、空港構内高速道路上の「24番地点」に対する土地明渡しの仮処分、慣熟飛

行等開港に向けての諸準備を行った。
 これに対し、「開港阻止」、「廃港」を最大の闘争課題としている三里塚・芝山連合空港反対同盟、極左暴力集団等は、延べ約10万9,000人を動員して「鉄塔撤去反対闘争」、「騒音テスト・慣熟飛行阻止闘争」、「24番地点仮処分粉砕闘争」等21回の現地闘争等に取り組み、この間、火炎びん、劇薬、火炎自動車、爆発物等を使用して73件に上るゲリラ事件を敢行し、警備に当たった警察官1人を殺害し、262人に重軽傷を負わせるなどの激しい闘争を展開した。
 このため、千葉県警察では、警視庁をはじめ埼玉、神奈川、大阪の各都府県警察機動隊及び東北、関東、中部、近畿の各管区機動隊の応援を受け、その都度、所要の警備措置を講じ、212人を公務執行妨害等で検挙した。
(2) 「狭山闘争」等
 部落解放同盟、極左暴力集団等は、延べ約13万3,000人を動員して「狭山闘争」に取り組んだ。
 特に、昭和52年は、8月9日最高裁判所において、狭山事件の石川被告の上告棄却が決定され無期懲役が確定したことから、同決定後に闘争が激化し、「最高裁調査官宅放火未遂事件」(8月)、「東京拘置所火炎自動車突入事件」(9月)、「大阪高裁長官公舎放火未遂事件」(10月)、「最高裁判所火炎びん投てき事件」(10月)等13件に上るゲリラ事件のほか、集会、デモの過程においても警察部隊に対し火炎びんを投てきするなどの不法事案が敢行された。
 このため、警視庁をはじめ関係都府県警察では、その都度、所要の警察官を動員して、集会、デモ警備、関係重要防護対象の警備等に当たり、警察部隊に対して火炎びんを投てきするなどした極左暴力集団等201人を公務執行妨害等で検挙した。
 一方、同和対策事業の推進をめぐり、部落解放運動団体と関係自治体との交渉の過程で、12件の違法事案が発生したため、関係都道府県警察では、その都度、所要の警備措置を講じ、傷害等で18人を検挙した。
(3) 「公害闘争」
 「公害闘争」では、原子力船「むつ」の受入れをめぐる反対闘争、原子力発電所建設反対闘争、あるいは、直接地域住民に利害が絡む終末処理場及び公害企業の建設反対闘争等が目立った。
 これらの「公害闘争」に、全国で延べ約22万6,000人が動員され、各地で集会、デモ等の集団行動のほか、建設現場、県庁、議会、企業への押し掛け等の行動がみられ、このなかで、ピケ、座り込み等による工事妨害、施設等への侵入、あるいは、暴力事案等41件の違法事案が発生し、威力業務妨害、公務執行妨害等で33人を検挙した。
(4) 「反戦・平和運動、基地闘争」
 昭和52年も「4.28闘争」、「5.15闘争」、「6.23闘争」、「10.21闘争」等を節目とする集会、デモ等の「反戦・平和運動」が展開された。
 しかし、例年最大の柱となっている「10.21闘争」の動員数は、全国で約19万4,000人にとどまり、前年(21万4,000人)を下回ったのをはじめ、各闘争の動員数も、前年を下回った。
 一方、「基地闘争」は、米軍、自衛隊の実弾射撃演習、基地跡地利用、演習場使用、ファントム戦闘機の配備等に対する阻止闘争を中心に取り組まれ、全国で延べ約16万1,000人が動員され、前年の延べ約15万4,000人をやや上回った。
 これらの「反戦・平和運動、基地闘争」をめぐって、公務執行妨害等で49人を検挙した。

4 厳しい経済情勢下の労働運動

 昭和52年の春闘は、倒産が史上最高を記録する厳しい経済情勢と参議院選挙絡みの政治情勢の下で行われた。
 国民春闘共闘会議は、52年春闘に当たって、減税、雇用保障等と「最低15%程度(要求基準)の賃上げ」を要求し、「2年続いた賃金闘争不成功からの脱却」を目指した。
 そして、2月下旬から5月下旬までの3箇月間に、8次にわたる「全国集中行動期間」を設定し、この間、2月下旬から3月上旬にかけてのブロック別中央行動期間と3月下旬の地域統一闘争集中期間に、減税、最低賃金制度要求等で集中的な闘争を組み、また、賃金闘争が本格化した4月段階では、3波の「全国統一ストライキ」(「4.8」、「4.15」、「4.19、20」)を実施した。
 取り分け、最終段階には、国労、動労、全逓等の公労協が、賃金決着を目指して「96時間の統一ストライキ」を構え、4月19日から20日夕刻まで違法ストライキを実施した。
 このため、延べ約2,000万人の足が奪われるなど国民生活に大きな影響がみられた。
 秋季年末闘争では、総評は、「雇用確保の闘い」に重点を置き、「離職者対策法案」の成立促進や「国鉄、健保改正法案」の廃案等を要求して、11月4日と同24日に「全国統一ストライキ」を実施した。
 また、日教組は、「主任手当制度化」に反対し、自治労は、「賃金確定」等を要求して各地において違法なストライキを繰り返した。
 このほか、動労は、「成田空港ジェット燃料輸送阻止闘争」を実施し、この闘争による影響で、12月5日夜の国鉄総武線が大きく混乱した。
 このようななかで、52年には労働争議や労働組合間の組織対立等をめぐって387件の労働事件が発生し、警察では、図8-4のとおり暴行、傷害、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反等で304件、588人を検挙した。

図8-4 労働争議等に伴う不法事案検挙状況(昭和48~52年)

 これら労働事件の特徴を労働組合別にみると、日教組、自治労等の公務員労組では、「主任制度化反対」、「賃金確定」等を掲げた違法なストライキをしばしば行ったことが挙げられる。このほか、都道府県教育委員会が行った「管理職選考試験」、「研究協議会」等に対し、日教組の組合員が関係者をピケにより阻止したり、生徒指導要録を点検中の県教委職員からこれを奪い去ったりした威力業務妨害事案等が発生し、6件、10人を検挙した。
 次に、全逓、国労等公共企業体等の労組では、労組間の組織対立等をめぐる違法事案が、前年に比べ大幅に減少したことが特徴的である。郵政関係では、全逓、全郵政が前年に引き続き組織の拡大に取り組み、このなかで自組合への加入説得等をめぐって集団暴行事案が44件発生し、傷害、不法監禁、暴力行為等処罰二関スル法律違反で32件、61人を検挙した。これら事件の大半は、全逓労組員によるものであって、全逓から脱退することを明らかにした全逓労組分会長を全逓労組員が取り囲んで監禁した上、集団で暴行を加えるなど悪質なものが目立った。国鉄関係では、国労、勤労と鉄労、全動労の組織対立が依然として続き、これに伴う暴力事案が18件発生し、暴行、傷害等で17件、14人を検挙した。
 また、民間の労組では、反戦派の労働者が介入した労働事件が前年に比べて減少したものの依然として多発していることが注目される。出版社、新聞社、書店等で解雇問題や賃上げ交渉等をめぐって労働争議が長期化、泥沼化するなかで、「全労活」(全国労働組合活動家会議)等に所属する反戦派労働者が介入し、会社社長宅に多数で押し掛け、乱入して暴行を加えるなどの悪質な暴力事件が108件発生し、傷害、建造物侵入、威力業務妨害等で53件、72人を検挙した。このほか、反戦派労働者は、官公庁、公共企業体等関係でも3件の違法事案を行い、5件、8人を検挙した。

5 二つの潮流に分かれ高揚、激化した右翼の活動

 昭和52年の右翼運動は、従来、一部にみられていた「反共重視の誤りを正して、反体制、国家革新の本質にかえろう。」とする動きが、急速に強まって一つの潮流を形成した反面、従来のような「反共の街頭活動を主体とする勢力」も内外情勢に刺激されて組織を拡大するなど、二つの潮流に分かれるに至った。このように右翼運動は、戦後30年余りにして大きな質的転換を来すとともに、これら二つの潮流が互いに競い合って活動の活発化を促し、「経団連襲撃事件」をはじめ、「宮本日本共産党委員長殺人予備事件」、「自由民主会館におけるけん銃発射事件」等の重大な事件が発生するなど、一段と高揚、激化するに至った。
 これら右翼の活動のなかで注目されるのは、第1に、「経団連襲撃事件」が契機となって原点回帰の傾向を強めたことである。すなわち、3月3日には、「戦後体制の一大支柱」とみる財界を攻撃目標とした「経団連襲撃事件」が発生した。右翼陣営は、この事件に強い衝撃を受け、この事件を「戦前における反体制、国家革新運動の伝統を正しく継ぐものである」と高く評価して、これに続く決意を表明するなど、「右翼の本質である反体制、国家革新の原点へかえろう」とする姿勢を一段と強めるに至った。
 第2には、皇室問題に強い関心を示して、各種の活動を強化したことである。右翼は、元号の存続をめぐる論議が活発化したことに刺激されて、元号の法制化を求める活動を活発に行い、多くの団体が、国民に対する啓もう宣伝や、政府、自民党に対する元号の法制化を要請し、他方、元号の廃止を主張する勢力に対する抗議等を活発に行った。また、天皇陛下の宮内庁記者団との御会見をめぐっては、「天皇陛下の権威を失墜させるものである。」として、宮内庁等関係機関に対する抗議や「今後における中止方の要請」を行った。一方、「9.28日航機乗っ取り事件」に、右翼は強く刺激され、「極左暴力集団の次の攻撃目標は、直接皇室に向けられるであろう。」と憂慮し、一部には、今後予想される極左暴力集団の皇室闘争に対処するために、非合法活動の敢行を主張するなどの危険な動きがみられた。
 第3には、政府、自民党との対決を強化したことである。右翼は、福田内閣が、日中平和友好条約の問題に積極的に取り組む態度をとり、一方、元号問題については慎重な態度をみせたことから、政府、自民党に対する批判、攻撃を次第に強め、この過程で「自由民主会館におけるけん銃発射事件」が発生した。更に、右翼は、「9.28日航機乗っ取り事件」に対する政府の措置に対して、その責任を追及する動きを強め、加えて、日中平和友好条約締結への動きが具体化するに及んで、政府、自民党に対する批判、攻撃は一段と高まり、多くの団体がこの時点で、「福田内閣打倒」を宣言して活発な抗議活動を行った。
 第4には、革新勢力や、国際共産主義勢力との対決を強化したことである。右翼は、参議院選挙における社共両党の敗退を「運動の成果である」と評価して、左翼対決活動をこれまで以上に活発に行った。なかでも日本共産党に対しては、「宮本委員長の国会進出は革命の一里塚である。」として対決活動を強め、この過程で「宮本日本共産党委員長殺人予備事件」が発生した。日教組に対しては、教育研究全国集会(1月、埼玉)や、定期大会(7月、福島)に、これまでの記録を更新する大量の動員を行って、活発な反対活動を行った。一方、社会主義国との関係では、ソ連に対し、北方領土の返還問題や、漁業問題、中国に対しては、日中平和友好条約問題をめぐって激しい抗議、反対活動を行った。
 以上の諸活動に加えて、右翼は組織の拡大にも努め、52年には137組織(約1,700人)が結成されたが、反面、高齢化による反共団体の消滅もみられたために、全体の勢力は、約600団体、約12万人と、前年に比べて、団体数は増加(約50団体)したものの、人員数は、ほぼ横ばいの結果に終わった。しかし、これらの新組織のうち、約90組織(約1,000人)は、街頭活動を主体とする、いわゆる行動右翼であり、これが右翼運動を高揚、激化させる一つの要因となった。
 警察は、これら右翼の活動に対し、違法にわたるおそれのあるものに対しては、警告、制止の措置を積極的に講じて、不法事案の未然防止に努めるとともに、違法事案に対しては、早期検挙の方針をもって臨み、この結果、表8-1のとおり52年に、殺人予備、公務執行妨害、暴行、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反等で、258件、478人を検挙した。

表8-1 右翼事件の検挙状況(昭和43~52年)

6 スパイ活動等外国人による不法事案

 我が国における諸外国のスパイ活動や各種の非公然工作活動は、我が国の国際的地位の向上とともにますます活発化してきている。
 スパイ活動を展開する工作員は、外交官、特派員等の合法的な身分を隠れみのに、時には日本人になりすますなどその身分を隠し、我が国の政治、経済、防衛等各般にわたる調査活動や秘密情報の収集を行い、あるいは我が国を活動の場として第三国について同様のスパイ活動や敵対国の弱体化を企図した謀略活動を行っている。取り分け北朝鮮は、我が国が韓国に隣接し、かつ、約65万人に及ぶ在日朝鮮人が居住していることなどを利用して、スパイを不法潜入させ、日本や韓国に対するスパイ活動を広範に行っている。
 平和国日本でこうした武器なき戦いが展開され、国益が害されているにもかかわらず、我が国にはスパイ活動を直接取り締まる法規がないことに加えて、その手段方法が巧妙化しているため、摘発されてその実態が明らかにされるスパイ活動は氷山の一角にすぎない。
 一方、緊張が続く朝鮮半島の情勢は、在日朝鮮人の活動に影響を与え、韓国系と北朝鮮系との団体相互間における対立抗争事案が多発し、治安上注目された。
(1) 申栄萬事件
 昭和52年4月6日、警視庁は、北朝鮮スパイ申栄萬(52)を外国人登録法違反(無登録)で逮捕し、更に、申の活動を助けた補助者5人を犯人蔵匿等で逮捕するとともに無線機、乱数表、暗号表等多数の物件を押収した。
 申らの取調べの結果、北朝鮮のスパイ活動の実態が明らかになった。
 申は、昭和14年から4年間我が国に滞在し、この間、東京で新聞配達や牛乳配達をしながら中学に通っていたが、2年の時満州に渡り、官吏となり、20年春日本陸軍に入隊した。終戦後は北朝鮮に帰郷し、21年秋朝鮮労働党に入党、翌年人民軍に入り、幹部学校を経て中尉に昇進したが、隠していた戦前の経歴が発覚し、24年軍人の身分をはく奪され、以後教員生活に入った。44年高等農業学校の校長をしていた時に労働党中央に召喚され、約3年間にわたるスパイ教育を受けた。スパイ教育としては金日成思想を揺るぎないものにするための政治思想教育をはじめ、スパイに必須の無線機の組立て、修理方法、アンテナの展張要領、交信訓練を含む無線技術、電信及びラジオ放送による具体的な通信連絡方法、暗号の作成、解読方法、暗号手紙の作成方法、写真技術の教育訓練のほか、射撃、空手訓練、岩登り訓練、体力練成のための行進訓練が行われた。更に、日本に潜入し、スパイ活動に従事するための教育として、潜入、上陸訓練、日本及び韓国の政治、経済、社会、軍事等万般にわたる情勢、日本人の生活様式、日本語等の教育及び警察に対する防衛対策、北朝鮮本国との秘密の連絡方法、北朝鮮への帰還方法等について の教育、指導が徹底して行われた。特に、日本人の生活様式及び日本語に関する教育では、日本で発行されているエチケットの本や、NHKの「新日本紀行」を収録した記録映画が教材に利用されたほか、約20日間にわたるソ連、東ドイツ、フランス等の海外旅行において、同地滞在の日本人と接触させての実習教育が施された。また、日本警察に対する防衛対策では、職務質問や逮捕時における対応の仕方、尾行点検等についての細かい注意、指導が行われた。なかでも「上陸するときに発見されて警察官に質問を受けるようなときには、無線機、乱数表等の秘密物件等の入ったリュックサックを素早く海に投げ込むこと、警察官の質問には、「私は、朝鮮民主主義人民共和国の水産庁直轄の指導員であるが、風波のため漂流状態で、ようやくここまで来たので助けて下さい。」といえばよい。」等と指導されたという。
 申は、以上のようなスパイ教育を受けた後、基本任務として、在日韓国人を工作してこれを韓国に送り込み、韓国の軍事情報を収集すること、副次的任務として日本の自衛隊、防衛産業等に関する情報を収集することを下命された。日本潜入に際して、申は、無線機、乱数表、暗号表、工作資金2万米ドル、邦貨250万円のほか、潜入用装備品として短刀、ピッケル、小型シャベル、背広、ネクタイ、下着、洗面道具、水筒、食糧等を収納したリュック

サックを携行し、47年4月25日午後8時頃、北朝鮮元山港から用意された約50トンの高速工作船で出航、翌26日深夜、京都府丹後半島に到着した。工作船は、沖合1キロメートルの海上に停船し、申は、乗組員2人の案内により本船から降ろされたゴムボートで伊根町海岸に上陸した。
 申は、任務遂行の補助者を獲得するため、本国から指定されていた北朝鮮に親族のある在日韓国人数人を次々に訪ね、北朝鮮から持ってきた親族の手紙や写真を見せたり、録音テープで生の声を聴かせて執ように説得し、いわゆる人質戦術によって補助者となることを誓約させた。
 次に申は、不正な方法で外国人登録証明書を手に入れ、これを偽造して在日朝鮮人になりすまし市民生活のなかに身を隠し、定期的に送られてくる本国からの暗号放送による指令を受けて活動していたが、任務の遂行が思うに任せず、苦悩の日々を送っていた。その一方では、我が国における社会生活が長びくにつれ、自由に満ちあふれた我が国の民主主義と祖国の民主主義の違いを肌で感じて、祖国の実情に疑問を抱くようになり、52年4月6日警視庁に自首した。
 52年7月20日、申は、外国人登録法違反(無登録)、刑法第155条(有印公文書偽造、同行使罪)により、東京地方裁判所で懲役1年6月、執行猶予3

年の判決を受けた。
(2) 在日朝鮮人の対立抗争事案
 朝鮮半島の複雑かつ緊迫した情勢を反映して、北朝鮮系団体である朝鮮総聯(在日本朝鮮人総聯合会)や韓国系反体制派諸団体と韓国系団体である民団(在日本大韓民国居留民団)との間で、各種の対立抗争事案が発生し(11件)、建造物侵入等で90人を検挙した。
 まず、北朝鮮船舶万景峰号の大阪入港(2月)、岡山入港(3月)及び北朝鮮議員代表団の来日(5月)時に、民団及び右翼団体による反対、抗議行動が行われたため、警察は部隊による制止活動や検挙活動を行い、建造物侵入等で7人を逮捕した。
 次に、韓国系反体制派団体である韓民統(韓国民主回復統一促進国民会議)及び韓青(在日本韓国青年同盟中央総本部)と、民団との間の抗争が激化し、8月、東京で開催された韓民統系の「海外韓国人民主運動代表者会議」会場に民団系の韓国青年会会員が乱入した事案(76人逮捕)をはじめ、韓青の韓国大使館への押し掛け抗議事案(4月)、元韓国外務部長官の亡命発言をめぐる抗議事案(11月)等が発生し、建造物侵入等で83人を検挙した。

7 警衛、警護等

 警察は、天皇及び皇族に対しては警衛を、また、首相、国賓等内外の要人に対しては警護を実施し、それぞれ身辺の安全確保に当たるとともに、その際国民一般との融和を妨げることのないよう努めている。
 昭和52年には、右翼は、「反体制、国家革新」の姿勢を一層強めるとともに、対ソ批判、左翼対決活動を活発に行い、他方、極左暴力集団は、「狭山闘争」等を通じて「テロ」、「ゲリラ」指向を更に本格化するなど、厳しい警衛、警護情勢が続いた。こうしたなかで、「経団連襲撃事件」、「大阪高裁長官公舎放火未遂事件」等が発生した。
 天皇、皇后両陛下は、4月の和歌山県(全国植樹祭御臨席のため)をはじ

めとして全国各地へ行幸啓になり、また、皇太子、同妃両殿下をはじめとする各皇族も全国各地へ行啓、お成りになった。警察は、所要の警察官を動員してこれらに伴う警衛を実施し、御身辺の安全を確保した。
 各政党の要人は、参議院選挙応援のため、全国を遊説したが、警察は、これらに伴う警護を実施して身辺の安全を確保した。
 また、福田首相は、日米首脳会談(3月、ワシントン)、主要国首脳会議(5月、ロンドン)及びASEAN首脳会議(8月、クアラルンプール)出席のため、関係諸国を訪問したが、警察は、首相出発時の極左暴力集団等の反対行動に対処するとともに、警護員をこれら関係諸国に派遣し、各国の関係機関と連絡協力を行い身辺の安全を確保した。
 更に、最近における国際交流の活発化を反映して、マルコス・フィリピン大統領夫妻(4月)をはじめとする外国要人の来日が相次いだ。また、社会主義インターナショナル首脳会議(12月)のほか各種の国際会議が開催され、多数の外国要人が来日した。警察は、国際礼譲に配意しながらこれらに伴う警護を実施し身辺の安全を確保した。
 このほか、警察は、国会、総理官邸、外国公館、空港等の重要な施設に対する警戒、警備を強化、「テロ」、「ゲリラ」等の未然防止に努めた。

表8-2 主要警衛、警護実施事例(昭和52年)


目次