第7章 公安の維持

1 「テロ」、「ゲリラ」本格化への指向を強める極左暴力集団

(1) 極左暴力集団の動向
 極左暴力集団の勢力は、図7-1のとおり、約3万5,000人と昭和49年以来横ばいのまま推移しているが、「テロ」、「ゲリラ」を指向し、組織の非公然化、軍事化を目的とした再編、整備が進められた。

図7-1 極左暴力集団勢力推移(昭和42~51年)

 51年の極左暴力集団の主な動向をみると、「北海道庁爆破事件」等を通じてうかがわれた爆弾闘争指向グループのすそ野の広がり、「東京高等裁判所寺尾判事襲撃事件」や一部セクトの主張にみられるような治安機関関係者、政府、司法機関関係者等に対する「テロ」の動き、「天皇在位50年記念式典粉砕闘争」をめぐる火炎びん事件その他の「ゲリラ」事件、依然として後を絶たない内ゲバ殺傷事件の発生が挙げられる。
 こうしたことから、極左暴力集団は、今後ますます「テロ」、「ゲリラ」本格化への指向を強めるものとみられ、その動向には、引き続き厳戒を要する。
 「日本赤軍」は、奥平純三(27)らがヨルダンで、A(33)がカナダでそれぞれ身柄拘束され、我が国へ送還されるという事案を引き起こし注目された。
(2) 後を絶たない爆弾事件
ア 爆弾闘争指向グループのすそ野の広がり
 最近5年間の極左暴力集団による爆弾事件の発生の推移は、図7-2のとおりで、昭和51年の爆弾事件は3件の発生にとどまり、前年(22件)を下回った。

図7-2 極左暴力集団による爆弾事件発生件数の推移(昭和47~51年)

 しかし、3月に発生した「北海道庁爆破事件」は、49年8月の「丸の内ビル街爆破事件」に次ぐ規模の悪質、陰惨な事件となったほか、共産同蜂起左派(5月検挙)、同赤報派(10月検挙)(注)の爆弾事件の捜査過程で判明した爆薬、爆弾製造用工具類等の隠匿事案、爆弾材料を所持していた旧べ平連活動家が警察官の職務質問を振り切って逃走した事案(7月発生)、黒へル集団関係者が無煙火薬等を隠匿していた事案(11月検挙)等を通して、爆弾製造を企図していた新たなグループが解明された。
 こうした傾向に加えて、爆弾事件は模倣性が強く、また、初歩的な理化学知識があれば爆発物の製造は容易であるところから、爆弾闘争指向グループのすそ野はますます広がっているとみられる。
(注) 共産同蜂起左派及び同赤報派とは、日本共産党から離脱した全学連活動家が中心となって組織し、その後トロツキズム等の影響を受けてきた共産主義者同盟(共産同)の流れをくむグループである。共産同系にはこのほかに、赤軍派、神奈川左派その他のグループがある。
イ 北海道庁爆破事件
 昭和51年3月2日午前9時2分ごろ、北海道札幌市の北海道庁本庁舎1階ロビー西側エレベーター前付近で、時限装置付消火器爆弾が爆発し、付近に居合わせた出勤途中の道庁職員2人が死亡し、95人が重軽傷を負ったほか、1階ロビーの天井が落下するなどの被害を生ずる事案が発生した。
 このため警察では、北海道警察本部を中心に強力な捜査を展開してその早期解決に努め、爆発物取締罰則違反で逮捕した岐阜県出身の元会社員B

(26)について、関係府県警察との緊密な連絡の下に捜査を続けた結果、「北海道庁爆破事件」は同人らの犯行と判明した。
ウ 爆弾事件捜査の進展
 警察は、昭和50年に一連の企業爆破事件を解決したが、51年も共産同赤報派グループが、同派の最高幹部級で「爆発物製造事件」(46年9、10月、東京)により全国に特別手配されていたC(36)と「スポイト爆弾事件」(46年9、10月、東京)で逮捕状の出ていたD(33)をかくまっている事実を突き止め、この2人と、これをかくまっていた者2人を逮捕した。更に捜査を進めた結果、ピクリン酸やダイナマイト等を隠し持っていた者を含め、12月14日までに合計16人を逮捕した上、証拠品約3,500点を押収し、これまで未解決であった爆弾事件3件を解決した。
 また、5月には「警視庁第4機動隊猶興寮爆破事件」(46年9月)の被疑者として、全国指名手配中であった共産同神奈川左派の活動家E(33)を発見、逮捕するとともに、同人をかくまった容疑で共産同蜂起左派幹部2人も逮捕した。
 更に、45年全国に指名手配されて以来逃走を続けていた「寝屋川警察署襲撃事件」(44年11月、大阪)の被疑者で共産同赤軍派のF(28)が、逃走の疲れ等で警察に出頭してきたところから同事件を解決し、「赤羽誤爆事件」(50年7月、東京)では、共犯者の1人を検挙し、1人を指名手配した。
(3) 減少した内ゲバ事件
ア 発生状況
 極左暴力集団の内ゲバは、昭和44年から51年末までに1,782件発生し、死傷者は4,388人(うち、殺人事件39件死者47人)の多くを数えている。
 最近5年間の発生件数の推移をみると図7-3のとおりで、51年は、全国で91件発生し死者3人、負傷者192人となった。
 このような大幅な減少は、内ゲバ事件の捜査が国民各層の協力等により核心に迫り始めたこと、関係セクトが防衛に力を入れていることなどによるものとみられる。

図7-3 内ゲバ事件の発生状況(昭和47~51年)

図7-4 内ゲバ事件のセクト別発生状況(昭和51年)

 しかし、極左暴力集団は、もともと指導権争いから出発した内ゲバを革命闘争の一環として位置づけ、相手セクトの完全せん滅なくして革命の勝利はないという考え方に固執しており、機会をとらえて常に凶悪、陰惨な内ゲバの敢行に走る危険性をはらんでいる。
 51年の内ゲバ事件をセクト別に分析すると、図7-4のとおりで、極左暴力集団相互間が74件(81.3%)と最も多く、なかでも中核派対革マル派が46件(50.5%)とその半数以上を占め、2件の殺人事件も、この両セクト間で行われたものであった。
イ 内ゲバの実態と警察の対応
 最近の内ゲバは、「個人テロ」の様相を一層強め、凶器もより殺傷力の強い物へとエスカレートするなどますます凶悪、陰惨なものとなっている。
 こうした「個人テロ」化の結果、活動家の地下潜行やアジトの非公然化が進み、相手方を捕捉するための調査活動が一層悪質、巧妙化してきている。

 極左暴力集団の主要セクトは、「人民革命軍・武装遊撃隊」(中核派)、「特別行動隊」(革マル派)、「プロレタリア統一戦線戦闘団」(革労協)等のそれぞれ訓練された非公然軍事組織を持ち、これがいわゆる「内ゲバ」部隊の中軸となって、組織的、計画的に内ゲバを敢行している。
 また、これらのセクトは、公然アジト等を鉄板、コンクリートその他で補強して要塞化するとともに、これらに防衛員を交替制で常時配置したり、光電管感知装置を取り付けたりして防衛の強化を図っている。
 犯行方法も、従来の集団遭遇戦から特定の個人を対象とした少数精鋭による計画的なものへと移行している。このため、専門の調査隊を編成して、襲撃対象者の動静や通勤通学の状況等について、尾行、張込みをはじめ、偽電話、資料の窃取、電話や警察無線の盗聴その他違法手段を含むあらゆる方法を用い徹底した事前調査を行っている。
 犯行に使用する凶器等は、非公然アジト、空き小屋、林の中等に隠匿し、襲撃の際、別グループがこれを犯行現場付近まで運搬して攻撃部隊に渡すなど準備段階での検挙を免れるため周到な注意を払っている。
 また、犯行に際しては、あらかじめ盗んで用意した車両等を利用し、しかも、巧妙に偽造したナンバープレートを取り付けたり、警察への通報を遅らせるため事前に現場付近の電話線を切断したりするなど犯行の手段方法は一段と悪質、巧妙化するとともに、平穏な市民生活を脅かす事件が目立っている。
 こうした内ゲバ事件に対して、警察は、全力を挙げて必要な警戒態勢をとるとともに、関係機関や市民へ協力を呼び掛けて事案の未然防止に努める一方、発生した事案に対しては現場検挙を徹底するとともに、追跡捜査の強化を図り、昭和51年には、152人を検挙した。
(4) 再び危険な姿を現した「日本赤軍」
 昭和50年8月に「クアラルンプール事件」(注1)を敢行した「日本赤軍」は、51年8月「ヨルダン事件」を引き起こし、再び、その危険な姿を現わした。すなわち、奥平純三とG(31)の両人は、ヨルダンに偽造旅券を用いて入国を図りヨルダン当局に逮捕され、Gは同国内で身柄拘束中自殺し、奥平は10月13日我が国へ送還された。
 その後の捜査によって、奥平は「ハーグ事件」(注2)、「クアラルンプール事件」の犯人であることが裏付けられた。
 また、12月には「日本赤軍」関係者で国際手配中であったAがカナダ当局に身柄拘束され、同月15日、日本に送還されてきたため、爆発物取締罰則違反で同人を逮捕した。
 「日本赤軍」は、組織の立て直しを期して、再び、同志奪還、資金調達をねらったハイジャック、要人誘かい、在外公館、商社等の占拠による人質作戦を敢行することも考えられ、今後の動向が注目される。
(注1) 昭和50年8月4日、「日本赤軍」5人が、けん銃等で武装してクアラルンプールのアメリカ大使館とスウェーデン大使館を占拠し、日本で勾留中の西川純(25)ら5人を奪還して日航機でリビアのトリポリに着陸し、同国に投降した事件。
(注2) 昭和49年9月13日、「日本赤軍」の和光晴生(26)ら3人が、けん銃、手りゅう弾で武装してハーグのフランス大使館を占拠し、フランスで拘禁中の山田義昭(25)を奪還して飛行機でシリアのダマスカスに着陸し、同国に投降した事件。

2 停滞を続けた日本共産党の「民主連合政府」構想

(1) 停滞を続けた党活動
 日本共産党は、昭和51年「宮本リンチ事件」や宮本委員長の「猟銃所持問題」等が論議を呼び、また、同党と他の野党との抗争が激化したことなどにより同党に対する国民の不信が強まるという状況のなかで、48年の第12回党大会以降の停滞を打開して「民主連合政府」構想を軌道に乗せ直すことを目指して党活動を推進した。
 党建設の分野では、51年前半は、スペイン共産党やフランス共産党の代表を招待したり、「自由と民主主義の宣言」をアピールするなどして党のイメージ・チェンジを図りながら、1月から4月まで党勢拡大等のための「大運動月間」を設け、更に、7月の臨時党大会に向け全党を挙げて党勢拡大に取り組んだ。また、後半は総選挙に向けて党勢拡大を引き続き推進した。こうした活動の結果、51年12月現在、同党の発表によれば、「党員数は40万人近く、「赤旗」は本紙、日曜版を合わせて300万部を超えるに至った」(昭和51.12.30付け「赤旗」)が、第12回党大会で決定した党勢拡大3箇年計画の目標である党員40万人以上、「赤旗」400万部以上を達成することはできなかった。
 また、統一戦線活動も、4月の成田日本社会党委員長と宮本委員長の会談をはじめ、10月からの総評新執行部との定期協議、総選挙戦終盤における「安保抜きの暫定政府」構想発表その他多面的に展開されたが、見るべき進展はなかった。
 しかし、国際連帯活動の面では、フランス、イタリア、スペイン等の西欧諸党との交流活動を強めたほか、ソ連共産党との間で友好回復を目指す動きを積み重ねるなどの進展がみられた。
 日本共産党は、このような状況の下で12月の総選挙に臨んだが、その結果は、得票数は有権者数の伸びもあって前回総選挙を約33万票上回る約603万票であったが、得票率は10.7%と前回を0.2%下回り、議席数は前回の40議席から19議席へと激減した。
(2) 矛盾が明らかになった「宮本路線」
 日本共産党は、昭和51年秋に予定していた定期党大会を52年に延期することとし、7月28日から30日まで第13回臨時党大会を開いた。その主眼は、党綱領・規約から「プロレタリアート執権」、「マルクス・レーニン主義」という用語を削除し、更に「自由と民主主義の宣言」を採択するなどして党のイメージ・チェンジを国民各層に浸透させるとともに、党員に「革命的気概」を起こさせ、総選挙で勝利を収め、停滞打開のきっかけをつかむことにあったものとみられる。
 しかし、大会をめぐる一連の動きを通じ、憲法、議会制民主主義、自由、私有財産制等の重要問題について党外向けの宣伝と党内向けの教育・学習とで相矛盾する二つの方針を使い分けるという「宮本路線」の矛盾が明らかになった。すなわち、党中央はこれまで党外向けには憲法、議会制民主主義、自由、私有財産制等を尊重し擁護すると宣伝しながら、党内に対しては党綱領・規約の改定は字句だけのことであって、「敵の出方」論に立った暴力革命の方針に基づいて我が国の革命を遂行するという綱領の基本路線や革命勢力としての基本的性格を明示した党規約を将来にわたって堅持すると強調してきた。ところが、大会をめぐる一連の動きを通じ、この使い分けの事実が国民の前に明らかになり、このため同党に対する国民の不信感が増大するとともに、党内でも党綱領・規約の改定を党路線の転換と受けとめる者が現れるなどの混乱が見られた。
(3) 停滞打開を目指す諸活動の推進
 日本共産党は、昭和51年も停滞から抜け出すことが出来なかったが、敗北に終った総選挙結果を踏まえ、早急に全党の態勢を立て直し、52年の参議院選挙で勝利を収めることなどを通じ「民主連合政府」構想を軌道に乗せ直すべく、全党を挙げて諸活動を推進するものとみられる。

3 多様化する大衆行動

 左翼諸勢力等は、「ロッキード汚職糾弾」、「反インフレ・生活防衛」、「天皇在位50年記念式典粉砕」、「反戦・平和、反基地」、「原発、公害反対」その他をテーマに多様な形で大衆行動を展開した。
 昭和51年の大衆行動には、全国で延べ約618万9,000人(うち、極左系約20万8,000人)、中央で延べ約60万8,000人(うち、極左系約8万1,000人)が動員された。
 こうした大衆行動に伴って各種の違法行為がみられ、凶器準備集合、威力業務妨害、傷害、公務執行妨害、建造物侵入、爆発物取締罰則違反、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反等で1,220人を検挙した。
(1) 「ロッキード汚職糾弾闘争」、「生活防衛闘争」
 不況や公共料金の値上げ、あるいは「ロッキード事件」等を背景に左翼諸勢力等による「インフレ打破」、「公共料金、諸物価値上げ反対」、「ロッキード汚職糾弾」等を掲げた「ロッキード糾弾闘争」、「生活防衛闘争」が展開された。
 これらの大衆行動は、集会、デモや国、自治体への要請、陳情、税務署、企業、銀行等への抗議、要請あるいは大量宣伝、署名運動等多彩な形で展開され、全国で延べ約323万人、中央で延べ約50万4,000人が動員された。
(2) 「天皇在位50年記念式典粉砕闘争」
 極左暴力集団等は、「天皇在位50年記念式典粉砕」を昭和51年の最大の闘争課題としてとらえ、式典当日の11月10日には、全国73箇所に約1万1,900人(うち、極左系42箇所、約6,600人)を動員して、集会、デモ等の式典粉砕闘争を行ったほか、11月2日からの前段闘争でも、全国58箇所に約6,300人(うち、極左系33箇所、約1,800人)を動員して、集会、デモ等に取り組んだ。また、この闘争を通じて、極左暴力集団は、日本武道館その他に対し火炎びんを投てきするなど10件の「ゲリラ」事件を敢行した。
 この式典粉砕闘争をめぐって、公務執行妨害等で極左暴力集団等58人を検挙した。
(3) 「反戦・平和運動、基地闘争」
 昭和51年も「4.28闘争」、「5.15闘争」、「6.23闘争」、「10.21闘争」等を節とする集会、デモ等の「反戦・平和運動」が展開された。
 例年最大の柱となっている「10.21闘争」は、全国で約21万4,000人(50年約21万5,000人)にとどまったが、「天皇在位50年記念式典粉砕闘争」を間近に控えて取り組まれた中央では、前年をやや上回る約2万8,000人の動員となった。
 また、「基地闘争」は、米軍、自衛隊の実弾射撃演習、ナイキ基地設置、ファントム戦闘機の配備等に対する阻止闘争を中心に取り組まれたが、全国で延べ約15万4,000人の動員にとどまり、前年の延べ約19万8,000人を下回った。
 これらの「反戦・平和運動、基地闘争」をめぐって、公務執行妨害等で91人を検挙した。
(4) 「成田闘争」
 新東京国際空港公団では、昭和52年開港を目途として、航空機の誘導に必要な進入燈30基の建設と主滑走路南端のアプローチ・エリア内に、三里塚、芝山連合空港反対同盟が建設した2基の「妨害鉄塔」に対する除去仮処分に備えて、それに必要な道路(航空保安施設工事用及び管理用道路)の建設を進めた。
 これに対して、「開港絶対阻止」を標傍している極左暴力集団等は、2月25日のC工区の道路建設工事着工に対する妨害工作物構築闘争をはじめ4回の現地闘争に取り組み、この間、延べ約8,200人を動員して激しい闘争を展開した。
 このため、千葉県警察では、警視庁をはじめ関東管区内各県警察の応援を受け、その都度、万全の警備措置を講じ、113人を公務執行妨害等で検挙した。
(5) 「公害闘争」
 「公害闘争」では、原子力発電所建設反対闘争あるいは直接地域住民に利害が絡むし尿処理場等終末処理場の建設反対闘争等が目立った。
 これらの「公害闘争」に、全国で延べ約13万2,000人が動員され、各地で集会、デモ等の集団行動のほか、建設現場、県庁、議会、企業への押し掛け等の行動がみられ、このなかで、ピケ、座り込み等による工事妨害、施設等への侵入や暴力事案が発生し、威力業務妨害、公務執行妨害等で53人を検挙した。

4 厳しい経済情勢下の労働運動

 昭和51年の春闘は、失業者が100万人を超える厳しい経済情勢と「ロッキード事件」等で激動、混迷を続けた政治情勢の下で行われた。
 春闘共闘委員会は、雇用保障、最低賃金制確立等の「生活、制度要求」と「賃上げ要求(20%・3万円前後)」を結合して「官民総がらみ」闘争で要求の実現を図る方針で春闘に臨んだ。
 そして、折から大きく政治問題化した「ロッキード事件」を絡ませて、3月は、「生活、制度要求」、4月は、賃金闘争にそれぞれ重点を置いて4波の「全国統一ストライキ」(「3.17」、「3.30」、「4.14」、「4.20、21」)を実施した。
 とりわけ、4月中旬から下旬にかけての賃金闘争「決戦段階」では、国労、動労、私鉄総連等の全交運と全逓、全電通等の公労協が「4.14」(半日スト)、「4.15」(公労協の半日スト)、「4.16」(公労協の24時間スト)とストライキを反復した上で、最終段階の4月20、21日には2日間の「統一スト」を実施した。
 このため、2日間にわたって国電、新幹線を含む国鉄のほぼ全線が麻ひし、また、私鉄大手も一部を除いて2日間ストップする交通ゼネスト的状態となって、延べ約8,900万人が足を奪われるなど国民生活に大きな影響がみられた。
 自治労、日教組等の公務員労組は、全交運等と歩調を合わせて違法ストを繰り返し、特に、4月「決戦段階」では「2時間以上、2波以上のストライキ」という公務員共闘の統一方針の下に最高2時間の違法ストを行った。
 総評は、7月の定期大会において選出した新指導部の下で、「主体的力量の強化」を主眼に、労働運動の立て直しを図ることとし、また、秋季年末闘争を52年春闘の前段闘争と位置づけ、「労働運動再構築の第一歩を踏み出す闘い」として取り組んだ。この秋季年末闘争では、自治労等の公務員労組が「賃金確定」その他を要求して違法ストを実施した。
 このようななかで、51年には労働争議や労働組合間の組織対立等をめぐって693件の労働事件が発生し、警察では、図7-5のとおり暴行、傷害、暴

図7-5 労働争議等に伴う不法事案検挙状況(昭和47~51年)

力行為等処罰ニ関スル法律違反等で704件、1,285人を検挙した。
 これら労働事件の特徴を労働組合別にみると、日教組、自治労等の公務員労組では、「主任制度化反対」、「賃金確定」等を掲げて、しばしば違法なストライキを行ったことが挙げられる。北海道教職員組合(以下「北教組」という。)は全国でただ1県「全1日スト」を5月19日に行うなどその悪質ぶりが目立ち、北海道警察では、この「5.19北教組全1日スト」で、北教組委員長ら幹部3人を地方公務員法違反で検挙した。このほか、主任の制度化をめぐり日教組の組合員が校長を監禁したり、暴行を加えたりする暴力事件が7件と多発し、6件、15人を検挙した。
 次に、全逓、国労等公共企業体等の労組では、労組間の組織対立等をめぐる集団暴力事件が依然として多発したことが挙げられる。郵政関係では、全逓、全郵政が50年に引き続き組織の拡大に取り組み、このなかで自組合への加入説得等をめぐって集団暴力事件が64件発生し、傷害、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反等で68件、162人を検挙した。これら事件の大半は、全逓組合員によるものであって、全郵政組合員を休憩室等に連れ込み、集団で暴行を加えたり、これを救出しようとした管理者を突き倒すなどの悪質なものが目立った。国鉄関係では、動労と全動労の組織対立が依然として続き、これに伴う暴力事件が9件発生し、暴行、傷害等で12件、22人を検挙した。
 また、民間の労組では、反戦派の労働者が介入した労働事件が多発したことが注目される。出版社、新聞社等で解雇撤回や団交の実施等を要求して、労働争議が長期泥沼化するなかで、「全労活」(全国労働組合活動家会議)等に所属する反戦派労働者が介入し、会社役員宅に多数で押し掛け、暴行を加えたり、監禁したりするなどの暴力事件が133件と多発し、傷害、建造物侵入、威力業務妨害等で115件、284人を検挙した。このほか、反戦派労働者は、官公庁、公共企業体等関係でも18件の違法事案を敢行し、警察では23件、40人を検挙した。

5 「反体制、国家革新」の姿勢を強め高揚、激化した右翼の活動

 右翼は、ロッキード事件の影響による国民の保守政治に対する不信の高まりや、自民党内の混迷、総選挙における自民党の後退、更には、核兵器の不拡散に関する条約(以下「核防条約」という。)の批准や極左暴力集団の皇室に対する闘争の高まり等に強い刺激を受け、「日本は確実に滅亡への道をたどっている」として、一段と危機感を高めるに至った。このため、「この危機を突破するためには、従来のような反共重視の活動だけでなく、国家革新に向けての行動を強化しなければならない。」との主張が高まるとともに、各種の活動に際しては、全国各地から大量動員する傾向を顕著にするなど右翼の活動は急速に活発化した。
 これら右翼の活動のなかで注目されるのは、第1に、「反共を重視した現在の運動から脱皮して、反体制、国家革新の本質に返らなければならない。」との主張が強まったことである。すなわち、右翼運動は、反体制、国家革新を本質とするものであるが、戦後における右翼運動は、左翼暴力に対する国民の批判のなかから、反共運動として芽を出し、多分に「反共重視、体制擁護」の傾向にあったが、「日本の歴史と伝統に基づいた真の国家再建を勝ち取るためには、占領憲法と安保体制の上に構築された戦後の体制(ヤルタ・ポツダム体制)を打倒しなければならず、その手段として、爆弾闘争をも辞さない。」との主張が若手民族派を中心として右翼陣営に急速に浸透し、いわゆる新右翼としての潮流が形成、拡大されるなど右翼運動は、大きく質的転換への動きを示した。
 第2には、政府、自民党に対する抗議や批判活動を強化したことである。すなわち、政府主催の憲法記念日式典に対しては、式典粉砕の抗議活動を行い、核防条約の批准に対しては、激しい阻止活動を展開し、この過程で4月には、国会において大日本生産党行動隊幹部による首相に対する直訴未遂事件が発生した。また、「ロッキード事件」に対しては、「早期徹底した究明と自民党の体質改善」を要求して政府、自民党に対する糾弾を強化するとともに、政局混乱の原因は、「党内の派閥対立」にあるとみて、関係者に対する批判を強め、この過程で、自民党の分裂に危機感を抱いた踏道同志会主席による、「河野洋平代議士殺人未遂事件」(8月、京都)が発生した。
 第3には、左翼諸勢力や国際共産主義勢力との対決が活発であったことである。
 右翼は、「ロッキード事件」が左翼諸勢力を利する結果になることをおそれて、抗議、批判等の活動を強化し、これら諸勢力の行う各種闘争や行事に対しては、その都度、大量動員による反対活動を行い、これに伴って多くの紛争事案が発生した。なかでも、日教組の定期大会(6月、広島)には延べ312団体、約3,200人、宣伝カー等約460台、日教組の教育研究全国集会(1月、大津)には延べ100団体、約500人、宣伝カー等約120台と、これまで最高の大量動員による反対活動を行って注目された。
 一方、右翼は、共産圏諸国との関係では、ソ連に対し、北方領土の返還やソ連漁船団の日本近海における操業、「ミグ25事件」等の問題、中国に対しては、核実験、北朝鮮に対しては、万景蜂号の入港等の問題をめぐって、それぞれの駐日大使館や来日した要人等に対する抗議活動を行った。
 第4には、「天皇陛下御在位50年奉祝行事」の盛り上がりに努めたことである。右翼は、天皇御在位50年のこの年を民族意識高揚の好機として、早くから奉祝行事の盛り上がりに努め、11月10日の式典当日には、全国各地で多彩な奉祝行事を行った。一方、極左暴力集団の「記念式典粉砕闘争」に対しては、強い対決の姿勢で臨み、また、「式典反対」を表明した社会、共産両党に対しても、各種の批判活動を行った。
 以上の諸活動に加えて、右翼は組織の拡大にも努め、昭和51年に116組織(約1,200人)が結成されたが、これらのほとんどは、組織の離合集散や名称の変更にすぎず、全体の勢力は、約550団体、約12万人と、前年に比べて横ばいの結果に終った。しかし、これらの新組織は、旗上げとして活発な活動を行い、これが右翼運動を高揚・激化させる一つの要因となった。
 警察は、これら右翼の活動に対し、違法にわたるおそれのあるものに対しては、警告、制止の措置を積極的に講じて、不法事案の未然防止に努めるとともに、違法事案に対しては、早期検挙の方針をもって臨み、この結果、表7-1のとおり51年に、殺人未遂、公務執行妨害、傷害、暴行、威力業務妨害、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反等で271件、503人を検挙し、戦後の最高を記録した。

表7-1 右翼事件の検挙状況(昭和42~51年)

6 スパイ活動等外国人による不法事案

 近年、我が国の国際的地位の向上に伴い、諸外国は、我が国の政治、経済、外交、防衛等に関する情報を収集するため、公然、非公然の手段、方法によるスパイ活動を一層活発に展開している。更に、我が国を活動の場として、我が国以外の国に対するスパイ活動も広範囲に行われている。
 こうした活動は、外交官、特派員、貿易商、技術交流のための技師といった身分を隠れみのとしたスパイによって、巧みに行われている。
 スパイ活動自体を直接取り締まる法規を持たない我が国では、スパイ摘発には多くの困難が伴うが、昭和51年には、ソ連、中国、北朝鮮のスパイを検挙した。しかし、これらは法網をかいくぐって暗躍するスパイ活動のほんの一端にすぎない。
 また、複雑、微妙な国際情勢、国際社会での利害対立や価値観の相違は、在日外国人の動向に反映して、しばしば治安問題として顕在化している。そうした例として、在日朝鮮人間や在日華僑間の対立抗争事件の発生が挙げられる。
 なお、特異な事件として、51年9月6日、ソ連軍中尉ベレンコが、ミグ25型機で我が国の領空を侵犯し、函館空港に強行着陸するという事件が発生した。べレンコは、「ソ連には自由がない。」とアメリカへの亡命を求め、出入国管理令違反等の捜査終了後、9月9日アメリカへ向け出国した。
(1) 暗躍するスパイの摘発
ア マチェーヒン事件
 昭和51年5月12日夜、東京・池袋において、警視庁の警察官が挙動不審の外国人2人を職務質問した。その結果、1人は呈示した身分証明書によりアメリカ海軍の空母「ミッドウェー号」の乗組員A一等兵曹と確認された。しかし、他の1人は、パスポートの呈示を拒んで逃げようとしたので、出入国管理令違反(旅券等の呈示拒否)として現行犯逮捕した。その後の調べにより、逮捕された男は、ソ連のノーボスチ通信社東京支局特派員マチェーヒン(38)と判明した。
 マチェーヒンは取調べに対し、ほぼ完全に黙秘した。一方、A一等兵曹は、50年5月、横浜港祭りを見物中、「あなたの撮った写真がほしい。」と言葉巧みに近づいたマチェーヒンと知り合い、以後、マチェーヒンから、「子供の誕生日のプレゼントだ。」と称して高価なおもちゃを贈られたり、レストラン等で食事に誘われるなど家族ぐるみの交際を続けてきたが、最近になって、「アメリカ海軍の軍事機密を持って来てくれれば、1件につき1,000ドル支払う。」と持ち掛けられ、具体的に「ミッドウェー号」の艦載機の電子装置、レーダー装置等に関する機密文書や暗号表の入手を要求されたが拒否した旨供述した。
 警視庁は、A一等兵曹の供述その他の状況を慎重に検討した結果、マチェーヒンの行為は「刑事特別法」違反(合衆国軍隊の機密を侵す罪未遂)に該当すると判断し、5月14日改めて同人を同法違反の容疑で逮捕した。5月22日、マチェーヒンは、起訴猶予処分となり、翌23日急拠モスクワへ向け出国した。
イ 汪養然事件
 昭和51年1月26日、警視庁は、各種の情報収集活動を行っていた香港在住中国人、汪養然を外為法違反で逮捕した。汪らの取調べの結果、次のような事実が判明し、香港ルートによる中国の対日情報収集活動の一端が解明された。
 汪は、香港において永康貿易公司等貿易商社3社を経営し、広州交易会にも参加するなど手広く中国貿易を行っていたが、46年ころ、中国情報機関員から「香港において中国と取引きをする中国人業者は、祖国の建設と祖国防衛に協力する義務がある。」と迫られ、貿易取引きを継続する見返りとして、日本において軍事、産業技術関係等の情報収集を行うよう指示された。
 以後、汪は、貿易業務等を装ってひん繁に来日し(約30回)、内妻宅をアジトに在日補助者数人を利用しながら、幅広い情報収集活動を行った。汪が収集し、あるいは、収集しようとした情報は、中ソ国境地図やソ連関係情報、外国の航空機エンジンその他の軍事関係情報、我が国の産業技術、政治、経済に関する情報等明らかになったものだけでも数十件に及んだ。
 汪は、51年2月16日、外為法違反により東京簡易裁判所で罰金20万円の判決を言い渡され、同日即納した後、香港へ出国した。
ウ 趙昌朝事件
 昭和51年6月16日、大阪府警察は、東大阪市内に潜伏して活動中の北朝鮮スパイ趙昌朝を外国人登録法違反(無登録)で、同時に、趙をかくまっていた補助者1人を犯人蔵匿で、それぞれ逮捕するとともに、乱数表、暗号表、暗号解読メモ等多数の物件を押収した。趙らの取調べの結果、北朝鮮のスパイ活動の実態が明らかとなった。
 趙は、金日成綜合大学の物理学上級研究員をしていた46年7月、労働党中央によってスパイに採用され、平壌市内で約2箇月間のスパイ訓練を受けた後、乱数表、暗号表や日本円約100万円を携帯して島根県美保関海岸から密入国した。そして、東大阪市内に住む韓国人に、北朝鮮にいる同人の妹の手紙を突き付け強引に説得し、補助者とすることに成功した。
 趙の主たる任務は、我が国の政治、経済、防衛等に関する情報を収集する

ことと補助者をスパイに養成し韓国に対する諸工作を行わせることであり、毎月北朝鮮から暗号放送による指令を受けてその任務を遂行していた。
 趙は、48年7月、美保関海岸から迎えに来た北朝鮮の高速艇で密出国し、スパイ活動の報告をした後、翌年8月に再び美保関海岸から密入国してスパイ活動を行っていたが、51年6月、大阪府警察は、趙が暗号指令による召喚命令を受け帰国の準備をしていたところを逮捕した。
 52年2月10日、趙は、出入国管理令違反(密出入国)及び外国人登録法違反(無登録)により、大阪高等裁判所で懲役6箇月の判決を受け、補助者も犯人蔵匿で有罪判決を言い渡された。
(2) 在日外国人による対立抗争の多発
ア 「中国系」、「台湾系」両派華僑の対立抗争事件
 「中国系」華僑は、かねてから、「台湾系」華僑の抱き込みや事務所等を「取り戻す」活動に活発に取り組んできた。こうしたなかで、5月、兵庫、神奈川両県で、「台湾系」華僑総会事務所占拠事件が連続的に発生した。
 すなわち、兵庫県では、5月21日、神戸華僑聯誼会等の「中国系」華僑約40人が、「台湾系」の神戸華僑総会事務所に押し掛け、同所を占拠した。兵庫県警察は、翌22日、占拠中の38人を排除した。また、神奈川県では、5月22日、横浜華僑聯誼会等の「中国系」華僑約30人が、「台湾系」の横浜華僑総会事務所に押し掛け、バリケードを構築して同所を占拠した。神奈川県警察は、このうち19人を建造物侵入等で検挙した。
イ 在日朝鮮人の対立抗争事案
 朝鮮半島における複雑かつ緊迫した情勢を反映して、北朝鮮系団体である朝鮮総聯(在日本朝鮮人総聯合会)と、韓国系団体である民団(在日本大韓民国居留民団)との対立抗争や民団内部での紛争事案が発生し(17件)、建造物侵入等で64人を検挙した。
 まず、民団による朝鮮総聯系人物の韓国向け「母国訪問運動」をめぐる紛争事案としては、朝鮮総聯と民団との間で、4月、東京国際空港において埼玉県居住の老婦人の訪韓阻止事案、9月、同空港において埼玉朝鮮中級校生の訪韓阻止事案、9月、東京都内において北朝鮮系の時代社副社長の訪韓阻止事案が発生し、警察では、部隊による制止活動や、誘かいの疑いによる捜査活動を行った。
 次に、北朝鮮の万景峰号の入港をめぐっては、2月、方景峰号の大阪入港に際し、民団や右翼団体による入港反対の抗議行動が行われ、暴行等で右翼14人を逮捕した。
 更に、民団内部での紛争事案としては、3月、民団神奈川県本部事務所の占有権を持つ少数派に対し、これを不満とする多数派による同事務所実力占拠事案が発生し、建造物侵入等で40人を逮捕した。

7 警衛、警護等

 警察は、天皇及び皇族に対しては警衛を実施し、身辺の安全を期するとともに、皇室と国民の間の融和を妨げることのないよう努めている。また、首相、国賓等内外の要人に対しては警護を実施し、身辺の安全を期している。
 昭和51年の警衛、警護をめぐる情勢は、50年に引き続き厳しいものであった。すなわち、爆弾事件が続発するなかで、極左暴力集団等は、「天皇在位50年記念式典粉砕闘争」等を強力に展開し、一方、右翼も政府、与党に対する批判活動や左翼諸勢力との対決活動を活発に行い、こうしたなかで、国会における首相に対する直訴未遂事件、「河野洋平代議士殺人未遂事件」等が発生した。
 警察は、このような厳しい情勢の下で、延べ約69万人の警察官を動員して警衛、警護を実施した。
 政府主催の「天皇陛下御在位50年記念式典」は、11月10日、都内日本武道館において、天皇、皇后両陛下御臨席の下、三木首相をはじめ内外要人等約7,500人が出席し、盛大に挙行された。これに対し、極左暴力集団各派は、「式典粉砕」を51年最大の闘争課題として集会、デモ等に取り組んだ。このような情勢にかんがみ、警察では、警察庁に「天皇陛下御在位50年記念式典警備対策委員会」を設置して、全国警察の指導、調整に当たるとともに、事

前準備を含め各都道府県警察で警察官延べ約35万人を動員して警衛、警護、警備を実施した。
 三木首相は、アメリカ自治領プエルト・リコで開催された第2回主要国首脳会議出席のため6月に訪米したが、警察庁では、首相訪米中の警護の万全を期するため、身辺警護員を現地に派遣してアメリカのシークレット・サービス等との連絡に当たらせ、身辺の安全を確保した。また、三木首相は、8月に広島及び長崎で挙行された原爆死没者慰霊式及び平和祈念式典に参列したが、これに際し、警察では警察官延べ約4,200人を動員して警護、警備の万全を期した。
 他方、我が国の国際的地位が向上したことなどを反映して、国際交流が活発に行われ、フセイン・ヨルダン国王(3月)、ガイゼル・ブラジル大統領(9月)等元首級の要人の来日が相次ぐとともに、日米防衛協力小委員会(7月)等各種の国際会議が日本で開催され、警察はこれらに伴う警護を実施した。
 51年の警衛、警護の主な事例は、表7-2のとおりである。

表7-2 主要警衛、警護実施事例(昭和51年)


 このほか、警察は、国会、総理官邸、外国公館、空港等の重要な施設に対して、警戒、警備体制を強化し、テロ、ゲリラ、ハイジャック等の未然防止に努めた。


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