第7章 公安の維持

1 本格化する「テロ」、「ゲリラ」活動

(1) 極左暴力集団の動向
 極左暴力集団の勢力は、図7-1のとおり、約3万5,000人と横ばいのまま推移しているが、組織の非公然化、軍事化を進め、「テロ」、「ゲリラ」の本格化の兆しをみせ始めた。

図7-1 極左暴力集団勢力推移(昭和42~50年)

 昭和50年の極左暴力集団の動向を見ると、「東アジア反日武装戦線」グループによる前年に引き続いての企業爆破事件やその後の警察施設等を目標にした爆弾事件、対立セクトの幹部等に対する内ゲバ殺傷事件、「天皇訪米阻止闘争」等での火炎びんを使用した「ゲリラ」事件等の多発が目立った。
 こうした極左暴力集団の活動は、大衆運動とは関係なく敢行されており、国民の平穏な日常生活を侵す事例が多発している。昭和50年に極左暴力集団 の「テロ」、「ゲリラ」によって、死者2人を含め57人の市民が巻き添えの被害を受けており、今後も、極左暴力集団の動向には引き続き厳戒を要する。
 次に、「日本赤軍」は、昭和49年に「シンガポール事件」、「クウェイト事件」、「パリ事件」、「ハーグ事件」等多くの特殊国際事件を引き起こしたが、50年も「クァラルンフール事件」を敢行し、国の内外に大きな衝撃を与えた。
(2) 続発する爆弾事件
ア 前年を上回る爆弾事件の発生
 昭和50年は、極左暴力集団の犯行によるとみられる爆弾事件が22件(40個)発生し、そのうち19件(22個)が爆発して6人が死亡、20人が重軽傷を負った。昭和50年中の主な事件を挙げると、表7-1のとおりである。

 最近5年間の極左暴力集団による爆弾事件の発生件数の推移は、図7-2のとおりで、昭和50年は、前年に比べ7件増加して22件を数え、「沖縄返還

表7-1 昭和50年における主要爆弾事件

阻止闘争」をめぐって大衆闘争が高まり、爆弾事件が多発した46年に次ぐ発生件数となった。しかも、最近の事件で使用された爆弾をみると、ますます精巧かつ高性能化している。例えば、「70年闘争」の盛り上がった44年当時に使用された爆弾の起爆装置の多くは、点火式であったのに対して、50年に使用された爆弾のほとんどが、トラベル・ウォッチやタイム・スイッチを利用した時限装置付きのものであった。また、爆弾そのものの威力を高めるため、容器を二重構造にしたもの、セメント等で補強したものなどもみられた。

図7-2 極左暴力集団による爆弾事件発生件数の推移(昭和46~50年)

 こうした爆弾の製造については、その構造等からみて「腹腹(はらはら)時計」、「薔薇(ばら)の詩(うた)」等のいわゆる爆弾教本を参考にしていることがうかがえる。また、爆破しようとした施設は、警察及び自衛隊施設が相変わらずその大半を占めているが、民間企業も引き続きその対象となっている。
 警察では、爆弾事件が極めて悪質で、また社会に与える影響も大きいところから、多くの捜査員を専従させて強力な捜査を展開し、昭和50年は、15人を検挙した。また、警察は、アパート・ローラー作戦を展開して犯人の早期発見に努めるとともに、国民からの積極的な協力を得て、この種事案の未然防止を図っている。
イ 企業爆破事件の解決
 昭和49年8月30日、東京都内で発生した「丸の内ビル街爆破事件」以後相次いで発生した一連の企業爆破事件は、50年に入っても間組の本社及び大宮工場、韓国産業経済研究所、オリエンタルメタルKK、間組作業所、江戸川橋梁間組工事現場と続発した。このため警察では総力を挙げてその早期解決に努めたが、特に警視庁では、「東アジア反日武装戦線」名の犯行声明を分析した結果、同戦線名で49年3月地下出版された爆弾教本「腹腹時計」の出版グループとつながることに着目し、同グループの解明に全力を挙げた。
 その結果、同グループと推定される容疑者が浮上し、慎重な裏付け捜査を進めた後、昭和50年5月19月、「東アジア反日武装戦線」の“狼”、“大地の牙”、“さそり”のメンバーであったA、大道寺あや子、B、C、佐々木規夫、D、浴田由起子、Eの8人を逮捕(その後F、Gの2人を指名手配)した。これにより一連の企業爆破事件のほか、46年以降未解決であった4件の爆破事件も同メンバーらの犯行であったことが判明し、合計15件の爆破事件が解決した。
 これらの犯人グループが企業爆破事件を企図した根底には、「我が国ではすでに一般の労働者は革命へのエネルギーを失い、アイヌ、在日朝鮮人、日雇労働者等の少数の差別を受けている人だけが、革命の主体になりうる。」という「窮民革命論」の強い影響があった。犯人らは、こうした立場から、日雇労働者の最大の敵は大手建設業者であること、東南アジアでも我が国の国外進出企業の搾取によって「窮民化」が進んでいること、したがって、これらの建設企業、進出企業を攻撃することが「窮民革命」の実践であるとして、爆弾闘争に踏み切ったとみられる。しかも、これら犯人はいずれも会社員、喫茶店店員等の職業に就き、近隣との付き合いも普通に行うなど表面上は平凡な市民を装いながら、一方で、床下に、押入れから通ずる秘密の地下室を作って爆弾を製造するなど周到に計画を遂行していた。
(3) 凶悪、陰惨の度を深めた内ゲバ殺人事件
ア 発生状況
 内ゲバ事件の最近5年間の発生件数の推移をみると、図7-3のとおりで、昭和50年には全国で229件と前年に引き続いて多発した。50年は、中核派による革マル派幹部H殺害事件(3月6日・東京)、革マル派による前進派書記長I殺害事件(3月14日・埼玉)を契機に、中核、革マ ル両派の激しい報復戦的内ゲバ事件が相次いだこともあって、内ゲバ殺人事件が年間で16件(死者20人)と多発し、前年の10件(死者11人)を大きく上回った。
 内ゲバ事件をセクト別にみると、極左暴力集団相互間が184件(80.3%)と最も多い。そのなかでは、中核派対革マル派の抗争が162件(88.0%)と圧倒的に多く、殺人事件についても、12件、16人と両派の抗争によるものが最も多い。こうしたなかで、中核派が昭和50年2月から、「産別全面戦争」と称して、全逓、日教組、自治労等の反戦派労働者に攻撃を指向したことが注目された。

図7-3 内ゲバ事件の発生状況(昭和46~50年)

 内ゲバ殺人事件の発生地をみると、従来は主として首都圏と大阪で発生していたのが、昭和50年は、東京、埼玉、神奈川、大阪のほか、鹿児島、岡山、静岡、石川と8都府県で発生し、地方への拡散傾向がみられた。
イ 内ゲバの実態と警察の対応
 内ゲバ事件は、最近極左暴力集団が互いに憎悪をむき出しにし、「個人テロ」の傾向を強めている。例えば、各セクトでは、「人民革命軍・武装遊撃隊」(中核派)、「特別行動隊」(革マル派)、「プロレタリア突撃隊」(反帝学

表7-2 昭和50年の内ゲバによる死亡事案





評)等の特別行動隊を編成し、襲撃対象の動静を事前に綿密に調査した上、襲撃に及ぶなど、極めて計画的に犯行を行っている。しかも襲撃に当たって

は、当初から殺害をねらって頭部等に致命的な打撃を加える傾向が強くなっており、凶器も鉄パイプからバール、ハンマー、おの、まさかり等殺傷力の大きい物へとエスカレートしている。
 攻撃対象者に対する事前の調査活動も極めて巧妙、ち密な方法で行われており、相手の住民票や写真を入手したり、ガス検針員や友人を装ってアパートの管理人を訪問し、動向を聞き出したりするなどして細部にわたって調査している。また、アジトに高性能の無線機を備え付けて警察無線を傍受し、警察の動きを事前にキャッチしていた事例もみられた。
 ところで、昭和50年後半に入ってから内ゲバ事件の発生件数は減少してきているが、これは、内ゲバ事件を敢行してきたセクトが、最高幹部に対する攻撃に重点を置いていることや、それぞれ相手からの攻撃を避けるために防衛を強めており、対象の捕そくが困難になってきていることなどによるものである。これらのセクトは、相手の「完全せん滅」なくして革命の勝利はないと考えており、しかも、それに報復の心理も加わっているところから、今後も、革マル派対中核派、革マル派対革労協を中心とした内ゲバの発生が予想される。
 こうした内ゲバ事件に対して、警察は、警察力を総合的に運用して、必要な警戒態勢をとるとともに、関係機関や一般市民にも、不審動向の迅速な通報等の協力を呼びかけて、事案の未然防止に努めている。
 また、事案が発生した場合には、規模の大小にかかわらずあらゆる法令を適用して現場検挙を徹底するとともに、事後捜査を強力に推進しており、昭和50年には、内ゲバ殺人事件5件、91人をはじめ、597人(前年428人)を検挙した。
(4) 内外に衝撃を与えた「日本赤軍」の暴走
ア クアラルンプール事件
(ア) 事件の概要
 昭和50年8月4日午後0時50分ごろ(日本時間)、マレーシアの首都クアラルンプールの米国大使館とスウェーデン大使館のある建物に、突然「日本 赤軍」を名のる5人のゲリラが乱入した。
 犯人らは、米国領事、スウェーデン臨時代理大使ら53人を人質にして監禁した上、我が国に対して、「日本赤軍」の西川純、戸平和夫、連合赤軍の坂東国男、 J、共産同赤軍派の松田久、K、「東アジア反日武装戦線」の佐々木規夫の7人を釈放し、日航機により現地に移送することを要求した。
 日本政府は、人質の生命の安全を確保しなければならないという見地から、犯人の要求を認めることを余儀なくされ、釈放要求のあったこれら7人のうち、出国を希望した西川ら5人(JとKは、出国を拒否)を、8月5日午後、羽田発の日航特別機でクアラルンプールへ移送した。その後、西川ら5人と最後の人質15人の交換が行われた上、8月7日午後、同機はリビアへ向けて出発した。
 翌8日午前、同国トリポリ国際空港に着陸し、同地において乗務員9人及びクアラルンプールから新たに人質として乗り込んだ4人が、全員無事解放され、犯人ら10人は、リビア国官憲に連行された。
(イ) 警察措置等
 警察は、事件発生とともにICPO及び外交ルートを通じて、事案の詳細なは握に努め、所要の国内捜査を進めた。
 このクアラルンプール事件は、「日本赤軍」が組織の立て直しを期して、失っていた2人の兵士の奪還と戦列復帰、即戦力となる兵士の獲得による戦力の増強、国内の極左暴力集団との今後の連携等をねらって敢行されたものとみられる。
 しかもこの事件は、東南アジアを舞台に、日米首脳会談開催の時期に合わせ「”シオニズム”の最大の擁護者」とされているアメリカ、「日本赤軍」の2人の兵士を強制送還したスウェーデン、この2人の身柄を拘束している日本を同時に事件に巻き込むなど、政治的効果をもねらったものであった。
イ 厳戒を要する「日本赤軍」の動向
 「日本赤軍」関係者である西川純、戸平和夫を含む5人が、スウェーデン及びカナダから、日本に強制送還されたことからも分かるように、「日本赤軍」は世界の各地で活動している。
 このようななかで、「日本赤軍」は9月に、「日本赤軍関係者を送還したカナダ、スウェーデンは、不当な弾圧と策動には制裁が加えられるというハーグやクアラルンプールの闘争で示した教訓を学んでいない。」という警告を発しており、今後とも、ハイジャック、要人誘かい、在外公館、商社等の占拠による人質作戦をねらい続けるものとみられる。

2 「民主連合政府」構想の具体化を図る日本共産党

 日本共産党は、昭和45年7月の第11回党大会で、“70年代後半の遅くない時期に「民主連合政府」を樹立し、社会主義への道を切り開く”とする「民主連合政府」構想を決定し、以来、党勢拡大、選挙での躍進等によって同構想を順調に進展させてきたが、49年以来こうした歩みに変調が生じ、50年前半には党勢力の停滞、選挙での伸び悩み、統一戦線づくりの行き詰まり等がみられるようになった。例えば、50年4月の統一地方選挙では、当選議員総数が当初の目標に遠く及ばなかったばかりか、道府県議会で議席を減少させ、「空白」県議会が3から7へと増加した。また、「同和問題」をめぐる社会党との対立が激化し、選挙共闘が不成立となったり、あるいは、共闘が成立しても内部での不調和が目立った。更に、49年末に約307万部(昭和49.12.24付け「赤旗」)に達した機関紙「赤旗」は、50年に入って減紙傾向が続いた。
 同党は、昭和50年7月、「党大会に準ずる重要性をもつ」ものとして第6回中央委員会総会を開催し、このような停滞状況を打開して「民主連合政府」構想を軌道に乗せ直すための諸方針を決定した。まず、党を「前衛党」の原点に引き戻し、「革命的気」に満ちた質量両面にわたる巨大な党を建設することを目指して、各級党機関の人事刷新、機構改革等組織の立て直し を進めたほか、特別月間を設けての「赤旗」読者の拡大、労働者と青年を重点とした党員拡大、党員の学習・教育活動の強化等を図った。また、日本共産党は「国民政党」であるというイメージを浸透させるため、「救国・革新の国民的合意」の呼びかけ運動、「対話」運動等多彩な活動を展開した。更に、50年後半に来日したイタリア、フランスの各共産党代表団との共同声明で、先進国の共産党が目指す社会主義社会ではあらゆる自由が保障される旨を強調するなど、これらの活動を通じて同党に対する疑念、警戒心の解消に努めた。
 こうした同党の諸活動の結果、昭和50年12月現在、党員数は30数万人(昭和50.12.21付け「赤旗」、第7回中央委員会総会宮本委員長あいさつ)となり、「赤旗」は50年前半の減紙分を回復して300万部を超える(同上あいさつ)に至った。
 また、日本共産党の統一戦線を目指す活動は、大衆闘争、労働運動、選挙闘争、国会活動等の各分野にわたり、各種の努力にもかかわらず年間を通じてこれまでにない停滞状況で推移した。同党は、こうした状況が顕著となった基本的原因を、社会、公明、民社3党が「自民党単独政権時代」の終えんを展望して、共産党を排除した「社公民路線」の延長線上に「保革連合」・「保革連立」を想定し出したことに由来しているとの認識に立ち、このような状況を打開して社会、公明両党を統一戦線に引き寄せるため、一方で統一戦線に背を向け始めたとみている両党の姿勢を強力な宣伝活動で批判し、他方で両党に大きな影響力を持っているとみられる総評等労組、社会主義協会、創価学会への働きかけを一層強めるという新しい統一戦線戦術を模索し始めている。
 日本共産党は、停滞している「民主連合政府」構想を進展させるため、次々と柔軟な戦術、方針を打ち出してきているが、依然として、革命勢力としての基本的性格を明示した党規約と基本的革命路線を明示した党綱領を堅持している。また、新たに刊行された「赤旗」学習・教育版掲載の党綱領及び党規約の解説等でも、「人民の民主主義革命から社会主義革命へ」という革 命路線や「敵の出方」論に立った暴力革命の方針等を確認しており、同党の基本的性格及び基本的革命路線にはいささかの変更もみられなかった。
 日本共産党は、曲折はあっても引き続き、国会や地方議会で議席を伸ばし、労組への影響力を拡大し、「救国・革新の国民的合意」の呼びかけ運動を中心に党のイメージ・チェンジを図り、広範な諸階層を党路線に引き寄せるための諸活動を推進するとみられる。また、昭和51年中に第13回党大会の開催が予定されており、それらを通じて「民主連合政府」構想を一層具体化するとともに、現実的諸政策を次々と呈示し、国民に対して統治能力を持つ「国民政党」であることをアピールしながら、統一戦線づくりを進めることになるとみられる。

3 多様化する大衆行動

 左翼諸勢力は、「生活防衛」、「海洋博反対・皇太子訪沖反対」、「天皇訪米反対」、「核・基地・安保反対」、「原発・公害反対」等をテーマに多様な形で大衆行動を展開した。
 昭和50年中の大衆行動には、全国で延べ約666万9,000人(うち、極左系約20万5,000人)、中央で延べ約78万3,000人(うち、極左系約8万5,000人)が動員されたが、これは、49年の動員数全国延べ約731万2,000人、中央延べ約87万1,000人を下回った。
 こうした大衆行動に伴って各種の違法行為がみられ、凶器準備集合、威力業務妨害、傷害、公務執行妨害、建造物侵入、爆発物取締罰則違反、暴力行為等処罰に関する法律違反等で、1,761人(昭和49年1,126人)を検挙した。
(1) 「生活防衛闘争」
 公共料金等の値上げや不況の深刻化を背景に、左翼諸勢力等による「インフレ反対」、「雇用安定」等を掲げた「生活防衛闘争」が展開された。
 これらの運動は、集会、デモや国、自治体への要請、陳情、企業、銀行等への抗議、要請あるいは大量宣伝、署名運動等多彩な形で展開され、全国で延べ約113万6,000人、中央で延べ約9万9,000人が動員された。
(2) 「皇太子訪沖反対闘争」
 沖縄国際海洋博覧会(以下「海洋博」という。)の開会式に御臨席のための皇太子同妃両殿下の沖縄御訪問をめぐって、極左暴力集団等は、「海洋博粉砕」、「皇太子訪沖阻止」を叫んで現地沖縄を中心に、両殿下御訪沖の7月17~19日の間、全国延べ24箇所、約5,100人(現地沖縄延べ10箇所、約1,700人)を動員して、集会、デモ等の反対闘争を展開した。この間、極左暴力集団の一部は、両殿下のお召し自動車列に空きびん等を投げつけるとか、ひめゆりの塔御参拝時に火炎びんを投てきするなどの過激な「ゲリラ」行動を敢行した。
 また、閉会式に対しても両殿下御訪沖の昭和51年1月17、18日の2日間、全国延べ20箇所、約2,800人(現地沖縄延べ10箇所、約1,100人)を動員して集会、デモ等の反対行動を展開した。
 極左暴力集団等は、開会式及び閉会式の両殿下御訪沖期間を含め、昭和50年3月から51年1月までの間、「海洋博反対闘争」をめぐって、延べ2万2,000人を動員した。
 この間、公務執行妨害、凶器準備集合等で極左暴力集団等401人を検挙した。
(3) 「天皇訪米反対闘争」
 極左暴力集団等は、「天皇訪米阻止」を昭和50年の最大の闘争課題としてとらえ、天皇、皇后両陛下御出発当日の9月30日には、全国23箇所に約5,700人(うち、極左系17箇所、約5,000人)を動員したのをはじめ、御出発前の闘争を含めて全国延べ102箇所、約1万6,000人(うち、極左系延べ97箇所、約1万5,000人)を動員して集会、デモ等の反対闘争を展開した。この間、極左暴力集団等による「横須賀緑荘爆発事件」、「高松宮邸火炎びん投てき事件」等の違法事案が発生した。この「天皇訪米阻止闘争」をめぐって、公務執行妨害等で極左暴力集団等138人を検挙した。
(4) 「反戦・平和運動、基地闘争」
 ポスト・ベトナムとして朝鮮問題が注目され、更に、シュレジンジャー元国防長官等米国政府関係者の「核先制使用」発言が報ぜられたことなどから、左翼諸勢力等による「核・基地・安保反対」等を主張する「反戦・平和運動」が展開されたが、ベトナム戦争の終結により、当面の具体的な「反戦闘争」の課題がなくなったこともあって、比較的低調のうちに推移した。
 このほか、「4.28闘争」、「5.15闘争」、「6.23闘争」、「10.21闘争」等を節とする集会、デモ等の「反戦・平和運動」が展開されたが、例年最大の柱となっている「10.21闘争」も、全国で約21万5,000人、中央で約2万6,000人の動員にとどまり、昭和49年の全国約29万7,000人、中央約3万人を下回った。
 「基地闘争」も、全国で延べ約19万7,000人の動員にとどまり、昭和49年の延べ約28万4,000人を下回った。
 これらの「反戦・平和運動、基地闘争」をめぐって、公務執行妨害等で86人を検挙した。
(5) 「公害闘争」
 公害関係では、「クロム禍」、「塩ビ禍」等が社会問題化し、これをめぐっての反対闘争が展開されたほか、原子力発電所、火力発電所、石油基地、道路、鉄道、ゴミ処理場等の建設に反対する闘争が行われた。
 これらの「公害闘争」では、全国で延べ約16万人が動員され、各地で集会、デモ等の集団行動のほか、建設現場、県庁、議会、企業等への押しかけ等の行動がみられ、このなかで、ピケ、座込み等による工事妨害、資器材搬入阻止、施設への侵入等の違法事案が発生した。
 これらの「公害闘争」をめぐって、威力業務妨害等で53人を検挙した。

4 厳しい経済情勢下の労働運動

 昭和50年の労働運動は、厳しい経済情勢下に展開されたが、春闘では「最 賃制確立」、「大幅賃上げ」等の諸要求を掲げ、特に、国労、動労は「5月決戦スト」では、4日間にわたる全面ストを敢行した。また、秋季・年末闘争では、公労協は「スト権奪還」を要求して8日間、192時間にわたる史上空前の大規模な違法ストライキを敢行し、国民生活に大きな障害を与えた。
 このようななかで、労働争議や労働組合の組織対立等をめぐって、昭和50年中に648件の労働事件が発生し、図7-4のとおり、暴行、傷害、威力業務妨害等で546件、1,016人を検挙した。
 特に、郵政、国鉄関係労組では、労働組合間の組織対立をめぐる集団暴力事犯が依然として多発した。
 郵政関係では、全逓と全郵政との組織対立等をめぐっての集団暴力事犯が84件発生し、負傷者88人を出し、傷害、公務執行妨害、暴力行為等処罰に関する法律違反等で56件、125人を検挙した。これらの事犯の大半は、全逓の青年労働者が全郵政組合員、管理者に対して敢行したものであった。

図7-4 労働争議等に伴う不法事案検挙状況(昭和46~50年)

 国鉄関係では、動労と全動労との組織対立等を始めとする暴力事犯が35件発生し、負傷者20人を出し、暴行、傷害、威力業務妨害等で36件、68人を検挙した。
 また、反戦派労働者が介入した労働事件は、176件発生し、傷害、公務執行妨害、暴力行為等処罰に関する法律違反等で137件、278人を検挙した。
(1) 不況下の春闘
 昭和50年の春闘は、厳しい不況下で展開され、統一地方選挙と公労協に対する処分問題がからんで複雑に推移した。春闘共闘委員会は、この春闘を「70年代後半の日本の政治、経済の枠組みを決定するための第一歩」、「国民春闘路線の継承・発展」と位置づけ、「最賃制確立」を最重点に「大幅賃上げ(30%、4万円以上)」、「スト権奪還」、「年金改善、雇用保障」等の要求を掲げて、各種の大衆行動と強力なストライキで政府に政策転換を迫り、要求の実現を図る方針で臨んだ。
 その方針に基づき、3月末から5月末までの間に6次にわたる全国統一行動を設定し「3.27最賃統一スト」(中止)、「4.15、16官民一体の統一スト」(一部実施)、「5月決戦スト」と3回の「統一スト」を軸にした闘争を展開した。
 「5月決戦スト」で、「15%のガイドライン」突破を目指して、公労協、全交運が労働運動史上最高であった前年4月の5日間、110時間の「決戦スト」に次ぐ4日間、85時間にわたる大規模な統一ストライキを実施した。特に、国労、動労による国電、新幹線を含む全面ストは、これまでの最高であった前年の春闘の62時間とほぼ同規模の61時間に及んだ。これに私鉄総連や都市交通(日本都市交通労働組合連合会)のストライキが加わって、5月7日から10日までの4日間に、延べ1億1,400万人の足が奪われるなど国民生活に多大な影響を与えた。また、このストライキによって、来日中のエリザベス英国女王の新幹線乗車の予定が空路に変更を余儀なくされた。
 この過程において、動労が5月10日午後1時にストライキを中止せよとの指令を出した際、一部の労働者が執行部の統制を無視して事実上ストライキを続行したため、東京の国電は午後8時、大阪は午後5時ごろまで運転できない状態となり、上野駅、新大阪駅等で数千人の乗客が滞留し、一部では怒った乗客集団が駅長室や動労の事務所に押しかけ、抗議するなど険悪な事態となったが、いずれも警察部隊が早期に出動して不法事案を未然に防止した。
 この春闘で、勤労、全逓によるピケ事案30件をはじめ、革マル派による火炎びん投てき等の列車妨害事案6件、労組員による暴力事件5件等が発生し、暴行、傷害、暴力行為等処罰に関する法律違反等で173件、341人を検挙した。
(2) 史上空前の「スト権奪還スト」
 公労協は、「スト権奪還」を掲げて、11月25日の国労、動労の「指名スト」を皮切りに、11月26日から12月3日までの8日間、192時間にわたって国労、動労が国電、新幹線を含む全面スト、全逓、全電通等が拠点、波状ストを敢行した。また、自治労、都市交通、全水道も地方公営企業等職員の「スト権」の同時決着を目指して、公労協のストライキに合わせ、延べ4日間の違法ストを行った。
 3公社5現業等の職員の「スト権問題」については、かねてから「公共企業体等関係閣僚協議会專門委員懇談会」において検討されていたが、11月26日、同懇談会は、「3公社5現業等のあるべき性格と労働基本権問題について」という意見書を政府に提出し、これを受けて政府は、12月1日、「スト権問題」に対する政府の基本方針を示した5項目からなる「政府声明」を発表した。これに対し、公労協は、かねてから要求していた[1]ストライキ権の保障を明確にすること、[2]立法までの期間を明確にすること、[3]立法まですべての処分を凍結することの3項目が何ら満たされていないとして、12月4日午前0時までストライキを続行した。
 労働運動史上空前の規模となった公労協の「スト権奪還スト」によって、旅客・貨物列車合わせて約19万本が運休し、この間8日間にわたって、全国の国鉄は一部のローカル線を除いてほぼ全面的にストップし、延べ約1億5,000万人の足が奪われ、国鉄の減収は約348億円に上り、また、郵便物は、国鉄ストと全逓のストのため、約3,700万通が滞留し、最高10日の遅れを出したといわれるなど国民生活に大きな障害を与えた。
 この8日間にわたる国鉄の全面ストップで、首都圏、近畿圏では足を奪われた通勤客が私鉄各線に殺到し、連日の通勤時間帯は著しく混雑して、電車 の窓ガラスが破れ、あるいはホーム上で転倒するなどにより75人が負傷したほか、駅、郵便局、公労協の組合事務所に「ストを中止しなければ、爆破する。」などの爆破予告電話や線路上への置き石等の事案が多発した。
 特に、公労協のストライキを支援する革マル派等の極左暴力集団は、各種の不法行為を敢行し、11月29日午後には東京の地下鉄各線の10駅において同時に非常ベルが押され、更に、丸の内線お茶の水駅付近の線路上に火炎びんや発煙筒が数本投げられるなどの事案が発生し、これら地下鉄の各線が最高1時間10分にわたって全面的にストップした。このため地下鉄上野駅、新宿駅等で最高3,100人の乗客が滞留した。
 公労協の「スト権奪還スト」に対して警察は、関係機関と緊密な連携をとりながら、連日早朝から混雑の著しい主要駅に警察部隊を出動させ、駅の改札口、階段、ホーム等で危険防止に努めた。特に、駅外周にまで及んだ乗客の列の整理、誘導に際して、警察車両からスピーカーで音楽を流し、乗客のいらだちを和らげた。これらの警察活動によって、昭和48年に発生した「3.13上尾駅事件」のような紛争事案の発生を未然に防止した。
 公労協の「スト権奪還スト」をめぐって、労組員等による暴力事件54件、革マル派等による線路上での古タイヤ燃焼等の列車妨害事業65件(うち、置き石事案42件)、爆破予告事案36件等187件の不法事案が発生し、傷害、公務執行妨害、建造物侵入等で50件、108人を検挙した。

5 危機感を強め、高揚・激化した右翼の活動

 右翼は、インドシナ情勢の激変と朝鮮半島の緊張激化、東京、大阪の「革新知事」再選、極左暴力集団の天皇制をめぐる闘争の高まりをはじめとする内外の諸情勢からみて、「日本は悪化の一途をたどっている。」と受け止め、一段と危機感を強め、危機突破の道を「理論より行動」に求める傾向を強めた。このため、右翼の活動は急速に活発化し、三木首相に対する大日本愛国党員の暴行事件が発生したのをはじめ、年間における検挙人員は戦後最高を 記録した。
 これら右翼の活動のなかで、まず第1に注目されるのは、政府、自民党に対する抗議や要請活動が活発であったことである。
 右翼は、政府、自民党の日中平和友好条約への積極的な取組、核兵器の不拡散に関する条約(以下「核防条約」という。)批准案件の国会提出、「靖国神社国家護持」問題への取組、稲葉法相の「欠陥憲法発言」の収拾策等に強い不満を表明して、その「責任」を追及するとともに、憲法改正を頂点とする「維新性」の強い施策の推進を要求して、抗議、要請活動等を活発化した。なかでも核防条約を「民族生命の放棄につながる。」として、2月には、「核防条約批准阻止共闘会議」の構成員27人が外務省に侵入する事件が発生し、6月には、「故佐藤栄作国民葬儀」が行われた日本武道館で、大日本愛国党員が、「自殺勧告状」とダイバーナイフを持って三木首相に接近し、手拳で顔面を殴打し転倒させるという事件が発生した。
 第2は、左翼諸勢力に対する対決活動を強化したことである。
 日本共産党の「救国・革新の国民的合意」を掲げた統一戦線を目指す活動に対しては、「革命のおそれが現実のものとなってきた。」として対決意識を強め、各種の行事等に対する反対活動を活発に行い、これに伴う紛争事業が各地で発生した。
 日本社会党に対しては、「成田訪中団」と中日友好協会との「覇権主義反対」の共同声明を、「我が国を中ソ対立の渦に巻き込み、日米離間を策するものである。」として強く批判した。
 また、「スト権奪還スト」に対しては、「革命予行の違法スト」と決めつけて対決意識を強め、社会党、総評等に対する抗議活動等を活発に行った。
 一方、7月1日から4日までの間、明石市民会館で開催された第47回日教組定期大会には、これまで最高の106団体、約1,200人(延べ204団体、約2,000人)が現地に乗り込み、宣伝カー等約200台、飛行機1機、船1隻で街頭宣伝やビラ配布、パレード等の激しい反対活動を展開し、この間一部の右翼は、早朝、会場の市民会館の敷地に発煙筒を投げ込むなどのゲリラ的な活 動を行った。
 このほか、極左暴力集団等の「皇太子訪沖反対闘争」や「天皇訪米反対闘争」に対しては、「天皇制を否定する本格的な革命闘争の幕明けである。」と深刻に受け止め、行幸啓に際しては、多くの右翼が「万一に備えての警戒を兼ねる。」として奉送迎や街頭宣伝を行った。
 第3は、共産圏諸国との外交等をめぐって活発な反対活動を展開したことである。
 中国に対しては、「日中平和友好条約の締結」、特に、「覇権条項」には絶対反対の態度を表明し、政府、自民党に対する抗議、要請活動を行ったほか、各種訪日代表団に対しても、「赤化工作団の来日である。」などとして執ような反対活動を行った。
 ソ連に対しては、北方領土返還問題の行き詰まりや日本近海における大型漁船団の操業等をめぐり、在日大使館や来日した要人に対して強い抗議活動を行った。
 また、北朝鮮に対しては、「松生丸事件」をめぐって、北朝鮮批判の街頭宣伝や朝鮮総聯、政府等に対し、抗議、要請活動を活発に行った。
 このような諸活動を行った右翼の勢力は、約550団体、約12万人とみられている。昭和50年に、新しく112団体(約2,100人)が結成されたが、そのほとんどは、組織の離合集散や名称の変更によるものであり、全体の勢力は前年に比べほぼ横はい状態であった。しかし、これら新組織は「旗上げ」ということで活発な活動を展開し、右翼の活動が激化する要因となった。また、一部に「新右翼」、「右翼武闘派」といわれる勢力が台頭し、極左暴力集団の「爆弾闘争」に共感を寄せた論文を発表するなどして注目された。

表7-3 右翼事件の検挙状況(昭和41~50年)

 警察は、これらの右翼の活動に対し、違法にわたるおそれのあるものに対しては、警告、制止等の措置を積極的に講じて、不法事案の未然防止に努めるとともに、違法事案に対しては、早期検挙の方針をもって臨み、この結果、表7-3のとおり、昭和50年中に、公務執行妨害、威力業務妨害、暴行、傷害、暴力行為等処罰に関する法律違反等で224件、490人を検挙した。

6 策動するスパイとの闘い

 我が国においては、各国のスパイが策動している。我が国は、自由主義国家として個人の権利、自由を最大限に尊重することとしており、各種の情報がはん濫しているといっても過言ではなく、外国人の行動の自由も、日本国民のそれとほとんど変わらない。しかし、このような我が国にも、無論、未公表の国家機密、防衛機密、ノウハウ等の秘密が存在しており、また、1億1千万の人口を持つ高度の工業国として世界に占める地位の大きさ等から、我が国を対象とするちょぅ報謀略活動が跡を絶たない。更には、我が国を取り巻く複雑な国際情勢を反映して、我が国以外の国に対するスパイ活動も我が国を活動の場として行われている。
 これらのスパイは、しばしば国籍、身分、職業、氏名等を偽変して国内に潜入し、公館員、技術交流のための技師、貿易商等の仮面の下で、更には、日本人に完全に成り済まして、本国の指令の下、各種のちょう報謀略活動を行っている。
 これらの活動は、国際的、組織的、計画的に行われ、また巧妙に展開されるものであり、我が国に直接のスパイ取締法規が存在しないこともあって、スパイ活動の実態を暴き、検挙することはかなり困難な状況である。
 以下は、昭和50年の主なスパイ事件等の例である。
〔事例1〕 第11幸与丸事件
 昭和50年1月24日、北海道警察は、ソ連領海内の北方海域で操業していた根室の”レポ船”「第11幸与丸」船長のLを検疫法及び船舶職員法違 反で検挙した。
 “レポ船”とは、ソ連国境警備隊に日本国内の情報を提供し、その代償としてソ連領海内の操業を許されているスパイ船で、別名“赤い御朱印船”ともいわれている。
 これら“レポ船”以外の漁船は、常にだ捕の危険にさらされており、昭和50年中のだ捕は、32隻、186人にも上っている。
 取調べの結果、次のような事実が判明した。Lは、昭和47年5月雑刺し網漁船で択捉島沖において操業中、ソ連警備艇の接げんを受け、「領海内の操業を認めてやる。その代わりに、日本国内の情報を提供せよ。」と“レボ船”になることを要求された。Lは、ソ連領海内で操業すれば大量の水揚げが期待できることからこの要求を受け入れ、その後49年12月まで合計11回にわたりソ連警備艇と接触し、釧路、根室の市街図、自衛隊、警察、海上保安庁に関する資料、北方領土返還運勅に関する資料等を提供した。接触の方法は、操業を装って出漁し故意にソ連領海内に入り、あたかも領海侵犯の疑いでソ連警備艇の取調べを受けているかのような方法で接げんし、甲板員、その他の船員を船室に入れ、Lが単独でソ連の監督官と接触して資料等を手渡し、次回接触の日時、場所、準備する資料についてソ連側の指示を受けるというものであった。
 昭和50年5月15日、根室簡易裁判所は、被告人Lに対して罰金5万円の判決を言い渡し、5月29日、刑が確定した。
〔事例2〕 金鶴萬事件
 昭和50年4月5日、神奈川県警察は、横浜市内に潜伏して活動中の北朝鮮スパイ金鶴萬を出入国管理令違反(密入国)及び外国人登録法違反(無登録)で、同時に金をかくまっていた補助者2人をそれぞれ犯人蔵匿で逮捕した。
 金らの取調べと押収した5けたの乱数字(暗号)受信メモ、北朝鮮からのA2暗号放送を録音したテープ(我が国においては、だれでもこの暗号放送を聞くことができる。)、暗書に用いる秘密インク、筆記具(先端を削った塗りばし及び極細筆)、在日朝鮮人の資産状況を調査したメモ、北朝鮮に住んで いる帰化日本人の実母の肉声を録音したテープ等の資料を分析した結果、本件のスパイ金は、北朝鮮スパイ機関の重要な地位にあったものとみられる。
 金は、昭和49年2月中旬ごろ、北朝鮮スパイとして2万5,000米ドル等を持って、鳥取県下の海岸にゴムボートを利用して上陸し、横浜市内に居住していた在日朝鮮人と帰化日本人の2人を補助者に獲得して、北朝鮮からの暗号指令を受けながらスパイ活動を行っていた。
 金のスパイ任務は、我が国の軍事、経済、外交に関する情報の収集及び韓国に対する諸工作であったとみられるが、金の我が国に潜入以来1年余りにわたる補助者を活用しての具体的な活動は、次のとおりであった。
[1] 来日する韓国の政府高官、知識人を獲得しようとしていた。
[2] 韓国内に革命組織を作り、その指導育成のための連絡ルートを設定しようとしていた。
[3] 活動資金ねん出のため、パキスタンにおける約6億円のサルベージ事業計画を推進していた。
[4] 神奈川県下に居住している在日朝鮮人の資産家や事業経営者の調査をしていた。
[5] 北朝鮮の社会主義国家建設のためという名目で、補助者に乗用車5台を提供させ、これを北朝鮮に発送していた。
[6] 補助者に対して、潜伏場所及び在日朝鮮人等に対するスパイ教育用のアジト(家屋)を設定させていた。
 金は、これらの収集した情報やスパイ任務の遂行状況を、普通の手紙の裏に硝酸バリウム水溶液を用いて暗号数字を書き、いわゆるあぶり出し方式による暗書にし、国際郵便を利用して北朝鮮に送るとともに、補助者を香港やマカオに旅行させて報告連絡を行わせていた。
 また、北朝鮮スパイは、従来から我が国における潜伏場所確保や補助者獲得の方法として、北朝鮮に両親等のいる在日朝鮮人にねらいをつけ、その肉親の情を利用していたが、本件の場合も補助者を獲得するに当たって、北朝鮮に住む実母の肉声を録音したテープを携行し、脅迫的な言動によって補助

者になることを約束させるとともに、これを北朝鮮に送り込んでスパイ教育を受けさせていた。このようなテープを使っての補助者の獲得は、本件が初めての検挙事例であった。
〔事例3〕 濁(にごり)川事件
 昭和50年7月13日、青森県警察は、日本海沿岸の青森県岩崎村濁川河口付近の海岸から北朝鮮に向け密出国しようとして、迎えの船待ちをしていた北朝鮮スパイ機関員李敏哲を発見して、外国人登録法違反(登録証呈示拒否)の現行犯人として逮捕し、その後、李の密出国をほう助した補助者2人を出入国管理令違反等で逮捕したが、これらを取り調べた結果、次のような事実が判明した。
 李は、北朝鮮に生まれ、中学校卒業後、26年間にわたり教員生活をしていたが、その間、昭和23年に朝鮮労働党に入党し、26年から27年にかけては、満浦人民軍宣伝員中尉として軍務に服した。
 北朝鮮元山市の公立中学校の副校長をしていた昭和43年夏に、労働党から呼出しを受けてスパイ要員に採用され、妻と子供3人を残し、同年11月から約2年間、清津郊外のスパイ養成施設で政治思想やスパイ活動のやり方等について教育訓練を受けた。そして、昭和45年11月ころ無線機、暗号文書、150万円、1万3,000米ドル等スパイ活動に必要な用具類等を携行し、清津港から高速艇に乗り、深夜京都府経ヶ岬付近に単身密入国した後、千葉県下に住む在日韓国人を、北朝鮮に居住する同人の娘の写真と手紙を見せて脅迫し、無理に補助者とすることに成功した。
 李の主たる任務は、我が国の外交政策等に関する情報を収集することと韓国に対する諸工作であった。李は、毎月3回本国からの暗号放送による指令を受けつつ、獲得した補助者に対する教育訓練を実施し、我が国の北朝鮮政策、在日米軍等に関する情報収集等を行った。更に、補助者を使って潜伏場所の選定、資金援助等の生活補助、他人名義の外国人登録証明書の入手、本国からの暗号指令の受信及び在日韓国人に関する調査を行い、また数回にわたり補助者を渡韓させて同人の親類、知人等に対する獲得工作を行わせていた。これらの結果を暗号を使った手紙にし、国際郵便によって本国に報告していた。
 李は、この間潜伏場所を6回変えるとともに、偽名として山本光信等八つの日本名を使い分け、あるいは在日韓国人女性と同せいするなどして警察や一般人の目を欺いて任務を遂行していたが、昭和50年6月に、暗号放送で「7月12日に迎えに行く。」旨の帰国命令を受けた。李は、補助者とともに密出国予定地点である濁川河口付近海岸一帯の下見をした後、一切の密出国準備を終えた7月9日に、かねて指示されていた「薬送る」(準備完了)の暗号電報を本国に向けて打電し、7月12日、補助者に乗用車で送らせ、一人暗夜の海岸において、「カチ、カチ、カチ」と小石を3回ずつたたく「打石信号」により、迎えの船に合図を懸命に送っていた。
 昭和50年11月13日、青森地方裁判所は、被告人李敏哲に対して出入国管理令違反(密出国企図)、外国人登録法違反(登録不申請、登録証明書不正譲

受)、有印公文書偽造(外国人登録証明書偽造)により懲役2年執行猶予3年の判決を言い渡し、11月27日、刑が確定した。
 なお、補助者2人も、出入国管理令違反等で有罪とされた。

7 厳しい情勢下の警衛、警護等

 警察は、天皇及び皇族に対しては警衛を、国内外の要人に対しては警護を実施し、それぞれ身辺の安全を期している。
 昭和50年の警衛、警護をめぐる情勢は、前年以上に厳しいものであった。すなわち、引き続き爆弾事件が発生するなかで、左翼諸勢力が「天皇訪米反対闘争」、「皇太子訪沖反対闘争」等を強力に展開し、一方右翼も、政府に対する各種抗議活動、左翼諸勢力との対決活動等を活発に行い、皇太子同妃両殿下に対する「ひめゆりの塔火炎びん投てき事件」、右翼による「三木首相暴行事件」等が発生した。
 また国外でも、「クアラルンプール事件」、国際的テロリストによる「OPEC本部襲撃事件」、「ファイサル国王暗殺事件」、「フォード大統領暗殺未遂事件」が発生するなど、世界各地でゲリラ活動、要人襲撃等の重大事件が続発した。
 警察は、このような厳しい情勢の下で、延べ68万人の警察官を動員して、警衛、警護を実施したが、その主な事例は、表7-4のとおりである。

表7-4 主要警衛、警護実施事例(昭和50年)

(1) 天皇、皇后両陛下の御訪米
 天皇、皇后両陛下は、昭和50年9月30日、首席随員福田副総理以下一行37人を伴い御訪米の途につかれ、10月14日無事帰国された。
 極左暴力集団等は、昭和50年は「天皇訪米阻止闘争」に全力を集中し、「横須賀緑荘爆発事件」、「高松官邸火炎びん投てき事件」等を含め、数多くの違法事案を敢行した。
 これに対して警察では、警察庁に「天皇、皇后両陛下御訪米対策委員会」及び「同警衛、警護、警備対策室」を設置して、全国警察に対する指導、調整、関係省庁及び米国関係機関との緊密な連絡に当たるとともに、両陛下に同行又は先行して直近警衛、米国関係機関との調整に当たるため、警察庁及び皇宮警察から随員、随従、先着員7人を派遣した。また、事前警備を含めて、御帰国当日まで警察官延べ約30万人を動員して警衛、警備を実施した。
(2) 海洋博開催
 海洋博の開会式は、昭和50年7月19日に、また閉会式は51年1月18日にそれぞれ名誉総裁である皇太子殿下及び同妃殿下御臨席のもとに挙行された。
 極左暴力集団等は、開会式、閉会式ともに、沖縄と東京で多数が反対集会、デモを実施し、特に開会式に際しては、皇太子同妃両殿下に対して火炎びんを投てきするなど過激な違法行為を繰り返した。
 沖縄県警察では、7月17日から開会式当日までの3日間に、他都府県から応援派遺された約2,400人を含む延べ約1万1,400人の警察官を、また閉会式及びその前日の2日間に、他都府県応援警察官約1,800人を含む延べ約7,500人の警察官を動員し、皇太子同妃両殿下の警衛、首相以下内外要人の警護及び警戒警備に当たった。
(3) エリザベス英国女王来日
 エリザベス英国女王は、夫君エディソバラ公とともに国賓として5月7日に来日され、天皇、皇后両陛下との御会見、宮中晩餐会等の各種公式行事、京都、三重観光等を行い、5月12日に離日された。女王一行の来日に際しては、爆発的な「クィーン・ブーム」が起こり、米日中約78万人の国民が盛大 な歓迎を行った。なかでも5月9日都内で行われたオープンカーによるパレードには、交通スト中にもかかわらず約11万人が集まり、日英両国国旗を打ち振って女王を歓迎した。

 これに対して警察は、華やかなふんい気を損なうことのないよう配意しながら、来日中延べ約7万2,000人の警察官を配置して、ソフトな警護を実施し、女王一行の身辺の安全を期した。
(4) 重要施設の警戒警備
 このほか、警察は、国会、総理官邸、外国公館、空港等の重要な施設に対しては、警戒警備体制を強化し、テロ、ゲリラ、ハイジャック等の未然防止に努めた。


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