第8章 公安の維持

1 日本共産党

 日本共産党は、昭和47年に引き続き、“70年代の前半に条件を整え、後半の遅くない時期に「民主連合政府」をつくって社会主義への道を切り開く”とする戦術的な統一戦線政府構想を実現するための体制づくりを主眼に多彩な活動を進めた。とりわけ、労働組合工作に力を入れ、日教組、自治労、国労、などの大単産や東京、大阪、京都などの有力地評で影響力を著しく強め、日本共産党色の濃い労働組合や「政党支持自由」の名の下に日本共産党も支持する労働組合が増加した。また、都市と農村の中間層対策にも力を入れ、公害闘争など各種の「市民運動」に対する指導介入を強めた。とりわけ、民商への指導を強化して商工会・商工会議所工作をめざし、また、専任の農村オルグを全国に配置するなどして農協工作を進展させた。そのほか、民青や代々木系全学連に対する指導を強化してそれぞれの組織の拡大を図った。このような活動により党勢力は、昭和48年11月の第12回党大会時の発表によると、党員30数万人、「赤旗」購読部数280万部以上と党史上最大のものとなったとしている。
 3年4箇月ぶりに開かれた第12回党大会では、「民主連合政府」構想がいよいよ“宣伝スローガン”から“実践スローガン”の段階に入ったという認識に立ち、その実現に向けて「民主連合政府綱領」をはじめ、大会決議、中央委員会報告などによって一層具体的な戦術を決定するとともに、新しい指導体制を確立した。この大会で決定された政権構想をめぐって日本共産党は、議会を重視し、平和革命路線を志向しているとする見方も一部にみられた。
 しかし、日本共産党は、党規約で明示している“党はマルクス・レーニン主義を理論的基礎とする労働者階級の前衛部隊である”という革命勢力としての基本的性格を変えなかった。更に、「民主連合政府」を踏み台にして「民族民主統一戦線政府」をつくり、「人民の民主主義革命」とそれに引き続く「社会主義革命」を遂行していくとする党綱領に明示する基本的革命路線も変えなかった。また、党綱領と一体をなす宮本顕治著「日本革命の展望」で明らかにしている「敵の出方論」に基づく革命の方針も変えなかった。
 これから先、日本共産党は、本格的な統一戦線の結成を最重点にすえ、統一戦線勢力の国会進出、警察・自衛隊対策、労働組合対策、青年対策、都市・農村の中間層対策、マスコミ・言論界工作、学術・文化界工作などに重点を志向した活動を推進し、「民主連合政府」樹立の機会をうかがうことになるものとみられる。

2 極左暴力集団

 極左暴力集団は、「70年闘争」、「沖縄返還阻止闘争」のざ折や「連合赤軍事件」の衝撃などから、一時的に活動の停滞を招いたが、昭和48年に入って、各派とも、組織勢力の温存、拡大を最重点としながら、テロ・ゲリラ活動再開の機会をうかがって活発な動きを示し始めた。
 とりわけ、闘争力を高めるために組織の非公然化、軍事化を進め、中核派が「人民革命軍・武装遊撃隊」を、革マル派が「特別行動隊」を、反帝学評系が「プロレタリア突撃隊」を、それぞれ編成したほか、赤軍派も「軍事委員会」を中心とした軍事組織の再建に力を入れた。こうした非公然・軍事組織は、革命的情勢をつくり出すための中核的役割を担おうとして火炎びん、爆弾等武器の製造・操作技術の習熟に努めるなど、闘争力の蓄積を図っている。
 しかし、昭和48年においては、組織再編をめぐる内紛、学園における主導権争い、他派へのけん制、非難、攻撃が活発化する中で、強化された極左暴力集団内部の力は、専ら各派間の闘争に向けられ、凶悪・陰惨な内ゲバが続発した。この一年間に、内ゲバは、警察がは握しただけでも、238件に及んでいる。
 反面、極左暴力集団による街頭闘争は、格好の政治課題がなかったこともあって、全般的に盛り上がりを欠き、その全国動員数は、前年の延べ31万人から昭和48年は延べ19万人へと後退した。また、学園紛争も、昭和45年をピークに減少の傾向にあり、昭和48年中の紛争校は、83校(昭和47年132校)にとどまった。しかし、バリケード封鎖や施設占拠という事態を招いた紛争校が19校もあり、また、内ゲバの半数以上(130件)は、学園内で起こっている。
 爆弾事件は、「京成成田空港線爆弾爆発事件」(3月)など2件(昭和47年15件)、火炎びん使用事件は、7件(昭和47年25件)というように、この種事件は前年に比べて大幅に減少した。こうしたことは、極左暴力集団各派が内ゲバに明け暮れた事情もあるが、凶悪事件に対する世論の強い非難と昭和47年に制定された「火炎びんの使用等の処罰に関する法律」を背景に警察が強力な取締りを実施したことによるものとみられる。
 そのほか、一部の黒へルグループは、アラブゲリラとの連携を強めており、こうした動きは、「世界同時革命」をめざす国際交流の現われとして注目された。アラブゲリラによって敢行された「日航機乗っ取り爆破事件」(7月)には、昭和47年の「テルアビブ事件」の共犯者として殺人罪で指名手配中のAが犯人の一人として加わっている容疑が濃い。更に、国内での闘争に対するざ折感から国外でゲリラやハイジャックを敢行することによって革命達成への新たな展望を開こうとするセクトや、個人的にアラブゲリラにあこがれ、これらの組織に加わろうとする者があり、今後とも、国際的背景をもったこの種凶悪事件の発生が懸念される。
 なお、極左暴力集団の総勢力は、昭和48年末現在で約4万人を数え、その内訳の主なものは、中核派7,000人、革マル派4,700人、反帝学評系3,300人などとなっている。

3 右翼

 右翼は、日中国交正常化の進展、各種選挙における左翼諸勢力の進出、長沼ナイキ訴訟における自衛隊違憲判決、「石油危機」を中心とする経済問題などを深刻に受けとめ、「我が国は、確実に破局へ向かって転落しつつある」と強い危機感を表明し、政府、与野党、左翼団体等に対して活発な活動を繰り広げた。
 これらの右翼の活動の中で、まず第1に着目しなければならないのは、日中問題に関しての政府批判活動と中国各種代表団に対する来日反対活動である。右翼は、日中国交正常化について「日・台・韓の反共ラインを崩壊させ、道義国日本の歴史に一大汚点を残した」という認識に立ち、政府批判を強める一方、米国鈞臨時代理大使着任(1月)、陳楚大使着任(3月)、新大使館設置(5月)などの動きに対して執ような抗議活動を行った。
 また、廖承志中日友好協会代表団の来日(4~5月)を「第二の蒙古襲来」、劉希文中国経済貿易視察団の来日(9~10月)を「産業スパイ団」と決めつけ、一行の滞在期間中、各地で延べ330団体、2,000人が抗議活動を行った。とりわけ、年末にかけては、日中航空協定の締結に反対し、首相、外相に対して活発な抗議活動を展開した。
 第2は、左翼諸勢力との対決活動である。右翼は、日本共産党をはじめとする左翼諸勢力の進出に強い危機感をもち、特に、国会開会式への天皇臨席拒否問題や立川、那覇両市の「自衛隊員住民登録保留問題」に対して憤激し、「日本民族に対する挑発」と受けとめて活発な抗議や住民基本台帳法違反の告発などで対抗した。
 5月には、熊本空港において、青年愛国党員が日本共産党官本委員長を襲うという事件が発生し、その際、身を挺して犯人を取り押さえた警察官2人が犯人の振りかざした包丁で負傷した。日本共産党は、この事件を契機に右翼弾劾の運動を展開し、これに対して右翼も、各地で日本共産党の演説会の妨害、事務所に対する抗議などの対決活動を繰り返し、11月に開かれた同党の12回大会の会場にも多数の右翼が接近を図った。
 また、昭和48年の日教組大会は、会場問題でこじれ、伊東市や水上町で会場を返上されるなどの曲折を経て、7月に前橋市で開催された。右翼は、こ

れを「長年にわたって日教組批判活動を続けてきた成果である」と評価し、前橋大会には、これまでの最高の約80団体750人が宣伝カーなど130台の車で現地に乗り込み、抗議、批判宣伝、ビラ配布、演説会開催、ハンスト等の行動を繰り広げた。この間、一部の右翼は、会場に侵入しようとしたり、ヘリコプターを乗っ取って会場上空から発煙筒の投下を企図するなどの挙に出た。なお、伊東、水上、前橋を通じて動員された右翼は、延べ360団体、2,800人に及んだ。
 第3は、北方領土問題に向けた抗議・要請活動である。首相の17年ぶりの訪ソを背景に、右翼は、北方領土問題に対する活動を活発化し、8月9日の「反ソデー」には、約40団体、270人が参加し、ソ連大使館、外務省などに向けて抗議要請活動を行った。また、10月の日ソ首脳会談の結果についても、「領土問題に関する具体的な進展はみられなかった」として、ソ連大使館、総領事館への抗議や政府責任追及の動きをみせた。
 このような各種の活動を展開する一方で、右翼は、組織固めにも力を注ぎ、年間約50団体、3,200人の新しい組織をつくり、その勢力は、約550団体12万人となった。これらの新組織の多くは、発足の旗揚げとして日本共産党批判の街頭宣伝活動に精力的に取り組んだ。
 警察は、これら右翼の違法にわたる活動に対しては、警告、制止、検挙等の措置を積極的に講じ、事犯の未然防止に努めた。この結果、昭和48年中に検挙した事件は、188件、418人を数えた。

4 左翼諸勢力の闘争概況

 左翼語勢力は、流動する内外情勢を背景に、小選挙区制反対、米空母ミッドウェー横須賀母港化反対、反基地・反自衛隊を主な闘争課題とし、「5.15闘争」、「10.21闘争」などを軸に各種の大衆闘争を展開した。その過程において、物価、住宅、公害などをめぐる国民の不満がうっ積する中で、野党、総評を中心に幅広い共闘体制が組まれたことは、注目に値する。
 昭和48年中における左翼諸勢力の大衆闘争に向けた動員数は、全国で延べ594万4,000人(うち、極左系19万人)で、昭和47年の延べ408万人(うち、極左系31万人)を大幅に上回った。このうち、1日の最高動員数は、「5.15小選挙区制反対全国統一行動」の約32万人(昭和47年は、「10.21国際反戦デ闘争」の21万8,000人)で、その内訳は、社・共・公共間関係24万7,000人、社会党・総評系3万3,000人、日本共産党系3万人、極左系9,000人となっている。中央段階での社・共共闘は、小選挙区制反対闘争」で7回、「10.21国際反戦デー闘争」の一日共闘を加えて計8回取り組まれ、殊に、「小選挙区制反対闘争」では、社・共共闘に公明党が初めて参加した。また、府県段階での共闘は204回にのぼり、このうち「小選挙区制反対闘争」で59回、「反基地・反自衛隊闘争」で37回の一日共闘が組まれた。
 主要闘争を概観すると、昭和48年前半においては、野党など左翼諸勢力が物価、住宅、公害等の問題をめぐり高まった国民の不満を選挙制度改正問題に結集し、反政府行動を触発したこともあって、「小選挙区制反対闘争」が5月15日の全国統一行動を頂点に最近にない盛り上がりをみせた。その後も、「5,18闘争」には9万2,000人、「5.19闘争」には7万6,000人、「6.1闘争」には6万9,000人が参加するというように、闘争の高まりが持続した。
 次いで、長沼ナイキ訴訟における自衛隊違憲判決(9月、札幌地裁)や米空母ミッドウェー横須賀寄港(10月)を契機として、「反基地・反自衛隊闘争」が展開されたが、「小選挙区制反対闘争」ほどの盛り上がりはみられなかった。「ミッドウェー母港化反対闘争」では左翼諸勢力は、延べ3万3,000人(うち、極左系5,000人)を動員し、入港前日の10月4日から1週間にわたって連続して17回に及ぶ抗議集会、デモを繰り広げ、この間公務執行妨害、公安条例違反などで13人が検挙された。また、「10.21国際反戦デー闘争」では、9万7,000人(うち、極左系9,000人)を動員してジグザグデモや警察部隊への攻撃を敢行し、公務執行妨害、公安条例違反、道路交通法違反などで14人が検挙された。
 そのほか、「公害闘争」では、水銀やPCBによる水質汚濁が大きな社会問題となったことを背景に、これまでの抗議、陳情、集会、デモ、リコールといった合法的な行動から係争企業に対する海上封鎖、工場封鎖、工事妨害等の違法な実力行使へと行動がエスカレートし、威力業務妨害、公務執行妨害、不退去などで94人が検挙された。
 他方、総評等労働組合は、春闘において、大幅賃上げ、スト権奪還、年金獲得、時間短縮の4つの統一要求を掲げ、政府に対してもその政策転換を迫り、政府・資本と対決する「総決戦」の体制で闘争を繰り広げた。すなわち、国労、動労を中心とした「2.10スト権奪還スト」で口火を切り、中盤では、官公労組と民間労組が一体となって、春闘初の「4.17年金改善スト」を行い、闘争を盛り上げた。春闘の最高のヤマ場では、全交運・公労協の「4.27交通スト」をはじめ、公務員共闘の半日スト、その他各単産のおおむね24時間から72時間のストによってゼネスト的な闘争を繰り広げた。
 その結果、春闘におけるスト参加人員は、労働運動史上最高の約225万人(労働省調べ、昭和47年は、約200万人)を記録した。このような闘争の盛り上がりを背景に、総評等労働組合は、4月末段階で政府との政治折衝に持ち込んで「7項目合意文書」を取り付け、更に、それを賃上げに反映させて、これまでの最高の1万5,128円(平均)の賃上げ額(率にして20%増)を獲得した。
 更に、総評は、春闘でのゼネスト的闘争による成果を高く評価し、8月の大会では、一段と政治的、戦闘的な姿勢を打ち出した。続く秋季年末闘争では、労組側は、異常な物価高と「石油危機」を背景に「インフレ手当」を要求し、秋闘としては異例のストライキ戦術を含む6次にわたる統一行動を行った。
 こうした労働運動の高揚に伴い、官公労働者の違法スト、全逓、国労、動労等の業務妨害事案、全逓対全郵政国労・動労対鉄労の間の組織対立に伴う暴力事犯などが多発した。その結果、労働紛争議に伴う不法事犯の検挙人員は、年間を通じて1,848人(昭和47年1,180人)となり、戦後、三井三池争議のあった昭和35年の2,294人に次ぐものとなった。
 警察は、こうした法無視の風潮の広がる中で、延べ285万人の警察官を動員して大衆闘争、労働紛争議等に伴う各種の違法事案の警備取締りに当たった。その間において、昭和48年中に総計3,889人(昭和47年4,335人)を凶器準備集合、建造物侵入、公務執行妨害、公安条例違反等により検挙し、表8-1のとおり、多量の凶器を押収した。また、負傷した警察官は、246人にのぼった。
 とりわけ、極左暴力集団に対しては、徹底した視察、取締りを実施し、昭和48年中の検挙者総数は、約1,900人に及んだ。また、指名手配者は、前年から手配継続中の者65人を含めて125人となり、このうち、52人を検挙した。これらの検挙者の中には、「警視庁警務部長宅爆弾殺人事件」(昭和46年12月)、「自衛隊西部方面総監部前爆発事件」(昭和47年5月)、「大阪府住吉警察署杉本町派出所爆破事件」(昭和47年12月)などの主要爆弾事件の被疑者50人が含まれている。

表8-1 凶器の使用、押収状況(昭和48年)

5 内ゲバの凶悪・陰惨化

 昭和48年中に、警察がは握した内ゲバは、238件に及び、死傷者も、575人(うち、死亡2人)に達し、前年に比べて、発生件数で30%、死傷者数で69%の増加となった。死傷者数の増加率が発生件数の増加率の2倍以上となったことは、内ゲバが極めて凶悪化してきたことを示している。また、内ゲバに伴う検挙人員は、361人となり、前年の2倍以上となった。過去5年間の内ゲバの推移は、表8-2に示すとおりである。
 これまでの内ゲバの発生件数をみると、代々木系集団対極左暴力集団の内ゲバが極左暴力集団相互間のそれを常に上回ってきたが、昭和48年には、図8-1のとおり、この比率が逆転して代々木系対極左系の内ゲバが15%に激

表8-2 内ゲバの発生状況の推移(昭和44~48年)

図8-1 内ゲバの発生状況(昭和47年)



(昭和48年)

減し、極左相互間の内ゲバは、全体の69%を占めるに至った。しかも、極左相互間の内ゲバの93%は、革マル派対反革マル派によるものであった。
 革マル派対反革マル派の抗争の激化は、昭和47年11月8日、早大生B君が中核派のスパイであるという理由で多数の革マル派によって殺害された「早大生リンチ殺人事件」を契機とするもので、それ以来、大学内における主導権争いも絡んで相互に凶悪な内ゲバが繰り返されるようになった。更に、昭和48年9月15日の「神奈川大学内ゲバ殺人事件」で革マル派2人が殺害されてからは、その抗争は一層エスカレートしていった。現在、革マル派は、「ウジ虫中核派、青ムシ解放派を一挙に根絶する党派闘争を貫徹する」と主張し、中核派は、革マル派の根絶を「革命達成のため避けて通ることのできない必然の政治闘争である」と位置づけるというように、極左暴力集団は、各派とも対決姿勢を極度に強めている。
 各派における組織の非公然・軍事化が進む中で、中核派は、「人民革命軍・武装遊撃隊」のほかに、内ゲバに備えて「糾察隊」と称する特別部隊を編成し、また、革マル派の「特別行動隊」や反帝学評系の「プロレタリア突撃隊」も、内ゲバを主要任務とするようになった。内ゲバの形態をみると、これらの特別編成された暴力部隊が相手方の動静についての事前の綿密な調査を実施した上で計画的に急襲する事案が目立ち、特に、「神奈川大学内ゲバ殺人事件」以降は、調査範囲を相手方の下宿や帰省先にまで拡大し、そこを

襲撃するといったテロ的色彩を強めた。その一方で、凶器としては、槍、まさかり、金槌、バール、更には、鉄パイプの中に鉛を詰めたものなどが使用されるようになり、しかも、襲撃に際しては、頭等の急所をねらう事犯が目立つようになった。また、捜索の過程で弓矢なども発見されており、今後、凶器が一層エスカレートするものと予想される。
 このような内ゲバの深刻化に伴い、極左活動家は、襲撃に備えて伸縮式鉄パイプ等の凶器を隠し持ち、下宿を転々と変え、アジトを砦化するなど、相互に消耗戦を強いられている。そのため、彼らの政治闘争は一層停滞し、かつ、それによってうっ積したエネルギーがまた内ゲバに向かうというように、悪循環を繰り返している。そして、場所と手段を選ばない内ゲバに一般市民が巻き添えにされる機会が増え、その行動は国民の強い批判にさらされている。
 以下は、内ゲバの主要事例である。
〔事例1〕 神奈川大学内ゲバ殺人事件
 反帝学評約50人が「9.15ミッドウェー母港化反対闘争」に向けて前日から拠点校の神奈川大学に泊まり込んでいたところ、9月15日午前1時45分ごろ、革マル派約150人がヘルメット、覆面、鉄パイプの武闘スタイルでこれを襲撃し、相互に多くの負傷者が出た。この間にあって、反帝学評約20人、レンタカーを使って反帝学評の動向を視察していた革マル派2人を襲い、鉄パイプで殴る、突く、ける等の暴行を加えて両名を殺害し、現場から5キロメートル離れた浄水場裏に死体を遺棄した。
 神奈川県警察は、捜査本部を設置して強力な捜査を進め、昭和49年に入って被疑者26人の割り出しに成功した(神奈川)。
〔事例2〕 国電鶯谷駅内ゲバ事件
 9月17日午前7時30分ごろ、都下国電鶯谷駅構内に中核派約150人が集合していたところ、突然鉄パイプで武装した革マル派約80人がこれに襲いかかった。このため、駅構内及び線路上で乱闘となり、山手線、京浜東北線の一部が数分間電車の運行を中止した。この間、双方合わせて7人が負傷し、救急車で付近の病院へ収容されたほか、ホームにいた乗客が巻き添えになった。
 警視庁では、110番通報により直ちに捜査を開始し、逃走中の被疑者12人を発見し、現行犯逮捕した(警視庁)。
〔事例3〕 中核派アジト襲撃事件
 10月20日午前4時ごろ、東京、横浜、京都、大阪の各地で革マル派約200人がいっせいに中核派のアジト12箇所を鉄パイプ、竹ざお、木槌、ガスバーナー等で襲撃し、双方合わせて13人が負傷した。
 警察は、捜査の結果32人を凶器準備集合、暴力行為等により検挙し、なお追及捜査を続行している。

6 大荒れ春闘

(1) 「順法闘争」と乗客紛争
 春闘において第1に着目しなければならないのは、国労及び動労の「順法闘争」の繰り返しとこれに伴う乗客紛争の発生である。
 国労及び動労は、ストの前段に減速運転などの順法法闘争」を行うという二段構えの闘争を繰り返したため、列車ダイヤがその都度大幅に混乱し、足を奪われた乗客が集団で駅員や乗務員に抗議するといった事案が全国各地で発生し、とりわけ、「3.13上尾駅事件」、「4.24国鉄首都圏紛争」、「4.25大阪環状線乗客紛争」などでは騒動的事態が現出した。
〔事例1〕 上尾駅事件
 埼玉県上尾市は、近年東京のベッドタウンとして人口が急増し、国鉄高崎線上尾駅では、朝のラッシュ時に東京方面への通勤客約3万人が乗り込んでいる。通勤客の膨張に輸送力が追いつかないため、乗客は、平素からすし詰め通勤を強いられていたところ、2月以降、再三にわたって「順法闘争」が繰り返され、この間のノロノロ運転、間引き運転等によって、その不満は極度に高まっていた。
 たまたま、「3.17動労スト」及び「3.20国労スト」(中止)の前段闘争と

して国労、動労が3月12日から全国的に実施した「順法闘争」の過程で、13日の出勤ラッシュ時、列車ダイヤの混乱によって同駅構内に滞留した乗客(最高時約1万2,000人)が騒ぎ出した。この騒ぎの中で、列車の窓ガラスや計器類を破壊したり、自動券売機内の現金や乗車券をばらまいたり、更には、駅員を追い出して駅長室を占拠するといった不法事犯が発生し、夕刻まで同駅周辺の列車運行は、上下線ともまひ状態に陥った。埼玉県警察は、事態の収拾に際して窃盗、公務執行妨害等により7人を検挙した(埼玉)。
〔事例2〕 国鉄首都圏紛争
 「4.26~27スト」の前段闘争として4月24日国労、動労が実施した「順法闘争」の影響で、東京、埼玉、千葉等の首都圏では、国鉄各線の通勤列車の連休、遅延が続出し、夕方のラッシュとともに、各駅に帰宅途中の乗客があふれた。特に、高崎線、東北線の遅れが目立ち、まず、午後6時ごろ大宮駅で不穏な動きが見られ、次いで、午後8時過ぎには上野、赤羽の両駅において一部の乗客が暴徒化するに至った。この混乱から、高崎線、東北線だけでなく、京浜東北線、山手線、赤羽線、常磐線までが全面運行不能の状態に陥った。
 翌25日未明にかけて紛争の波及した駅は、東京都内30駅、埼玉県内4駅の計34駅に達し、各駅に滞留した乗客は、最高時新宿駅1万6,000人、上野駅1万人、池袋駅4,500人など約8万人に及んだ。紛争の過程において、列車や駅の施設を破壊して放火したり、駅の金庫、自動券売機、売店等から現金を窃取するといった不法事犯が発生し、これに対して警視庁及び埼玉県警察は、約2万人の警察官を動員して警備に当たり、窃盗、放火、器物損壊等で175人を検挙した(警視庁、埼玉)。
(2) 反戦派青年労働者等の過激な行動
 春闘において第2に着目すべきは、反戦派青年労働者や極左暴力集団が過激な行動に出たことである。
 昭和48年末現在で、労働組合内の反戦派青年労働者は、約1万600人、このうち、極左系が約9,500人と推定される。極左系の主なものは、中核派系2,600人、革マル派系2,200人、反帝学評系1,700人などとみられる。これらの極左系労働者は、国労、動労、全逓、自治労などの官公労組合に強固な地盤を築いている。
 反戦派青年労働者は、春闘において、執行部の統制を無視した過激なハネ上がり行動に出た。すなわち、ヘルメットにヤッケというスタイルで身を固め、線路やホームにピケを張って列車の運行や乗務員の乗務を実力で阻止するとか、郵便局の通用門等にピケを張って就労者や郵便車の出入りを実力で阻止するなどの不法事犯を敢行した。しかも、これらのピケでは、スト拠点以外の組合員が年次有給休暇をとってピケ参加するという新しい戦術を打ち出した。
 また、労学提携を標ぼうする極左暴力集団も、これらの闘争に積極的に介入し、革マル派、中核派などは、ストライキや「順法闘争」で混乱している各地の国鉄駅構内に大挙して押しかけ、ホームで争議支援のアジ演説を行ったり、爆竹を鳴らしたり、ビラをはったりする等の行動に出た。更に、「4.26~27スト」に際しては、革マル派約500人が国鉄品川機関区に鉄さくを乗り越えて侵入し、380人が建造物侵入及び鉄道営業法違反で検挙された。

7 スパイ事件

 我が国をめぐる諸外国のスパイ活動は、従来、主として国際共産主義勢力によって行われてきた。近年、国際勢力の多極化、国際情勢の複雑化を背景に、多くの国々が、自国の国際的地位の確保や権益の擁護・発展を目的とし、我が国に対し、また、我が国を「中継地として合法・非合法両面の手段を駆使したスパイ活動を展開している。
 すなわち、本国のスパイ養成機関の手で専門のスパイ教育を受けた者が、高速発信用無線機、乱数表、暗号表などのスパイ用具を使い、都会の片隅を拠点とし、あるいは、公館を拠点として、我が国の政治、経済、外交、防衛等広範囲にわたる情報の収集活動に従事している。また、直接には、我が国に対するスパイ活動ではないが、相対立している諸国のスパイがそれぞれの国の思惑の下に、我が国を活動の場としてスパイ合戦の火花を散らしている。まさに、我が国においては諸外国のスパイが入り乱れているといえよう。
 これらのスパイ活動は、我が国に対する有害活動であることはいうまでもない。しかし、我が国は極めて自由の保障された国であり、かつ、直接のスパイ取締法規がないため、わずかに出入国管理令、外国人登録法、旅券法などの法律に触れるもののみが検挙され、表面化しているのである。以下は、昭和48年中の主なスパイ事件の例である。
〔事例1〕 温海事件
 昭和48年8月5日、山形県警察は、鶴岡市の葉山海岸から上陸した北朝鮮スパイ2人を出入国管理令違反(密入国)で逮捕した。事件の概要は、次のとおりである。
 同日午前0時過ぎ、山形県温海警察署員が日本海沿いの国道上を警ら中、新潟方面に徒歩で向かう3人連れの不審者を発見し、職務質問によって外国人登録証を持たない朝鮮人であることが判明したので本署に同行を求めたところ、いずれも逃亡を図った。同署員は、抵抗した1人(崔光成)をその場で逮捕し、他の1人(金フンソク)も、その後の検索で約2キロメートル離れた鼠ヶ関海水浴場のテント内に隠れているところを逮捕した。崔光成、金フンソクの両名は、取調べに対し、北朝鮮の連絡船「東海一号」で航海中、ソ連沿岸沖で遭難し、ゴムボートで日本にたどり着いた旨主張し、また、北朝鮮赤十字会も、遭難船員であるという説明の下に日赤本社や朝総連を通して両名の救援を求めてきた。しかしながら、彼らの主張する時期、場所において遭難の事実がなかったことは、各種の客観資料から明瞭であった。更に、沿岸線の捜索から、葉山海岸で彼らが遺棄したゴムボートが、早田海岸では、リュックサックが発見された。リュックサックの中からは、着替え衣類、日本製医薬品、トランジスターラジオ、トランシーバーケースなどに加えて、乱数表と暗号表が出てきた。また、暗号表には、「日本」、「自衛隊」、「工作員」等の用語が記載されていた。こうしたことから、彼らは北朝鮮から工作船で日本近海に至り、8月2日ごろ、夜間に乗じ、ゴムボートに乗り換えて葉山海岸に潜入し、本国からの暗号放送による指示、ないしは工作船からの無線指令に基づき、我が国においてスパイ活動に従事しようとしていたものと認められた。

 昭和48年11月2日、山形地方裁判所は、被告人崔光成、金フンソクの両名に対して懲役1年、執行猶予3年の判決を言い渡し、11月16日、刑が確定した。
〔事例2〕 金一東事件
 昭和48年12月22日夜、愛知県警察は、東京国際空港において北朝鮮スパイ金一東を出入国管理令違反(密出国企図)等で逮捕した。その取調べの結果、次のような事実が判明した。
 金一東は、昭和44年10月初め、日本円300万円、高速発信用無線機、水晶片、乱数表、暗号表、暗書用秘密インクなどを携え、北朝鮮から高速艇で青森県岩崎海岸に密入団した。上陸地点に無線機類を埋めた後、愛知、大阪、三重を主たる活動舞台とし、在日朝鮮人を手先として本国からの暗号放送による指令を受けながら、対日情報の収集と韓国・北朝鮮間の連絡ルートの設定を主要任務としてスパイ活動を続け、その結果を秘密インクを用いて国際郵便で本国に報告していた。昭和48年12月、「東ドイツの北朝鮮大使館で活

動資金を受領せよ」との本国からの指示を受け、日本人名義の旅券を入手し、日本人になりすまして東ドイツに行くことを企てた。まさに、出国する寸前のところを逮捕したわけてある。
 昭和49年3月5日、名古屋地方裁判所は、被告人金一東に対して懲役1年の判決を言い渡し、3月19日、刑が確定した。

8 特殊国際事件

(1) 金大中事件
ア 事件の概要
 金大中氏は、昭和46年4月、第7代韓国大統領選挙に野党の新民党から立候補して朴正煕現大統領と競い、投票数の45.2%に当たる540万票を獲得して予想外の善戦をし、一躍脚光を浴びた人物である。昭和47年10月、国会議員の資格で来日したが、その直後、いわゆる「10月維新改革」が行われ、その措置によって国会議員の資格を失った。同氏は、自国では野党の活動が実質的に制約されているとして帰国を取りやめ、その後は、国外において朴政権に対する批判活動を行っていたと言われている。
 このような情勢の中で、金大中氏は、昭和48年8月8日午前11時ごろ、東京九段のホテル・グランドパレス2212号室に宿泊中の梁一束韓国民主統一党党首を訪ね、途中から加わった金敬仁同党所属国会議員と3人で懇談した。金大中氏が金敬仁氏の見送りを受け部屋を出たところで、韓国人風の数人の男に襲われ、金敬仁氏は、梁氏の部屋に押し戻され、金大中氏は、2210号室に押し込められた後、地下駐車場から車でいずれかに連行された。そして、5日後の13日午後10時過ぎ、同氏は、ソウルの自宅付近で解放された。
 8月14日、金大中氏が自宅で記者団に語ったところによると、この間の事情は、ホテルの2210号室からエレベーターで地下駐車場に降り、そこから車で大阪方面に向かい、犯人らが「アンの家」と呼ぶ所で一たん落ち着いた後、車で1時間ほどの港からモーターボートで500トン程度の船に運ばれ、韓国へと渡ったということになる。また、犯人らは、「救国同盟行動隊」と称し、金大中氏の「海外における行動が本国に不利益をもたらすから犯行に及んだ」と説明したという。
 この事件は、日韓両国において大きな反響を呼び、我が国では、連日大々的にこの事件の報道が行われ、折から開会中の国会でも、主権侵害、原状回復、対韓政策転換などの論議がなされた。
イ 捜査状況
 事件発生に伴い、警視庁をはじめ全国警察は、各空港、海港及びそれに通ずる主要道路での検問警戒に警察官延べ2万2,000人を、ホテル、旅館等の宿泊者のチェックに警察官延べ2万4,000人を動員し、金大中氏の早期救出に努めたが、国内において同氏を発見するには至らなかった。
 警視庁では、所轄麹町警察署に「金大中氏逮捕監禁事件特別捜査本部」(本部長以下104人)を設置し、現場中心の地道な捜査を続け、その結果、ホテルのエレベーターに乗り合わせた人など数人の目撃者の証言やホテルに遺留された指紋から韓国大使館金東雲一等書記官を本件に加担した容疑が濃厚であると認めるに至った。このため、警視庁は、9月5日、外交ルートを通じて韓国側に同書記官の任意出頭を求めたが、国際慣行を理由に拒否された。また、本件発生時間の前後にホテルの地下駐車場に出入りした約30台の車のナンバーを手がかりに全国約8,500台に及ぶ車を対象として捜査した結果、横浜韓国領事館劉永福副領事の所有車が犯行に使用されたとの容疑が濃くなった。
 一方、大阪、兵庫などの関西地方の警察では、マンション1,000軒、モーターボート1,800隻、船舶40隻にのぼる捜査を進め、金大中氏の供述に係る「アンの家」、「モーターボート」、「船舶」などの特定を手がかりに、犯人グループ、連行経路、出国地点等の解明に努めているが、まだ、これらを解明するには至っていない。
 本件は、被害者である金大中氏や重要な目撃者である梁一東、金敬仁両氏が日本におらず、更に、容疑の濃厚な金東雲一等書記官及び劉永福副領事が外交特権保持者であるという悪条件の下に、捜査が難航し、かつ長期化しているが、警察は粘り強く真相の究明に向けて努力している。
(2) 日航機乗っ取り爆破事件
ア 事件の概要
 昭和48年7月20日午後11時55分ごろ(日本時間。以下同じ)、パリ発東京行きの日航機404便(乗客123人、乗務員22人)が、アムステルダム(オランダ)の北方海洋上を飛行中、「被占領地域の息子たちと日本赤軍」と称する日本人1人を含む5人のアラブゲリラによって乗っ取られた。犯人らは、翌21日午前7時45分ごろ、アラブ首長国連邦のドバイ空港に同機を着陸させ、「日米帝国主義、ドイツ・ファシズム、イスラエル・シオニズムに対する戦闘行為として日航機をハイジャックした」旨アピールする一方で、外部からの説得や申し入れには一切応ぜず、また、政治的、金銭的要求も行わないまま、空港に滞留し続けた。
 このようなこう着状態が続く中で、日本では、23日午前11時ごろ、「被占領地域の息子たち」の名で「7月23日午後6時20分までに身の代金約40億円を用意し、拘留中の赤軍派2人をドバイ空港まで連れて来なければ、日航機を爆破する」旨の英文タイプによる脅迫状が日航本社あてに郵送されてきた。
直ちに現地と連絡をとり、犯人らに脅迫状との関係を尋ねたところ、犯人らはこれを否定した。
 その後、同機は、24日午前5時ごろになって約69時間ぶりにドバイ空港を離れ、午後3時ごろ、リビアのベンガジ空港に着陸した。犯人らは、乗客及び乗務員全員を降機させた後、機体を爆破し、その直後、リビア国軍隊によって逮捕された。
 本件事案の発生に伴い、警察は、被害機の着陸に備え、かつ、同種事案の再発を防止するため、国内における重要空港、報復攻撃が予想される外国公館等に対する警戒を強化した。更に、極左暴力集団各派に対する視察を強化するとともに、ICPOを通じて日本人犯人の割り出しに努めた。
 その後、事件に遭遇した乗務員、乗客からの事情聴取や関係各国から入手した捜査資料により、日本人犯人は、「テルアビブ事件」の共犯者として指名手配中のAであるという容疑が濃厚と判断された。また、日航本社に届いた脅迫状は、東京中央郵便局ないしはその付近で投かんされた形跡が出てきた。目下、警察は、真相究明のためアラブゲリラと連帯行動をとっているセクト及び個人の解明を急いでいる。
イ 事件の背景
 本件の日本人犯人と考えられるAは、昭和47年5月30日に発生した「テルアビブ事件」の共犯者として殺人罪で指名手配されていた。もともと、大阪の「浪人べ平連」の活動家で、京都の予備校に在籍中は、C(ペンネーム滝田修)の指導する京大パルチザン・グループにも加わっていたとみられる。その後、「テルアビブ事件」の中心人物であるDの一派からの働きかけを受け、昭和47年4月出国してベイルートに渡り、アラブゲリラの訓練に加わっていたが、同事件以後、所在不明となっていた。
 Aのベイルート入りの橋渡しをしたのは、赤軍派創設当時(昭和44年9月)からの「女闘士」Sであるとみられている。同人は、昭和46年2月、「世界同時革命」達成のための「国際根拠地」づくりを企図し、Dと偽装結婚の上、ベイルート入りした。しかし、その後、赤軍派による「日航機よど号ハイジャック事件」が国際根拠地づくりに結びつかなかったこと、「連合赤軍事件」の発生によりその活動に失望したことなどから、次第に赤軍派との連絡を断ち、アラブゲリラとの連帯による「国際ゲリラ戦」を志向するようになっていった。
 「日航機乗っ取り爆破事件」の発生後、Sは、テレビのインタビューに答えて、本件が「獄中からの兵士奪還と活動資金獲得」のために敢行されたことを明らかにするとともに、本件と日航本社あて脅迫状との関連性を強調した。同じころ、「世界革命戦線情報センター」の責任者も、パリで記者会見し、同趣旨のことを述べている。国内には、「世界革命戦線情報センター」のほかにも、「VZ58」、「8.25共闘会議」などと称する組織がアラブゲリラ支援の活動を行っており、今後、この種黒へルグループとアラブゲリラとの連帯動向が注目される。

9 警衛、警護等

 警察は、天皇及び皇族に対しては警衛を、国内外の要人に対しては警護を実施し、それぞれ身辺の安全を期している。また、国会、首相官邸、外国公館、空港など極左暴力集団、右翼等によるテロ、ゲリラ攻撃の対象となるおそれのある施設(重要防護対象)に対しては、警戒警備を行っている。
 昭和48年中の警衛、警護をめぐる情勢は、極めて厳しいものがあった。前年の「テルアビブ事件」に次いで「日航機乗っ取り爆破事件」が敢行されたのをはじめ、複雑な中東情勢を背景として世界各地でハイジャック、要人襲撃等の重大事件が発生した。国内では、極左暴力集団が組織の再編を図りながら、テロ、ゲリラ活動再開の機をうかがって不穏な動きをみせ、右翼も、左翼諸勢力との対決、日中国交正常化反対、北方領土返還要請等の活動を強め日本共産党宮本委員長襲撃事件、外国公館侵入事件など数多くの不法事案を敢行した。
 一方、国際情勢が流動化し、国際交流が活発化する中で、国内外の要人の往来は、ますます激しいものとなった。我が国において各種の国際会議が開催されたほか、田中首相が2度にわたって諸外国を歴訪し、また、元首級の要人や中国大型代表団が相次いで来日した。
 このような情勢の中で、警察は、警衛、警護に延べ59万人を動員し、その万全を期した。警衛、警護を実施した主な事例は、それぞれ表8-3,表8-4のとおりである。このほか、警察は、重要防護対象に対しては、機動隊による警戒警備体制を強化し、ハイジャック、テロ、ゲリラ等の未然防止に

表8-3 主要警衛実施事例(昭和48年)

表8-4 主要警護実施事例(昭和48年)

努めた。

10 機動隊の活動

(1) 概況
 警察活動には、訓練を積んだ多数の警察官が出動して迅速的確な処理を必要とするものが少なくない。機動隊は、このような警察活動を補うための常設の部隊として昭和27年に発足した。すなわち、必要な装備と強固な団結力を有し、徹底した訓練を受けた精強な警察部隊であるところに機動隊の特性がある。また、平均年令24歳の若い警察官が集団生活を送り、修養と訓練に励み、部隊活動をするところから、機動隊は、警察官としての優れた資質を養成する場ともなっている。
 昭和48年現在、各都道府県警察に編成された機動隊の隊員数は、約1万人を数え、警備実施を中心に様々な警察活動に従事している。殊に、最近の社会情勢の急激な変化に伴い、「集団警備力としての機動隊」は、災害・事故発生時の人命救助、爆発物処理、交通取締り、盛り場における集団パトロ

図8-2 機動隊の出動状況(昭和48年)

ルなどにもその特性を生かして幅広い活動を行っている。昭和48年中の機動隊の出動状況は、図8-2の示すとおりである。
 また、昭和44年に、各都道府県警察の集団警備力を強化し、相互間の援助体制を確保するため、約4,200人からなる管区機動隊が発足した。この部隊は、平常時には各道府県警察において刑事、外勤、交通などの勤務につきながら、機動隊に準じた形で警備訓練を行い、更に、管区警察学校で合同訓練を行って練度の向上に努めている。昭和48年中は、「ミッドウェー母港化反対闘争」等の警備に出動した。昭和49年2月には、栃木県下の爆弾事件の続発に際して、関東管区機動隊が応援出動して宇都宮市内を中心に深夜の警戒活動を実施した。
(2) 活動の多様化
ア 集団違法行為等の規制、取締り
 機動隊は、最近の厳しい警備情勢の下において、火炎びん、投石、角材などによる攻撃やいわれのない悪罵に耐えながら、集団違法行為の規制、取締りという基本的任務を果たしている。そのために、隊員には、何よりも精強さが要請され、平素から厳しい警備訓練を実施して警備技術を研究するとと

もに、柔道、剣道、逮捕術等の訓練を通じて気力、体力を養成している。また、混乱した現場においても、冷静さを失わず、適正な法執行上の判断ができるよう捜査手続き等の法令の研さんに努め、併せて各種の情操教育やスポーツを中心としたクラブ活動を通じて人格の陶冶に励んでいる。
 このような平素の教育訓練によって培われた基盤の上に立ち、機動隊は、治安を維持するために多彩な活動を行っている。
 昭和48年に、大衆闘争、労働紛争議等に伴う各種の違法事案の警備取締りに際して機動隊及び管区機動隊延べ140万人が出動した。
 このほか、国会、首相官邸、外国公館、空港等重要防護対象に対する警戒警備活動、あるいは、天皇、皇族をはじめ国内外の要人に対する警衛、警護活動においても、機動隊は重要な役割を果たした。
イ 爆発物の処理等
 昭和48年9月19日深夜発生した大阪市城東区における連続殺人及び人質事件、11月9日夕刻発生した川崎市内ソープランド「満月」における猟銃乱射殺人事件など、銃器を使用した凶悪な人質事件は、跡を絶たない状況である。このような銃器使用事件をはじめ、ハイジャック事件など高度な逮捕制圧技術を

要する事案の発生に備えて、全国の機動隊には、耐弾・耐爆性能を有する装備資器材をもつ「特殊部隊」が編成され、実戦的な訓練を実施している。
 また、最近、黒へルグループや爆弾マニアによる手製爆弾事件が発生し、国民に大きな不安感を与えており、事件の発生直後には、国民から「爆発物ではないか」という通報が激増する傾向がみられる。これらの爆発物や「爆発物容疑物件」に対しては、速やかに、しかも、安全に除去するとともに、捜査資料を得るため解体して鑑定することが必要である。その作業を専門的に行うチームとして、各機動隊を中心に「爆発物処理班」が編成されている。「爆発物容疑物件」は、結果的には遺失物にすぎないことが多いが、本物の爆発物を処理する場合と同様の手順を尽くさなければならず、現場処理に当たる機動隊員にとっては、極度の危険感を伴う仕事である。
ウ 災害事故からの救出

 台風、豪雪、地震その他大規模な自然災害に対して、事前の警戒、住民の避難誘導、り災者の救出救護、死体の収容、被害の拡大防止等の災害警備を実施するに当たっても、機動隊、管区機動隊を中心とした組織的な部隊活動が不可欠である。このために、地方自治体や関係諸機関との協力の下に災害警備訓練を実施して有事に備えている。
 また、過密化、複雑化の一途をたどる大都市で発生する災害事故は、ますます多様化している。高層ビルや地下街の火災、ガス爆発、列車の衝突、転覆、飛行機の墜落などの大規模なものから、交通事故やエレべ一ターの故障などの比較的小規模なものまで、緊急に人命救助活動を行う必要のある災害事故がひん発している。このような突発的な災害事故に対処するためには、空気呼吸器やロープ、ガス溶断機、電動カッター等の「七つ道具」の取扱いに習熟し、高層ビルや地下街等の構造、有害ガスや電気に関する基礎知識を修得し、しかも、具体的事案に対処する救急技術に長じた機動性のある救助専門部隊が必要である。このため、各機動隊に機動救助隊(レスキュー部隊)の編成が進められている。昭和48年中の警視庁機動救助隊の活動状況は、表8-5のとおりである。
 このほか、地方の実情に応じて、山岳遭難の多発する県では山岳救助隊(レインジャー部隊)が、海や河川での水難が多発する県では、水難救助隊(アクアラング部隊)が、それぞれの機動隊に設けられ、救助活動に当たっている。

表8-5 警視庁機動救助隊の活動状況(昭和48年)

エ 雑踏警戒その他の活動
 神社仏閣への初詣、各地の大規模な祭礼、人気歌手の歌謡ショーその他多数の観客や群衆の集まりに際して、雑踏事故を防止するため、綿密な計画の下に行われる雑踏警備においても、機動隊は、重要な役割を担っている。また、列車事故や「順法闘争」等によって駅構内が著しく混雑するようなときにも、雑踏による危険を防ぎ、「乗客紛争」のような事態の発生を防止するために機動隊が出動する。

 このほか、「集団警備力」としての機動隊の特性を発揮することができる警察活動としては、事故防止のための交通いっせい指導取締りや学童の登下校時の交通安全活動、緊急配備の際の車両検問、暴力団の抗争事件発生時の盛り場等における集団パトロールなど、様々なものがある。


目次