第1章 現行警察制度20年を回顧して

 現行警察制度は、昭和29年、旧警察法の全面改正により誕生した新警察法の下に発足して以来、本年をもって20年を迎えた。この間、我が国は民主主義が次第に定着し、民生は向上し、国際社会にも重きをなすに至るなど、誠に目覚ましい発展を遂げた。しかしながら、その反面、都市化の進展に伴う地域共同体の崩壊傾向、消費の増大を背景とする享楽的風潮の強まり、公共意識、遵法精神の低下と利己主義の拡大、政治・外交問題をめぐる対立の激化など、社会情勢は、法秩序を維持する上において多くの複雑困難な問題を抱えながら今日に至っている。

1 現行警察制度の発足

 昭和20年8月、我が国は無条件降伏、外国軍隊による国土の占領というかつて経験したことのなかった事態を迎えて、政治、経済、社会のあらゆる面で混乱を極めた。インフレが急速に進行し、物資が欠乏するなかで、国民生活は極度の窮乏に陥った。精神的荒廃からも法秩序は著しく乱れ、凶悪犯、粗暴犯が激増し、ヤミ行為が横行した。
 占領軍は我が国の徹底的民主化と国家権力機構の縮少を図り、とりわけ旧警察機構の解体を占領政策における中心課題の一つとした。政府は、昭和22年9月にいわゆるマッカーサー書簡の指示に従い、旧警察法案の起草に着手し、同法案は同年11月10日第2回国会に提出され、12月8日可決成立、翌昭和23年3月7日から施行された。
 旧警察法は、民主警察の基本理念を確立した点で画期的な意義を有するものであったが、占領政策の所産として制定されたものであり、我が国の実情に適しない制度的欠陥を内在していた。なかんずく地域を分かって国家地方警察と市町村自治体警察(発足当時1,605)との二つの警察を併存させたことは、国の治安責任を不明確にしたのみならず、広域的性格を有する警察運営について、その効率性を著しく阻害した。また、警察単位の過度の細分化は、組織の複雑化と施設、人員の重複化を招き、制度自体を極めて不経済なものにし、発足当初から、財政的負担に耐えられない市町村の中には、自治体警察返上の動きが目立っていた。
 こうした状況の下において、地方の治安は極度に悪化し、殺人、強盗等の凶悪犯罪がひん発するとともに、平事件、吹田事件等の大規模な集団暴力事件が相次いで発生し、国民を不安に陥れた。警察の制度、機構の再検討は、いよいよ国民の重大な関心事となった。
 昭和27年4月、我が国は独立を回復した。それに伴って占領政策の「行き過ぎ」是正が叫ばれ、警察制度の改革もその一つとして検討された結果、昭和29年2月15日新警察法案が第19回国会に提出された。
 同法案は、野党の強い反対がありその審議は難航を重ねたが、一部修正が加えられたうえ可決、成立し、昭和29年6月8日公布、7月1日から施行された。
 現行警察法は、旧警察法の民主的理念、警察の責務、公安委員会制度などはそのまま引き継いだが、一方、警察の組織を都道府県警察に一元化したことによる警察運営の能率化、都道府県警察に対しての国の要請に基づく必要限度の国家的性格の付与、国家公安委員会の管理の下における警察庁の設置など、旧法の欠陥を大幅に是正するものであり、その後、犯罪の広域化、大規模化、自動車交通の発達等に伴い、一部技術的な改正が行われたが、基本的性格には変更を加えられることなく、国民の間に定着し、現在に至っている。

2 治安を取り巻く環境

 昭和29年から昭和48年までの20年間は、我が国が戦後の混乱期を脱却し、飛躍的な発展を遂げ、国際的にもまた、確固たる地歩を築いた時期といえる。
 この20年間は、経済の高度成長によって特徴づけられているが、反面において後半に至り、経済成長のもたらす新しい社会事象の現出とその弊害とが次第に注目されてきた。
 現行警察制度発足当時は、各生産部門の生産力と国民の消費生活が戦前の水準に達し、ようやく戦後の復興が終了を告げた時期であった。その後、経済は、昭和30年代中ごろから、世界でも例のない驚異的な高度成長を遂げ、この20年間に国民総生産は実質で約6倍に、1人当たりの実質国民総生産は約5倍を超すという実績を示した。
 このような急激な経済成長は、当然のことながら著しい社会的な変動とそこから生じるひずみともいうべき現象をもたらした。
 それはまず、いわゆる都市化問題となって現われた。
 我が国の都市人口は、昭和30年代から次第に上昇し、昭和45年には、全人口の7割を超えたが、このような都市への人口の集中は、地域的には農村から都市への人口流入、経済的には第一次産業から第二次、第三次産業への労働力の移動という形で行われた。この移動は極めて急激なものであった。そのため秩序ある都市づくりのための社会資本投入は、そのぺースについていけず、完全な立ち遅れを余儀なくされた。その結果として、住宅、土地、交通、上下水道、ごみ処理などの都市の基本的条件は慢性的に不備状態を続け、都市の治安にも様々な影響を与えている。
 同時に、都市中心の経済は、密度の高い情報流通機構をもたらし、いわゆる情報化社会を出現させた。都市化、情報化社会の出現は、経済活動の能率化、国民の知的水準、権利意識の向上をもたらした反面、古い権威の喪失、享楽的な風潮の高まり、住民の連帯意識の希薄化、伝統的な地域社会の解体、道徳律のし緩などを生じ、犯罪の悪質化、風俗環境の悪化、少年非行の増大など種々の社会病理現象を招来した。また、発生した犯罪についての情報が大衆の中に埋没しやすく、それが犯罪の捜査を一層困難にしているほか、犯罪の模倣性が助長され、局地的な事案が全国に波及するなど、治安に与えている影響は大きなものがある。
 経済の成長は、交通通信手段の進歩をもたらし、自動車、新幹線、高速道路、電話等の発達、普及は誠に目覚ましいものがあった。特に、モータリゼーションの進展は著しく、昭和29年から昭和48年までの間に、我が国の自動車保有台数は20倍に、主要道路の舗装率は10倍に伸びている。また、昭和29年から昭和47年までの国内貨物輸送トンキロと旅客輸送人キロは、自動車によるものがそれぞれ17.3倍、13.6倍に伸びるとともに、全体の輸送手段の中での比重も急速に高まった。昭和38年には、高速道路が新設、逐年延長が図られ、高速道路時代が到来した。これらの情勢は、20年間に運転免許所持人口を15倍に激増させるとともに、この期間に27万7,000人を超える交通事故死者を生むなど交通警察の業務量を急激に増大させ、また、犯人の行動範囲の拡大等犯罪の広域化傾向を強めて捜査活動にも大きな影響を与えている。
 一方、活発な生産活動と大規模な投資によって支えられてきた経済の高度成長は、その反面において、大気、河川、海洋等の汚染や騒音、振動などの公害を発生させ、公害による国民の生活環境の破壊が深刻な問題となった。
 経済・社会の急激な変動は、国民の意識や風俗の面にも大きな影響をもたらした。特に個人の自由な欲望の追求拡大という傾向が強まるとともに、享楽的な風潮が広まったことは、国民生活に物質的豊かさをもたらした反面、欲求不満者の増加やエゴの増大、公的な活動に対する関心の薄れ等健全な社会の確立を阻害する幾多の問題を次第に大きく浮かび上がらせ、法秩序の維持上重要な問題を投げかけている。
 他方、この間における我が国内外の政治外交情勢にも幾多の変転がみられた。
 政治情勢については、昭和30年秋、両派社会党の統一が行われるとともに、自由党と民主党の保守合同による自由民主党が新たに結成され、ここにいわゆる二大政党時代が生まれた。その後、昭和35年社会党の一部が分かれ民主社会党を結成、更に昭和39年には、公明党が結成された。一方、日本共産党も昭和40年代半ばごろから議席を拡大し、多党化時代を迎えた。
 また、東西冷戦、緊張緩和、平和共存、多極化世界と変転する国際社会の中で、独立を回復した我が国は、自らの選択による国益の追求としての外交・安全保障政策を必要とするようになった。
 こうした情勢を背景に、昭和35年には安保改定の是非をめぐり、国論が大きく分かれ大規模な政治闘争が展開されたが、左翼諸勢力は各種の共闘組織を結成して連日のように国会周辺に押しかけるなど、反対闘争を盛り上げ騒然たる情勢を現出させた。また、これらと並行して、エネルギー革命に伴う大量人員整理に端を発した「三井三池争議」が、総資本対総労働の闘いとして長期にわたり続けられ、この間、多くの不法事案の発生をみた。
 更に、昭和40年代当初からは、東京を中心に大学紛争が目立ち始め、次第に全国各地の大学へ騒動が波及するとともに、いわゆる「70年闘争」が絡み、学生を中心とする極左暴力集団等による過激な集団暴力行為が各地で相次ぎ、火炎びんの投てき、爆弾事件などがひん発した。
 経済成長に伴うひずみの増大とともに、このような法秩序を力によって破壊しようとする行き方は、この20年間民主主義が定着してきた法治国家日本にとって、その存立基盤にかかわる重大な問題として注目された。

3 治安事象と警察活動の歩み

(1) 犯罪
ア 概況
 犯罪は、戦後の混乱を反映して、昭和23年から昭和24年にかけて激増をみたが、経済の発展と社会秩序の回復が進むにつれて、次第に減少に向かい、この傾向は、現行警察制度発足時の昭和29年まで続いた。その後、図1-1のとおり、昭和30年に若干上昇したものの、これをピークとして、以後、おおむね横ばい傾向をたどり、昭和39年を境として、はっきり下降カーブを描き始め、昭和48年は、過去20年間の最低を示した。
 これら犯罪を包括罪種別にみると、凶悪犯は、昭和33年に若干の増加をみ、1万5,000件台になり、その後横ばい傾向にあったが、昭和39年以降は、逐年減少し、昭和48年には、9,803件となった。なかでも、強盗の減少率は

図1-1 刑法犯認知・検挙件数の推移(昭和29~48年)

著しく、昭和48年の認知件数は、昭和29年の半分以下となっている。
 粗暴犯は、昭和29年から昭和34年にかけて急増したが、以後減少し、昭和48年は、ピークであった昭和34年のほぼ半分になっている。
 刑法犯の大半を占める窃盗は、20年間、毎年100万件前後でおおむね横ばい傾向にある。
 知能犯は、昭和29年の18万件から、昭和48年には7万4,826件と半分以下に減少しており、その大半を占める詐欺は、昭和29年を100とすると、昭和48年は43横領に至っては、わずか24となっている。
 これに対して、刑法犯の検挙件数は、昭和30年代の80万件台から昭和40年代に入ると70万件台前後へと大きく減少し、検挙率も60%台から50%台へと低下している。しかし、凶悪犯の検挙率は、90%前後の高率を保っている。
 このような我が国における犯罪の減少傾向は、同時期における欧米諸国の犯罪が増加傾向を示し、特に1965年(昭和40年)以降、激増しているのに比べて、極めて特徴的である。しかしながら、最近、次に述べるとおり、犯罪の質的変化は著しく、凶悪、特異な犯罪の続発や暴力団の存在等は、依然として社会に不安を与えている。また、都市化社会・車社会の現出、国民の生活様式の変化等、流動の激しい社会の中にあって、捜査の効率を阻害する条件が一層多くなっており、犯罪捜査を取り巻く環境は、次第に悪化しているといえよう。
イ 犯罪の特徴
特異事件の増加
 社会の変化に伴い、従来あまり例をみない特異な形態の犯罪が増加し、社会に著しい不安を与えるに至った。昭和35年5月の雅樹ちゃん事件をはじめとして、昭和38年3月の吉展ちゃん事件や同年5月の狭山市の女子高校生殺人事件等の身の代金を要求する誘かい、殺人事件が相次いで発生するとともに、昭和43年の金嬉老事件、昭和45年のよど号ハイジャック事件、同年の定期旅客船「プリンス」乗っ取り事件等の人質事件が発生した。
 また、昭和37年11月から昭和38年9月にかけての「草加次郎」事件をはじめとし、その後、山陽電車、横須賀線を対象とした相次ぐ列車爆破事件や昭和40年7月の渋谷ライフル魔事件等の爆発物、銃砲を使用した凶悪な犯罪が多発する傾向がみられ、今日に及んでいる。
 更に、大量輸送時代を背景に、航空機、列車等の大規模事故事件の発生が目立った。
犯罪の広域化
 交通機関の急速な発達に伴って、犯人の行動範囲は拡大し、年とともにこの傾向は一層著しくなってきている。窃盗では、金庫破り、忍込み、事務所荒らし等に広域化の傾向が強く、凶悪犯においても、昭和38年の東京、静岡、福岡の3都県にかけて5人を殺害した西口事件や昭和40年の九州から近畿にかけて9人を殺害した古谷事件、昭和43年の函館、東京、愛知、京都にかけて4人を殺害した少年けん銃魔事件等の連続殺人の例にみられるように、広域化の傾向が著しくなった。
犯罪の悪質、巧妙化
 犯罪の量的な漸減傾向の中で、犯罪者の犯行手口にみられる巧妙化の傾向は、年を追って顕著になっており、常習犯罪者の増加は、この傾向に一層拍車をかけている。特に計画的な犯罪、現場に証拠を残さない犯罪の増加が目立っている。このような巧妙化の傾向は、昭和36年から昭和38年にかけてのいわゆるチ-37号千円札偽造行使事件や昭和43年の3億円強奪事件、昭和48年のニセ夜間金庫事件などにおいてその典型がみられる。
 また、犯罪の悪質化の傾向も顕著であり、交通事故を偽装した実子殺害事件やコインロッカーを利用したえい児死体遺棄事件のような残酷非情な犯罪が目立つとともに、爆弾事件や爆破予告事件のように対象を選ばない犯罪の増加、人質事件やハイジャック事件のように、人命を盾にとって要求を通そうとする犯罪の多発をみている。
根強い暴力団
 暴力団は、図1-2のとおり、昭和30年代に、団体数、構成員数ともに急増し、昭和38年には約5,200団体、約18万人とピークに達した。
 この間、暴力団組織の全国的規模への拡大強化が進められ、昭和32年の別府事件、昭和38年の広島における連続抗争事件等の対立抗争事件が続発し、それとともに、昭和35年の毎日新聞東京本社襲撃事件等のような言論機関に対する暴力事件まで引き起こし、社会に不安を与えた。また、暴力団は、盛り場や公営競技に対する介入を深め、資金源の拡大を図るとともに、大量の

図1-2 暴力団団体数、構成員数の推移(昭和32~48年)

けん銃を密輸入し、その武装化を進め、反社会性を一段と強めた。このような状況に対し警察は世論の強い支持を背景とした強力な取締りを実施した結果、ようやく暴力団の減少、後退の傾向がみられるようになった。しかしながら、昭和44年ごろから再び暴力団の勢力の回復の動きが目立ち始め、特に広域暴力団が、各地の団体を系列化するなどにより、地方へ進出し、その組織勢力の拡大を図る傾向が顕著になってきている。また、なかには総会屋と結託して、企業から資金を得るなど、新たな資金源を企業に求めるような特異な動向もみられるようになった。
ウ 刑事警察の課題
 この20年間、刑事警察は幾多の試練を経てきたが、その中でも最も重要な課題は、捜査の適正化と刑事警察の体制の強化であった。
(ア) 捜査の適正化、合理化の推進
 昭和28年、刑事訴訟法の一部が改正され、逮捕状の請求権者は、公安委員会の指定する警部以上の司法警察員に限られることとなった。このことは捜査の第1次的機関としての警察が、逮捕権の運用について十分な国民の信頼を得ていなかったことを示すものであり、警察としても率直にこの事実を反省し、捜査全体を詳細に検討し、捜査運営の刷新改善を行い、その適正化、合理化を図ることとなった。
 以来20年間、その時期によって具体的な問題点こそ異なるものの、刑事警察は、常に捜査の適正化、合理化のための努力を継続してきたが、同時にこの課題は、古くて新しい問題として今後も取り組むべき基本的課題である。
(イ) 刑事警察の体制強化
 昭和36年から昭和38年にかけては、凶悪な事件が集中的に発生し、その多くが未解決のまま取り残されていたが、とりわけ、昭和38年3月の吉展ちゃん誘かい事件、同年5月の狭山市の女子高校生殺人事件における捜査の不手際は、世論の厳しい批判を受けることとなった。この両事件とも犯人との接触の機会がありながら、捜査上のミスにより、犯人の逮捕を逸したものであり、このような過ちの繰り返しを避け、時代に即応した刑事警察の体質強化を図るため、同年5月23日、警察庁は、「刑事警察強化対策要綱」を作成して、刑事警察の取り組むべき課題を全国に示した。
 それは、○刑事教養の徹底 ○刑事警察官の処遇の改善 ○刑事装備の充実 ○捜査体制の整備の4つを柱としており、以後これを中心として、真に国民の期待にこたえ得る刑事警察の強化をめざして努力が重ねられてきた。
 このような努力が続けられる中で、その後、社会の急激な変動と都市化の波は、犯罪捜査を取り巻く環境を大きく変ぼうさせ、捜査はますます困難になり、検挙率の低下をもたらし、刑事警察は再び大きな壁に直面することとなった。このため、警察庁では、昭和45年10月24日、「刑事警察刷新強化対策要綱」を策定し、機動捜査隊及び特殊事件捜査係の設置、初動捜査活動の強化、常習犯罪者に対する捜査活動の強化、犯罪情報管理システムの創設等に取り組み、着実にその実現を図っている。
(2) 防犯保安
ア 概況
 犯罪を予防し、市民生活の安全を確保しようとする防犯保安警察の分野は市民生活と密接にかかわり合うものであるだけに、社会経済情勢の変動や、国民の意識の変化に伴って、その対象や活動もこの20年の間に大きな変化をみせた。
 すなわち、行政権限の面では、戦後、質屋古物営業、風俗営業、銃砲刀剣類等の分野に限定されていた所管法令が、深夜飲食店、ソープランド、モーテルなどの風俗関連営業、警備業、火薬類の運搬、猟銃用火薬類などの分野にも拡大され、また「めいてい者規制法」による保護活動が加えられた。このほかボーリング場やコインロッカー等に対する防犯上の行政指導、刃物を持たない運動、街を明るくする運動などの活動がそのときどきの社会事情を背景として、国民の要望にこたえて推進されてきた。
 行政法令違反の取締りの面では、戦後の貧困と混乱の時代にあっては、「食管法」と「物統令」に代表される物資や価格の統制法令違反に重点が置かれたのに対し、昭和29年以降にあっては、覚せい剤、麻薬事犯の取締り、また、昭和30年代初期における押売や、街頭における暴力的不良行為のまんえんに対して、各県で相次いで制定された「押売防止条例」、「迷惑防止条例」による取締りなどに重点が移行した。更に昭和33年4月1日から全面施行された売春防止法に基づく売春の取締り、昭和30年代後半からの暴力団の武装化に結びつくけん銃密輸の取締り、そして経済成長と人口の都市集中などを背景として多発するに至った金融、不動産事犯など市民生活を侵害する行政法令違反の取締り、更には、経済の高度成長に伴って生じた公害事犯の取締りと、その取締り重点も時代によって変遷を遂げた。
イ 社会風俗の変化への対応-「昭和元禄」と警察
享楽的風潮の強まり
 経済白書をしてもはや戦後でないと言わしめた昭和30年以降、我が国の経済がますます高度の発展を遂げるにつれ、享楽的風潮は急速に強まっていった。
 昭和27、8年ごろから大都市の盛り場に出現した「ジャズ喫茶」、「音楽喫茶」などは、昭和30年代に入り急激に増加し、また、夜間活動人口の増加に伴い、深夜営業の喫茶店、飲食店などが増加し、少年の非行防止や善良な風俗の保持上問題となった。
 昭和30年代の後半に入ると、ソープランドが急増し、しかも浴室で客にいかがわしいサービスをしたり、売春が行われる等の状態が出現した。更にキャバレーなどの風俗営業がより一層享楽的な営業形態をとるようになり、また、モーテルなどの新たな業態が出現した。
 一方、ブルーフィルム、エロ写真等のわいせつ物は早くからみられたが、昭和30年代以降映画や出版物等における性表現が次第に露骨となり、昭和40年前後からいわゆるエロ映画や不良出版物がはん檻するに至った。また昭和45年以降になると、北欧諸国のポルノ解禁などの影響を受けていわゆるポルノブームを招来し、風俗環境の浄化の必要性が叫ばれた。
 売春防止法施行後、管理売春は飲食代金とセットされた売春などに姿を変えて行われ、街娼も増加する傾向をみせた。しかし取締りの強化により表見的事犯は少なくなったが、最近ソープランドにおける売春が問題になっているように取締りを免れるために潜在化、巧妙化する傾向がみられる。
 更に、生活の困窮による売春は影を潜め、フリーセックス、性の開放ムードなどにより、単なる金もうけや享楽のためのものが目立っている。
麻薬、覚せい剤禍の推移
 社会風俗の変化で見逃せないのは、麻薬、覚せい剤その他の薬物乱用の問題である。我が国には、戦前においては、こうした麻薬や薬物乱用の風潮はなかったが、戦後の混乱期の退廃的風潮の中で旧軍関係者等によって使用されていたヒロポン等の覚せい剤やモルヒネ、コカイン等の麻薬が流出し、その乱用の傾向が現われた。特に覚せい剤については、麻薬ほど規制が厳重でなかったうえ、その弊害について一般の知識が乏しく警戒心が薄かったため、その乱用は急速に広がった。このため、昭和26年覚せい剤取締法が制定されたが、その後も青少年を含む一般国民の間に浸透したので、昭和29年以降強力な取締りを実施した結果、昭和33年にはほぼ鎮静した。
 一方、麻薬の乱用は、覚せい剤に比べ緩慢であったが、旧軍用麻薬が払底したため、取引価格が高騰したのに目をつけた不良外国人が香港等の麻薬ブローカーと結託し、ヘロインを密輸、密売するようになり、ヘロイン中毒患者の数は急激に上昇した。また、覚せい剤の取締りが厳しくなるにつれて、従来覚せい剤の密造、密売に当たっていた暴力団等がばく大な利益につられて麻薬に転向し、組織と暴力を背景に密売を行うようになった。このようにしてまんえんするに至った麻薬事犯に対して昭和37年ごろから徹底した取締りが開始され、昭和43年ごろには麻薬中毒者を一掃し、国内需要をほとんど断つことに成功した。
 しかし麻薬、覚せい剤その他の薬物乱用は、今日の文明社会における逃避的傾向のはけ口として、世界的な風潮となっており、また、暴力団はかつての夢が忘れられず、昭和45年ごろから再び覚せい剤の密売によって利得を図ろうとしてのり出し、覚せい剤の乱用が再度広がる傾向をみせるに至った。
 また、昭和35年ごろから主として青少年層において睡眠薬遊びが流行し始め、昭和37年をピークに下火となったが、昭和39年ごろからはシンナーや接着剤の乱用が青少年を中心に、急速に広まった。
 また、昭和41年ごろから、大麻の乱用が広がり、昭和45年には幻覚剤LSDが初めて日本にも上陸した。こうして麻薬と薬物乱用の問題は、今後とも楽観を許さない状況にあるといわねばならない。
規制の強化と取締りの推進
 以上のような社会風俗の変化は、一口にいって太平ムードに乗った享楽的傾向の現われであり、昭和40年の前半には、俗に昭和元禄という言葉で表現された。
 風俗環境の浄化のためにとられた第一の方策は、4回にわたる風俗営業等取締法の改正である。すなわち、昭和34年、39年の2回にわたる深夜喫茶店等に対する規制、昭和41年のソープランド等に対する規制、昭和47年のモーテル営業に対する規制がそれであり、これらの規制を通じて時代の要請にこたえてきた。
 次に、わいせつ事犯の取締りで特筆すべきことは、昭和40年の映画「黒い雪」の検挙である。これを契機として映画倫理管理委員会や映画業界への自粛を促すこととなり、この種わいせつ事犯に対する一つの歯止めの役割を果たした。
 売春の取締りについては、売春防止法施行に伴い、暴力団の介入事犯、年少者を対象とする事犯、公然と行われる事犯等を重点に強力かつ継続的に取締りを実施し、法の実効を担保した。最近の潜在化、巧妙化の傾向に対しては、特にソープランドにおける売春事犯を重点とした取締りを実施している。
 覚せい剤事犯については、昭和29年に罰則の強化等を内容とする法改正が行われ、翌30年には政府に「覚せい剤問題対策推進中央本部」が設けられたのに呼応して徹底的な取締りを行い、昭和33年までには、ほとんどこれを鎮静させた。麻薬事犯については、昭和38年の罰則の強化等を内容とする法改正に伴い、取締体制を整備し、徹底した取締りを実施し、国内におけるヘロイン乱用を一掃した。
 また最近の覚せい剤事犯の広がりに対しては、昭和48年に罰則の強化等を内容とする法改正が行われ強力な取締りを続けている。
ウ 経済繁栄のかげりと警察の対応
危険物の増大
 昭和30年代は、高度成長が、矛盾を内包しつつも、表面順調に進展し、繁栄をおう歌した時代である。
 この間、技術革新に基づく重化学工業化の進展に伴い、産業用火薬類の需要が急速に伸び、これに伴ってその爆発事故が漸増し、とりわけ昭和34年から昭和35年にかけて、第二京浜国道の子安台における火薬類運搬車の爆発事故をはじめ大事故が集中的に発生した。
 その後における国民所得の上昇は、余暇を生み、いわゆるレジャーブームと呼ばれる現象をもたらした。その一つとしてガンブームともいわれるほど狩猟や射撃のための銃所持が激増し、そのため、これらの所持許可を受けた銃砲による犯罪や事故が増加する傾向をみせてきた。また、ガンブームはいわゆる模造けん銃を生み、これを犯罪に使用する事件や、改造する事案が相次ぎ、治安上重要な問題となった。
生活侵害事犯の増加
 経済の高度成長の過程で、資金需要の増大と生活水準の上昇につれて加速する欲望の増大につけ込み、悪質金融業者による市民大衆からの預り金の受入れ事犯や、高金利事犯などが多発するようになった。
 昭和40年代に入ると、都市への人口集中と国民所得の上昇に伴い、持ち家ブームが始まり、これにつけ込む悪質不動産業者の不正行為が目立った。また、いわゆる大量消費時代の下、大量の商品の流通過程において、欠陥商品や有害食品によって市民の生活や健康が脅かされることが多くなった。例えば、PCBが混入した食用油や病菌豚が流通過程に流れるなど有害食品事件が目立ってきた。
 昭和48年には、生活関連物資の買占め・売惜しみに伴う物不足、物価の異常高騰現象が起こり、著しく消費生活が圧迫されたことに対し、不満が高まり、一部悪徳商社や企業の行為が大きく社会的批判にさらされることになった。
公害
 一方、高度経済成長は、工業開発の進展や、人口の都市集中を背景として大気汚染、水質汚濁、騒音等様々の公害をもたらし、深刻な社会問題となった。そこで、昭和42年公害対策基本法が制定され、大気汚染防止法、騒音規制法等の個別規制法が逐次整備されてきたほか、昭和45年にはいわゆる「公害罪法」が制定された。
規制の強化と取締りの推進
 防犯保安警察は、こうした経済繁栄の市民生活に落とすかげりから生じる被害をできる限り排除するための役割を果たしてきた。
 まず、銃砲、火薬類等による市民への危害防止については、産業用火薬類による事故多発の情勢に対応し、昭和35年火薬類取締法の改正によって、火薬類の運搬に関する規制が警察の所管とされ、同時に火薬庫等に対する警察職員の立入権が定められた。ガンブームに伴う犯罪や事故の多発に対応して、「銃刀法」が昭和33年から45年にかけて5回にわたって改正され、携帯、更新、譲渡等の制限、罰則、保管義務の強化、ライフル銃の所持制限、モデルガン等の規制などが、順次行われた。
 なお、昭和40年代に入り火薬類を使用した爆破事件等が増加し、また、昭和44年ごろから、極左暴力集団による武装闘争の激化に対応して、火薬類不正流出防止の見地から、徹底した取締りを実施した。
 次に、市民生活を侵害する事犯については、昭和30年代後半から、金融事犯や不動産事犯に対する取締りを積極的に推進してきたが、その後、欠陥商品、有害食品が問題化するに伴い、市民の消費生活を保護する立場から、これらに対する取締りも強力に進めることとなった。また、昭和48年には生活関連物資の買占め事犯として、商社によるもち米の買占め行為を食糧管理法違反で検挙し、大きな社会的反響を呼んだ。
 公害事犯については、公害関係法令の整備に伴い、逐次その取締りを強化してきた。昭和48年には、全国的に取締体制の整備を図り、有害物質の排出事犯、廃棄物の不法投棄事犯等を重点として積極的な取締りを進めた。
防犯活動
 経済の高度成長や都市化の進展等社会情勢の変化に伴い、犯罪の態様も変わり、防犯活動も更に検討を加えていく必要が生じた。
 防犯活動の基盤としての民間の自主防犯団体は、昭和36年に府県単位の防犯協会が全国で結成され、翌昭和37年には全国防犯協会連合会が誕生した。更に、地域防犯活動の軸として活動してきた民間有志者による防犯連絡所制度は、昭和48年にはその数54万に達した。
 昭和37年ごろから事業所等における保安管理の専門化、省力化等の要請の増大に応じ、委託警備を業とする警備会社が誕生し、民間における防犯に寄与してきたが、その社会的責任も高まったので、昭和47年にはその適正な管理を図るため、警備業法が制定施行された。
 また、社会情勢の多様化は、市民の間にいろいろの不満や苦情を生じさせることとなった。警察は従来から苦情や相談の窓口を設け、家事、少年、交通問題等について適切な処理を行ってきたが、昭和40年代に入ると、公害問題や生活問題に関するものも次第に増加し、この面でもできる限り市民の不安や不満を解消するよう努めている。
(3) 少年非行
ア 概況
 戦後の少年非行は、二つの大きな波を経て来た。すなわち、第1の波は、終戦直後の経済や道徳の混乱期における非行の増加であって、昭和26年をそのピークとし、第2の波は我が国の経済が回復し、社会が安定したにもかかわらず、いわゆるベビーブーム期に出生した少年達の成長につれて非行もまた著しい増加を示し、凶悪特異な犯罪が少年によって敢行され、「恐るべき10代」などといわれる状況を現出して、ついに昭和39年に戦後最高を記録した時期である。
 その経過をみると、図1-3のとおり、昭和29年には主要刑法犯(刑法犯のうち凶悪犯、粗暴犯、窃盗、知能犯及び風俗犯をいう。)を犯して補導された少年は8万5,496人であったが、ピーク時の昭和39年には実に15万1,081人に達し、その後減少傾向をたどって昭和48年には10万2,195人となった。また、人口比(少年人口1,000人当たりの数)でみると、昭和29年には8.2人と成人の6.8人と大差のなかったものが、以後次第に上昇し、昭和39年には12.0人となって成人の4.3人の3倍近くになり、その後は減少して、昭和48年には10.6人となっている。

図1-3 主要刑法犯少年の人員及び人口比の推移(昭和24~48年)

イ 非行の特徴
昭和30年代における粗暴、凶悪犯罪の増加
 昭和30年代は、経済の発展による国民生活の向上と、社会一般の享楽的、退廃的風潮を背景に、非行少年中に占める欠損家庭や貧困家庭の少年の比率は低下し、両親のそろった経済的にさほど困窮していないいわゆる中流階層の家庭の少年の非行が高い比率を占めるに至り、非行が普通の家庭の少年の間にもまんえんする傾向が著しくなった。
 この中にあって、非行は粗暴なものが増加し、例えば、粗暴犯(暴行、傷害、脅迫及び恐喝)で補導された犯罪少年は、昭和39年には昭和29年の約2倍半に達した。また、社会に大きな衝撃を与えるような凶悪な事件も目立ち、昭和33年の18歳の少年による小松川高校女生徒殺害事件、昭和39年の17歳の少年による連続13件の「通り魔事件」、祖父を殺害して自殺にみせかけた女子高校生の「祖父殺し」事件などがその代表的なものとして挙げられる。
昭和40年代における非行の多様化、低年齢化
 昭和40年代に入ると、それまでの非行対策の推進と、少年人口の減少もあって非行は量的にはようやく減少を示し始めたが、その質的な変化が顕著となった。すなわち、この時期、高度に発展した経済が、物質的には豊かな社会を現出し、激しいコマーシャリズム、享楽的な文化の浸透、モータリゼーションの進展、都市化、核家族化などが少年を取り巻く環境を著しく変化させ、少年の育成上最も重要な家庭の教育や学校の教育機能にも変化をもたらし、非行の多様化、更にはその低年齢化を招くこととなった。
 形態的には、ゲバ高校生の攻撃的非行、モータリゼーションの鬼子ともいうべき暴走族非行、テレビなどのマスコミや社会事象に直接大きな影響を受けたと思われる非行、更には逃避的非行の典型としてのシンナー乱用などが出現し、また、性風俗や性意識の変化を反映して、性犯罪の一貫した減少にもかかわらず、ぐ犯不良行為段階の性の逸脱行動に特異なものが目立ってきた。昭和42年6月の広島で一度に5人の少年がシンナー乱用によって死亡した事案、昭和43年2月の18歳の少年による新幹線爆破未遂事件、昭和44年から45年にかけての過激派高校生による学校封鎖やゲバ闘争、昭和47年7月の中学生2人による航空機爆破予告事件、同年11月のサーキットグループ50人による箱根における連続強盗事件、昭和48年11月の愛知県で45人の中学生グループが無人の寮などで乱交していた事案などがその例である。
 一方、非行の多様化とともに、貧困家庭や欠損家庭の少年の非行少年中に占める比率は更に低下し、非行全般に単純な動機の遊び的色彩の強いものが多くなった。また、昭和40年代後半からは、低年齢の少年による非行が著しく増加し、いわゆる非行の低年齢化が進行するとともに、昭和47年2月の13歳の少年によるテレビ番組を模倣した9歳の少女の殺害事案にみられるように、特異なものも目立ってきた。
ウ 少年警察活動
 以上のような少年非行の流れのなかで、昭和29年の現行警察制度の発足を契機に、将来を担う少年の健全育成のため、少年警察は、体制・機能の強化を図り、非行の情勢の推移に即応した各種の施策を積極的に推進してきた。
(ア) 効果をあげた地域対策
 昭和30年代に入り質的に変化してきた少年非行に対処するためには、ひとり警察の力にのみ頼ることなく地域社会による自発的な補導活動を推進する必要性が痛感された。このため、全国各地の非行多発地域に対して、警察をはじめとする地域内の関係機関、団体、住民等が協力して非行防止活動を総合的に行うため「非行防止地区計画」を策定し、警察と地域社会との連携活動の基礎を確立した。
 その後、地域における自発的な補導活動を強化するため、ボランティアによる少年補導員制度を全国的に広げるとともに、地域における関係機関、団体、ボランティア等による補導活動の拠点としての少年補導センターの充実強化を図った。更に児童、生徒の非行に対処する警察と学校の連携の場として学校警察連絡協議会が結成されるとともに、有職少年の非行防止を目的として職場警察連絡協議会が結成された。
 また、非行の温床となる有害環境を排除するため、多くの都道府県において青少年保護育成条例が制定され、これに基づく少年の補導と保護のための活動が活発に展開されることとなった。
(イ) 補導活動の深化・充実
 増加する少年非行に対し、少年の再非行の防止を図るため昭和34年10月、少年の非行危険性を科学的に判定する方法として非行危険性判定法が開発され、警察が行う非行少年の措置及び処遇意見を決定する際の判断基準として全国的に実施された。
 その後も非行危険性判定法に関する研究は進められ、昭和48年4月には新たに男子初犯少年を対象とする男子初犯少年再犯危険性判定法が採用実施され、科学的な判断に基づく少年の処遇がより一層進められることとなった。
 少年非行の増加と質的変化は、補導の一層の強化と処遇の適正化を必要としたので、昭和35年には少年警察の運営及び具体的活動の準則として「少年警察活動要綱」が制定されるとともに、少年警察に関するきめの細かい指導教養の役割を担う少年補導官が各都道府県警察本部に設置された。
 その後少年事件処理における措置の選別と処遇上の能力を更に高める必要から、昭和45年には、個々の少年に最もふさわしい措置を決定し、また、検察庁や家庭裁判所等に送致、通告する際の処遇意見を適切に判断するための専門職員として全国すべての警察署に少年事件選別主任者が置かれた。
(ウ) 保護活動の展開
 昭和30年代の非行の増加と歩調を合わせて、少年の家出が増加を続けた。家出は非行とその根を同じくするものであり、少年を保護して犯罪による被害や転落から守るという観点のみならず、非行防止の観点からも少年警察活動の重要な対象となった。このため少年警察活動の一環として毎年全国家出少年発見保護活動強化月間を設けるなど、全国的な発見保護活動を推進しており、年間平均約5万人、この20年間に約100万人に及ぶ少年を非行や被害の危険から救出している。
 また、暴力団員によるいわゆる人身売買の犠牲者になったり、悪質な業者にだまされて有害業務への就労を強いられたりする少年は依然として跡を絶たない。警察はこれら少年の福祉を害する犯罪の取締りを少年警察の大きな柱として推進してきたが、昭和30年代から40年代にかけて、社会環境の変化とともにこの種事犯は潜在化、巧妙化の傾向をたどり、捜査も困難の度を加えてきている。
(4) 交通
ア 交通情勢
(ア) 概況
 昭和29年当時の自動車保有台数は131万台、運転免許所持者数は206万人にすぎなかったが、昭和30年代後半から自動車交通の進展は予想を上回るものがあり、昭和48年には自動車保有台数は、2,618万台と20年前の20倍に達した。運転免許人口も、昭和35年ごろから急速に増加し、毎年200万人が新たに免許を取得した結果、昭和48年には、運転免許所持者数は3,078万人を数えるに至った。
 また、この間に国内輸送の主力は、旅客、貨物ともに鉄道から自動車へと移り、自動車交通の舞台は、大都市から中小都市にまで拡大し、自動車は国民生活に密着した存在となってきた。
 このような自動車保有台数、運転免許人口の増大、急速な道路網の発達とその反面における道路安全施設等の不備、都市交通構造の立ち遅れ、国民の自動車交通に対する意識の立ち遅れ等により、交通事故、交通渋滞、交通公害等の弊害が重大な社会問題になってきている。
 我が国で交通問題が国民の関心をひく契機となったのは、昭和33年の「神風タクシー」問題であるが、昭和34年には交通事故による死者が1万人を突破し、このころから交通事故が社会問題の一つとして大きくクローズアップされるようになった。その後11年を経た昭和45年には、死者1万6,765人、死傷者合わせ実に99万7,861人に達し、史上最高となった。その後の3年間は、自動車交通量の引き続いての増加にもかかわらず、減少傾向を示しているが、交通事故による死者数が依然として1万4,000人台を数えるなどなお多くの人命、財産等の社会的損失を招いている。また、交通渋滞も、昭和30年代後半から、東京、大阪などの大都市を中心に悪化し始め、交通マヒや駐車問題など都市交通の効率低下が大きな問題として取り上げられるようになった。
 一方、昭和40年代に入り、排出ガス、騒音などの自動車公害が、環境問題の一つとして国民の関心をひくようになり、更に、最近の石油危機をめぐるエネルギー節約問題とあいまって、現代社会における自動車交通のあり方が再検討されるようになってきた。
(イ) 交通事故の主な特徴
 我が国の交通事故について、その20年間の推移をみると図1-4のとおりである。
 その主な特徴は次のとおりである。
歩行者事故の割合の減少
 第1に、交通事故死者における歩行者の割合が、著しく減少したことである。昭和48年中の状態別構成率は、歩行中が昭和29年の50.5%から36.8%に

図1-4 自動車保有台数、交通事故死者数と交通事故負傷者数の推移(昭和29~48年)

減少しているのに対し、自動車乗車中は18.5%から34.9%へ、自動二輪車乗車中は5.3%から16.0%に増加している。我が国の歩行中の死者の割合は、ほぼイギリス(39.0%)並みであるが、アメリカ(17.9%)に比べると2倍となっている。
大都市から地方への拡大
 第2に、地域的な特徴として、昭和30年代には多くの犠牲者を出していた大都市が、近年大幅な交通事故の減少をみせているのに対し、大都市周辺部への事故の移行というドーナツ化現象が現われ、また、地方都市における交通事故も増加してきた。これは、大都市周辺部及び地方都市における交通安全施設や住民意識、都市構造等がモータリゼーションの急速な浸透に対応し得なかったことを示すものと考えられる。
事故は営業車から自家用車へ
 第3に、死亡事故を第1原因別にみた場合、昭和30年代から昭和40年代当初までは、ダンプカーや大型トラック、バス等の営業車による事故が大きな割合を占めていた。 しかし、マイカー族の増大に伴い、近年は自家用乗用自動車による死亡事故が著しく増加しており、昭和48年には42%を占め、昭和38年の11.8%に比べて3.6倍となっている。
(ウ) 交通渋滞
 交通渋滞は、昭和37年ごろから東京、大阪などの大都市において悪化し始め、また、幹線道路や地方都市においても、漸次発生するようになった。その後、東京オリンピックや万国博開催時の大規模な道路整備により、一時的な好転はみられたものの、交通需要の増大に伴い、事態は深刻化の様相をみせている。特に大都市では、交通混雑により、バスの走行速度が低下し、幹線を避けた自動車が裏通りに侵入する等、市民生活にも悪影響を及ぼしている。
(エ) 交通公害
 昭和44年に、東京の大原交差点等で一酸化炭素(CO)による大気汚染が問題になったのをはじめとして、昭和40年代後半には、東京の牛込柳町交差点における鉛汚染、立正高校や石神井南中学校における光化学被害が続発し、社会問題化した。自動車交通量の増大に伴い、自動車の排出ガス等による生活環境の侵害事案が、東京以外の府県でも年々増大してきており、交通公害の防止が、工場等の固定発生源における公害防止と並んで、重要な課題とされるに至った。
イ 交通警察活動の足跡
(ア) 道路交通法の変遷
 我が国のモータリゼーションが急速に上昇の傾向をたどり始めた昭和35年、従来の道路交通取締法に代えて道路交通法が新たに制定された。道路交通法は単なる取締法ではなく、すべての者が安全に道路を通行するための道路交通の基本法をめざし、法の目的にも、交通の安全ばかりでなく交通の円滑を図ることが加えられた。しかし、その後の急激な交通事情の変化に対処するため、今日までに実に14回とほぼ毎年改正が行われた。そのうち特記すべきものとして、次のような改正が挙げられる。
○ 昭和38年、高速道路時代の幕明けに伴い、高速自動車国道における自動車の通行方法の特例を新設した。
○ 昭和42年、交通反則通告制度を新設し、反則金に相当する額を道路交通安全施設の設置に要する費用に充当することとした。
○ 昭和45年、法の目的に「道路の交通に起因する障害の防止」を加え、道路交通法が公害の防止にも対処し得ることとなった。
○ 昭和46年、歩行者用道路やバスレーンの規定を整備し、規制内容を明確に表示するため、標識標示中心主義を採用した。
○ 昭和47年、路上試験制度の採用、指定自動車教習所の指定基準の整備等運転者対策の強化を図った。
(イ) 交通規制と交通安全施設の整備
 昭和30年代の交通規制は、主として事故防止のための補助的手段として考えられ、その実施も道路の局部的な「点」ないし「線」に限られていた。昭和40年代に入ると、交通規制が交通事故防止のためばかりでなく、都市交通の効率化のための当面の手段として認識されるようになった。このため、幹線道路における一方通行、駐車禁止、一時停止、中央線変移、右折禁止等の規制により、道路交通環境の改善が図られた。更に、昭和40年代後半においては、通学、買物道路や歩行者天国、自転車レーンを各種の規制と組み合わせ、生活環境を保全するための面規制に重点が向けられるなど、交通規制は大きく質的な変化をみるに至った。
 今日では、更に、交通規制の役割が都市交通の流れを全体として管理することにまで拡大され、都市の道路の機能に応じた規制の網を対象地域にかぶせることにより、交通の流れの新しいパターンを作りあげ、同時に自動車交通の総量を規制し、これによって都市交通の最適化を図る方向に発展してきた。
 信号機、道路標識、標示などの交通安全施設は、大幅に整備され、特に信号機は単に量的拡大のみにとどまらず、質的にも最新の電子技術を導入した「路線自動系統化」や「広域交通制御」などの実用化が進められた。また、昭和46年からは、大都市や県庁所在地等の地方中枢都市において交通管制センターの整備が図られている。これらの安全施設については、昭和41年以降3箇年又は5箇年を単位とする整備計画を作成し、計画的整備が進められている。
(ウ) 交通指導取締り
 交通の安全を確保し、円滑な交通秩序を維持するため、交通指導取締りの強化に努めてきた。昭和48年の検挙件数は、昭和29年の139万件の5.9倍に当たる816万件に達し、同年の交通事故の処理件数も、58万件を数えている。このような大量の違反事件や交通事故を効率的に処理するため、逐年体制の整備を図ってきた。
 交通違反事件の処理については、昭和37年に交通切符制度を導入し、昭和42年には、迅速かつ適正な処理を目的とした交通反則通告制度の実現をみた。また高速道路における交通警察体制の整備も、高速道路の供用延長に応じて着実に進められている。
 他方、交通事故の捜査についても、昭和45年ステレオカメラを全国的に導入するなど合理化が進められているが、なお、今後一層、捜査の迅速化を図るとともに、捜査を通じて知り得た事故の原因等を事故防止対策に反映させる方策を積極的に推進することが必要とされている。
(エ) 運転者の資質向上のために
 昭和29年以降の運転免許試験の受験者数と合格者数の推移は、図1-5のとおりであり、昭和48年現在で年間の受験者数は683万人、免許更新者数825万人という膨大な運転者群を管理するに至った。
 これらの大量の運転者の資質向上を図るため、指定自動車教習所制度の充実や路上試験の導入等により、初心運転者対策を強化するとともに、一般運転者に対しては、更新時講習の義務化や処分者講習制度の充実に努めてきた。このほか、昭和44年には、運転者の免許、違反歴に関するデータをコンピューターにより集中管理する運転者管理センターの発足とともに、点数制度が施行され、行政処分制度は画期的な変革をみた。
 しかし、今後更に増加の予想される膨大な運転者群を適正に管理していく

図1-5 運転免許試験の受験者数と合格者数の推移(昭和29~48年)

ためには、運転者資料の整備や運転者教育の充実等、総合的な運転者管理システムの拡充を図る必要がある。
(5) 警備
ア 概況
 昭和27年、我が国は、独立を回復したが、国内では、皇居前メーデー事件、吹田事件など暴力的破壊活動が繰り広げられており、我が国の再建のためには、国内治安の確立が緊急の課題であった。
 昭和30年、日本共産党は、それまでの非公然武装闘争戦術を一変させて、党と大衆との結合に重点を置いた活動へと戦術転換を図った。また、昭和31年には、国際共産主義運動の分野でも、スターリン時代からの脱皮と米ソの平和共存に向けた戦略と路線の転換が行われ、左翼諸勢力は、一時的に混乱に陥った。その後日米安保条約改定の時期をとらえ、「反安保」の旗印の下に結集し、昭和34年から翌年にかけて「安保闘争」に取り組み、長期にわたる大規模な闘争を展開した。昭和40年ごろからは、ベトナムにおけるアメリカの北爆開始を契機に、「反戦」及び「反米」が左翼諸勢力の重要な闘争課題となっていった。そして、左翼諸勢力は、安保条約に関する態度選択の時期である昭和45年を「政治決戦」の年と定めて、昭和42年から昭和45年の長期にわたって「70年闘争」に取り組んだ。その後は、物価、公害など国民生活に関連する諸問題を取り上げて「70年代闘争」を進めている。
 「70年闘争」では、極左暴力集団は、凶器を角材、石塊から火炎びん、爆発物にまでエスカレートさせながら、社会不安の増大と民主主義体制の破壊をねらって闘争の先頭に立った。そして、「70年闘争」後は、テロ、ゲリラへの傾斜を深めていった。
 右翼は、こうした左翼諸勢力の闘争に触発されて強い危機感の下に左翼対決活動を展開してきたが、最近では、政治に対する不信、客観情勢に対する危機感の増大などから、「政治の刷新」、「国家の革新」を主張するようになってきた。
 この間にあって、国際情勢は、東西冷戦から平和共存、更に多極化へと激動を続けたが、その中で、外国からの対日工作活動も活発に行われ、昭和29年、駐日ソ連代表部ラストボロフ2等書記官が多数の日本人を手先に使ってスパイ活動に従事していたことが明るみに出たのをはじめ、ソ連や北朝鮮を中心とするスパイ事件は、昭和48年までに検挙されたものだけでも約30件に及んでいる。
 警察は、このように、日本共産党の武装闘争、「安保闘争」での騒動的事態、極左暴力集団や右翼のテロ、ゲリラ等厳しい事態に次々と直面したが、その都度、多くの犠牲者を出しながらも、総力を挙げて事態の鎮静化に当たり、治安維持の責務を果たしてきた。
イ 「安保闘争」の高まり
 国際情勢は、スターリンの死亡、朝鮮動乱の終結という流れの中で、昭和28年ごろから緊張緩和の兆しをみせ始め、昭和31年のソ連共産党第20回大会を契機に平和共存路線が打ち出され、1957年と1960年の2回にわたる世界共産党会議でこの路線が確認された。しかし、こうした路線に対して、中国は、批判的態度を示し始め、昭和37年の「キューバ危機」をめぐってソ連が対米軍事譲歩を行ったことに対する中国の非難を契機として、中ソ対立が表面化するに至った。
 中ソ両国と我が国との関係では、昭和29年、中ソ共同宣言で対日関係正常化の希望が表明され、これに伴って、日中間で政経分離方式による経済交流が開始され、また、昭和31年には、日ソ国交回復が実現した。このように東西の平和共存体制が定着していく過程で、我が国は、高度経済成長政策を展開し、昭和30年代の半ばにそれが軌道に乗った。
 日本共産党は、占領下での「平和革命」への可能性を主張し、戦後の混乱期に乗じて勢力の拡大に努めたが、この主張が昭和25年コミンフォルムから痛烈な批判を受け、昭和26年に開催された第5回全国協議会において「51年綱領」と軍事方針を決定し、軍事組織の結成と集団暴力行動の展開に力を注いだ。
 しかし、その後日本共産党は、武装闘争戦術の行き詰まり、ソ連や中国の平和共存路線への転換という背景の下に、昭和30年、第6回全国協議会を開催してこれまでの戦術を自己批判し、微笑宣伝と公然活動重視の方向に戦術の転換を図った。そのため、日本共産党の軍事方針を忠実に守り、火炎びん闘争などの前面に立ってきた党員やその同調者の間には、スターリン批判と相まって党に対する不信とマルクス・レーニン主義への懐疑が生まれ、昭和32年には、我が国に初めてトロツキスト組織が誕生し、昭和33年には、全学連が日本共産党の指導下から離れていった。他方、総評の左傾化に伴い昭和29年、内部の批判グループが脱退して全労会議(後の同盟)を結成するという動きに出た。分裂後の総評は、昭和31年から春闘方式を採用するなど経済闘争にも力を入れるようになったが、依然として政治闘争重視の方向をとり、「砂川基地反対闘争」、「勤評反対闘争」などにおいて違法な実力闘争戦術を繰り広げた。
 昭和33年10月、警察官職務執行法改正法案が国会に提出され、これに対して、左翼諸勢力は、各種の共闘組織を結成して「警職法改正反対闘争」を盛り上げ、その結果、同法案は廃案となった。こうした左翼諸勢力のエネルギーは、昭和34年に入って「安保条約改定反対闘争」に向けられた。
 総評等の労働組合は、全国約2,000に及ぶ安保共闘組織の中心勢力として活動し、昭和35年5月、新安保条約が与党の単独審議で衆議院を通過したのを契機に、「政権打倒」を呼号して連日のように国会周辺に押しかけ、官公庁労組や公共企業体労組を中心に連続してストを実施するなど、騒然たる情勢を現出させた。そして、アイゼンハワー米大統領の訪日を中止させ、岸内閣を退陣に追い込むというような結果をもたらした。また、これらと並行して、折から石炭産業斜陽化の波を受けて発生した「三井三池争議」に対しては、総資本対総労働の闘いとして組織の全力を挙げた闘争を展開し、第1、第2両組合の集団乱闘事件、第1組合の警察官に対する集団暴行事件など多くの不法事案を引き起こした。しかし、その後は、労働戦線再編の動きが活発化する中で、組織防衛を余儀なくされ、経済闘争をより重視する現実的方向をとるようになった。
 日本共産党は、「安保闘争」に対して反米闘争としての性格付けに重点を置きながら全党を挙げて取り組み、国際共産主義勢力の支援の下にアメリカ政府への抗議署名、アメリカ大使館、領事館への抗議行動、アイゼンハワー訪日反対運動などを積極的に行った。また、安保共闘組織を通じて社会党・総評との共闘を進めるとともに、労働者の間に次第に影響力を強めていった。こうした大衆闘争の高揚と党勢増大を背景に、昭和36年の第8回党大会において現綱領を採択し、「反米」闘争と「反独占」闘争とをめざす基本路線を確立した。しかし、その後、中ソ対立が激化したことに伴い、日本共産党は、自主独立の立場を貫くといいながらも、実質的に中国共産党の路線を支持するようになり、部分核実験停止条約の評価や原水爆禁止運動の進め方をめぐって社会党・総評との対立を深めていった。
 全学連は、「安保闘争」に際して、反代々木系の主流派がトロツキスト組織の指導の下に、国会構内、首相官邸への乱入、羽田空港ロビーの占拠、警察車両の焼き打ち等の不法事案を敢行した。これに対して、反主流派は、日本共産党の指導の下に反米闘争の立場から行動し、羽田空港の「ハガチー事件」において主導的役割を果たした。しかし、闘争の終息に伴い、全学連は、その評価をめぐる論争と指導権争いから分裂状態に陥った。
 「安保闘争」は、我が国大衆運動史上かつてない大規模で長期持続的な闘争となり、昭和34年4月から翌年10月までの間、延べ464万人が参加した。警察は、都道府県間の応援体制をとり、延べ90万人の警察官を動員してその警備取締りに当たり、その過程で886人を検挙した。この間、警察官の負傷者は、2,236人を数えた。
 右翼は、左翼諸勢力のこうした一連の闘争に危機感を深め、組織的劣勢に伴う焦燥感と相まって、直接行動により局面を打開しようとする傾向を強め、昭和35年には、河上社会党顧問殺人未遂事件、岸首相傷害事件、浅沼社会党委員長刺殺事件等を敢行した。更に、これらの事件を契機として、「民族正当防衛論」を公然と主張するようになり、昭和36年には、嶋中事件や戦後初のクーデター計画である「三無事件」を引き起こした。「安保闘争」後も、政界の派閥抗争を憂慮するなど政府・与党に対する監視活動を強めて活発に動き、昭和38年には、河野建設大臣私邸放火事件、池田首相殺人未遂事件等の発生をみた。
ウ 「70年闘争」から「70年代闘争」へ
 昭和40年代に入って、国際情勢は、東西両陣営における米ソの指導力が弱まり、昭和46年から翌年にかけての中国の国連加盟、ニクソン米大統領の訪中によって、多極化の方向に動き始めた。ただし、アジア情勢は、ベトナム戦争、インドネシア共産党の「9.30蜂起」の失敗、中国の文化大革命、中ソの国境紛争、印パ戦争と波乱含みに推移した。我が国では、沖縄復帰、日中国交正常化という懸案の外交課題の解決をみたものの、高度経済成長政策のひずみが顕在化し、物価、公害、土地等の問題が大きな社会問題となった。
 左翼諸勢力は、「安保闘争」の終息後、昭和45年の「政治決戦」に向け、昭和36年以降、「政防法反対闘争」、「日韓条約反対闘争」、「原潜寄港阻止闘争」等を経て、「70年闘争」に精力的に取り組んだ。しかし、昭和45年6月、安保条約が自動継続となり、「70年闘争」は終息したが、左翼諸勢力は、引き続き「70年代闘争」に移行し、その第1段階として昭和46年の「沖縄返還阻止闘争」に取り組んだ。
 なかでも、反代々木系学生、反戦青年労働者を中心とする極左暴力集団は、昭和42年10月の佐藤首相の南ベトナム訪問を阻止しようとして引き起こした「羽田事件」以降、自らの行動で社会に衝撃を与え、それによって労働者を覚せいさせて革命に決起させるという「先駆性理論」に基づき、「70年闘争」の先頭に立った。この間、昭和43年の「新宿騒擾事件」に代表される街頭における武装闘争や火炎びん投てきなどのゲリラ的事件が繰り返されたほか、昭和43年から昭和44年にかけては、「東大安田講堂事件」にみられるような施設の封鎖占拠を伴う学園紛争が全国各地の大学で発生した。「70年闘争」に引き続く「沖縄闘争」の過程で、極左暴力集団は、次第に先鋭化してテロ、ゲリラ的行動を先行させるようになった。そして、明治公園爆弾事件をはじめとする一連の爆弾使用事件、三里塚・渋谷における警察官殺害事件、松本楼放火事件、連合赤軍事件、テルアビブ事件、日航機乗っ取り爆破事件などの爆発物・銃器等を使用した凶悪事件を敢行するようになり、国民の厳しい批判を受けて孤立化を深めていった。
 日本共産党も、早くから「70年闘争」を重視し、昭和44年1月の第8回中央委員会総会では、「全国の職場、地域、農村、学園から闘争を盛り上げ、集会、デモ、署名、国会請願等の活動を強化し、更に、ゼネストを可能とする壮大な闘争態勢を打ち立てなければならない」との方針を定めた。しかし、その後の情勢の変化から、「70年闘争」が一段落した直後に開かれた昭和45年の第11回党大会では、情勢を再検討し、「70年代の前半に諸条件を整え、後半に“民主連合政府”を樹立して社会主義への道を切り開く」とする長期路線を決定した。そして、昭和47年末の総選挙で第3党に進出した実績を踏まえ、昭和48年の第12回党大会においては、「民主連合政府綱領」を提案し、革命へのステップとしての「民主連合政府」樹立構想を「実践スローガン」とするとの姿勢をとるに至った。
 総評等の労働組合は、「日韓闘争」、「ベトナム反戦闘争」、「70年闘争」等一連の闘争に取り組む中で次第に政治闘争重視の方向を強めていった。そして、昭和45年の総評第40回大会では、「公害、物価、税金、住宅等の国民的要求をゼネストを背景に政府との直接交渉に持ち込んで闘い取ることを可能にする体制を作り上げ、70年代に安保条約の廃棄を通告する政権を樹立する」という方針が打ち出された。そのため、最近では、春闘においても、極めて政治色の濃い闘争が行われるようになった。
 次に、「70年闘争」の高揚に伴い、右翼の活動も活発化し、左翼諸勢力の集会、デモ等に対するいやがらせ的な行動を繰り返した。その後、右翼は、日中国交正常化、日本共産党の議席増、自衛隊違憲判決等の問題を深刻に受けとめ、70年代を「共産革命か昭和維新かの決戦期である」と位置づけ、左翼対決活動を強化する一方で、日中交流阻止、北方領土返還、「靖国神社法」制定等に向けた抗議・要請活動にも積極的な取り組みをみせた。
 このような「70年闘争」から「70年代闘争」に至る状況下において、警察は、国民の理解と協力を得て違法行為に対する効果的な取締りの実施に努めた。すなわち、昭和42年10月から昭和48年末までに延べ1,660万人の警察官を動員して警備取締りに当たった結果、その過程で約3万6,000人を検挙した。この間、警察官8人が殉職し、1万9,241人が負傷した。他方、法的規制も強化され、昭和44年に学園の正常化に向けて「大学の運営に関する臨時措置法」が制定され、昭和47年には、火炎びんや爆発物の使用を規制するために「火炎びんの使用等の処罰に関する法律」の制定並びに「毒物及び劇物取締法」の一部改正が行われた。
 現在、警察は、「70年代闘争」が引き続き進められ、法無視の風潮が広がる中で、組織体制を整えるとともに、部隊の訓練と装備資器材の充実に努め、左右両勢力の違法行為に対して厳正な取締りを推進している。

4 むすび

 20年前、警察は民主的、能率的警察体制を整えて、戦後第2のスタートを切った。それはようやくにして終戦後の混乱期を抜け出した我が国社会の秩序の安定をめざしたものであった。以後の20年間、警察の歩んで来た道は、決して平坦なものではなかった。
 警察が当初に直面した課題は、国民の自由を保障しつつ、戦後の混迷が生み出した諸社会悪に対して治安の万全を期することであり、それは、捜査における人権保障手続の厳格化、売春、麻薬・覚せい剤の封圧、大小暴力の排除措置等によって逐次実現をみた。
 その後、我が国の社会は、豊かさに向かって目覚ましい成長を遂げたが、このような社会の発展は、その反面多くの新たな矛盾をも発生させるに至った。エネルギー革命に伴う大規模な労使紛争、モータリゼーションのもたらす交通事故の増大、犯罪の広域化、スピード化等は、その最初の現われであった。
 また、戦後の自由かつ開放的な雰囲気の中での社会のめまぐるしい変化は、社会の各層における様々な政治的意見の対立や利害の相克を露骨に強めて、幾度かにわたり社会的緊張をもたらすこととなり、その過程で全国的な政治闘争や過激な破壊活動を繰り返し現出させた。
 これに対し、警察は、国民の理解と協力を得て、組織機構の整備、教養の徹底、技術装備の充実、人員の増強等警察体制の強化を図るとともに、犯罪の予防、捜査、集団的不法行為の取締り、交通事故の防止等各般の警察活動の効率化に努め、適切に対処してきた。その結果、治安情勢はさして悪化することもなく、一貫して安定した状態を保つことができ、我が国社会の現在に至るまでの進展に大きく貢献してきたものといえよう。
 しかし、20年を経た今日、我が国社会は、ますます多くの矛盾に当面しており、従来から内包し続け、徐々に顕在化しつつあった公害、物価、福祉、都市災害、エネルギー問題等幾多の問題が一挙に噴出し始めており、今や20年前当時以上の大きな転換期を迎えた感がある。
 これからの警察が対処しなければならない最大の課題は、こうした社会の曲がり角にあって、社会がはらむ諸種の不安定要因が、犯罪、事故、騒動等の現実の治安事象を多発させるような事態に立ち至る前に、極力これに歯止めをかけ、治安面から社会不安の拡大抑止に努めていくことである。そのためには、まず、社会の変動を先行して予測し、そのときどきの治安上の問題点を迅速に掌握し得る各種情報機能の強化及び事件事故の未然防止活動の徹底を図るとともに、広義治安の観点から関係行政機関に対し、社会の公正確保、民心の安定のための各種施策の推進について、積極的に働きかけていくことが必要である。
 また、国民の日常の安全確保と不安感の解消を目的とした国民生活の場に密着する警察活動の充実が図られなければならず、特に、国民とのコミュニケーションを更に深めることに力が注がれなければならない。わけても警察に対する国民の要望を的確に探り当て、国民が求め、期待する活動を積極的に推進するとともに、警察活動の実態を正確に伝え、警察に対する国民の一層の理解と協力を求めていくことが必要とされよう。
 民主主義社会においては、過去においても、また、将来にわたっても、国民の自由が保障され、法と秩序が常に公正かつ厳正に保たれることが要請される。警察は、今後とも、集団暴力、公害等の諸社会悪がはびこることを許さず、国民の日常生活をあらゆる犯罪、事故から守ることを基本的使命として最善の努力を続けていかなければならない。


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