第7章 公安の維持

1 激動と変化のなかに

(1) 「70年代闘争」に向けた左翼諸勢力の動向
ア 「70年決戦」から「70年代闘争」へ
 この数年間、警察は、かつてない厳しい事態に次々と遭遇した。それは、昭和42年10月8日、極左暴力集団が首相の南ベトナム訪問を阻止しようとして羽田事件を引き起こして以来、警察事象の様相が一変したからである。
 左翼諸勢力は、昭和45年の日米安保条約に関する態度選択の時期をとらえて安保問題を政治的対決の中心課題にすえ、いわゆる「70年決戦」を企図し、政権打倒を狙った闘争を繰り広げたが、昭和45年6月23日、日米安保条約が自動継続となり、その企図を達成するに至らなかった。そこで、左翼諸勢力は、決戦の時期を70年代に繰り延べる方針に転じ、引き続き「70年代闘争」に移行した。そして、昭和46年1年間、左翼諸勢力は、「70年代闘争」の第1段階として沖縄返還協定の調印・批准の阻止を掲げ、激しい闘争を組んだ。
 この中で、特に、極左暴力集団(注)は、学生集団を中心に、自らの行動で社会に衝撃を与え、そのことによって労働者を覚醒させて革命に決起させるという「先駆性理論」に基づき、闘争の先頭に立った。極左暴力集団は、羽田事件を契機として暴走をはじめ、凶器を角材、石塊などから火災びん、爆発物にまでエスカレートさせながら、社会不安の増大、民主主義体制の破壊を狙った過激で悪質な破壊活動を繰り返した。その主な事件としては、新宿騒擾事件(昭和43年)、東大安田講堂事件(昭和44年)、赤軍派によるハイジャック事件(昭和45年)、明治公園をはじめとする一連の爆弾使用事件、自衛官・警察官殺害事件、松本楼放火事件等のテロ・ゲリラ事件(昭和46年)などがある。
 このような事態に対処して、警察は、公安維持の責務を果たすため極左暴力集団の破壊活動の取締りに全力を挙げ、羽田事件以降昭和46年末までに殉職者6人、負傷者1万8,784人という大きな犠牲を払いながら、極左暴力集団約3万6,500人を検挙し、その不法な企図を封じ、一応事態を鎮静化させるに至った。
 極左暴力集団は、これら一連の闘争で組織の弱体化を招いたのであるが、引き続き体制整備に努めながら、武装闘争の機をうかがっている。また、共産党は、マルクス・レーニン主義に基づく革命の方針を堅持し、革命党としての体質維持に努めながら70年代後半に「民主連合政府」を樹立することを目標にそのための条件づくりに力を注いでいる。一方、右翼も、内外情勢に刺激されて国の将来に対する危機感を高め、70年代を革命か維新かの決戦期としてとらえ、直接行動を含む諸活動の活発化を狙っている。
(注) 「極左暴力集団」とは、共産党、社会党等のいわゆる「既成左翼」に対抗して、主としてトロッキズム、アナキズム、アナルコ・サンジカリズム、毛沢東思想、ローザ・ルクセンブルグ思想等の影響を受け、極左的な主義主張の下に銃器、爆発物、火炎びん、竹やり、角材、石塊などを使用して過激な闘争を行なっている集団であり、現在5流22派の多くのセクトに分かれ、あるいは、ノンセクトの小人数グループである黒ヘル集団となっている。
イ 「70年代闘争」に向けた基本的姿勢
 極左暴力集団は、「72年決戦」の構えをとって沖縄返還問題を闘争の柱にしながら、テロ・ゲリラを含めた破壊活動に狂奔したが、国民の厳しい批判と厳正な警察の取締りの前にその企図を封じられ、ますますテロ・ゲリラ化への傾斜を強めていった。昭和47年に入っても、連合赤軍事件やテルアビブ事件という極めて凶悪な犯罪を敢行し、内外に大きな衝撃を与えた。この両事件における人道を無視した大量殺人や人の殺傷を目的とした銃器の使用にみられる凶暴さは、改めて彼らの信奉する革命思想の誤りを国民の前に明らかにしたものであった。しかし、「70年代闘争」高揚への企図を依然として持ち続けている極左暴力集団の中には、あさま山荘における銃撃戦やアラブゲリラとの連帯活動を高く評価し、讃美する者さえ少なくなく、テロ・ゲ リラ化の傾向が、根深いものであることを示している。
 極左暴力集団による昭和47年中の街頭行動は、全般的に動員力が低下し、活動も停滞した。しかし、このような停滞傾向の中にあっても、極左暴力集団の総結集勢力は、約4万人にのぼり、特に、学生や労働者の極左活動家及びその指導に当たる上部団体構成員は減少していない。これらは、5流22派の多くのセクトに分かれ、あるいは黒ヘル集団となり、依然「70年代闘争」の高揚を企図して学園の再拠点化を図り、労働者への働きかけを強めるなど、体制の整備強化に努めている。
 共産党は、昭和45年7月の第11回党大会で、綱領と第7回大会以来の各大会決定を確認するという形で従来の革命方針を堅持することを明らかにするとともに、70年代の前半に諸条件を整え、後半に「民主連合政府」を樹立して社会主義への道を切り開いていくとする長期路線を決定した。この路線に沿って、あらゆる組織、あらゆる問題を利用して党の政治的影響力を強め、「民主連合政府」樹立のための条件づくりを進めている。
 共産党は、新しい党のイメージを宣伝浸透させて、国民が共産党に対して持っている警戒心、不安感を取り去ることにかなりの効果をあげ、昭和47年7月の党創立50周年記念に際しての発表によると、党員は30万人を越え、「赤旗」読者は250万人余に達する党史上最高の党勢を作り上げたとしている。昭和47年12月の総選挙では、増大した党勢と2,600人近い地方議員の力を基盤に、日常活動で積み上げた成果を機関紙誌等による宣伝力で得票増に結びつけ、38議席(前回14議席)、550万票(前回320万票)、得票率にして10.5%(前回6.8%)を獲得し、一挙に第3党に進出した。
 更に、共産党は、労働組合員の政党支持の自由を名分に、「特定政党支持の義務づけ」の枠をはずすことを主張しつつ、労働者・労組への勢力の浸透に努めるとともに、「一工場一労組、一産業一産業別組織、一国一中央組織」の原則に基づく労働戦線の統一を目標にして、総評や主要労組への党の影響力の拡大を狙う諸活動を推進した。また、国民の中に不満感や疎外感が広がっているといわれる状況下において、国民の各種の要求を取り上げての日常 活動を積み重ねながら、日本民主青年同盟、新日本婦人の会、全国商工団体連合会、全日本民主医療機関連合会等各種の大衆団体を組織し、拡大して党の影響力を強めた。
 他方、総評は、昭和45年7月の第40回大会において、公害、物価、税金、住宅等の国民的生活課題の実現を、ゼネストをてこに政府との直接交渉に持ち込んで闘い取るという「政策転換要求闘争」を可能にする体制を作り上げ、70年代に日米安保条約の廃棄を通告する政権を樹立することを狙った「70年代闘争」の方針を決定し、その準備を進めている。とりわけ、昭和47年8月の第44回大会では、盛り上った春闘(スト参加人員は、春闘史上最高の200万人-労働省調べ)を背景に、要求は力でかち取るとの立場から「戦闘的労働運動の構築」という方針を大きく打ち出し、体制づくりを一段と押し進めようとした。
 このような総評の方針の下に、さん下の公労協等は、当面、公務員のスト権確立、年金増額、労働時間短縮等の要求を掲げて違法ストや「順法」という名のサボタージュなどを行なっており、これに伴って、暴行、傷害、威力業務妨害、建造物侵入、器物損壊等治安上憂慮すべきさまざまの不法事案が発生した。
ウ 昭和47年の闘争概況
 極左暴力集団をはじめ左翼諸勢力は、昭和47年前半は「5.15沖縄闘争」を、後半は「10.21国際反戦デー闘争」を軸に、相模原の米軍車両搬送阻止闘争、北熊本の自衛隊沖縄配備反対闘争などの各種の闘争を組織した。左翼諸勢力の大衆闘争へ向けての動員数は、延べ389万人(ほかに沖縄で19万人)に達し、その内訳をみると、極左系が31万人、社会党・総評系、共産党系が358万人であった。また、左翼諸勢力の1日の最高動員数は、「10.21国際反戦デー闘争」の21万8,000人(うち、極左系1万9,000人)であり、極左暴力集団の1日の最高動員数は、「5.15沖縄闘争」の2万3,000人(うち、東京1万1,000人)であった。
 相模総合補給廠をめぐる米軍車両搬送阻止闘争は、左翼諸勢力が米軍に国 内法の遵守を要求して実力で米軍戦車の搬送を阻止するという新しい戦術であった。左翼諸勢力は、8月4日から11月10日までの間、延べ7万5,000人(うち、極左系3万7,000人)を動員して補給廠前等の路上に坐り込むなど違法な実力阻止行動を繰り返し、330人が検挙された。なお、事案の発展に伴い、多数の群衆が現場に集まり、図7-1にみられるとおり、最高時6,900人に達し、これらが、現場を混乱させる一因となった。

図7-1 相模原米軍車両搬送阻止闘争における群衆のい集状況(昭和47年8月4日~9月19日)

 北熊本を中心とする自衛隊沖縄配備反対闘争では、左翼諸勢力は、1年間を通じて72回(うち、極左系52回)の行動に取り組み、延べ4万1,000人(うち、極左系7,000人)を動員した。特に、極左暴力集団は、爆発物の使用、基地突入による火災びん投てき、警備車両への放火など悪質な行動を展開した。
 他方、労働紛争議をめぐる不法事案についてみると、第1に、公労協は、春闘においてスト権奪還を闘争の柱として掲げ、「4.27全交連スト」で国労、 動労が史上初の20時間ストを実施したのをはじめ、年間を通じて違法かつ大規模な争議行為を反復実施し、これに伴って悪質な集団暴力事案や乗客とのトラブルが発生した。第2に、国労・動労や全逓は、国鉄・郵政当局が合理化の一環として採用した生産性向上運動に対する反対闘争を大々的に展開したが、その過程で、労使相互間あるいは「第1、第2組合」相互間の組織対立をめぐって不法事案が多発した。第3に、反戦青年委員会(注1)をはじめ極左暴力集団は、労働紛争議に際して通信ケーブル切断、火炎びん投てき等により国鉄列車の運行を妨害するなど過激な行動を展開した。このように、労働紛争議をめぐって発生した不法事案は、過激・悪質の様相を呈し、これに伴う検挙者は、1,180人に達した。
 この間、極左暴力集団は、連合赤軍事件やテルアビブ事件のほか、全国各地で13件に及ぶ爆弾事件を引き起こした。また、学費値上げ問題などをめぐり学園紛争が活発化する中で、主導権争いの激化などから陰惨な内ゲバが多発し、警察が認知したものだけでも183件を数えた。(テロ・ゲリラ及び内ゲバについては、後述する。)
 ところで、昭和46年11月14日の「渋谷暴動」の際警察官が火炎びんにより焼殺されるという事件を契機に、火炎びんや爆発物の使用を規制する立法の必要性が論議されるようになり、まず、議員立法により、「火炎びんの使用等の処罰に関する法律」が成立し、昭和47年5月14日から施行された。次いで、爆発物について、その材料となる塩素酸カリ、ピクリン酸等の劇毒物の携帯、運搬等が処罰の対象とされていなかったところから、正当な理由のない携帯運搬を禁止することを目的として「毒物及び劇物取締法」の一部改正が行なわれ、8月1日から施行された。
 警察は、このような世論の支持を背景に違法行為の取締りに当たり、凶器準備集合、傷害、建造物侵入、公務執行妨害、爆発物取締罰則違反、公安条例違反などにより4,335人を検挙し、表7-1のとおり、多量の凶器を押収した。この間、警察官2人が殉職し、824人が負傷したほか、警察官以外の者3人が死亡し、58人が負傷した(注2)。

表7-1 凶器の使用・押収状況(昭和47年)

 ここで、「火炎びんの使用等の処罰に関する法律」の施行日の前後における火炎びんの使用状況を比較すると、施行前(1月1日から5月13日まで)で372本、施行後(5月14日から12月31日まで)で34本というように、同法施行後の使用が著しく減少しており、同法の効果を如実に物語っている。
(注1) 「反戦青年委員会」は、日韓条約の批准を目前に控えた昭和40年8月30日、社会党、総評、社青同の呼びかけにより「ベトナム戦争反対、日韓条約批准阻止のための青年委員会」として発足したが、その後、その大半が社会党、総評から離れ、極左暴力集団各セクトごとの系列下組織となっている。
(注2) 1 「警察官の殉職」2人は、あさま山荘事件において連合赤軍の銃弾を 浴びたことによるものである。
2 「警察官以外の死亡」3人は、1人は、あさま山荘事件において人質の身代りを志願し、連合赤軍によって射殺された一般人であり、他の2人は、いずれも極左暴力集団の内ゲバに起因するもので、革マル派と反帝学評との間の大阪城公園事件(4月28日)及び早大生リンチ殺人事件(11月8日)の被害者である。
(2) 革命か維新かを対置した右翼の活動
 右翼は、「昭和維新」、つまり、日本の歴史と伝統に基づく政治体制の実現を終局の目標として運動を推進している。このため、右翼の運動は、「維新」の障害とみる左翼諸勢力との対決活動、時の政府に対して「維新政策」の実行を求める活動、国民一般の民族意識の高揚を目指す啓蒙宣伝活動等の諸活動並びに「維新」遂行力の蓄積をはかるための組織の拡大、強化を主眼として進められている。その過程において、暴行、傷害、公務執行妨害、建造物侵入、銃砲刀剣類所持等取締法違反などのさまざまな不法事案が発生している。
 とりわけ、左翼諸勢力が「70年代闘争」を標ぼうして具体的な動きをみせ始め、昭和46年の統一地方選挙と参議院選挙において共産党をはじめとする革新政党が進出するに及び、右翼は、70年代を「革命か維新かの決戦期である」として位置づけ、左翼対決姿勢を強めた。その一方で、昭和48年の伊勢神宮第60回式年遷官に重大な意義を求め、遷官募金運動等の活動を精力的に展開するとともに、この運動の盛り上がりを契機にして多年の念願である靖国神社法案の成立をはかるべく政府に対する要請活動を活発化している。
 こうした右翼運動の背景の中で、昭和47年において右翼が力を入れたのは、まず第1に、日中国交正常化に対する反対活動である。同年は、年初から政・財界代表団の訪中、各種中国代表団の来日が相次ぎ、そうした日中国交正常化気運の中で田中内閣が誕生し、9月には日中国交正常化が実現した。右翼は、これに強く反発し、政府・自民党に対する抗議行動、政府要人の官・私邸付近への徘徊、政府を相手取った訴訟行動などの活動を展開した。この 間、藤山自民党代議士の訪中に際して羽田空港に潜入し、同代議士に暴行を加えようとした事案や田中首相の訪中前夜「天誅を下す」との血書と出刃包丁を所持して潜伏していた事案などが発生している。こうした反対活動の反面、日中国交正常化が台湾に対する日本の信義とアジアにおける「反共のトリデ」の喪失につながるとして、右翼は、台湾への支援活動にも力を注ぎ、140団体465人が訪台している。
 第2に、左翼対決活動を挙げなければならない。右翼は、左翼諸勢力の北熊本を中心とする自衛隊沖縄配備反対闘争に対し、100団体470人を動員していやがらせ行動に出たほか、春闘共闘委員会のデモ隊列に宣伝カーを突入させ、デモ隊員1人をひいてひん死の重傷を負わせたり、「原水禁8・6大会」で火炎びんを使用して極左系学生集団とわたり合ったりするなど各地で一触即発の事態を現出させた。また、「日本を危機に陥れた原因は日教組の偏向教育にある」として、日教組の教研集会(山梨)に27団体330人、日教組定期大会(秋田)に40団体280人をそれぞれ現地に動員し、宣伝カーで会場突入をはかったり、日本刀を持って暴れるなどの悪質な妨害行動に出た。

 第3に、北方領土返還に向けた抗議・要請活動を挙げることができる。沖縄の返還が実現したことに伴い、右翼は、北方領土問題に対する関心を高め、政府、自民党など関係向きへの抗議・要請行動は、70件400人に達した。これに付随して、来日したグロムイコソ連外相の乗用車に爆竹を投げつけたり、あるいは、深夜ソ連大使館に侵入して窓ガラス10数枚を破壊するなど悪質な事件を引き起こしている。
 このような各種の実践活動に合わせて、右翼は、組織固めにも力を注ぎ、 昭和47年中に71団体約4,300人の組織化を進め、右翼的主張を唱える者の現勢は、500団体約12万人に達した。
 これら右翼の一連の活動に対しては、警察は、説得、警告、制止、検挙等の措置を積極的に講じ、事犯の未然防止に努めた。この結果、昭和47年中に検挙した右翼事件は、177件358人を数えた。
(3) 警衛警護
 警察は、天皇、皇族をはじめ内外要人の身辺の安全を確保するため、天皇及び皇族に対しては警衛を、内外要人に対しては警護を実施している。
 近年、警衛警護をめぐる情勢は、極めて厳しいものがある。昭和46年には、極左暴力集団の一部過激分子が皇居侵入事件を敢行しており、昭和47年に入っても、急速に進んだ日中国交正常化に対する反発から、政府要人に対する右翼の直接行動が懸念され、また、あさま山荘事件、テルアビブ事件の発生等不穏な情勢の中で、内外要人に対する極左暴力集団の銃器、爆発物の使用も危惧された。このような状況下において、警察は、警衛に延べ30万8,000人、警護に延べ33万7,000人の警察官を動員し、その万全を期した。昭和47年において、警衛、警護を要した主な事例は、それぞれ表7-2、7-3のとおりである。

表7-2 主要警衛実施事例(昭和47年)

表7-3 主要警護実施事例(昭和47年)

2 荒れ狂ったテロ・ゲリラ

(1) 暴走する極左暴力集団を追って
ア テロ・ゲリラによる暴走
 「70年闘争」挫折の過程から芽ばえてきた極左暴力集団のテロ・ゲリラ化の傾向は、日共革命左派(京浜安保共闘)による警視庁志村警察署上赤塚派出所襲撃事件(昭和45年12月18日)、真岡猟銃強奪事件(昭和46年2月17日)、赤軍派による金融機関連続強盗事件(昭和46年2月から7月まで)を経てますます過激・悪質なものとなっていった。
 昭和46年後半になると、沖縄返還協定の調印日のいわゆる「6.17沖縄闘争」において、赤軍派が警察部隊に爆発物を投てきして一瞬のうちに37人の警察官に重軽傷を負わせるという明治公園爆弾事件を敢行したのを手始めに、極左暴力集団は、警察署、派出所等の警察施設に対して爆発物によるゲリラ攻撃を開始し、果ては、警視庁警務部長宅爆弾殺人事件(12月18日)、新宿クリスマスツリー爆弾事件(12月24日)等の凶悪犯罪を敢行するに至った。更に、「赤衛軍」と称する黒ヘル集団が朝霞駐とん地自衛官殺害事件(8月21日)を敢行したのをはじめ、「9.16三里塚闘争」(成田空港設置反対闘争)において手薄な警察部隊を奇襲して警察官3人を殺害、「11.14沖縄闘争」でも、「渋谷暴動」を呼号する中核派などの過激グループが警察部 隊に襲いかかり、転倒した警察官に火炎びんを集中的に浴びせて1人を殺害するなど、残虐極まる凶悪犯罪を引き起こした。また、11月10日、沖縄現地でも、極左暴力集団は、デモ警備中の警察官1人を殺害している。そして、沖縄返還協定が衆議院特別委員会で採決された11月19日には、日比谷公園内のレストラン等に放火して全焼させるという暴挙に出た。
イ 徹底した極左暴力集団の追及作戦の展開
 こうした極左暴力集団のテロ・ゲリラによる暴走は、平穏な市民生活に重大な脅威を与えるものであるだけに、警察としては、全国警察の総力を挙げて極左暴力集団に対する徹底した視察取締りを実施した。特に、ゲリラ闘争を主張し、巧妙に潜伏して凶悪な犯行を重ねる極左暴力集団のアジトや指名手配中の警備事件被疑者を早期に発見し、逮捕することが急務であるため、警察は、昭和46年暮れ、広範なアパート・ローラー作戦(注)を本格的に開始するとともに、同年11月には、金融機関強盗の赤軍派A、坂東国男ら5人、猟銃強奪の日共革命左派メンバーら5人の計10人を重要指名手配被疑者として全国に特別手配した。更に、昭和47年2月には、指名手配被疑者捜査強化月間において、一般刑事事件の凶悪被疑者5人とともに、警備事件被疑者5人を重ねて全国に公開手配し、国民の協力のもと徹底した極左暴力集団の追及作戦を展開した。
 その結果、爆弾製造アジトをはじめ多くのアジトを発見し、昭和47年1月には、神奈川県下丹沢山中に連合赤軍(日共革命左派と赤軍派とが合体してできた組織)の山岳アジトを発見するなど次第に彼らを追いつめていき、こうした警察の総力を挙げての追撃は、やがて連合赤軍事件の解決という形で実を結んだ。更に、昭和47年中において、朝霞、成田、渋谷の自衛官・警察官殺害事件を解決したほか、爆弾使用事件では、都内の主要警察施設爆破事件、明治公園爆弾事件、新宿クリスマスツリー爆弾事件、昭和47年発生の自衛隊西部方面総監部前爆発事件、大阪府警察浪速署水崎町派出所爆破事件等38件を解決し、関係被疑者86人(延べ110人)を検挙した。
(注) 「アパート・ローラー作戦」とは、アパート、貸間、下宿等極左活動家の潜伏が予想される箇所をローラーをかけるように一軒一軒訪問し、住民の協力を得ながら、彼らの潜伏場所を発見し、指名手配被疑者を検挙するとともに、その不穏動向を早期には握するという作戦である。
(2) 連合赤軍車件
ア 事件の概要
(ア) あさま山荘事件
 昭和47年2月7日、群馬県警察は、一般人からの不審な放置車両の届出を端緒に榛名山中で雪に埋もれたアジトを発見し、捜査を進めた。警察の急追を受けることとなった連合赤軍の一味は、2月19日、軽井沢のあさま山荘に逃げ込み、たまたま一人で留守番をしていた管理人夫人のBさん(当時31歳)を洗濯用のロープを使ってうしろ手に縛り、更に両足首、両足膝を縛って人質とし、バリケードを築き、壁に銃眼をあげるなどしてたてこもった。そして、彼らは、銃器、爆発物を使用して抵抗し、警備に当たる警察官や取材中の報道関係者はもとより、涙ながらに訴える母親に対しても狂ったように発砲した。
 これに対し、警察は、長野県警察、警視庁などの警察官延べ1万4,000人を動員し、酷寒の山岳地帯という厳しい条件のもと、10日間にわたる慎重かつ果敢な警備を実施して人質を無事救出するとともに、坂口弘、吉野雅邦、坂東国男ら犯人5人を全員検挙した。しかしながら、その陰では、警察官殉職者2人、重軽傷者26人、一般人死亡者1人、負傷者1人という犠牲が払われた。人命尊重を第一義とし、困難な条件に耐えつつ終始慎重な警備を続ける警察に対し、ライフル銃などで狙い撃ちする という凶悪なこの事件は、爆発物、銃器対策のための装備充実の必要性を痛感させた。

(イ) 大量のリンチ殺人事件
 連合赤軍は、武闘訓練、爆発物製造、警察施設襲撃準備などのため、山梨、神奈川、静岡、群馬等の山岳アジトを転々としていた。その間において、昭和46年末から昭和47年初めにかけて、連合赤軍は、群馬県下の山中において、反抗者、逃亡のおそれのある者、落伍者と判断された者を“処刑”又は“総括”の名の下に、アイスピックで突き刺す、ロープで首を絞める、あるいは酷寒の屋外に緊縛のうえ立たせて凍死させるという凄惨なリンチを加えて総勢29人のうち12人(日共革命左派7人、赤軍派5人)を殺害し、更に証拠を隠滅するため全裸にして山中に埋没遺棄していた。なお、このほかに、日共革命左派は、連合赤軍に合流する直前の昭和46年夏、逃亡者2人をリンチにより殺害し、千葉県下印旛沼のほとりに埋めていた。
(ウ) 捜査結果
 これらの事件を通じ、警察は、山岳アジトに結集した連合赤軍全員17人(日共革命左派12人、赤軍派5人)を逮捕するとともに、彼らを蔵匿した者など27人を検挙し、また、真岡猟銃強盗事件、明治公園爆弾事件など数々の凶悪事件を解決した。
 なお、連合赤軍事件の捜査を通じて押収した物件は、表7-4のとおり、397件1万568点という多数にのぼり、当時連合赤軍の手中にあると推定されていた銃器及び弾薬は、すべて押収された。

表7-4 連合赤軍事件における押収物品

イ 事件の背景
 この事件の背景として は、戦後における教育の問題、家庭のしつけの問題、更には社会思潮など、いろいろの要素が考えられようが、基本的には、まず、連合赤軍の信奉する革命理論を挙げなければならない。
 もともと、連合赤軍は、毛沢東主義を基調とし、「民族解放人民民主主義革命」を主張する日共革命左派と、トロッキズムを基調に「世界同時プロレタリア革命」を主張する赤軍派とが昭和46年7月連合してつくった組織である。この毛沢東思想も、トロッキズムも、レーニン主義やスターリン主義とともに、マルクス主義を源流とし、マルクス主義の思想的系譜を形成している革命理論である。これらの革命理論の柱となっている[1]「暴力革命論」、[2]「前衛」党指導の革命論、[3]「前衛」党における“鉄の規律論”、[4]革命における“粛清是認論”などが、この事件の発生に強く影響している。
 ただ、この連合赤軍事件の場合には、こういう思想的背景のほかに、直接的要因として凶悪犯罪の繰り返しによる精神の荒廃、政治路線の異なった日共革命左派と赤軍派との軍事面だけの無理な合体による建軍活動の失敗、落伍者の続出に対する幹部の不安と焦燥感などの諸要素が考えられよう。
 連合赤軍事件の関係者31人について、その家庭環境をみると、親の職業は、一流会社部長、中学校長、商店主、店員、工員、人夫などまちまちで、幅広い分野にわたっており、生活程度も、中程度の者13人、それ以上の者7人、それ以下の者9人と各層にわたって分布しているが、比較的恵まれた生活環境に育った者も少なくない。家庭のしつけについては、放任・甘やかしの傾向が強いが、その中でも、「自分の子は頭が良く、間違いはないので、信じて好きなようにさせた」(5人)、「生活に追われて放任した」(3人)というのが比較的多い。
 そのほか、父親の異性問題などによる実父母の不和、離婚、別居をはじめ、病弱者がいていつも家庭の中が暗い、父親がワンマンで極端なりんしょく家である等家庭内に問題のある者が、11人とかなりの高率を占めており、それが、後に事件関係者を過激運動に走らせた動機の一つとなっている。しかし、それも、少なくとも高校時代までは勉学にいそしんだ等の理由で表面に 出ず、過激運動にかかわっていない者が多い。
 次に、学歴は、中学卒1人、高校卒・中退8人、短大卒2人、大学卒・中退20人と大学生が多く、特に、大学生の中には、長期にわたり休学届を出して闘争を続けていた者もおり、大学管理のあり方などの問題を含んでいる。 短大・大学入学者22人のうち、昭和41年から昭和44年にかけての学生運動の高揚期に入学している者が16人を占めている。また、同一出身校の者が比較的多く(5人-1校、3人-2校、2人-5校)、友人の影響を見逃すことはできない。
 全般的にみて、高校、大学卒業後、親元を離れて自分の判断で行動するようになったとき、友人、先輩などから勧誘を受け、本人の性格や生活環境とあいまって比較的容易に過激思想を受け入れていったというケースが多い。
(3) テルアビブ事件
ア 事件の概要と警察措置
 昭和47年5月30日午後10時30分頃(現地時間)、パリ発ローマ経由のエール・フランス機がイスラエルのテルアビブにあるロッド国際空港に到着した際、同機から降りてきた日本人3人(のち、元京大生C、京大生D、鹿児島大生岡本公三と判明)が、空港ロビーで自動小銃3丁を乱射するとともに手りゅう弾数発を投てきし、一瞬にして付近に居合わせた一般人24人を死亡させ、76人に重軽傷を負わせるという事件が発生した。犯人3人のうち、2人(C、D)は、所持していた手りゅう弾で爆死したが、他の1人(岡本)は、滑走路に出て飛行機 に手りゅう弾を2発投げたところをイスラエル治安当局によって逮捕された。
 日本警察としても、直ちに事案の真相解明のため、本件を日本人による国外犯として、イスラエル警察との緊密な連絡のもとに捜査を開始し、関係者の取調べ、関係箇所(11都府県38箇所)の捜索等徹底した捜査活動を展開した結果、ほぼ事案の全ぼうを解明した。関連事件の被疑者として、元立命館大生E、京大生Fら3人を検挙するとともに、9月8日、この事件の謀議に参画していた元予備校生Gを殺人罪で指名手配し、外務省やICPOなどを通じ諸外国と連絡をとりながら行方を追及している。更に、類似事案の再発を防止するため、外務省、法務省、文部省等関係各機関との密接な連絡のもとに、国内外における過激グループの国際連帯動向のは握、空港等の警戒警備の強化に努めている。
 なお、逮捕された岡本公三は、現地イスラエル当局の取調べを受け、軍事裁判に付され、終身刑の判決を受けて服役中である。

イ 事件の背景
(ア) より過激な新たな方向を模索
 事件発生の直後、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)は、記者会見で「今回のテルアビブ襲撃作戦は、今月初めベルギーのサベナ航空機を乗っ取ったゲリラ4人のうち2人がロッド空港でイスラエル軍に殺されたことに対する報復として、PFLPの特別グループによって実行された。全責任は、PFLPにある。」との声明を発した。また、岡本ら事件関係者の供述から、パレスチナ問題にかかわりがあることが明らかになっている。この事件は、遠いイスラエルで発生しているとはいえ、国内における闘争に挫折した極左活動家たちが、再び「70年代闘争」の激発を狙ってより過激な新たな方向を模索したものとみることができよう。
(イ) Cグループの成立ち
 本件に関係したグループは、既成のセクトによるものではなく、昭和44年の京大封鎖闘争当時のノンセクト活動家(C、F、D、E)、赤軍の革命思想に同調するノンセクト学生(岡本公三)、元浪人べ平連活動家(G)などが、個人的つながりの下に結合し、国際的な組織化をはかったものである。このグループは、「武装闘争一般を担いきれる組織と兵站を作る。さしあたっては、人民の中に兵士が泳ぎ回れるようなトンネル塹壕(地下活動網)を作る」ことを目漂として活動を進め、当初は、軍事技術の習得と武器の入手を目的としてアラブ・ゲリラ組織に「兵士」を送り込んでいた、いわば、国際的な黒ヘル集団である。
 事件発生に至るまでの経過をみると、まず、グループの中心人物であるCは、昭和46年2月、赤軍派の重信房子と結婚の上ベイルート(レバノン)入りしている。同年11月、その手引きでD、E、Hの3人が現地入りしてアラブ・ゲリラの訓練を受け、その後、昭和47年2月、ひそかに帰国したEが、Cの指示に基づき岡本公三とGを現地に送り込んだ。このうち、C、D、岡本の3人が事件を敢行し、Gがこれに関与したというものである。
 岡本公三は、もともとノンセクト学生で、一時べ平連活動をしていたこともあるが、赤軍派に属する次兄の武がハイジャック事件を敢行したあと、著しく赤軍派の革命思想に共鳴するようになっていった。特に、赤軍派のいわゆる「前段階武装蜂起から世界革命戦争への理論」(注)の影響を強く受け、赤軍派が「前段階武装蜂起」をやめたことに失望し、Cグループに加わっていった。
(注) 「前段階武装蜂起から世界革命戦争への理論」とは、世界革命の情勢は、成熟しており、直ちに世界革命戦争を展開すべきであり、その前段階として自国の帝国主義を打ち倒し、世界革命戦争を導き出すための武装蜂起を敢行する必要があるという主張である。
(4) 爆弾事件
ア 発生状況からみた主な特徴点
 昭和47年においては、極左暴力集団によって引き起こされた爆弾事件は、13件であり、その内訳は、表7-5のとおりとなっている。
 過去5年間の爆弾事件の発生状況は、表7-6のとおりである。これでみ

表7-5 極左暴力集団による爆弾事件(昭和47年)

ると、昭和47年の件数は、昭和46年に比べて減少しているが、そのすべてが爆発している点が特徴的であり、爆弾(爆発物)についての知識や技術が次第に高度化していることがうかがえる。これを発生の時期別にみると、昭和44年は、「70年闘争」が高揚した10月から11月にかけて集中し、昭和46年も、「沖縄闘 争」が盛り上りをみせた後半期に多発しているのに対し、昭和47年は、年間を通じてばらついて発生しているのが特徴的である。このことは、特定闘争に呼応して敢行するという型を越えてゲリラ化が一層進展したことを物語っているといえよう。

表7-6 爆弾事件発生件数(昭和43~47年)



 また、起爆方法も、表7-7のように、点火式のものから次第に時限装置付など高性能なものに変り、弾体も大型化し、性能、威力が増大している。更に、爆弾使用の態様も、単なる施設破壊から明らかに警察官や一般人の殺傷を狙っていると思われるものに変ってきており、外国における手紙爆弾の例からみても、爆弾の危険度は、今後一段と高くなるものとみられる。

表7-7 爆弾の起爆方法の変化(昭和43~47年)

イ 捜査の結果判明した爆弾製造の実態
(ア) 爆弾犯人のセクト別の状況
 昭和46年以降発生した爆弾事件65件のうち、昭和47年末までに明治公園爆弾事件、新宿クリスマスツリー爆弾事件等21件を解決したが、図7-2のとおり、セクト別では、黒ヘル集団の犯行が半数以上を占めている。また、図7-3のとおり、昭和47年中に逮捕した爆弾犯人86人をみても、黒ヘル集団が半数近くを占めている。

図7-2 爆弾事件のセクト別犯行状況(昭和46、47年)

図7-3 セクト別爆弾犯人検挙人員(昭和47年)

 更に、これらの爆弾犯人は、図7-4、7-5及び7-6から明らかなように、年齢別では20代前半の者、職業別では学生や定職のない者が圧倒的に多く、学歴別では大学在学者並びに中退の者、高卒者が多い。
(イ) 爆弾製造、使用の動機
 これら爆弾犯人が爆弾を製造し、使用するに至った動機としては、所属セクトの過激性を誇示し、極左暴力団の中で闘争の主導権を確保す

図7-4 爆弾犯人の年齢(昭和47年)

図7-5 爆弾犯人の職業(昭和47年)

図7-6 爆弾犯人の学歴(昭和47年)

る、既成セクトの行動にあきたらず、より過激な行動を求めるなどの点が認 められるが、黒ヘル集団の中には、他の爆弾事件に刺激されたという者もあり、爆弾事件の模倣性がうかがえる。
(ウ) 爆弾製造テキストのはん濫
 彼らの多くは、爆弾製造のテキストとして、中南米の革命家が著わしたといわれる「薔薇の詩」とか、共産党が昭和26年から昭和27年にかけて武装闘争時代に配布した非合法文書の「栄養分析表」、「球根栽培法」等を使用しているが、このほか、「ゲリラ戦教程」、「都市計画案」、「たんぽぽ」、「夜想曲」、「自由への道」など類似の文書が多数出回っている。
(エ) 爆弾材料の入手方法と製造場所
 爆弾材料として火薬類や薬品類を入手するために、彼らは、[1]工事現場等からダイナマイトなどの産業火薬類を窃取する、[2]学校の理科室等から薬品を窃取する、[3]クサトールなどの農薬を種苗店等で偽名を使って購入するなど、様々な方法を使っている。また、爆弾製造の場所としては、本人又は友人の下宿やアパートの一室が最も多く利用されているが、中には、自宅で親の目をかすめて製造したり、寮の一室でこっそり製造している例もある。

3 内ゲバを繰り返す学園紛争

(1) 個別要求から革命闘争へ
 学園紛争は、その初期においては、昭和40年の慶応大学の学費値上げ反対闘争にみられたように、それぞれの大学内における個別要求を実現するという、いわば個別闘争の形で、しかも、代々木系全学連の指導の下に進められてきた。ところが、昭和42年の明大紛争、法政大紛争などを契機に学園紛争に対して極左暴力集団が本格的に介入し始め、「先駆性理論」の下に学園紛争を革命闘争の一環として位置づけ、特に、昭和43年来の東大紛争、日大紛争をさかいに、学園紛争は、「70年決戦に向けて大学を解体していく」ことを主眼とするようにその本質を一変させ、その余波は、全国に波及していった。そして、紛争形態も、極左暴力集団各セクトの革命の論理と暴力至上主義に立った指導の下に、バリケード封鎖、施設占拠といった過激なものに変容していった。
 昭和43年から昭和47年にかけての学園紛争の発生状況は、表7-8のとおりである。昭和43年から昭和44年にかけては、世界的にステューデント

表7-8 学園紛争発生大学数(昭和43~47年)

○パワーが荒れ狂ったが(注)、それに刺激され、かつ呼応するかのように、同じ頃我が国においても、学園紛争は頂点に達し、東大紛争では、施設の破壊による被害額だけでも1億数千万円に及び、東大、東京教育大では、ついに昭和44年度の入学試験の中止を余儀なくされた。
 しかし、警察が極左暴力集団に対する強力かつ徹底した取締りを実施したこと、大学の著しい荒廃に対して国民の批判が高まり、昭和44年8月に「大学の運営に関する臨時措置法」が施行されたこと、これに伴い、大学当局も学園正常化のため大学の管理に乗り出し、警察に対する学内出動を要請するに至ったことなど、こうした背景の下に、さしもの学園紛争も、昭和45年以降鎮静化の方向に向かった。この間、日大(昭和43年9月)と岡山大(昭和44年4月)のバリケード封鎖解除に出動した警察官2人が学生の投石などにより殉職したのをはじめ、多数の負傷者が出た。
 昭和47年に入って、国立大学をはじめ公・私立大学における学費の値上げに伴う反対闘争の高揚もあって、学園紛争は、再燃のきざしをみせ、紛争を生じた大学は、132大学(国立64、公立18、私立50)を数え、そのうち、バリケード封鎖、施設占拠という事態を招いた紛争大学は、63大学(国立32、公立3、私立28)に達した。また、これに伴い、教職員に対する暴力事案や施設の損壊事案等も、数多く発生した。
(注) 昭和43年から昭和44年にかけては、フランスの5月危機を招いたパリ大学生の学制改革への参加要求闘争、アメリカのカリフォルニア大学を中心とした反戦・反軍・反人種差別闘争をはじめ、イギリス、イタリア、中南米諸国において激しい学生の闘争が展開され、それぞれの国の治安をゆさぶった。
(2) 内ゲバの悪質・陰惨化
 一方、勢力拡大、指導権争い、セクト・リーダー間の感情的対立、組織防衛等に起因する各セクト間の内ゲバは、表7-9から明らかなように、昭和44年に最高の件数を記録したが、その後も絶えることなく繰り返されている。 その内訳をみると、代々木系全学連と極左系学生集団との間の抗争が全体の半数近くを占めているが、これは、両者が理論的に真向から対立し、組織的に対抗していることに原因があるといえよう。
 昭和47年は、大阪城公園事件(4月28日)及び早大生リンチ殺人事件(11月8日)において計2人の内ゲバによる犠牲者が出ている。特に、後者は、早大生のI君が革マル派によってその拠点である文学部自治会室に連れ込まれ、中核派のスパイであるとしてリンチを受け、殺害され


表7-9 内ゲバ発生状況(昭和43~47年)

るというもので、この事件にみられるように、内ゲバは、むしろ悪質化、陰惨化の傾向を強めている。なお、I君は、革マル派によって連行された際、友人に警察への連絡を依頼したにもかかわらず、友人も、そのことを知った大学職員も、警察への連絡はもちろん、救出措置もとらず、翌9日早朝、東大構内路上でI君の遺体が発見され、初めて事態の重大性を認識するという状況であった。
 こうした内ゲバをはじめ、学園紛争に関して違法行為の取締りのために警察部隊が学内に出動した状況は、表7-10のとおりである。

表7-10 警察の学内出動状況(昭和43~47年)

(3) 根深い学園紛争の背景
 国際的ステューデント・パワーの高まりに呼応して我が国の学園紛争が激化したことをみてもわかるとおり、国際的ステューデント・パワーの動向は、我が国の学生運動に強い影響を及ぼす。現在、我が国を含めて世界的にステューデント・パワーが鎮静化しているのは、過激グループが暴力至上主義を捨て去ったからではなく、またその要求が十分に満たされたからでもない。それは、指導勢力の分裂とそれによる指導の混迷によるものであり、更には、いままでの闘争が大きな変革をもたらさなかったという認識からくる無力感が、彼らを無気力にしているからにすぎない。若者の間には、政治に対する不信感、現状に対する不満感が広がっており、きっかけさえあれば、その力は、再び激しい勢いで噴き出すであろうとみられている。
 特に、我が国の学園紛争が鎮静化している理由としては、極左暴力集団の側において、昭和46年秋の闘争に際して大量検挙により受けた組織的打撃や昭和47年初めの連合赤軍事件の発生に伴う世論の厳しい批判に直面し、組織体制や闘争戦術について内部的に再検討期を迎えていること、更には、その暴走や陰惨な内ゲバが一般学生の批判にあい、学内で孤立化していることなどを挙げることができる。しかし、学生の間には、筑波大学設置問題、学費値上げ問題、学園民主化問題など、依然として闘争課題が存在しており、極左暴力集団は、こうした課題を取り上げ、「70年代闘争」に向けて学生を組織し、学園を革命のとりでとして再編成しようとしている。したがって、彼らの不満や要求が解決し、闘争に終止符をうったというものではなく、紛 争の原因は、底流に根深く存続しているものといわなければならない。

4 暗躍するスパイ

(1) スパイとの闘い
 我が国をめぐって行なわれる諸外国のスパイ活動は、これまで数多くの検挙事例を通して明らかにされてきた。従来、我が国に対するスパイ活動は、主として国際共産主義勢力によって行なわれてきたが、近年我が国の国際的地位が高まったことに伴い、これまで以上に多くの国々が対日関心を強め、我が国に対する働きかけやスパイ活動を強化してきている。
 戦後の我が国におけるスパイ組織は、その混乱と空白に乗じて作り上げられたといわれている。すなわち、共産圏からの帰国者の中に関係者が送り込まれたり、厚い居住外国人の層とぼう大な数にのぼる短期入国外国人の中に組織を拡大したりして存続してきたといわれている。これらのスパイが収集する情報の範囲は、極めて広範にわたり、米軍、自衛隊の編成、装備、基地、施設などの軍事機密をはじめ、我が国の基本的な外交政策、経済政策などの機密に属するものから、重要生産施設、運輸施設、人的資料、地理的資料などにも及び、その収集技術も、科学の進歩を反映して一段と巧妙性を高めている。しかもこれらの活動は、国際的背景をもって組織的に展開され、都市化、近代化が進む複雑な社会構造の中で巧妙に秘匿され、かつ、迷彩された形で行なわれるものであるだけに、その実態のは握は、極めて困難なものとなっている。
 ここで、最近における検挙された主なスパイ活動事例を挙げてみよう。
〔事例1〕 昭和48年1月11日、東京地方裁判所は、被告Jに対し、日米行政協定に伴う刑事特別法違反(米軍機密の探知収集の教唆)で懲役2年、執行猶予3年の判決を言い渡し、1月25日、刑が確定した。
 この事件は、駐日ソ連大使館の武官補佐官ハビノフ中佐及びコノノフ中佐が、都内秋葉原の電気器具店で知り合った通信機部品販売ブローカーの被告をスパイ活動の手先として選び、通信機関係部品の買付けを口実に接近し、 昭和45年6月から昭和46年7月の間に29回にわたりドライブイン、喫茶店、路上等で接触を重ね、総額580万円の報酬を与えて米軍の機密に属する航空機、航空兵器、航空用軍需品などのテクニカルオーダー(技術指示書)43点を含む91点の品目について入手方を要求したというものである。被告は、この要求に従い、ハム仲間の在日米軍人に対して、現金20万円及びトランシーバーなどの物品を交付し、必要とする品目が入手されたときは更に多額の報酬を出すことを約束するなどして、米軍の機密である航空機その他の軍事情報を収集することを教唆した。また、被告は、ソ連側より無線諜報通信の三種の神器といわれる乱数表、暗号表、タイムテーブルを渡され、これを使って接触日の連絡を行なっていた。
〔事例2〕 昭和47年3月19日、韓国に本籍をもつ在日朝鮮人李貞植を電波法違反で検挙したが、捜索の結果、我が国では製造されていない組立式板電鍵、小型無線送信機、乱数表、換字表、水晶片、北朝鮮指示のメモなどスパイであることを証明する証拠品多数を所持していた。そして、その後の捜査により、再三にわたって中国、北陸地方の沿岸調査を行ない、沿岸写真や北朝鮮宛の報告文をマイクロフィルムにおさめ、北朝鮮への密出国を敢行する

などの不審行動をしていたことが明らかとなった。昭和47年中において、この種の容疑事案は、ほかに13件確認されており、このうち4件(北海道、新潟、石川、福井)を出入国管理令及び外国人登録法違反で検挙している。
(2) 出入国管理令、外国人登録法の違反状況
 スパイ活動の多くは、出入国管理令や外国人登録法に違反してなされている。
 昭和47年中における出入国管理令の違反件数は、262件となっており、国籍別では、地理的条件を反映して韓国及び北朝鮮が圧倒的に多く、全体の84%を占め、また、違反態様別では、密入国が76%を占めている。密入国者は、大半が韓国から高い賃金を当てにして日本にいる親類や知人を頼って出てきた求職目当ての集団密入国者であるが、中には、スパイ活動を行なうために旅券等を不正に入手して密出入国を敢行する者がいる。
 次に、昭和47年中における外国人登録法の違反件数は、1万5,175件となっており、国籍別にみると、韓国及び北朝鮮がその登録人員の多いこともあって圧倒的に多く、全体の86%を占めている。違反態様別では、登録証明書の切替不申請が最も多く52%を占め、次いで、登録証明書の不携帯19%、居住地等の書換不申請11%、登録不申請9%の順となっている。これらのうち、最も悪質なものは、登録不申請であり、こうした事案のなかには、偽造した登録証明書を入手してスパイ活動など有害な活動を行なっているケースがある。

5 展望と課題

(1) 左右両翼勢力の「70年代闘争」への取組み姿勢
ア 左翼諸勢力の姿勢
 極左暴力集団は、「70年代闘争」という長期展望に立って武装闘争再開の機をうかがっている。例えば、革共同前進派は、70年代は内外の矛盾が激化し、情勢の激変する時代であるとの情勢分析に立ち、組織勢力を再建強化の上、昭和44年11月の首相訪米阻止闘争、昭和46年11月の沖縄返還阻止 闘争に次ぐ「第3、第4の11月闘争」を再び敢行することを主張している。
 当面、極左暴力集団は、組織再建に重点を置き、大学内の拠点再構築を進めるとともに、労組への浸透、未組織労働者の結集など労働者工作に力を注ごうとしている。極左暴力集団の孤立化現象は、当分続き、組織勢力も、停滞気味で推移するものとみられるが、山谷、あいりん地区の日雇労務者工作など新しい分野における活動がある程度進展し、徐々に勢力を回復してくるものと考えられる。
 極左暴力集団は、組織体制を整えた上で、「反戦反基地」を中心に「三里塚」、「狭山公判支援」、「公害」、「学園」等の諸闘争を組織するほか、大衆を大きく結集できる新しい闘争課題を模索しつつ、「4.28沖縄デー闘争」、「5.15沖縄返還デー闘争」、「6.23反安保闘争」、「10.21国際反戦デー闘争」などのスケジュール闘争を中心に一貫して街頭闘争の激化を目指すものと思われる。しかも、その間、各セクトの非公然軍事組織や黒ヘル集団による火炎びん、爆発物、場合によっては銃器を凶器としたテロ・ゲリラが依然として敢行されるおそれがある。更に、極左暴力集団の一部に世界同時革命を盲想して外国の極左、ゲリラ団体、例えばPFLPなどとの交流を強めようとする動きもあり、今後、そうした動きが具体化してくることも懸念される。
 また、極左暴力集団は、「大学を革命のとりでに」をスローガンに学費値上げ、筑波大学設置等の問題をとりあげ、暴力至上主義による学園紛争を激化させることや、生産点において職場からの反乱を目指した山猫ストや暴力行為を激発させることを企図している。そして、こうした諸闘争や組織工作をめぐる主導権争いから、今後も血で血を洗う内ゲバ、とりわけ、特定の個人を狙うテロ事案が多発することも予想される。
 共産党は、増大した党勢と衆議院において第3党になった国会勢力及び地方議会勢力を基盤にして、現状不満や政治不信の広がり、情報化社会の下での価値観の多様化と政治浮動層の増大といった今日の社会状況下において、その強力な組織力と宣伝力を駆使して「民主連合政府」樹立のための体制づくりを進めるものとみられる。とりわけ、「民主連合政府」の基盤となる本 格的な統一戦線をつくるための共闘工作、党勢拡大、各級議会への進出、「労働」、「婦人」、「青年」、「学生」、「市民」等の大衆運動に対する影響力の増大、安保問題、基地問題、選挙制度改正問題などを取り上げての大衆闘争の高湯などに力を注ぐものとみられる。
 総評等は、賃金増加、労働時間短縮、年金増加、スト権奪還の4大統一要求を掲げ、この要求を、交通、運輸、官公労部門を核としたゼネストを背景に政府との直接交渉で闘い取るという方向で労働運動を進めるものとみられる。そして、国民的生活課題の実現を、ゼネストをてこにした「政策転換要求闘争」で闘い取ることを可能にする体制を作り上げ、日米安保条約の廃棄を通告する政府を樹立することを目的とした「70年代闘争」を推進していくものとみられる。
イ 右翼の姿勢
 右翼は、在日中国大使館開設、大規模な人事交流等日中国交正常化の具体的措置の進捗や各種選挙ごとの共産党の進出などで、左翼革命への危機感を深めている。特に、昭和48年の東京都議会選挙や昭和49年の参議院選挙において共産党が更に大幅に進出するものと予想し、このままでは、日本は確実に崩壊の一途をたどるとして焦燥感を高め、左翼対決活動を活発化するとともに、「昭和維新」断行への動きをますます強めていこうとしている。また、このような事態を招来したのは、政府、自民党の無策、派閥争いにあるとして政府、自民党に対する責任追及と監視活動を一層強めるものとみられる。
 また、一部の右翼は、「理論よりも実行」、「一殺多生」という信念に立って、情勢の推移いかんによっては、テロ等の直接行動や予防クーデター等の不法事案を敢行するおそれもあり、十分警戒を要する。
(2) 社会の動きと警察活動
ア 公安の維持の基盤となる社会的条件
 社会の動向をみると、生活水準の向上に伴う欲求不満や物価、地価の高騰、公害の深刻化等経済成長のひずみに対する不満感が増大するとともに、人間 の主体性の喪失、連帯感の喪失等「疎外感」が広がっている。加えて、既成政党に対する政党不信の傾向がみられる。例えば、第31回(昭和42年1月)、第32回(昭和44年12月)、第33回(昭和47年12月)の各総選挙の直前に行なわれた主要新聞の世論調査をみると、「支持政党なし」の比率は、それぞれ10%、15%、20%となっており、いわゆる「脱政党化現象」の増大する傾向が出ている。
 他方、都市化の進展に伴って、地域共同体の連帯機能が次第に低下し、共通のルールとなるべき社会規範が弱まり、また、情報化社会への進展の中で情報の選択能力を欠き、主体性を失った者が増加するなどの現象が顕著となっているが、このような状況は、社会的基盤をもろくし、反社会的行動を制御する歯止めの機能を低下させている。
イ 当面予想される警察事象
 以上のような左右両翼勢力の動向及び社会状況からみて、当面予想される治安事象としては、極左暴力集団等による街頭武闘的破壊活動、爆発物等を使用してのテロ・ゲリラ、学園紛争や労働紛争議に伴う各種の違法事案、セクト間の勢力争いをめぐる内ゲバ、更には、右翼の直接行動などが考えられる。
 そのほか、注目を要するのは、急激な都市化の進展や国民意識の変化に伴って従来予想もされなかったような各種の事案が生じていることである。昭和48年に国労、動労の順法闘争の過程で発生した「3.13上尾事件」や「4.24国電各駅における騒動事件」の例にみられるように、社会の底流にある不平不満がきっかけさえあれば治安事象として噴出しかねないという傾向を強めている。今後、警察としては、社会の底流を洞察し、その中で国民生活の不安を招き、あるいは治安事象に転化しかねない問題を的確には握し、これが顕在化する以前に適切な手を打つという姿勢で幅広い対策を効果的に推進し、突発事案の未然防止に最善の努力を傾注していく必要がある。
ウ 世論の動向と警察の姿勢
 長期にわたって展開された極左暴力集団の過激な行動が鎮静化するに至っ たのは、なによりもまず、その行動が国民の厳しい批判の高まりの中で孤立していったからである。例えば、総理府の「警察に関する世論調査」(昭和47年6月)では、過激派の行動に対して、「絶対に許せない」52%、「暴力を用いることはよくないことだ」35%というように、批判的意見が87%を占めている。
 警察は、これからも引き続き、訓練・研さんに励み、体制の整備充実に努めるとともに、秩序ある進歩・発展を願う世論の動向を正しくは握し、国民の理解と協力を得て、流動する社会情勢の中で日々生起する各種の事態に的確に対処し、かつ、「70年代闘争」を推進する左翼諸勢力や右翼の違法行為を厳正に取り締まり、もって国民から負託された公安維持の責務を全うしていかなければならない。


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