表紙・目次 はじめに 第1章 警備警察50年の歩み 第2章 警備情勢の推移 第3章 警備情勢の展望と警察の対応 資料編

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「テロ、ゲリラ」を展開し暴力革命を目指す過激派
3 過激派の軍事路線化

1 武装し凶悪化した過激派

 過激派は、「70年安保闘争」を通じて多くの検挙者を出したことや、これに対する世論の批判も高まったことから、それまでのように大量の活動家を街頭に動員し、大衆を巻き込んで武装闘争を展開することが困難になりました。また、内部でも、闘争方針や指導責任をめぐる対立が生じ、分裂を繰り返しました。
 こうした中で、共産同の中から、最も過激な闘争方針を主張する集団が分裂し、昭和44年9月に赤軍派を結成しました。赤軍派は、警察施設を襲撃するなど過激な闘争を繰り返し、同年11月には、総理官邸を襲撃、占拠する目的で、ナイフや爆弾を用意して軍事訓練中の活動家約50人が検挙されました(「大菩薩峠事件」)。
 一方、親中共派系の日本共産党革命左派神奈川県委員会も過激な軍事路線を採り、警察施設の襲撃等を行っていたため、同委員会と赤軍派は連携を深め、46年7月には軍事組織を統合し、連合赤軍を結成しました。
 この連合赤軍は、47年2月、警察部隊に追いつめられ、人質を取って長野県軽井沢の「あさま山荘」に立てこもりました。10日間にわたり、ライフル銃や爆弾等で激しく抵抗し、警察官2人が殉職するなどしましたが、犯人5人は全員逮捕されました。
 その後の取調べで、連合赤軍が、結成直後及び山岳アジトを転々とする間に「総括」に名を借りて、12人の仲間を殺害した「大量リンチ殺害事件」(46年12月から47年2月)が明らかとなり、社会に大きな衝撃を与えました。
 また、赤軍派は、北朝鮮に革命の拠点を作ることを目的として、45年3月に「よど号ハイジャック事件」を引き起こしました。続いて46年2月には同様の目的で中東へ活動家を送り出し、これが日本赤軍の母体となりました。

「あさま山荘事件」
「あさま山荘事件」(昭和47年2月19日~28日、長野) 

2 一般市民を巻き込む無差別な爆弾闘争に走った過激派

 連合赤軍等の軍事路線は、世論には到底受け入れられないものでしたが、過激派内部には次第に浸透し、中には軍事路線を採り、専門の部隊を編成して爆弾製造等に踏み切るセクトが出てきました。
 昭和44年から45年ころにかけての爆弾は、まだ初期段階で威力も弱かったのですが、次第にダイナマイト等が用いられようになり、46年から56年にかけては、警察施設や、官公庁、一般企業等に対する爆弾事件が多発し、多数の死傷者を出しました。
 なかでも、49年8月の「三菱重工ビル爆破事件」は、通行人ら8人が死亡、380人が負傷する大惨事となりました。
 この事件は、既存の過激派の枠にとらわれない、少人数のグループ(いわゆる黒ヘルグループ)により引き起こされましたが、警察による摘発、逮捕等により、同グループは壊滅しました。
 一方、中核派は、50年9月に、横須賀市内で製造中の爆弾を誤爆させ、アパート1棟が全壊し、活動家3人と巻き添えの市民2人が死亡する事件を引き起こしました(「横須賀市緑荘爆発事件」)。
 同派は、この事件の後、一時爆弾闘争を中断しましたが、60年1月から再開し、小型マイクロバスを跡形もなく大破させる威力を持つ「圧力釜爆弾」や飛距離数キロメートルに及ぶ迫撃弾を使用するようになりました。
 革労協も、63年3月に爆弾を使用して以降、凶悪な爆弾事件を引き起こしています。また、過激派は、爆弾のほか、時限式発火装置を開発し、放火事件も繰り返しています。
 特に、昭和天皇の崩御とそれに伴う今上天皇の御即位があった平成元年から2年にかけて、過激派は「90年天皇決戦」を主張して、かつてない規模で「テロ、ゲリラ」事件を引き起こし、2年中には全国で143件も発生しました。
 過激派の「テロ、ゲリラ」事件では、警察官はもとより、民間人からも死者を含む犠牲者が多数出ており、警察では、強力に捜査を推進して、犯人検挙と未然防止に全力を挙げています。

「横須賀市緑荘爆発事件」
「横須賀市緑荘爆発事件」(昭和50年9月4日、神奈川) 

4 凄惨な「内ゲバ」

 「内ゲバ」とは「内部のゲバルト(ドイツ語で暴力の意味)」で、それぞれ自派の正当性を主張して引き起こされてきました。
 昭和36年ころから、主として全学連の主導権争いをめぐり、集団で旗竿、角材等を使用して殴り合う形で始まり、当初は、学生の集団同士が大学内で衝突するという形態でした。それが次第にエスカレートし、学生のみならず、労働者活動家も加わり、武器も鉄パイプや斧等となり、攻撃対象をあらかじめ選定して自宅や路上で襲うなど、殺害を企図して計画的に行われるようになりました。
 革マル派は、中核派と革労協の両派との間でそれぞれ凶悪な「内ゲバ」を繰り返していましたが、この状態の決着を一挙に図ろうとし、50年3月に中核派書記長を、52年2月には革労協書記長をそれぞれ「内ゲバ」で殺害しました。しかし、そのためかえって両派の強力な反撃を受けることになり、泥沼化することとなりました。
 これまでに、「内ゲバ」の被害者は死者だけでも100人を超えています。
 なお、革労協は平成11年5月に主流派と反主流派に分裂し、その後、両者の間で死者を伴う「内内ゲバ」事件が発生しています。

「浦和市車両放火内ゲバ殺人事件」
「浦和市車両放火内ゲバ殺人事件」
(昭和52年4月15日、埼玉)
 

5 成田闘争

 昭和41年7月、新東京国際空港(以下「成田空港」という。)の建設予定地が千葉県成田市三里塚に閣議決定されたことを受け、地元農民を中心にして「三里塚芝山連合空港反対同盟」(以下「反対同盟」という。)が結成され、空港建設反対運動(いわゆる成田闘争)が開始されました。当初は、農民が農地を守るというものでしたが、翌42年9月に過激派が介入したことにより、成田闘争は長期かつ過激な闘争へと転化しました。
 過激派のねらいは、成田空港を「日帝の海外侵略基地」、「軍事空港」等ととらえ、「70年安保闘争」で盛り上がりをみせた武装闘争を引き継ぐために、成田を「革命の砦」と位置付け、過激な闘争を展開し、我が国を革命情勢に引き込むことにあります。
 闘争に介入した過激派は、現地に団結小屋を建設し、「援農
(えんのう)」名目で反対同盟の取り込みを図りながら、次第に反対闘争の主役を演じるようになりました。そして、46年2月の土地収用法に基づく代執行阻止闘争や53年3月の開港阻止闘争、60年10月の二期工事阻止闘争等の過程で、大量の火炎びんや石塊を警察部隊に投げ込んだり、竹槍、鉄パイプ等を使用した大規模な武装闘争を展開しました。
 この間、46年9月の第二次代執行時には、藪の中に潜んでいた過激派等が、警備中の機動隊員を襲撃して3人を殺害した「東峰十字路警察官殺害事件」を始め、開港目前の53年3月には、過激派が管制塔に乱入して管制機器類を破壊した「新東京国際空港管制塔乱入事件」等、数多くの「テロ、ゲリラ」事件等を引き起こしました。
 また、暴挙の矛先を民間人にも向け、58年6月には、空港建設に携わる企業の作業員宿舎に放火して作業員2人を殺害したのを始め、63年9月には千葉県収用委員会会長を帰宅途中に待ち伏せ、鉄パイプ等でめった打ちにして重傷を負わせるなど、これまでに過激派の「テロ、ゲリラ」により、民間人等6人、警察官4人が殺害されたほか、多くの人が被害を受けています。
 過激派は、最近でも、千葉県や空港公団(現成田国際空港株式会社)関係者等の自宅や空港へ乗り入れている電車をねらい、時限式発火装置を仕掛けて放火するなどの凶悪な「テロ、ゲリラ」事件を引き起こしています。
 成田空港は、平成16年4月に民営化されましたが、2本目の滑走路(平行滑走路)用地内に反対同盟員が所有する未買収地が残っているため、同滑走路はいまだ完成しておらず、本来の計画より短い距離の滑走路で暫定的に運用されています。
 過激派は、「成田空港廃港のその日まで革命的ゲリラ戦をさらに激烈に戦取することを宣言する」と主張しており、成田空港の民営化後も、従来の姿勢を変えることなく、今後も千葉県や空港会社関係者、空港関連施設等をねらった「テロ、ゲリラ」事件を引き起こすおそれがあります。

「成田現地闘争」
「成田現地闘争」(昭和60年10月20日、千葉) 

6 特異な路線を採る革マル派

 革マル派は、過激派の中でも最大級の約5、000人の活動家を擁していますが、極めて特異なセクトです。
 革マル派は、昭和50年代ころまで陰湿な「テロ、ゲリラ」事件を次々に引き起こしましたが、最近は、表面上は暴力性、党派性を隠して、組織拡大に重点を置き、JR総連やJR東労組を始めとする基幹産業の労働組合や各界各層への浸透を図る戦術を採っています。
 また、同派は、街頭での集会、デモの際にも、セクト名を出さず実行委員会形式によりカモフラージュしたり、参加者同士がペンネームを使用するなど閉鎖性、秘匿性が強いほか、他党派と共闘することもなく排他性が強いのも特徴です。
 同派は、「内ゲバ」で中核派と革労協の最高幹部を殺害した後、「勝利宣言」を出しました。ところが、その後も両派からの「内ゲバ」を受け続けたため、「権力謀略論」を唱え始めました。つまり、革マル派によって壊滅させられた中核派や革労協は、「内ゲバ」を行う力量はなく、実際は、警察等の国家権力が革マル派の活動家を襲撃しているという荒唐無稽なものです。
 さらに近年では、「神戸市須磨区小学生殺人等事件」(以下「神戸事件」という。)、「イラクにおける外務省職員殺害事件」(平成15年11月)等の社会的に注目される事件も、国家権力やアメリカのCIAによる謀略であると主張するなど、特異な主張を強めています。特に、「神戸事件」に関しては、自派の主張を裏付けるため、被疑少年の供述調書を盗み出したり、両親宅の盗聴を行いました。
 同派が「権力謀略論」にこだわる背景には、反権力意識の高揚や組織の引き締め等の目的があると思われます。

浦安アジトから押収された警察無線解読機器等   「神戸事件」被疑少年両親宅に設置されていた盗聴器
浦安アジトから押収された警察無線解読機器等
(平成10年4月9日、千葉) 
  「神戸事件」被疑少年両親宅に設置されていた盗聴器

7 新たな道を模索する過激派

 元号も平成に改まり、平成2年にはソ連が崩壊し、他の社会主義諸国でも民主化の流れが強まるなど、国際社会も激動の時代を迎えました。
 こうした中、過激派は、これまでの暴力による共産主義革命を前面に出した取組みでは幅広い大衆の共感を得られないと判断し、組織名称や機関紙名称をよりソフトなものに改めたり、環境や人権問題への取組みを強調するなど、時代の変化に合わせ、暴力性、党派性を隠して勢力の拡大を模索しています。


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