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「テロ、ゲリラ」を展開し暴力革命を目指す過激派
1 過激派の誕生

 昭和30年代初頭、路線対立等の理由から、日本共産党を除名されたり、離党した者が中心となって、日本共産党に代わって、我が国で暴力により共産主義革命を起こすことを目的とする集団が生まれました。これが過激派です。
 日本共産党が、それまで採っていた武装闘争を「極左冒険主義」と自己批判し、30年7月の第6回全国協議会(6全協)で戦術転換を図ったことから、武装闘争の中心となっていた学生党員等の間で指導部への不信感が生まれました。
 また、時期を同じくして、共産主義者の間で絶対的存在であったスターリンに対する批判がその死後に高まったり、ソ連が同じ共産圏のポーランドやハンガリーに対して武力介入を行ったことから、既存のマルクス・レーニン主義に対する懐疑も深まりました。
 こうした状況の中で、スターリンと対立して暗殺されたトロツキーを再評価する動きが国内で高まり、彼の思想であるトロツキズムを研究し、それに基づく革命の実現を目指す元共産党員らが中心となって、32年1月、日本トロツキスト連盟を結成し、同年12月には革命的共産主義者同盟(以下「革共同」という。)と改称しました。これが現在の過激派の二大勢力である革マル派と中核派の母体です。
 また、23年9月に日本共産党の指導下に結成された学生組織である全日本学生自治会総連合(以下「全学連」という。)は、日本共産党の路線変更や、消極的な指導方針に不信と不満を抱き、33年5月に開催された全学連第11回大会では、日本共産党指導部に反旗を翻す全学連主流派と、日本共産党指導部に従う反主流派が激しく対立し、その後、大量の学生党員が除名等の処分を受けました。
 これを機に、全学連主流派は、完全に日本共産党の指導から離脱し、同年12月、独自に共産主義者同盟(以下「共産同」という。)を結成するとともに、35年4月には全学連も共産同系全学連と日本共産党系全学連に分裂しました。これが現在の共産同系各派の母体です。
 この他に、日本共産党が中国共産党との関係を断絶した時期に除名、離党した党員らが中心になって結成した親中共派や日本共産党の綱領論争の過程で離党した党員らが結成した構造改革派、社会党の青年組織である社会主義青年同盟(以下「社青同」という。)に入り込んだトロツキスト集団が後に組織を乗っ取る形で独立した革命的労働者協会(以下「革労協」という。)等が誕生し、現在の過激派の流れを形成しています。
 こうした過激派各派は、続く「60年安保闘争」において重要な役割を果たすこととなりました。

2 60年、70年安保闘争

1 60年安保闘争と過激派の暴走

 「安保闘争」とは、サンフランシスコ講和条約と同時に締結された日米安全保障条約の改定等に反対して取り組まれた闘争で、社会・共産の両党や総評等の労組が中心となって全国的に展開された社会運動でした。
 その山場は、昭和35年と45年であり、それぞれ西暦の末尾を取って「60年安保闘争」、「70年安保闘争」と呼ばれました。
 「60年安保闘争」は、34年3月、日米安保条約の改定交渉が本格化する中で、日本社会党、総評等による「安保条約改定阻止国民会議」が結成されたことにより始まったもので、34年4月から取り組まれました。
 これに対して過激派は、同会議の集会、デモ等の大衆行動に介入し、暴力的な行動を煽動するなどして、我が国の治安に大きな影響を与えました。特に、共産同系の全学連は、共産主義革命の理論には必ずしも賛同しない一般の学生に対する働き掛けを強め、「反安保」を軸に結集を図り、自らのもくろみである革命情勢を作り出すために、過激な行動へと駆り立て、国会周辺は連日数千から数万のデモ隊が押し寄せる状態となりました。
 その例として、「国会構内乱入事件」(34年11月)、「国会請願デモ事件」(35年4月)、「首相官邸乱入事件」(35年5月、6月)等の事件を引き起こしました。これらの事件では、共産同系全学連は、角材や石塊で武装し、警備に当たっていた警察部隊と激しい衝突を繰り返し、双方に多数の負傷者を出しました。そして、新安保条約の批准成立を目前に控えた35年6月15日には、「安保決戦」を叫んで、再び国会構内へ乱入し、ついに女子学生1人が死亡する事態に至りました。
 しかし、こうした過激な反対行動にもかかわらず、新安保条約は、同年6月23日に日米両政府が批准書を交換し発効、当時の岸首相はこれをもって退陣を表明しました。このため、反対勢力各派は闘争目標を失い、「60年安保闘争」は急速に沈静化しました。
 共産同はこの闘争の指導責任をめぐって内部分裂に陥り、組織は崩壊することになりました。
 一方、革共同は、33年8月と34年8月の2回にわたり、路線をめぐる意見の対立から分裂を繰り返していましたが、35年9月には、崩壊した共産同から多数の有力活動家が合流し、勢力を伸ばしました。しかし、38年2月、再び路線をめぐる意見対立から分裂し、ここに革マル派と中核派が誕生しました。
 過激派は、「60年安保闘争」以降、大衆を広く引きつける闘争課題を模索するとともに、同闘争で大量の検挙者を出したり、組織が分裂したため、組織の建て直しを図りました。

「国会構内乱入事件」
「国会構内乱入事件」
(昭和34年11月27日、東京)(PANA)
 

2 70年安保闘争を主導した過激派

 昭和41年9月、いったんは崩壊した共産同が紆余曲折を経て再建にこぎ着けたのに続き、同年12月には、中核派、社学同、社青同解放派による、いわゆる「三派系全学連」が結成されました。
 こうした中、過激派は、45年6月に安保条約が再び延長の期限を迎えることから、「70年安保闘争」を主要な闘争課題に据えたほか、戦後米国の統治下に置かれていた沖縄の本土復帰を求める運動に介入し、両者を絡めた「安保・沖縄闘争」を掲げて、「60年安保闘争」時の高揚を再現することをもくろみました。
 その手始めとして、過激派は、42年10月と11月に、佐藤首相の外遊を阻止するため、羽田空港周辺を混乱に陥れることを画策し、ヘルメット、覆面姿に角材、石塊で武装した活動家多数を動員し、警備に当たっていた警察部隊に組織的、計画的な攻撃を加え、双方に多数の負傷者を出すとともに、空港ロビー等を破壊しました。
 続いて、43年1月の「米原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争」、同年2月から4月の「米軍王子野戦病院開設阻止闘争」等、当時激化していたベトナム戦争に伴う反戦闘争にも取り組みました。
 さらに、同年10月には、ベトナム戦争に反対する各種労組、市民団体等の呼び掛けによる「国際反戦デー統一行動」で、過激派はこれまで以上に激しい闘争形態をとり、特に新宿駅では駅構内に侵入して関係施設を破壊し、騒ぎで集まった群衆をも巻き込んで周辺は大混乱に陥ったため、警察は27年5月の「皇居前メーデー事件」以来16年振りに騒擾罪を適用し、多数の関係者を逮捕しました(「新宿騒擾事件」)。
 この後も過激派は「安保阻止」を掲げて、街頭での武装闘争に明け暮れ、警察部隊との衝突を繰り返し、この間双方に多数の負傷者を出し、警察官が殺害される事件も発生しましたが、46年11月の「渋谷暴動事件」と「日比谷暴動事件」で、約2、000人もの活動家が逮捕され、闘争はひとまず終息しました。
 一方、こうした闘争の拠点づくりのため、過激派は学生運動への介入を強め、全国の大学では、ストライキやバリケードによる封鎖が横行し、大学は正常な授業ができない状況に追い込まれました。元来学生運動は、学費値上げに伴い大学側の経営姿勢を問いただすなどの目的で一般学生の間で自然発生的に生まれた活動でしたが、これに過激派が介入し、次第に暴力的色彩を強めていったという事情があります。
 44年1月には、東大構内に立てこもる過激派を警察部隊が排除した「東大封鎖解除事件」がありましたが、こうした事態に反発した世論の後押しもあり、8月には「大学の運営に関する臨時措置法」が成立・施行され、全国の大学も正常化に向かいました。

「沖縄返還協定調印反対闘争」   「米軍王子野戦病院開設阻止闘争」
「沖縄返還協定調印反対闘争」
(昭和46年6月、東京)
 
  「米軍王子野戦病院開設阻止闘争」
(昭和43年2月~4月、東京)
 

早稲田大学の封鎖解除のため構内に入る機動隊
早稲田大学の封鎖解除のため構内に
入る機動隊(昭和44年9月3日、東京)(読売)
 

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